font color="black">歩行記録 2014-10-4
歩行時間:8時間45分 休憩時間:2時間20分 延時間:11時間05分
出発時間:6時05分 到着時間:17時10分
歩 数: 42、893歩 GPS距離30.9km
行程表
静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
霊山寺 0:25> 帆立山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅
愛宕神社(女戦国大名)
3本目の案内板 墓所への分岐(直進)
寿桂尼の墓を求めて墓地に行くと案内板が立っていた。これなら安心と案内板に従い墓地の間を登る。
墓地が終わり山道になった所にある3本目の案内板は、雑草の生茂った裏山の方を指していた。
雑草を掻き分け登った次の分岐には案内板は無かったが、踏み跡がハッキリした上に登る道をとる。
だが今度は林の中の道が上に続いているだけで案内板も分岐も無かった。
間違ったと気付いた時は、低い谷津山の尾根道に合流してしまった。
この尾根道を東に行けば次の目的地愛宕神社はすぐそばだ。だはこのまま愛宕神社に行こうかと誘惑に駆られたが、
そこは我慢して寿桂尼の墓を見なければ後悔すると同じ道を戻る事にした。
分岐まで戻り、歩いてない先を草木の間から透かして見ると、何やら石碑が見える。そうそこが寿桂尼の墓所だった。
最初登って来たとき分岐の先を覗き込んでさえいれば無駄足を踏まなかったのに-------
寿桂尼の墓所 寿桂尼の墓所
寿桂尼の墓所には二基の五輪塔があるが、いずれが寿桂尼の物か定かではないらしい。
増善寺にあった夫・氏親の五輪塔は廟の中にあり、苔や汚れは目立たなかったが、風雨に晒されている寿桂尼の
五輪塔は薄黒く、石肌にはハタケのような浸みもあるが、逆のそれがシットリ落ち着いた雰囲気を醸し出している。
でもこの五輪塔少し変だ。写真手前のは下から「地輪は方形、水輪は球形、火輪は宝形(屋根型)、風輪は半球形、
空輪は宝殊型」の筈だが一番上の空輪の宝殊型が無い。これでは四輪塔だ!
空輪が落ちてしまったのだろうか? それとも寿桂尼に恨みを持つ者が盗んでしまったのか、イヤこれも五輪塔の
形の一つなのだろうか? 分からない。
写真奥の五輪塔も風輪の半球形がハッキリしないが、空輪の宝殊型との間に境らしい線が見えるので五輪塔だろう。
五輪塔横に「戦国大名今川氏の当主を最盛期から滅亡まで4代にわたって支えた女性です。戦国時代を通じて、
統治者の立場から家臣や寺社に対しての公的文書を発行を発行していた唯一の女性であることから、その政治的
実力がうかがわれ、後世の歴史家から「女戦国大名」と票されるようになりました。」とあった。
寿桂尼像 今川氏真の花押?黒印? 徳川家康の花押?黒印?
寿桂尼の発した文書は花押の代わりに個人を示す朱印を文頭にを押していた。
これが父より渡された「歸(とつぐ)」の印だったのです。
この朱印には面白い話があって、最初に朱印を使いだしたのが今川氏親だったという。理由は
「氏親が幼少で印判状に花押を記すことが困難であったので、発給文書に朱印を押したのが最初」と言われている。
だがこの話も眉唾に感じる。氏親が今川当主になったのは15歳なのだから、幼くて書けなかったとは思えない。
しかし氏親が始めた朱印は、その簡便性により以後多くの大名が使用するようになったとか。
さらに追加すると印判状に押す印には朱印と黒印があり、織田信長はその両方を使い、豊臣秀吉は朱印だけを使った。
徳川家康はその両方を使ったが、海外貿易の許可状には朱印を用いたため「朱印船」と呼ぶようになった。
また家康は印判状を権威つけるため、大名や公家など位の高い者には花押を署記し、それ以下の者には朱印状、
私的な書状などは黒印状と区別していたという。
好きな話になると中々止まらなくなってしまう。
寿慶尼は「女戦国大名」と云われるが、静岡には「尼将軍」の北条政子もいる。他に「女地頭」もいるが分かりますか?
前の二人は全国区なので知られているが、女地頭は地方区なので分からないでしょうね。彼女の名は「井伊直虎」
または「次郎法師」とどちらも男名が付いています。
井伊の姓で気づいたかもしれませんが、彼女は近江国彦根藩の初代藩主井伊直政のはとこであり養母。直政と云えば
徳川家臣団最強の部隊と見なされ、赤で統一した軍装は「井伊の赤備え」と敵に恐れられていた。
これだけでは、ただ大老井伊直助の先祖かとなってしまうが、次郎法師の生涯は興味が尽きません。
いつか「井の国」を歩いた時に紹介したいと思います。
そんなわけで 「尼将軍」 「女戦国大名」 「女地頭」 は静岡県の三代女傑だと思います。
愛宕神社 三輪鳥居
愛宕神社の場所
竜雲寺を後にして隣にある愛宕神社に向かう。
愛宕神社の入口に『秘境愛宕山』の石碑が建っていたが、何が秘境なのだろうか、興味を持って参道を登る。
秘境らしき所に着く前に小さな「来宮神社」があった。神社の由緒書には熱海にある来宮神社を勘請していて、
祭神は当然同じ神様を祀っている。更に来宮神社は禁酒の神とも書いてあるが、そうなるとお神酒は無いのだろうか。
寺に酒は似合わないが神社と酒は付き物だと思う。それに祭に酒が無ければ盛り上がらない。などと禁酒となると
次々疑問を呈する私でした。
来宮神社に少し興味を覚えて調べてみると、来宮は“来の宮”“木の宮”“忌の宮”に通じる神で
来の宮は 「鎮座地が海岸部に位置し、その創祀も漂着物を神体として祀る(寄り来る神)に由来する」
木の宮は 「神木を信仰する樹木信仰、あるいは木地師の信仰に由来する」
忌の宮は 「祭祀の時に行われていた物忌みに由来する」 説などがあるそうだ。
神社の由来書には何の説明も無いので、勝手に解釈するなら、
ここは海から離れていて海岸部ではではないので、“来の宮”ではない。
次の“木の宮”に該当するような大木も見当たらない。だが木地師ではないが静岡には雛人形や模型業(プラモデル)、
サンダル業等、木材に関係する人が多かったので、その人たちが祀っているのか。
最後の“忌の宮”の忌とは酒の事なら、それを止める禁酒が当て嵌まりそうだが、少々強引すぎるかな。
でもこれ以外にはなさそうだ。となると来宮神社の勧進元は禁酒・断酒を誓った人たちが集まって招聘したのだろう。
きっとそうだと私の妄想的歴史が云っている。
来宮神社を少し登った所にあった三つ鳥居には驚いた。三つ鳥居とはミワ神社系の鳥居と思い込んでいたので
こんな所で遭遇するなんて----- 「三輪鳥居 上代祭祀で山霊を拝する処」と書かれ、鳥居の先に社や祠は無く
確かに山体を祀っているようだ。来宮神社も三つ鳥居を建てて山体を祀っているのかと再度来宮神社を調べてみた。
だが熱海の来宮神社のHPには三つ鳥居の事は書いてない。
この三つ鳥居は先程の来宮神社とは関係ないのか、信仰とは関係なく勝手に建てた物なのか?よく分からなかった。
小堀流石灯籠 愛宕神社
参道の入り口にあった「秘境愛宕山」の根拠?らしい立看板が立っている。
「秘境 心をこらして耳をすまして 何かが見えてきませんか 千古の社に次元を超えて神々のささやきが聞こえる
人はここに忘れかけた何かを甦らせ ふしぎな息吹を感じる」 のだそうです。でも実際は
「千個の樹林の中で 小さな生き物のささやきが聞こえる 次元を超えた 耐えがたい痒みを伴って」
蚊の攻撃が凄い。写真を写す手の指に止った蚊を叩いたら、カメラを落としてしまった。危ない、危ない。
飾り気の少ない素朴な感じの石灯籠に「小堀流石灯篭 この石灯籠は編笠風で桃山時代以降の丸形である」とある。
小堀遠州と云えば庭園作家として有名で、他にも茶道・華道にも秀でていて小堀遠州流があるとは知っていた。
だが本来は城や宮中の建築修復が主で、慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行で功を上げ従五位下遠江守に
叙任していた。以後はこの官名から小堀遠州と呼ばれるようになっていた。しかも遠州は備中松山の城主だったという。
今までてっきり文化人と思っていた小堀遠州の認識を変えなければ------
小堀流石灯籠がどのような物なのか調べたが、それに付いての記載は見つからなかった。
修善寺の愛童将軍地蔵 可睡斎の勝軍地蔵
山頂にある愛宕神社付近には今川時代の山城があったという。城の南に江戸時代の東海道、北には鎌倉時代の
東海道が通っていて交通の要所だったここに城があるのは当然と思うが、徳川時代になると何故か廃城になり
城跡には愛宕神社が建てられてしまった。
東海道に面した今川時代の城には、丸子宿の丸子城や金谷宿の諏訪原城もあるが、いずれも徳川時代になると
廃城されている。これは徳川家康は規模に小さな山城的な防御施設は、鉄砲が主流となった戦闘には、効果が
無いと判断したのか。或いは戦の形態が小集団の戦いから、長篠や関ヶ原などの戦のように大集団による戦いに
変化してきたのに対応したのか。いずれにしても徳川以後の城は、戦闘用から行政所の役割に変化している。
話を戻して、愛宕神社の縁起書によれば
「徳川家康が山城国(京都)より駿府の鬼門除けとして、馬に乗った将軍地蔵を勧請し愛宕山大権現として祀った。」
駿府の鬼門の方角北東に火伏の神の愛宕神社を祀るのは納得できる。だが将軍地蔵に引っ掛かった。
今まで勝軍地蔵は何度か見た事があるが、将軍地蔵となると修善寺の狩野川畔で、鎌倉幕府二代将軍源頼家の
愛童将軍地蔵だけだった。だがこの将軍地蔵は普遍的な地蔵ではなく、源頼家の個人的な地蔵尊だ。
一方勝軍地蔵は、山城国愛宕山で愛宕権現を祀る白雲寺の本尊・将軍地蔵を全国の愛宕社に勘請している。
ここの愛宕神社もその地蔵尊を祀ったのだから、将軍地蔵ではなく勝軍地蔵が正しいのだろう。
勝軍地蔵は身に甲冑(かつちゆう)を帯び、軍馬に跨った姿なので「これに祈れば勝つ」と武家の間で信仰されて
いた事もあり、家康もそれにあやかったのだろう。
ここの縁起書には「愛宕城」の表記は無かったが、今川時代に築かれた城の名前を愛宕城と紹介しているHPの
記事が結構あった。だが家康が愛宕神社を勘請したのなら、今川時代に愛宕城の名前が付くわけはない。
歩行時間:8時間45分 休憩時間:2時間20分 延時間:11時間05分
出発時間:6時05分 到着時間:17時10分
歩 数: 42、893歩 GPS距離30.9km
行程表
静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
霊山寺 0:25> 帆立山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅
愛宕神社(女戦国大名)
3本目の案内板 墓所への分岐(直進)
寿桂尼の墓を求めて墓地に行くと案内板が立っていた。これなら安心と案内板に従い墓地の間を登る。
墓地が終わり山道になった所にある3本目の案内板は、雑草の生茂った裏山の方を指していた。
雑草を掻き分け登った次の分岐には案内板は無かったが、踏み跡がハッキリした上に登る道をとる。
だが今度は林の中の道が上に続いているだけで案内板も分岐も無かった。
間違ったと気付いた時は、低い谷津山の尾根道に合流してしまった。
この尾根道を東に行けば次の目的地愛宕神社はすぐそばだ。だはこのまま愛宕神社に行こうかと誘惑に駆られたが、
そこは我慢して寿桂尼の墓を見なければ後悔すると同じ道を戻る事にした。
分岐まで戻り、歩いてない先を草木の間から透かして見ると、何やら石碑が見える。そうそこが寿桂尼の墓所だった。
最初登って来たとき分岐の先を覗き込んでさえいれば無駄足を踏まなかったのに-------
寿桂尼の墓所 寿桂尼の墓所
寿桂尼の墓所には二基の五輪塔があるが、いずれが寿桂尼の物か定かではないらしい。
増善寺にあった夫・氏親の五輪塔は廟の中にあり、苔や汚れは目立たなかったが、風雨に晒されている寿桂尼の
五輪塔は薄黒く、石肌にはハタケのような浸みもあるが、逆のそれがシットリ落ち着いた雰囲気を醸し出している。
でもこの五輪塔少し変だ。写真手前のは下から「地輪は方形、水輪は球形、火輪は宝形(屋根型)、風輪は半球形、
空輪は宝殊型」の筈だが一番上の空輪の宝殊型が無い。これでは四輪塔だ!
空輪が落ちてしまったのだろうか? それとも寿桂尼に恨みを持つ者が盗んでしまったのか、イヤこれも五輪塔の
形の一つなのだろうか? 分からない。
写真奥の五輪塔も風輪の半球形がハッキリしないが、空輪の宝殊型との間に境らしい線が見えるので五輪塔だろう。
五輪塔横に「戦国大名今川氏の当主を最盛期から滅亡まで4代にわたって支えた女性です。戦国時代を通じて、
統治者の立場から家臣や寺社に対しての公的文書を発行を発行していた唯一の女性であることから、その政治的
実力がうかがわれ、後世の歴史家から「女戦国大名」と票されるようになりました。」とあった。
寿桂尼像 今川氏真の花押?黒印? 徳川家康の花押?黒印?
寿桂尼の発した文書は花押の代わりに個人を示す朱印を文頭にを押していた。
これが父より渡された「歸(とつぐ)」の印だったのです。
この朱印には面白い話があって、最初に朱印を使いだしたのが今川氏親だったという。理由は
「氏親が幼少で印判状に花押を記すことが困難であったので、発給文書に朱印を押したのが最初」と言われている。
だがこの話も眉唾に感じる。氏親が今川当主になったのは15歳なのだから、幼くて書けなかったとは思えない。
しかし氏親が始めた朱印は、その簡便性により以後多くの大名が使用するようになったとか。
さらに追加すると印判状に押す印には朱印と黒印があり、織田信長はその両方を使い、豊臣秀吉は朱印だけを使った。
徳川家康はその両方を使ったが、海外貿易の許可状には朱印を用いたため「朱印船」と呼ぶようになった。
また家康は印判状を権威つけるため、大名や公家など位の高い者には花押を署記し、それ以下の者には朱印状、
私的な書状などは黒印状と区別していたという。
好きな話になると中々止まらなくなってしまう。
寿慶尼は「女戦国大名」と云われるが、静岡には「尼将軍」の北条政子もいる。他に「女地頭」もいるが分かりますか?
前の二人は全国区なので知られているが、女地頭は地方区なので分からないでしょうね。彼女の名は「井伊直虎」
または「次郎法師」とどちらも男名が付いています。
井伊の姓で気づいたかもしれませんが、彼女は近江国彦根藩の初代藩主井伊直政のはとこであり養母。直政と云えば
徳川家臣団最強の部隊と見なされ、赤で統一した軍装は「井伊の赤備え」と敵に恐れられていた。
これだけでは、ただ大老井伊直助の先祖かとなってしまうが、次郎法師の生涯は興味が尽きません。
いつか「井の国」を歩いた時に紹介したいと思います。
そんなわけで 「尼将軍」 「女戦国大名」 「女地頭」 は静岡県の三代女傑だと思います。
愛宕神社 三輪鳥居
愛宕神社の場所
竜雲寺を後にして隣にある愛宕神社に向かう。
愛宕神社の入口に『秘境愛宕山』の石碑が建っていたが、何が秘境なのだろうか、興味を持って参道を登る。
秘境らしき所に着く前に小さな「来宮神社」があった。神社の由緒書には熱海にある来宮神社を勘請していて、
祭神は当然同じ神様を祀っている。更に来宮神社は禁酒の神とも書いてあるが、そうなるとお神酒は無いのだろうか。
寺に酒は似合わないが神社と酒は付き物だと思う。それに祭に酒が無ければ盛り上がらない。などと禁酒となると
次々疑問を呈する私でした。
来宮神社に少し興味を覚えて調べてみると、来宮は“来の宮”“木の宮”“忌の宮”に通じる神で
来の宮は 「鎮座地が海岸部に位置し、その創祀も漂着物を神体として祀る(寄り来る神)に由来する」
木の宮は 「神木を信仰する樹木信仰、あるいは木地師の信仰に由来する」
忌の宮は 「祭祀の時に行われていた物忌みに由来する」 説などがあるそうだ。
神社の由来書には何の説明も無いので、勝手に解釈するなら、
ここは海から離れていて海岸部ではではないので、“来の宮”ではない。
次の“木の宮”に該当するような大木も見当たらない。だが木地師ではないが静岡には雛人形や模型業(プラモデル)、
サンダル業等、木材に関係する人が多かったので、その人たちが祀っているのか。
最後の“忌の宮”の忌とは酒の事なら、それを止める禁酒が当て嵌まりそうだが、少々強引すぎるかな。
でもこれ以外にはなさそうだ。となると来宮神社の勧進元は禁酒・断酒を誓った人たちが集まって招聘したのだろう。
きっとそうだと私の妄想的歴史が云っている。
来宮神社を少し登った所にあった三つ鳥居には驚いた。三つ鳥居とはミワ神社系の鳥居と思い込んでいたので
こんな所で遭遇するなんて----- 「三輪鳥居 上代祭祀で山霊を拝する処」と書かれ、鳥居の先に社や祠は無く
確かに山体を祀っているようだ。来宮神社も三つ鳥居を建てて山体を祀っているのかと再度来宮神社を調べてみた。
だが熱海の来宮神社のHPには三つ鳥居の事は書いてない。
この三つ鳥居は先程の来宮神社とは関係ないのか、信仰とは関係なく勝手に建てた物なのか?よく分からなかった。
小堀流石灯籠 愛宕神社
参道の入り口にあった「秘境愛宕山」の根拠?らしい立看板が立っている。
「秘境 心をこらして耳をすまして 何かが見えてきませんか 千古の社に次元を超えて神々のささやきが聞こえる
人はここに忘れかけた何かを甦らせ ふしぎな息吹を感じる」 のだそうです。でも実際は
「千個の樹林の中で 小さな生き物のささやきが聞こえる 次元を超えた 耐えがたい痒みを伴って」
蚊の攻撃が凄い。写真を写す手の指に止った蚊を叩いたら、カメラを落としてしまった。危ない、危ない。
飾り気の少ない素朴な感じの石灯籠に「小堀流石灯篭 この石灯籠は編笠風で桃山時代以降の丸形である」とある。
小堀遠州と云えば庭園作家として有名で、他にも茶道・華道にも秀でていて小堀遠州流があるとは知っていた。
だが本来は城や宮中の建築修復が主で、慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行で功を上げ従五位下遠江守に
叙任していた。以後はこの官名から小堀遠州と呼ばれるようになっていた。しかも遠州は備中松山の城主だったという。
今までてっきり文化人と思っていた小堀遠州の認識を変えなければ------
小堀流石灯籠がどのような物なのか調べたが、それに付いての記載は見つからなかった。
修善寺の愛童将軍地蔵 可睡斎の勝軍地蔵
山頂にある愛宕神社付近には今川時代の山城があったという。城の南に江戸時代の東海道、北には鎌倉時代の
東海道が通っていて交通の要所だったここに城があるのは当然と思うが、徳川時代になると何故か廃城になり
城跡には愛宕神社が建てられてしまった。
東海道に面した今川時代の城には、丸子宿の丸子城や金谷宿の諏訪原城もあるが、いずれも徳川時代になると
廃城されている。これは徳川家康は規模に小さな山城的な防御施設は、鉄砲が主流となった戦闘には、効果が
無いと判断したのか。或いは戦の形態が小集団の戦いから、長篠や関ヶ原などの戦のように大集団による戦いに
変化してきたのに対応したのか。いずれにしても徳川以後の城は、戦闘用から行政所の役割に変化している。
話を戻して、愛宕神社の縁起書によれば
「徳川家康が山城国(京都)より駿府の鬼門除けとして、馬に乗った将軍地蔵を勧請し愛宕山大権現として祀った。」
駿府の鬼門の方角北東に火伏の神の愛宕神社を祀るのは納得できる。だが将軍地蔵に引っ掛かった。
今まで勝軍地蔵は何度か見た事があるが、将軍地蔵となると修善寺の狩野川畔で、鎌倉幕府二代将軍源頼家の
愛童将軍地蔵だけだった。だがこの将軍地蔵は普遍的な地蔵ではなく、源頼家の個人的な地蔵尊だ。
一方勝軍地蔵は、山城国愛宕山で愛宕権現を祀る白雲寺の本尊・将軍地蔵を全国の愛宕社に勘請している。
ここの愛宕神社もその地蔵尊を祀ったのだから、将軍地蔵ではなく勝軍地蔵が正しいのだろう。
勝軍地蔵は身に甲冑(かつちゆう)を帯び、軍馬に跨った姿なので「これに祈れば勝つ」と武家の間で信仰されて
いた事もあり、家康もそれにあやかったのだろう。
ここの縁起書には「愛宕城」の表記は無かったが、今川時代に築かれた城の名前を愛宕城と紹介しているHPの
記事が結構あった。だが家康が愛宕神社を勘請したのなら、今川時代に愛宕城の名前が付くわけはない。
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