歩行記録 H27-7-21(土)
歩行時間:6時間10分 休憩時間:2時間40分 延時間:8時間50分
出発時刻:7時50分 到着時刻:16時40分
歩 数: 37、546歩(推定距離28.2km) GPS距離28.4km
行程表
名鉄前後駅 0:20> 1番 1:00> 2番 0:05> 3番 0:25> 4番 0:50> 6番 0:45> 7番 0:10> 8番 0:30> 9番 0:25>
10番 0:25> 11番 0:50> 54番 0:15> 番外2番 0:10> 亀崎駅
9番明徳寺(於大の方)
8番から9番明徳寺(みょうとくじ)の道は国道365号から一本西の古い街並みの残った道だった。その途中の交差点に「東浦町
役場東」 とあったが、東浦と云えば先程歩いた 「愛知県民の森公園」 の近くには東浦ぶどうの幟を掲げたブドウ園が幾つかあった。
それと弘法大師が知多半島に上陸したとき四国の似ている事に驚いて詠んだとされる 「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて
四国なるらん」 の東浦でもあるのだろう。
しかし私はこの歌の謂れを聞いた時から疑問を感じていた。弘法大師は知多半島の先端に上陸したのに、半島の付根にある
東浦の風景が見えたのか。霊感の強い大師と云えども見える訳はない。
しかも四国霊場には島に渡る札所は無いので、この歌は多分後世になって知多四国霊場を権威つけるため、四国霊場の阿波、
土佐、伊予、讃岐の4国をもじって、西浦、東浦、日間賀島、篠島としたのだろう。
川の袂に 「於大の道 私のふる里東浦」 の石碑と、博多人形のような体形をした石像が飾られていた。案内はないが於大と
云えば徳川家康の生母は於大で、確か出身は知多半島だった筈だ。
石像は多分於大の方が息子の家康と対面している横に、孫の信康とその嫁徳姫を表現したものだろう。
私はたまたま最近読んだ小説に於大の方取り上げられていたので理解できたが、矢張り案内板が欲しいところだ。
この於大の方は私の好きな今川とも関係があるので簡単に紹介します。
於大は当時今川方の武将だった徳川広忠(家康の父)と結婚し、すぐ家康が産まれたた。しかし於大の実家が織田側に寝返った
ため松平家から離縁され実家に戻される。次に嫁いだのは織田方の武将久松氏で、彼との間には三男三女をもうけている。
今川の人質になった家康も成長し、桶狭間の戦いのあった今川の織田征伐には今川家の武将として従軍していた。
幸いな事に家康は桶狭間の戦いには遭遇しなかったが敗走する今川勢の中には加わらず、居城の岡崎城に立ち籠ってしまった。
今川の再三の説得にも応じなかった家康は織田側と誼を通じ今川に反旗を翻してしまう。そんな折、人質交換で駿府にいた正室の
瀬名姫と嫡男の信康を岡崎に呼び寄せる。この時から於大と瀬名姫は壮絶な瀬名姫の嫁姑の戦いをする事になる。
今川嫌いの於大は瀬名姫が岡崎城に入る事を許さず、岡崎の築山に屋敷を建てそこに住まわせる。信康は岡崎城で織田信長の
娘・徳姫を正室として迎え、岡崎城主になるも瀬名姫は城内に入る事が許されなかった。名前も住んでいた地名を取って 「築山殿」 と
呼ばれるようになっていた。
信康と徳姫の間には女しか生まれず、心配した築山殿が信康に側室を与えるようになると徳姫と信康・築山殿の仲が険悪になる。
今川の血を引く信康も快く思っていなかった於大は、徳姫の味方になり双方の不仲を煽るような行動に出る。
それに乗せられた徳姫は、父親の信長に夫信康と姑築山殿の有る事無い事の誹謗中傷を文に書いて送る。
手紙を読んだ信長は今川の血を抹消する機会ととらえ家康に信康の切腹を要求し、二俣城で切腹させる。また築山殿も家康の命に
より殺害される。
悲劇に終わった築山殿と信康に比べ、於大の方は息子3人は松平の姓を与えられ家康の家臣になり、於大も夫亡き後は 「伝通院」
と名乗り、その死後には従一位を賜っている。
於大の方のモニュメントと同じ敷地の中に三角形をした 「夜着のモニュメント」 があった。説明を読むと 「於大の方が着用した夜着。
色鮮やかな花と、渦巻きの模様が巧みに表現された美しい着物です」 とある。
夜着? 夜着って何だ? 寝間着なのか? しかし寝間着にしては3男3女を生んだ女性が着るにしては派手すぎる。
なら今でいうガウンのような物なのか。辞書で調べてみると 「寝るときに上に掛ける夜具。特に、着物の形をした大形の掛け布団」 と
あった。成程“かいまき”なら身に付けて歩く物ではないので派手でも構わないだろう。と後で納得。
観音寺山門 手水舎
静岡県の寺院の手水舎には手水鉢(水盤)だけが置かれている場合が多いが、この霊場を歩いていると手水舎に何かしらの石仏を
置いてある札所が多い。これは宗派の違いではなく地域風習の違いななのか。四国霊場ではどうだったかは忘れてしまった。
手水舎の作法として、左手を洗い、次に右手を洗ってから口を漱ぐとなっているが、とても口を漱げるような清潔な水が流れている
手水舎は少ない。口を漱ぐどころか手さえも洗いたくないような場合が多い。
中には水盤の中に水が溜まっていて、ボウフラの棲みかと化した物まである。よって私は手水舎で手や口を清めた事はありません。
8番から9番明徳寺の道
歩行時間:6時間10分 休憩時間:2時間40分 延時間:8時間50分
出発時刻:7時50分 到着時刻:16時40分
歩 数: 37、546歩(推定距離28.2km) GPS距離28.4km
行程表
名鉄前後駅 0:20> 1番 1:00> 2番 0:05> 3番 0:25> 4番 0:50> 6番 0:45> 7番 0:10> 8番 0:30> 9番 0:25>
10番 0:25> 11番 0:50> 54番 0:15> 番外2番 0:10> 亀崎駅
9番明徳寺(於大の方)
8番から9番明徳寺(みょうとくじ)の道は国道365号から一本西の古い街並みの残った道だった。その途中の交差点に「東浦町
役場東」 とあったが、東浦と云えば先程歩いた 「愛知県民の森公園」 の近くには東浦ぶどうの幟を掲げたブドウ園が幾つかあった。
それと弘法大師が知多半島に上陸したとき四国の似ている事に驚いて詠んだとされる 「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて
四国なるらん」 の東浦でもあるのだろう。
しかし私はこの歌の謂れを聞いた時から疑問を感じていた。弘法大師は知多半島の先端に上陸したのに、半島の付根にある
東浦の風景が見えたのか。霊感の強い大師と云えども見える訳はない。
しかも四国霊場には島に渡る札所は無いので、この歌は多分後世になって知多四国霊場を権威つけるため、四国霊場の阿波、
土佐、伊予、讃岐の4国をもじって、西浦、東浦、日間賀島、篠島としたのだろう。
川の袂に 「於大の道 私のふる里東浦」 の石碑と、博多人形のような体形をした石像が飾られていた。案内はないが於大と
云えば徳川家康の生母は於大で、確か出身は知多半島だった筈だ。
石像は多分於大の方が息子の家康と対面している横に、孫の信康とその嫁徳姫を表現したものだろう。
私はたまたま最近読んだ小説に於大の方取り上げられていたので理解できたが、矢張り案内板が欲しいところだ。
この於大の方は私の好きな今川とも関係があるので簡単に紹介します。
於大は当時今川方の武将だった徳川広忠(家康の父)と結婚し、すぐ家康が産まれたた。しかし於大の実家が織田側に寝返った
ため松平家から離縁され実家に戻される。次に嫁いだのは織田方の武将久松氏で、彼との間には三男三女をもうけている。
今川の人質になった家康も成長し、桶狭間の戦いのあった今川の織田征伐には今川家の武将として従軍していた。
幸いな事に家康は桶狭間の戦いには遭遇しなかったが敗走する今川勢の中には加わらず、居城の岡崎城に立ち籠ってしまった。
今川の再三の説得にも応じなかった家康は織田側と誼を通じ今川に反旗を翻してしまう。そんな折、人質交換で駿府にいた正室の
瀬名姫と嫡男の信康を岡崎に呼び寄せる。この時から於大と瀬名姫は壮絶な瀬名姫の嫁姑の戦いをする事になる。
今川嫌いの於大は瀬名姫が岡崎城に入る事を許さず、岡崎の築山に屋敷を建てそこに住まわせる。信康は岡崎城で織田信長の
娘・徳姫を正室として迎え、岡崎城主になるも瀬名姫は城内に入る事が許されなかった。名前も住んでいた地名を取って 「築山殿」 と
呼ばれるようになっていた。
信康と徳姫の間には女しか生まれず、心配した築山殿が信康に側室を与えるようになると徳姫と信康・築山殿の仲が険悪になる。
今川の血を引く信康も快く思っていなかった於大は、徳姫の味方になり双方の不仲を煽るような行動に出る。
それに乗せられた徳姫は、父親の信長に夫信康と姑築山殿の有る事無い事の誹謗中傷を文に書いて送る。
手紙を読んだ信長は今川の血を抹消する機会ととらえ家康に信康の切腹を要求し、二俣城で切腹させる。また築山殿も家康の命に
より殺害される。
悲劇に終わった築山殿と信康に比べ、於大の方は息子3人は松平の姓を与えられ家康の家臣になり、於大も夫亡き後は 「伝通院」
と名乗り、その死後には従一位を賜っている。
於大の方のモニュメントと同じ敷地の中に三角形をした 「夜着のモニュメント」 があった。説明を読むと 「於大の方が着用した夜着。
色鮮やかな花と、渦巻きの模様が巧みに表現された美しい着物です」 とある。
夜着? 夜着って何だ? 寝間着なのか? しかし寝間着にしては3男3女を生んだ女性が着るにしては派手すぎる。
なら今でいうガウンのような物なのか。辞書で調べてみると 「寝るときに上に掛ける夜具。特に、着物の形をした大形の掛け布団」 と
あった。成程“かいまき”なら身に付けて歩く物ではないので派手でも構わないだろう。と後で納得。
観音寺山門 手水舎
静岡県の寺院の手水舎には手水鉢(水盤)だけが置かれている場合が多いが、この霊場を歩いていると手水舎に何かしらの石仏を
置いてある札所が多い。これは宗派の違いではなく地域風習の違いななのか。四国霊場ではどうだったかは忘れてしまった。
手水舎の作法として、左手を洗い、次に右手を洗ってから口を漱ぐとなっているが、とても口を漱げるような清潔な水が流れている
手水舎は少ない。口を漱ぐどころか手さえも洗いたくないような場合が多い。
中には水盤の中に水が溜まっていて、ボウフラの棲みかと化した物まである。よって私は手水舎で手や口を清めた事はありません。
8番から9番明徳寺の道
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます