遠江33ヶ所観音霊場巡り5-2回目 2010/05/28
3.1k 1.5k 5.5k 0.9k 2.9k 0.9k 5.5k 4.7k 1.4k
金谷駅-26番-25番-23番-21番-20番-19番-27番-28番-菊川駅
45 22 1:21 15 37 11 59 60 14
歩行距離 26.4k
総時間 8時間07分
歩行時間 5時間44分
平均歩行時速 4.6k
--------------------------------------------------
23番 観音寺へ(境)
歩き観音のお堂を出るとき道の選択で迷った。昨晩地図で見る限り、一度来た道を戻り、川を渡った所から、太い道を北上して旧東海道に出る道しか分からなかった。
しかし歩き観音の紹介には「村人は旅人の多い小夜の中山峠に地蔵を背負って行った」とある。ならば地蔵を背負った人が、一度下ってから旧東海道に出て、更に中山峠に登る事などするだろうか。私なら旧東海道に出合った所に地蔵を設置する。
若しかして、お堂の横を登っていけば中山峠に直接行ける道があるのではないか。
しきりに誘惑にかられたが何とか諦めた。今日の遍路はまだ始まったばかりだ。朝から疲れては予定をこなせないと困る。
鞘堂に入ったお堂の横から見たことのある建物が見えた。若しかすると、と思い細道を通り近づいて見ると、案の定「菊川間の宿」の菊川の里会館だった。
間(あい)の宿とは、宿と宿の間に旅人の休憩に便宜をはかって作られた宿で、通常は3~4里ある場所に作られるが、金谷・日坂間は1里24町しかなかったが、急所難所が多かったため間の宿が置かれたらしい。
歩いていて気が付かなかったが、いつの間にか旧東海道に入っていたようだ。まだ休憩するほどの事もないので、そのまま前進。
間の宿を出て道が直角に曲りその先が登りになる所に、まだ新しい四角い石柱が立っていた。
石柱には「榛原郡、山名郡、佐野郡、城東郡」と彫られている。ここがかっては四つの郡に接していた記念に立てたのだろう。だが記憶では「四郡橋」と言う橋の名前だったはずだが-----周りを見るが今では橋とは言えそうもない状態だ。
ただこの説には異説があって四郡橋はヨコオリ橋と呼んでいるので、この直角に曲る様を表わしてヨコオリ橋となったと言う説もある。
どちらが正しいか分らないが面白いものだ。
中山峠の急な坂を登っているが、今日はいつもと違い余裕がある。いつもは歩こう会の集団の中で必死になって歩いているので周りを見る余裕もなく、まして写真など撮っている時間も無い。それが今日は一人自分のペースで、しかも何でも見てやろうと思っているのでキョロキョロしながら歩いている。
道端にはこんな花が咲いていた。
分ります? ユキノシタです。真近で見ると可愛い花ですね。
更に今日もお茶尽くしです。旧東海道からもこんな景色が見えるのですね。
北の方角には前回歩いた粟ヶ岳が見えています。例の「茶」の字もはっきり見えていました。
中山峠には沢山歌碑が建っているのですが、今日はこんな歌碑に気づきました。
「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれて越ゆる さやの中山」
私に歌の良し悪しなど分るはずもない。なのに気になったのは冒頭の「甲斐が嶺」だ。ここから見える山梨県の山となると富士山を除けばウーン!あるだろうか?
南アルプスで見えそうなのは聖岳、赤石岳だろうが、それらは信州(長野)だ。となると富士山しか思い当たらない。
静岡から見て富士山を山梨の山とは承服しがたいが、この歌が続後選和歌集に載っているとなれば、当時の人は富士山は甲斐の山と思っていたのだろうか?
現在でも富士山頂は県境未確定領域になっているが、神代の昔からここは国境未確定領域だったのだ。
旧東海道と別れて国道1号線に向かう。下りの斜面は茶畑が一面に広がりお茶を蒸す香りも漂ってきて、耳にはウグイスの鳴声がひっきりなしに聞こえてくる。そうなると思い出すのは「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」だが、これには川柳の返句があって「目と耳は ただだが口は銭がいり」となるらしい。昔の人は面白いこと言うものですね。それなら私は全て銭が要らない「目に青葉 山ホトギス 茶の香り」全て盗用の一句でした。お粗末。
ところで茶畑に中に林立する鉄柱は何だと思いますか。ファンが付いているので暑さよけ? 違います。
これは霜対策で霜が降りそうな日はファンが回って霜を吹き飛ばしてしまう装置です。他県の事は知りませんが静岡県の大きい茶園には必ずと言っていいほど立っています。
しかし4月の寒波の時は、このファンも効き目が無く、牧の原の茶園では大被害を受けたようです。現在ではこの防霜ファンでなく、更に効果の出るスプリングクーラーが徐々に普及してきているらしいです。
国1脇に建っている23番観音寺は、粟ヶ岳山頂の崩れかけたお堂の中の観音様をこの地に迎えて祀ってあって、粟ヶ岳に登らなくても、ここでお参りすれば良いと言っていた寺だ。今では23番札所は常現寺内観音寺と表示されて、本尊は粟ヶ岳にあった十一面千手観音となっている。そのこと自体は不自然ではないが、実はこの常現寺は遠州33観音の札所でもある。そして遠州側には寺名は常現寺、本尊は同じ十一面千手観音と書いてある。
同じ観音像が二つの寺の本尊? いいような気もするが不自然なような気もする。どだいそんな事に疑問を感じるのは私ぐらいだろうが。
この寺で珍しい石塔を見た
今までも日清戦争や日露戦争の慰霊碑は見たことがあるが、三つの戦争の慰霊碑が一箇所にあるのを見たのは初めてだ。石碑の頭部が軍帽になっているのも愉快だ。大東亜戦争は鉄兜になっているが軍帽だと日清日露と同じになってしまうからなのだろう。
次はどんな軍帽かって? とんでもないもうこれ以上慰霊碑は増えっこない。
ただチョット気になるのは「大東亜戦争」という表記だ。この言葉に先の戦争を肯定する響きを感じるのは私だけだろうか。といっても「太平洋戦争」では対中国戦等が含まれないような気もしてしまうし判断は付きかねる。
このような問題は国が敗戦後はっきりさせておけば良かったのだが、責任の所在を明確にせず、都合の悪い事全てうやむやにしてしまう政治家や官僚。そしてそれを「良し」としてしまう国民に問題がありそうだ(勿論私を含めて)。
境内を出るとき又不思議な石仏があった。謂れは見当たらなかったが-------
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金谷駅-26番-25番-23番-21番-20番-19番-27番-28番-菊川駅
45 22 1:21 15 37 11 59 60 14
歩行距離 26.4k
総時間 8時間07分
歩行時間 5時間44分
平均歩行時速 4.6k
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23番 観音寺へ(境)
歩き観音のお堂を出るとき道の選択で迷った。昨晩地図で見る限り、一度来た道を戻り、川を渡った所から、太い道を北上して旧東海道に出る道しか分からなかった。
しかし歩き観音の紹介には「村人は旅人の多い小夜の中山峠に地蔵を背負って行った」とある。ならば地蔵を背負った人が、一度下ってから旧東海道に出て、更に中山峠に登る事などするだろうか。私なら旧東海道に出合った所に地蔵を設置する。
若しかして、お堂の横を登っていけば中山峠に直接行ける道があるのではないか。
しきりに誘惑にかられたが何とか諦めた。今日の遍路はまだ始まったばかりだ。朝から疲れては予定をこなせないと困る。
鞘堂に入ったお堂の横から見たことのある建物が見えた。若しかすると、と思い細道を通り近づいて見ると、案の定「菊川間の宿」の菊川の里会館だった。
間(あい)の宿とは、宿と宿の間に旅人の休憩に便宜をはかって作られた宿で、通常は3~4里ある場所に作られるが、金谷・日坂間は1里24町しかなかったが、急所難所が多かったため間の宿が置かれたらしい。
歩いていて気が付かなかったが、いつの間にか旧東海道に入っていたようだ。まだ休憩するほどの事もないので、そのまま前進。
間の宿を出て道が直角に曲りその先が登りになる所に、まだ新しい四角い石柱が立っていた。
石柱には「榛原郡、山名郡、佐野郡、城東郡」と彫られている。ここがかっては四つの郡に接していた記念に立てたのだろう。だが記憶では「四郡橋」と言う橋の名前だったはずだが-----周りを見るが今では橋とは言えそうもない状態だ。
ただこの説には異説があって四郡橋はヨコオリ橋と呼んでいるので、この直角に曲る様を表わしてヨコオリ橋となったと言う説もある。
どちらが正しいか分らないが面白いものだ。
中山峠の急な坂を登っているが、今日はいつもと違い余裕がある。いつもは歩こう会の集団の中で必死になって歩いているので周りを見る余裕もなく、まして写真など撮っている時間も無い。それが今日は一人自分のペースで、しかも何でも見てやろうと思っているのでキョロキョロしながら歩いている。
道端にはこんな花が咲いていた。
分ります? ユキノシタです。真近で見ると可愛い花ですね。
更に今日もお茶尽くしです。旧東海道からもこんな景色が見えるのですね。
北の方角には前回歩いた粟ヶ岳が見えています。例の「茶」の字もはっきり見えていました。
中山峠には沢山歌碑が建っているのですが、今日はこんな歌碑に気づきました。
「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれて越ゆる さやの中山」
私に歌の良し悪しなど分るはずもない。なのに気になったのは冒頭の「甲斐が嶺」だ。ここから見える山梨県の山となると富士山を除けばウーン!あるだろうか?
南アルプスで見えそうなのは聖岳、赤石岳だろうが、それらは信州(長野)だ。となると富士山しか思い当たらない。
静岡から見て富士山を山梨の山とは承服しがたいが、この歌が続後選和歌集に載っているとなれば、当時の人は富士山は甲斐の山と思っていたのだろうか?
現在でも富士山頂は県境未確定領域になっているが、神代の昔からここは国境未確定領域だったのだ。
旧東海道と別れて国道1号線に向かう。下りの斜面は茶畑が一面に広がりお茶を蒸す香りも漂ってきて、耳にはウグイスの鳴声がひっきりなしに聞こえてくる。そうなると思い出すのは「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」だが、これには川柳の返句があって「目と耳は ただだが口は銭がいり」となるらしい。昔の人は面白いこと言うものですね。それなら私は全て銭が要らない「目に青葉 山ホトギス 茶の香り」全て盗用の一句でした。お粗末。
ところで茶畑に中に林立する鉄柱は何だと思いますか。ファンが付いているので暑さよけ? 違います。
これは霜対策で霜が降りそうな日はファンが回って霜を吹き飛ばしてしまう装置です。他県の事は知りませんが静岡県の大きい茶園には必ずと言っていいほど立っています。
しかし4月の寒波の時は、このファンも効き目が無く、牧の原の茶園では大被害を受けたようです。現在ではこの防霜ファンでなく、更に効果の出るスプリングクーラーが徐々に普及してきているらしいです。
国1脇に建っている23番観音寺は、粟ヶ岳山頂の崩れかけたお堂の中の観音様をこの地に迎えて祀ってあって、粟ヶ岳に登らなくても、ここでお参りすれば良いと言っていた寺だ。今では23番札所は常現寺内観音寺と表示されて、本尊は粟ヶ岳にあった十一面千手観音となっている。そのこと自体は不自然ではないが、実はこの常現寺は遠州33観音の札所でもある。そして遠州側には寺名は常現寺、本尊は同じ十一面千手観音と書いてある。
同じ観音像が二つの寺の本尊? いいような気もするが不自然なような気もする。どだいそんな事に疑問を感じるのは私ぐらいだろうが。
この寺で珍しい石塔を見た
今までも日清戦争や日露戦争の慰霊碑は見たことがあるが、三つの戦争の慰霊碑が一箇所にあるのを見たのは初めてだ。石碑の頭部が軍帽になっているのも愉快だ。大東亜戦争は鉄兜になっているが軍帽だと日清日露と同じになってしまうからなのだろう。
次はどんな軍帽かって? とんでもないもうこれ以上慰霊碑は増えっこない。
ただチョット気になるのは「大東亜戦争」という表記だ。この言葉に先の戦争を肯定する響きを感じるのは私だけだろうか。といっても「太平洋戦争」では対中国戦等が含まれないような気もしてしまうし判断は付きかねる。
このような問題は国が敗戦後はっきりさせておけば良かったのだが、責任の所在を明確にせず、都合の悪い事全てうやむやにしてしまう政治家や官僚。そしてそれを「良し」としてしまう国民に問題がありそうだ(勿論私を含めて)。
境内を出るとき又不思議な石仏があった。謂れは見当たらなかったが-------
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