はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵2回目-5

2013-10-05 16:50:48 | 寺社遍路
  10番 ~ 20番 地蔵                              歩行月日2013/09/14

歩行時間:9時間45分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間45分
出発時間:5時50分   到着時間:17時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 焼津駅 0:55> 10番 0:20> 11番 0:25> 12番 2:15> 13番 0:15> 芙蓉庵 0:50> 14番 
 2:30> 15番 0:25> 16番 0:40> 17番 0:15> 18番 0:20> 19番 0:20> 20番 0:15> 安倍川駅

              15番目(16番)坂下地蔵堂(笠懸松)

 
          玉露の里入口                          玉露の里の庭園

 来た道を朝比奈川まで戻り右岸の裏道を玉露の里に向かう。
看板のあった居酒屋を気にしていたが見つける事は出来なかった。ヤメタのだろうか?
今日は土曜日なのに玉露の里に人影は少ない。静岡県中部にはお茶をメインにした観光施設が、ここ岡部の
玉露の里、中川根の茶銘館、牧之原のお茶の郷があるが、どこも平日に行くと閑古鳥が鳴いている。
それでも最初に出来た玉露の里は、開園当時は賑わいを見せていたし、その後も努力を続けているが、今は
捗々しくないようだ。大きな施設を伴う村興しは、その建物の維持が大変で、利益までは到底出そうもない。
イヤイヤここまで書いて思い出した。川根にある日帰り温泉の川根温泉は例外で、連日賑わいを見せている。
何と云っても川根温泉の売りは、中部地方では珍しい高い湯温(48度)でかけ流し、しかも露天風呂から
蒸気機関車が大井川の鉄橋を渡るのが見える。そんな好条件でもなければ繁盛しないのだろう。

     

 オッと話を戻して、来る時は県道を歩いてきたが帰りは朝比奈川沿いの道を歩く事にした。
時折出てくる石仏の中には角度を持った物が何体かあり、その内で制作年が判読できたものは全て
明治以降だった。こうなると角度のある石仏は、私の想像通り明治以降の岡部産の線が濃くなってきた。
庚申塔も三猿のある石碑は同じような形式なので、これも岡部産なのかしら?


   
      標識             龍勢発射台               名前の分からない地蔵さん

 川沿いの道を歩いていると時折写真のような標識がある。写真は玉露の里とびく石山頂となっているが、
さっきはびく石山頂と蔵田パーキングになっていた。何の標識だろうと近づいて良く見てみると「東海自然
歩道バイパスコース」
となっている。そうか私の知っているバイパスコースは、大崩山塊の宇津ノ谷から逆川-
満観峰-花沢山-用宗だったが、そこに繋がっているのだろう。
このバイパスの出発地は東海自然歩道のある蔵田なのだが、そこから宇津ノ谷まで歩く人がいるのだろうか、
いたとしてもほんの一握りの人で、その人たちの為にこんな標識が必要だろうか。こんな所に付けるなら
塩の道の標識を増やした方のが役に立つと思うのだが。

 行くときのも見えた龍勢の発射台の下に来た。龍勢とは
「歴史的由来は定かではないが、上流朝比奈城と下流の朝山城(岡部氏)また駿府城との狼煙が、その起源と
するのが有力な説である。江戸後期より六社神社例祭を飾る行事として打ち上げられ、それぞれの秘曲が
継承されてきた。現在13の流星連260余名の会員を有している」
 と案内板にある。

だがこれでは龍勢がどんな物か分からないので調べてみたら、竹の先端に黒色火薬を詰めた筒を取付て
飛ばす物で、子供の花火の流星を想像すればよいようだ。龍勢は300mほどの上空で爆発し、中から落下傘が
開いて落ちるらしいが、なにせ素人が作る物なので失敗もあるとか。中々のんびりしていて楽しそうですね。
開催は2年ごと西暦の偶数年の10月中旬に行われるので、今年は無いようです。
 案内板に駿府城とも狼煙の連絡をしたように書いてあるが、ここから駿府城までは直線距離にしても10km
以上あり、しかも間には標高300mの大崩山塊徳願寺の山々が遮っている。果たして短い時間にしか煙を出さな
い龍勢で、連絡が取れただろうか疑問だ。
 龍勢については空想した事がある。戦国時代に自分が軍師だったら、攻撃の前に敵陣に龍勢や花火を打ち
込んで敵を混乱させてから攻撃をした方のが、よっぽども有利だったと思う、何故当時は攻撃の武器として
使わなかったか不思議だ。

龍勢の発射台の近くに地蔵さんが鎮座していた。案内板も無く名前も分からない地蔵だが大事にされているようだ。

 
         大旅籠柏屋                         坂下地蔵堂

 やっと東海道に戻ってきた。時間は13時45分で距離は丁度30kmだ。これならまだ十分歩ける。
予定通り宇津ノ谷を越して安倍川駅に向かおう。
 大旅籠柏屋の前は何回も通っているが入ったのは1回だけ。それも団体で歩いた時だった。決して遠慮深い
わけではないが、買う目的も無いのに一人で入る勇気は無い。中には無料の冷茶があるのだがな------

 太い車道歩きだが旧・旧の東海道なので車の量は少ない。岡部宿の東出口の所に「笠懸松と西住墓」
立札が立っていた。以前から一度寄ってみたいと思っていたので、案内板を読んでみると。
「歌聖として有名な西行は、西住と東国へ旅をしたときに起きた悲しい物語の舞台である。
 ----やがて西行が岡部の宿にさしかかり一休みをしながら、なにげなく後ろを振り返ると、古い檜傘が戸に
掛かっていた。胸騒ぎがして、よく見ると過ぎた春、都で共に修行をした僧の笠だった。 
 笠はあり その身はいかになりぬらむ あわれはかなき天のしたかな---- 

何か以前読んだ案内文と違うような気がする。だいたい笠懸松なのに笠が掛かっていたのは戸では笠懸戸だ。
こうなると調べないわけにはいかなくなってしまう。先ずは藤枝市のHPから引用すると

「西住法師は西行法師の弟子で一緒に旅をしていた。あるとき東国の旅に出た二人は、遠州天竜川の渡し場に
来たとき、混んでいた渡し船の中で武士に難癖を付けられた西行は叩かれてしまった。それを見て怒った西住は
武士を叩きのめすと、師匠の西行法師に
「少しの怒りに自分を忘れてしまう考えの浅い振る舞をするのでは、今後一緒に旅は出来ない」
と京に戻るように
言われてしまった。西住は暫く河原に座り自分の行いを反省してから西行法師の後を追うことにした。
大井川を渡るとき体を濡らしたために冷えこんでしまい、島田の宿では幾日か床についてしまった。それでも
歩いては休み、歩いては休みしながら岡部の宿に来た時は、もうすっかり弱ってしまって立ち上がるのもやっと
だった。街道を少し外れた山道にある松の根元に腰をおろすと、もう動く事も出来ず、そのままそこが西住の
永遠の休み場所となったのである。
 西住の死体を見つけた住民は、松の根元に西住の墓を造り手厚く葬り、近くの松に掛けてあった笠を見ると
「西へ行く 雨夜の月 やあみだ笠 影を岡部の松に残して」辞世の句が書き残されていた。

 それから幾月かたった頃、西行法師が一人で岡部の宿に一晩の宿を求めた。
宿の人から「西から来た坊さんが、この先で行き倒れて死んだので弔った」と聞き、持っていた笠を見せて
もらうと、間違いもなく弟子の西住の物であると分かった。
村人に教えられて西住の墓におまいりし、涙ながらに歌をよんだ。
「笠ありてみのいかにしてなかるらん あわれはかなき天が下とは」
西住が笠を掛けてあった松を、住民は「西住笠懸けの松」と呼んで昔の悲しい物語をしのんだという。
その松は30年前に落雷で枯れてしまったので代りを植えてある。」


 以上は物語で、実際の西住は
「西住の死については『撰集抄』巻六第五の「西住上人臨終之事」という所に、高野より西行が都の
西住の庵まで上って来て、その臨終を看取った話が収められている。」
との事です。
では笠懸松の話はどうして生まれたのだろう?
岡部宿には側溝に掛けたような橋に、小野小町「姿見の橋」と名付けてあるが、その類なのだろうか?

  
   丸型の灯篭                   坂下地蔵堂                 四角い灯篭

 坂下地蔵堂に14時20分到着。距離は32kmで気温は34℃に下がってきた。それでもまだまだ暑い。
ここ坂下地蔵堂は東海道筋にあり、何回か来ているが興味を引く物は無い。
石仏や六地蔵もあるが枯れた花が残っているだけで手入れがされている気配は無かった。それでも新しい
発見はあるもので、階段の横にある灯篭の形が丸と四角だと初めて気が付いた。
丸型の灯篭は寛文11年(1672)で、四角い灯篭は元禄14年(1701)だった。一見すると四角な灯篭の方が
古く見えるが30年の差があった。
丸と四角の違いは、故意に区別したのか、それともその時代の灯篭の流行だったのか----
もう一つ新しい物があった。藤枝市の作成した黒御影石の案内板で
「坂下地蔵堂の再建は元禄13年で「鼻取り地蔵」「稲刈地蔵」の二つの伝説が残されている」ある。
こんな立派な案内板ではなくてもよいので、二つの伝説を書いてくれた方のが喜ばれると思うのだがな。
この伝説は前にも紹介したが再度紹介しておきます。

「むかし百姓が云う事を聞かない牛に困っていると、どこからか小僧さんが現われ牛の鼻を取って
声を掛けると、牛は楽々云う事をきいた。どこの小僧かと後をつけると地蔵堂の中に消えていった。
それからはこの地蔵は百姓の手助けをしてくれると「鼻取り地蔵」と呼び農家の信仰が厚くなった」

「むかし百姓の若者が伊勢参りに行きたいが、田圃の稲刈りが残っていて行く事が出来ないでいた。
困った若者は兎も角刈れるだけは刈ろうと、朝早く鎌を手に田に出かけた。
すると不思議なことに、一夜のうちに稲が全部が刈りとられていた。喜んだ若者は早速伊勢参りに
出発すると、親切な旅人と一緒になり無事伊勢参りを済ます事が出来た。若者はこの旅人は何処の
人かと後をつけると地蔵堂の中に消えていった。それからは地蔵の事を「稲刈り地蔵」と名付けて
農家の人達はお詣りをして、願いが叶うと鎌を奉納するようになった」


お堂の中を覗き込んだがビニールを張ってあって中は見えない。
百観音の標札とご詠歌は正面扁額の横にあった。

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