同性愛に対する基準~生理的嫌悪感の境界線~

2007-11-18 14:05:13 | 抽象的話題
昔は異常と正常が対立する概念だと思っていたが、それらは所詮相対的な基準にすぎず、絶対的な境界線は存在しない。しかし、いやだからこそ、その境界線がどこにあるのか突き詰めたくなる。世間が「異常」と見なしたものを意識的・無意識的に受け入れたり、あるいは自分が何となく受け入れがたいと思っているものを「異常」としてまとめてパッケージングし、「まとも」な自己の対極に位置するものとして思考の脇に追いやったりするのではなく、その一つ一つを検証してみたくなるのである(意識してではないが、自分の場合「精神の境界線」で書いた虜2のプレイと拒絶がその一例である)。


たとえばこの前同性愛について述べたが、同性愛(ホモ)と異性愛(ヘテロ)の二項対立はわかりやすいし、それぞれを「異常」「正常」として自分は後者にいると考えるのは容易だ。こうして「同性愛は気持ち悪い」という感覚が生まれるわけだが、前回の考察を通して(自分の場合は)同性愛そのものが気持ち悪いのではなく、マン・ヘイティングによってゲイが気持ち悪いだけだと判明した。こうしてホモ―ヘテロの二項対立の図式が相対化されると、今度は自分の境界線がどこにあるのか知りたくなる。そうすると、特殊具体的な経験や個々の事例の考察を通して帰納法的に境界線の輪郭を見定めていく必要が出てくる(※)。既述のように前回はマン・ヘイティングが自分の境界線を形づくっているところまでは判明したのだから、今度はマン・ヘイティングの源泉を辿っていけばよいことになる。


しかし、「レズは問題ないが、マン・ヘイティングが強いためゲイはダメ」という結論が完全に正しいかと言えば、疑わしい部分も多々ある。例えばレズについて考えてみよう。私の場合、男同士が手を繋いでいると、ぎょっとするとともに生理的嫌悪感を覚える。これはゲイへの生理的嫌悪感で説明がつくように思える。しかしながら、女性同士が手を繋いでいる姿を見ても違和感を覚えるのだ。それが別にレズを意味するわけではないと聞いたことはあるし、また嫌悪感自体も男のよりだいぶ穏やかなものである。しかしやはり、何か齟齬を感じるのは確かだ。この反応は、マン・ヘイティングだけで説明することはできない。とすれば、前回は否定した同性愛そのものへの否定的反応も再考する必要が出てくるだろう(※2)。


また理論上でなら、極端な話マン・ヘイティングが反動である可能性(=本当は求めているが抑圧しているだけ)もゼロではない。そして理論的には、マン・ヘイティング=「ムサいのがダメ」なら「ムサくないのはOK」ということであり、「男であることそのものが問題ではない」とも言える(ゆえに二次元のショタは気持ち悪いとは思わないのだし)。となれば、それに該当しない男(たち)がもし現実にいて、彼らがゲイであっても生理的嫌悪感は抱かない、という結論に到る(こう書くと勘違いされやすいだろうが、要は吐き気を催すほどの嫌悪感は示さない、程度の意味だ)。もっとも、見た目はどうであれ、股間のイチモツはやはり気持ち悪いわけで…


などと考えてみるわけだ。読んでいる途中で思った人がいるかもしれないが、「同性愛そのもの」、「同性愛者」、「同性同士のセックス」を分けて考えるべきではないか、と自分自身も考えている。こういう作業を繰り返すことで、ようやく境界線の輪郭は見えてくる(さらに「なぜそれが境界線たりえているのか」も考察の対象になる)。そしてそれを明らかにしていく過程で、ようやく自己というものは見えてくるのではないだろうか。



社会的な道徳を意識的・無意識的に遵守するなら、同性愛は「自然に反するもの」として否定されるか、逆に性愛の一つの形として受け入れるべきものと考えるかのどちらかであり、このような境界線の考察は出てこない。

※2
一つには、女性同士が絡み合っていても女性の体そのものに意識がいくため(笑)、同性が絡み合っているという事実への意識がうすれ、その結果生理的嫌悪感は発露しないという可能性が考えられる。そうなると、同性が手を繋ぐのは、ささいな行為であるがゆえにそこへ意識が集中し、同性の距離の取り方という点で違和感と生理的嫌悪感を覚えるのかもしれない。
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