ソウルイーター~黒血、ノイズ、自己犠牲~

2011-11-17 18:46:34 | レビュー系

前回の「『父』と『母』、あるいは『勇気』について」で、他者(あえて「ノイズ」と言ってもいい)との向き合い方に関して主人公(=死神たち)の陣営と敵(=メデューサやアラクネ)の陣営は対照的だと述べた上で、前者が肯定的に描かれていると書いた。

 

これに関連するとものとして興味深いのは、黒血と狂気、そして自己犠牲の描き方である。周知のように、主人公のソウルはクロナとの戦いの中でマカをかばって重傷を負い、そこから狂気を内包するようになった。ここから黒血が狂気の象徴であることは明白なのだが、その扱い方がアニメ版は極めて効果的になされている。二つ例を挙げよう。

 

まずソウルに関してだが、黒血=狂気(=暗部、ノイズ)を自分の一部として認め、併せ呑む形でソウルが正気を保つという演出が終盤でなされている。このことは、アシュラが外界や理解できないもの(マカの「勇気」)に対して病的な恐怖・拒絶反応を示し、最終的にはそのような対象(=他者、ノイズ)を抹殺せんとする態度とコントラストをなしているのは明らかだ。またこのソウルとアシュラの対照性を、異文化や異民族、異なるライフスタイルへの態度と置き換えてみるのもおもしろいだろう(「『共感』の問題点」、「フラグメント105」、「嘲笑の淵源」。そしてこのような見地に立つと、シンメトリー=ノイズの排除に病的にこだわるキッドこそが死神に疑いを抱くという構図もまた、計算されたものだという推測が成り立つ)。

 

次にクロナに関してだが、アニメ版の終盤で、マカをかばって(やはり)重傷を負う場面がある。その際、クロナの体内から黒血が流れ出す演出があり、これが極めて興味深い。キャラにのみ注目するならこれは「ラグナロクの死」でしかないが、先述のように黒血が狂気の象徴として何度も言及されていることを思えば、これは狂気からの(根源的な)解放を意味する。思えば、クロナが死神の陣営に入る時、非常に象徴的な演出がなされていた(これは原作も同じ)。すなわち、精神世界の中で境界線を決めて不毛なる自問自答を続けるクロナの境界線の中にマカが入り込み、クロナを自閉の中から救い上げるというものである(この時、深刻になりすぎないようコミカルな演出をするバランス感覚はさすがと言うべきか)。しかしそれは、「完璧な」解放ではなかった。というのも、まだクロナはメデューサの影におびえ続けなければならなかったし、また彼女が現れたときは強迫的とも見える様でその(クロナにとって)残酷な指示を承諾するのである(ただし強い葛藤がある点には注意を要する)。自らを縛る絶対的な拘束(≠自由意思)として、黒血はまだ機能し続けている。

 

このように考えると、なぜマカを庇うことによってクロナが黒血から解放されたのかは明白である。自分の殻に閉じこもり、メデューサの命を絶対的なものとして機械的にこなしていたのと異なり、自らの意思で自分を傷つける行為(=自己犠牲=利他性)に身を投じたのだから。この行為によって、クロナはメデューサが仕掛けた根源的な桎梏から自由となり、自分の意思で立ち、他者を受け入れられる存在となったのである(このことは、メデューサが死んだことも含めて、クロナがアニメ版の終了後も晴れがましい生活を送ることができただろうと推測させる)。

 

以上のような具合で、黒血がテーマの理解を助ける道具として極めて効果的に機能していると言うことができるだろう(そこが原作と違う)。逆に言えば、黒血の扱い方に注目することで、アニメ版ソウルイーターの描きかたかったものがよりよく理解できるようになるのである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« レーシック | トップ | フラグメント119:シュレ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

レビュー系」カテゴリの最新記事