共感・「感情移入」が作品を塗りつぶす

2007-09-19 02:19:29 | レビュー系
(作品の評価が自己の投影であることに気付かない)
先に述べた命名の独善性と繋がるのだが、共感や「感情移入」という反応を自明のものと誤解した時、その反応が自分(の願望)の投影であることにも気付かなくなる。そして、例えば作品にたいして否定的な反応を示した時、それはあくまで共感や「感情移入」できない作品のせいであって、自分の側に問題がある可能性を無意識に除外してしまうのである。なるほど経験による差異などがあるため各人に「異本」(その人なりの作品世界)が存在するとは言われるが、たいていの人はそれを何となく知っているだけで理解はしていないように思える。もし理解しているなら、正のものであろうが負のものであろうが、反応を自分にフィードバックせずにはおかないからである(その作品を受け入れられないのはなぜか、など)。多くの人は、結局のところ、無意識的に自分が正しいと思い込んでいるのに気付かないままなのだろう。ゆえに私はあえて言う。「汝自身を狂人と思え」と。


(作品の可能性は無限ではない)
全く当たり前のことであるが、一応触れておきたい。前掲の記事で私は独善性について述べたが、そもそも各々に「異本」が生まれるのだとしたら、独善的なのは当たり前だという意見が出るかもしれない。なるほどその通りである。しかしそこから自分の「異本」がまかり通って当然だと思うことにより、共感や「感情移入」ができて当たり前だという考えに繋がる可能性を私は危惧している。

この行為が誤りであるのが疑いない。というのも、(作品によって大きく違いはするけれど)我々がどう思うかに関係なく成立している事柄が作中には数多くあるからである。例えば登場人物の生物学的な性別というのは、私たちの解釈如何によって変化するものではない(ただし、『海辺のカフカ』の半陰陽の登場人物のように、そういうレベルからすでに問題となっている場合もあるが)。そしてこの事実を基点とし、数多くの可能性は排除されていく。例えば男キャラは(特殊な何かがなければ)妊娠することはない。また当然、妊娠の苦しみはわからないetc...まあそこまでプライマリーな積み重ねなくとも、文脈によって解釈が限定されていくと言えば十分だろう。

確かに人は自分の主観から逃れることはできない。しかしそのことをもってただ作品を「異本」と断じるのは危険だ。なぜならそれが前提となれば、自分の解釈を押し付けることに何の疑いも抱かなくなって共感や「感情移入」という言葉を振りかざし、その結果どこまでは解釈の余地があり、どこからは動かせない領域なのかを考えなくなるからだ(なお、その解釈の余地の基準を作者の意図に置くべきなのは言うまでもない)。

そんな態度で作品に向かい合うのは堅苦しい?
では、会話のとき、その言葉によって相手が何を言いたいのか考えようとしない態度を、あなたはどう思うだろうか?もしそれを避けるべきものと見なすなら、作品に対してただ自分を押し付けるだけで作者(相手)の意図を考えようとしないのも避けるべき態度であると思うだろう。だとするならば、ただ何を思ったのかを垂れ流すのではなく、①相手(作者)が何を言いたいのか、②それに対する自分の反応がどのようなもので、③それはどのようにして生じたのか、という点を通過することをこそ意識しなければならない。そしてこれを行わない人は、実際には相手だけでなく、自分のことさえも見ようとしていないと言えるだろう。


以上が共感・「感情移入」と作品の問題である。次は、無意識に自分が正しいと思うという部分を受けて、社会問題にへの態度を簡単に述べてみたい。
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