ゆめにっき~未規定性の愉悦~

2012-06-01 18:55:22 | ゲームよろず

5月21日

今日は15時に起きてチャリで池袋に行き、ざるそばを食う。その後突然、かつて夜に迷い込み、延々と広がる闇の前に意識が溶けて立ち尽くしたマーワラーアンナフルの工場群を昼に見てみたくなった。久しぶりに要通りを環七へ向かう。そこにOKができていたことに驚きつつ、韃靼そば茶とココアを購入。通りを北上して東上線のところで脇道に入り、ときわ台の山を下りて旧中山道、また山を登って中山道を横切り、小豆沢を過ぎて神社の横から諏訪通りへと入り、懐かしい大通り先の川を渡って北赤羽駅へ到る。

と、ここで違和感。確かこの辺だったはずだが、だいぶ印象が違う。渡る道を間違えたのだろうか?もしかすると、埼京線沿いではなかったかもしれない。そんな疑問を抱きつつ、裏道に入って浮間団地や川岸の方へ行ってみるが、どうもしっくりこない・・・まあこういう所って夜になると雰囲気が激変することもあるからね。今度はまた夜になったら訪れてみよう。そう切り替えた俺の興味は、すでに赤羽駅へと移っていた。

大宮に勤務していた頃、そこはただの通過点だった。ゆえに赤羽駅の周囲に出ることは一度もなかったが、駅から見る景色は栄えていて、一度下りて直に見てみたいとずっと思っていた。そこで線路沿いに南下するが、あっさり着くと思っていたのが周囲の公園やら学校やらで迂回を余儀なくされ、到着した頃には結構な時間が経過していた。しかし、繁華街が見えてきて、目的地への到着を確信した。

特にどこかの店に入りたいわけではなかったので、周囲を適当に見て反対の西口側に回る。すぐ前にイトーヨーカドー(とアベシマート)が現れ、最近よく通る阿佐ヶ谷と武蔵境を思い出す。チャリを止めてあたりの様子をしばし見た後、西口から線路沿いに帰る。途中駅から少し離れた辺りの雰囲気がよく、なぜか昔ウエッキー&ケンシロウと行ったダンという目黒のスパゲッティー屋を思い出した。

いささかきつめの坂を登り、すぐに同じくらい急な坂を降ると、また神社のところに戻ってきた。なるほど、標識は無視してここをまっすぐ行ったほうが早かったのね。じゃあ今度来る時はここを直進して赤羽の喫茶店で休憩→戸田公園or武蔵浦和遠征作戦で行くかね!・・・そんなことを思いつつ、元来た道を戻っていった。

 

 

 

何があるかわからないが、いや何があるかわからないからこそ、先まで行ってみたい。そして少しずつ把握するセカイの領域が広がり、思わぬものと結びつくこと。その解放感と愉悦が、俺を「旅」へと駆り立てるのだ。この感覚には、外国も家の近くの路地裏も関係ない。それは言い換えれば、未知なるものへの探究心、記憶資源の刺激と快楽、予定調和の忌避・・・俺がゆめにっきをプレイした時に感じたおもしろさは、今述べたような旅の愉悦と似ている。

 

下水道や雨天の樹海(?)といった、個々の景色と風変わりなキャラクターの組み合わせが与える不可思議な印象。あるいは夢の世界への階段を降りて改札を抜けると学校の屋上へと出たり、あるいはデパートの地下が樹海に繋がっており、そこからSFチックなワープゾーンと謎のバラック小屋に行けたりする。その荒野から行ける中南米の遺跡を思わせる階段を登れば、公園そして街の裏山へ出て、白い花との接触は新たな石窟へと我々を招き入れる・・・そういった異質な風景のシークエンスは、ファミコン的な世界やモノクロの世界などと合わせて、記憶資源の攪乱と予定調和からの解放へと俺を誘ってくれるのである。

 

もちろん、刺激される要素、あるいはそこから何を連想するかは人によって違う。先の例で言えばイトーヨーカドーや目黒のダンがそうであるように。しかも、ゆめにっきではそれを明確に方向付けする言葉が存在しないため、振れ幅が広くなるのは必然である。それゆえ、ある人はその未規定さを不気味さだと感じるし、またある人はそこに深淵なメッセージを読み取ろうとするだろう(ゆえに俺はゆめにっきを「鏡像」と呼んだ)。その意味で、かつて俺は「規範失いし者の行方」や「侵食されるセカイ」で後者のアプローチで論を構築したが、基本的にそれは本質から遠ざかる行為だと考えている(ちなみにこの話は、当ブログにおける広範な話題と密接にリンクする。たとえば作品の受容については「灰羽連盟再考」、「mother」や「日本昔話」、思考様式としては「論理至上主義の陥穽」、「神の罰の合理性」、「呪怨への反応」、「『調和』と『地雷』」など)。それゆえ、「侵食されるセカイ」の記事は(感情的な思い込みを理屈付してるだけという)皮肉も込めて、自意識が強く投影されているかのように非論理的な決め付けを組み入れている(「本当は承認してほしいだけなのに」など)。まあこれは「著者自身の自意識が考察に入り込んでいる」というカバーストーリーを読者が構築しやすいであろうという読みも含んでいるのだが。つまり、「嘲笑の淵源」などに見られるような俺の人に対する一種の距離感が、窓付きの有様への「共感」を生み出し、それが「ゆめにっき」にハマり込ませているのに、それがフェータルな要素であるがゆえに俺自身は気づいていないのだ、とかねwちなみにこのような視点は「ザンジバーランドの怪人」で提示済みではあるけども。え、そんなやり口自体が自慰識過剰だしタチが悪いって?これは失礼しゃーしたヽ(。∀゜)ノ

 

ところで、「ゆめにっきにはエフェクトを手に入れるという目的がある」としてその未規定性を否定する人がいるかもしれない。しかし、エフェクトを手に入れる理由は何だろうか?そのように考えてみると、実は俺がある場所を目指す理由と同程度には明確ではない(それによって何があるのか、起こるのか俺[たち]は知らないから)。むしろエフェクトを集めなければならないというおぼろげな理由を動機づけとして、様々な不可思議な世界を体感する・・・それがゆめにっきという作品であり、また醍醐味であると個人的には思うのである。


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