ヒヤマケンタロウの妊娠~マイノリティ、「普通」という名の暴力、共生~

2013-03-30 18:53:10 | 本関係

こないだ「an an」を読んでいたら、「週末エンタメ」の欄で『ヒヤマケンタロウの妊娠』という本が紹介されていた。その内容はと言うと、

「妊娠」「出産」。他人事だと思っていませんか?男が妊娠・出産するようになり、早10年。エリートサラリーマン、桧山健太郎は、自分が妊娠したことを機に、世間の「男の妊娠・出産」に対する偏見を目の当たりにする。最初は自分の居場所を作るため、出産を決意した桧山だったが、その行動は、すこしずつ、周りの人を、そして自分自身を変えていき……?

というもの(ちなみに紹介文はamazonのもの)。ちなみに俺は、電車の中で真後ろからグーグーいびきが聞こえて「誰やねん!?」と振り返ったら、子供が子守袋(?)の中で寝ており、その姿があまりにかぁいすぎて抱きしめてキスしたくなっちった(*´ω`*)・・・というぐらいには俺は子供好きなので、イーガンの「キューティ」じゃないけどできることなら自分で産みたい(笑)とまで思っている人間でありまして、そんな俺がどうして興味を持たないことがあろうか、いやない(そういや前に会社の同僚の子に「俺は人工授精でも全然OKよ」言うたら「それ女の思考ですよ」て驚かれたなあ・・・てゆうか「女の思考」って何すか?w)wてなわけで、すぐに購入して読んだ結果、この作品の真価が「男が妊娠する」というプロットを超えたところにあると気づいた。以下、それを二つの点にまとめて書いてみたい。

 

<1:境界線の曖昧さと共生>

妊娠というと、出産について書かれたエッセイが最も典型的であるが、女性は我が事であるので様々な肉体的・精神的変化が実感されるのに対し、男性はせいぜい外側から見ているか励ますぐらいしかない(=そのありようを慮るしかない)という非対称な関係が思い描かれる。この作品は男性が妊娠するという話なのでそういった二項図式にはならないわけだが、一方でおもしろいのは、男性と女性が全く同じ立ち立場にはなっていないことだ。そこには、(1)男性の妊娠が女性の妊娠の10分の1、(2)ここ10年の現象という設定が効いているわけだが、端的に言えば男性のそれはまだ認知度の低いマイノリティのものである、という位置づけなのだ。ゆえにそれは大っぴらに非難・嘲笑こそされないが、後ろ指をさされるため、多くの人はそれを隠そうとするのである。さて、そのような背景をもとにいくつか象徴的な描写を挙げていくと(読者諸兄がこれから読むことを考慮して、あえてページ数などは記載しない)、

(Case1)

男の妊娠を「男とのセックスの結果=ゲイ」と勘違いする女性社員
→女性の男性の妊娠に対する無理解をきちんと描く。

(Case2)

「そういえばあたしは寿退社や妊娠退社する女のコたちを心のどこかでバカにしてた」
→女性が女性の妊娠を嗤う場合も描かれる。「男性=妊娠に無理解、女性=妊娠に理解」などという単純な二項対立は成立しない。

(Case3)

「ホントにあたしの子・・・なの?」(うわーっ!無責任なダメ男みたいな発言しちゃったよあたし!!!)
→単純に驚いているのもあるだろうが、その原因は妊娠が我が身のこととではない=身体的非対称性にある。つまり、立場・状況が変われば女性にとっても当然「他人事」になりうるということ。

(Case4)

「『独身は不幸』『子ナシは不幸』。30年生きてきてそういう『世間の常識』が間違ってるってことくらいわかってるつもりだった。なのに・・・自分のこどもができたと知ったとたん、ゆらいでしまう。いつもみたいに本音で話せない。そもそも今までのが本音だったのかすらあやうい。」
→今まで経験や論理から自分の考え方をきちんと積み上げてきたはずなのに、それはもしかすると自分の今の立場の無意識的な自己正当化、あるいは単なる他者に対する無理解の産物だったのではないか?という「気付き」。

(Case5)

「あたし―そういう妊娠にまつわる迷信って一切信じてないんです。うちに子どもがいないのも宮地さんのダンナさんが妊娠しているのも、単なる現実です。(中略)妻でも夫でも―妊娠できるの羨ましいです。」
→夫の妊娠を隠そうとする女性に対して、子供が産まれない家庭の妻が印象的な言うセリフ。「普通」の基準とは?そして「普通」という名の暴力が行使されうるということ。

このようにいくつかの事例を見るだけでも、本作が「男性の妊娠」という題材だけで引っ張る性質のものではなく、より広範で深淵な「共生」の問題を描いていることに気づくはずだ(わかりにくい人は、この「男性の妊娠」を性同一性障害や同性愛などに置き換えて考えてみるとよい)。ここではシングルの男性、既婚の男性、高校生、未婚の女性など様々な境遇の人間たちの妊娠や中絶を通じて、世界の見え方が変わる過程を表現しているわけだが、それは同時に、自分の経験しない出来事や考え方への想像力が今までいかに欠如していたかを「気付く」瞬間としても取り上げられているわけだ。そしてそのような視点を持てば、グローバル化し価値観の多様化した今日、ここで描かれている構えが「共生」を実現していく上で決して避けて通ることのできないものであることに思い至るだろう(この真逆のものとして、ゲーティッドコミュニティを作ったり、監視を強化してノイズを締め出す方法があるわけだ)。作者が、たとえばロールズやフーコーなどをどの程度知っているのか、また意識しているのかなどは全くわからない(てゆうか多分してないと思うw)。しかしそういった知識に関係なく、この作品が前述のような成熟社会を生きていく上で誰もが直面せざるをえない問題とその解決策の一つを適切に提示していることはいくら強調してもしすぎることはないように思えるのである(なお、この文脈でこそ私が前に書いた「日常性を疑わない人間には同情はできても『共感』はできない」という発言の意図がより適切に理解されるだろう)。ちなみに、このような過程を経ることなく価値観の多様化と向き合おうとしても、ただ「調和と地雷」=抑圧的環境が生まれるだけで、それはいつしかバックラッシュと「自由からの逃走」へと繋がるだろう。なぜならそれは、批判してはいけないと言われるから批判しないだけで、結局何も理解などしていないからである(「便所の落書き」が生まれる構造も類似のものである)。

 

<2:社会、あるいは他者に対する距離感>

そうは言うものの、作中の描写を見てマイノリティに対する反発や無理解の描写が「甘い」と感じた人もいるかもしれない。なるほど確かに、たとえば主人公がほとんど誰にも打ち明けずに苦闘する姿を描いて「そのうち理解者が現れてくれて丸く収まった」というような展開であったら、私も同じことを感じただろう。しかし、この「他者の理解」という点において、「ヒヤマケンタロウの妊娠」はある種の冷めた視点を元に描かれているのだ。

たとえば先の(Case1)で取り上げた周囲の社員(部下)たちの無理解を描いた後、主人公はむしろ「産んでやる」と決意するばかりか、「すべて利用して俺の居場所を作ってみせる」べく店を作ったり積極的にマスメディアに露出して認知度を上げていこうとするのである(マスメディアの利用と社会への距離感については「犯人に告ぐ」の感想などを参照)。かと言って、それで「みんなが理解を示してくれるようになりましためでたしめでたし」とはならない。インターネットで取り上げられる様が描かれた次の回には電車で高校生たちに陰口を叩かれるているし、また社会についても「叩きやすい所を叩くのも『世間の常識』ってヤツじゃない?」と登場人物の一人が危惧した矢先、主人公がシングルなのをネタに「ヤリ○ン部長」と貶められる、といった描写が出てくる。つまり、主人公たちの振る舞いは自分の「客寄せパンダ」的特性を理解した上での(=戦略的な)ものだのだ。さらに言えば、政府・国家という観点でも、「誰にでも生む権利がある」とかいった大上段なものは書かれず、むしろ「日本ではまだまだ男の出産への理解が少ないだろ?(中略)でもこの少子化だ。国だっていつかは男の出産を支援し始めるだろうし」といった発言に見られるように、道徳・倫理ではなく社会の存続・国家の運営という機能主義的な理由で自分たちマイノリティを認知・協力せざるをえなくなるであろう、と状況を冷静に分析・利用するある種の「ふてぶてしさ」がそこにはあると言えよう(これは余談だが、中国のように「強固な血縁=遠くから来ても血縁関係があるとわかれば泣いて喜び歓待する」といった繋がりもなく、また西欧社会的な熟議の土壌もない日本においては、「慣れ親しみ」が強い力を持つ。それゆえに新奇な存在は露出を多くして慣れさせある種「認めさせたモン勝ち」な部分が大きく、その意味では主人公の戦略は極めて正しいもののように思える)。

総じて言えば、この作品には自らと異なるがゆえに考えが通じなかったり、(時には悪意をもって)誤解したりもする他者、というものへの冷静な眼差しがある。だから、「どうせ自分の苦しみは誰もわかってくれない」とばかりに内的世界へ鬱々と引きこもったりはしないのである(もちろんこれもグラデーションがあることをきちんと描いており、たとえば宮地紀子の夫はプライドの高さも手伝ってか自分の苦悩を押し込めようとする傾向がある。また主人公についても、最後の最後でかつての苦闘を打ち明ける、というシーンもある)。といってもそれは「理解しない他人など利用するだけだ」といった冷たさではなく、自分から表現していかなければ理解されるものも理解されないということであり、またそれは、待っていれば誰かが理解してくれるなどという牧歌的な発想はしない、というたくましさでもあるのだ。

 

以上二点に集約されるように、「ヒヤマケンタロウの妊娠」は、マイノリティ、他者への想像力、共生の作法といった今日の社会を生きる上で不可欠な要素をライトなタッチで適切に描き出した極めて優れた作品と言えるだろう。

 

(おまけ)
子供がほしいと言っても、当然それは愛玩動物じゃあないんだよねえ。こないだ京都に行った時、久しぶりにマシ=オカ2世と再会してこんな話を聞いた。ヤツが当直から帰ると、飯がなくてそのまま寝たら、奥さん(こっちも医者)がもそもそ起きだしてブチ切れ、「どうせ私はダメな妻ですよ」と愚痴られ奥さんが家を出ていったんだと(まあ育児疲れってことだろう)。奥さんと前に飲み屋で話したことがあり、冷静に相手を観察するような人であったと記憶している。元々熊本のS高校を卒業し、現役で国立のK大医学部に進学した才媛であり、今まで積み上げてきた努力と意思の強さも印象に残った。でもだからこそ、初めて「どうしようもない他者」と対峙する大変さを味わっているのではないか、とも思う。もちろん他者と言えば仕事で接する人たちもいるわけだけど、相手は大人だから上手く距離をとってかわすこともできるが、いつも一緒にいる赤ん坊は・・・というわけだ。


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