書評:速水敏彦『他人を見下す若者たち』

2007-07-15 10:57:32 | 本関係
本書では、他者を見下す若者たちが増えており、その原因は他者を貶めることによって自分を相対的に高めようとする認識(著者はこれを「仮想的有能感」と定義している)が一般的になったためだと分析している。


※「すっぱいぶどう」の話にあるように、人間は自分の目標(理想、点数、他者)に届かない時、それをそもそも取るに足らないものだったと考えてプライドを保とうとする場合がある。著者の理論に沿うなら、他人を見下す若者が増えたのは、そういう行為を当たり前のように行う人が増えたということなのだろう。


このような著者の話にはうなずける部分もあるが、問題はこの本が「昔は良かった」という方向性を持って書かれているところだ。その考え自体を完全に否定しようとは思わないが、そういう立場の表明を行わないまま、今と昔の変化の必然性などを考えずに現代の問題を述べ、それに呼応して「昔は~という風でよかった」という恣意的な書き方をしているのは批判されるべきだ。社会の変容や価値観の多様化などによって思考様式が変化するのは必然的なことである。ゆえにただ「今は~で、昔は…だった」と述べてその良し悪しを論ずるのほとんど無意味である(原因がわからずに問題が解決できるはずがない)。そういった意味で、著者の見解は平板なものであまり見るべきところがない。


以上のような著者の恣意性が最もよく現れている部分を少し長いが掲載しておきたい。
************************************************************
仮想的有能感は、軽蔑や嫉妬を内包しているという点で後ろめたいところがある。そのため無意識の淵においやられやすいのである。和田和樹氏は嫉妬について次のように言う(「エンビー型嫉妬が日本をダメにする!」『潮』2005年3月号)。
「一般に、嫉妬と言うのは、『相手の方が優位にいたり、満たされている状態にいるのを体験した際に感じる不快な感情』と定義できるだろう。精神分析の世界では、この嫉妬を二つに分けて考えることが多い。一つは、ジェラシー型の嫉妬である。…その不快感をバネに、相手に勝とうと思ったり、そのために頑張れる源になるような嫉妬を『ジェラシー型嫉妬』と呼びたいと思う」「このように優位な相手に感じた嫉妬のために相手に激しい攻撃性を感じる心理を、クラインは『エンビー』(羨望)と呼んだ。私も、嫉妬のために相手を貶めたくなったり、相手が何らかの不幸な状態になってくると嬉しくなるようなタイプの嫉妬を、二つ目の『エンビー型嫉妬』と呼びたい。相手が優位であると感じた際に、その悔しさをバネに自分を高めようとする嫉妬を『ジェラシー型嫉妬』、相手の足を引っ張ったり、相手の不幸を喜ぶような嫉妬を『エンビー型嫉妬』と分類できるのである」「昔であれば、家が貧しかったり、親の学歴が無かったりすると…『見返してやる』とか、這い上がるためには勉強するというトレンドがあった。ジェラシー型嫉妬をバネとして、学歴や地位の高い人間にいつかは勝とうと努力する」「今は…親にも子供にも諦めが蔓延していることが、各種調査から読み取れる。しかしながら、完全に諦めて、成功者を祝福しているかというと、どうもそうは見えない。テレビのワイドショーなどを見ていても、成功者が落ち目になったり、失敗したりすると、ここぞとばかりに袋叩きにする。そして、一般大衆が、それを一緒になって喜ぶために、テレビの視聴率は上がり、雑誌も売れる。これはまさに、ふだんは諦めている大衆のエンビー型嫉妬が噴出したものと考えていいだろう」
仮想的有能感にはジェラシー型嫉妬よりもむしろエンビー型嫉妬が多く含まれていると言える。 (前掲書 137,138P)
***********************************************************

昔は嫉妬をバネにする「ジェラシー型嫉妬」であり、今では他人を引き摺り下ろそうとする「エンビー型嫉妬」が増えてきて、これが仮想的有能感(他者を低く見ることで自分が有能であると位置づけようとする心の動き)を持つ人が増えたことと関係していると述べられている。「嫉妬」の変化に関するこの分析は正しいのだろうか?なるほどマスコミによる成功者の引き摺り下ろしはよく行われているが、その傾向が現在に特徴的な現象だとは言えないだろう。例えば「出る杭は打たれる」という有名なことわざは「エンビー型嫉妬」の典型であろうが、これは今日突然使用されるようになった言葉ではない。とするならば、前述のような「昔=バネになる『ジェラシー型嫉妬』=プラス」で、「現在=他者を引き摺り下ろす=『エンビー型嫉妬』=マイナス」という構図は成立しない。引用部分の「昔」の範囲が非常に曖昧なのも問題なのだが、このように恣意的な二項対立の提示が本書の最大の問題点であると言えるだろう。


要するに本書は、社会や思考様式の変化の背景、及び本当に昔と変わったのか(差別の薄まりと他人の見下しの関係を参照)という考察が全く不十分である。学校に対する理不尽なクレームの増加や(必然的な)勤労意欲の低下など本書で扱われている問題は様々なところに繋がりうるのだが、単に現在と昔を比較して「昔はよかった」という平板な内容に堕しているのは残念という他ない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「共感」の概念とその濫用:... | トップ | 疲労気味な日々 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本関係」カテゴリの最新記事