病的な完璧主義:世界への敵意と滅びの希求

2007-02-10 00:50:07 | 抽象的話題
以前「世界への失望」を書き、そして前回「無関心と『嘲笑主義』:大学時代の精神」を書いた。その後で沙耶の唄のエンディングでどうして沙耶の側でモノを見るのが容易にできたのかだとか、テクノライズのカタストロフを何の抵抗も無く受け入れることができたのかについて考えていたら、小学五年~中学三年頃に自分の中にあった世界への敵意を思い出した。


「世界への敵意」とはどのようなものか?
ある社会的な不正や欺瞞などを考え始めると、どんどん上部の構造へと上っていき、最終的には社会、あるいは世界そのものが腐敗しているのだという結論に到る。その際、おそらく一般的な人は「変えるべきだ」と考え、様々な形での変革を希求したり、あるいは斜に構えるて対応するのだろう。しかし私の場合は、「そんな世界は滅びてしまえ」という思いだった。これが嵩じてくると、「滅ぼしてやる」になってくるのだが、おそらく人が想像するような各種のテロを考えたわけではなかった。よく勘違いされがちだが、そういった行為は何かの主張や利益のために行われるものであって、滅びのためのものではない(そうでなければ、とっくに核戦争などが行われ、人類は死滅していることだろう)。私の「滅ぼしてやる」は世界を完全に消失させようとする意思であり、そこには自分も含まれている。そして私は誰かへの恨みのために消失を望むのではなく、世界という枠組みそのものを消し去りたいのだ。ゆえにそれは局所的なテロなどではあってはならず、地球の消滅といった「平等な」消失・滅びでなくてはならない(※)。


しかし日常にも不正や欺瞞が存在することくらいは自覚していたし、そもそも自分がそういう行為を行うことだってあった(そもそも私自身は非常に大ざっぱな人間だし)。それでもそういった瑣末な部分はそこまで重大なレベルでマイナスの感情を喚起することはなかった。これは推測だが、私は細かい不具合はいいとしても、世界には正しくあってほしかったのだろう(そういう意識を記憶していたので、「世界を統括する何か」が登場する筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』は色々と納得しながら読んだ記憶がある)。言い換えれば、たとえ下部構造に様々な矛盾や不正があったとしても、世界という上部、あるいは中心の構造は合理的で正しいものであることを望んだのだ。だから社会的な不正の構造を逆上ってそもそも世界自体がおかしいという結論に辿り着くたび、その期待ゆえに「滅びてしまえ」と強く思ったのだろう。変えようと思わず一気に全てが消え去ればいいと考えるあたり境界性人格障害の「極端な評価から極端な評価へ」という傾向を窺わせるが、非常に限定的であることと極端さから、私自身は「病的な完璧主義」と位置づけている(※2)。


これが世界への敵意の内容であったが、次のことも理解していた。すなわち、自分も含めた世界そのものの消失など誰も望みはなしない、と(例えば武器は外敵と戦ったり自分を守ったりするためのものであって、自分ごと全てを消すためのものではない)。ゆえにそれが実行されることはないし、また自分がその計画を立てたところで、実現しようもないことは明らかだった。そうすると次のように考えるようになる。「自分は世界を嫌悪している」⇒「世界を平等に消失させるのは難しい」⇒「(平等な消失で)自分が消えることに抵抗が無い」⇒「自分が死んだほうが早い」曲がりなりにも世界は続いている。つまりそれは存続し続けたいという意思に他ならない。なら、消失を望む私だけが消え去ればよいのだ。つまり、世界の枠組みを破壊するのではなく、世界を認識する私という主体を破壊すれば私の願望は成就され、存続を望む世界はそのまま続いていく。たった一人が自分の願望で自分を殺すだけ…それこそ最もリーズナブルという言えよう。


結局は、自己の統一性の消滅、狂気神話の否定といった基準の消失から自己という基盤が崩壊し、また自己の統一性について考える過程で己の非論理性、非道徳性、非寛容性といった点が追求され、世界の腐敗以前に自己の問題はどうなのかという内省も行われるなどした。これらによって世界への敵意は崩壊、あるいは茫洋としたもの、つまり「どーでもいい」問題になった。しかし、それで全てが消えたわけではない。それが顕著に表れているのが、最初に問題にしたカタストロフの受容である。つまり私は、今でも虚構に関して「安易な救いは、必然性のあるカタストロフの足元にも及ばない」と確信しているのだが、それは以上のような考えが少なからぬ影響を及ぼしていると推測される。



もっとも、土壇場になれば「死にたくない」と言い出すかもしれないとは考えている(言い換えれば、自分のことを全く信用していない)。中学時代に志賀直哉の「城の崎にて」を読んで以来の考えだが、極限状況では人間どう行動するかわからないものだ(これについてはこの記事も参照)。


※2
余談だが、「病的、完璧」と書いてたら、前に友人から聞いたある症例を思い出した。その患者は、検査の結果完全にノーマルと判断されたのだが、最後に「これでもう完璧ですね」と医者が言った途端、「私は完璧という言葉が我慢ならないんだ!!」と暴れだしたのだとか。
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