日本人と無宗教:なぜ「宗教的帰属意識」が問題か

2005-12-04 22:44:08 | 宗教分析
先に私は、<日本人と『宗教的帰属意識』>と題する記事で日本(人)の無宗教という現状についての考察を試みた。今回は、その前提となる「宗教的帰属意識」について再確認をしておきたい。

さて、<日本人の無宗教への視点>でも触れたが、日本人の無宗教という世界的に特殊な状況は、「無宗教である」という人々の自己認識に基づくものである(唯物史観との関係からも強調しておきたいのだが、日本人の無宗教は決して宗教のラディカルな否定ではない)。ゆえに、「日本人の無宗教」という(世界的に見た場合の)特殊性を解明するためには人々の認識に着目すべきであり、外部からの尺度や自分の宗教観に拠ってはならないのである(それは「本当に」無宗教かを考える立場)。

そういった前提を踏まえた上で、逆に自らを無宗教とは認識しない場合を考えてみたい。「認識が問題」ということを少しでも理解してもらうために、あえて極端な仮定を提示しよう。「ある人間がいる。彼は一つも戒律を守っていないし、儀礼なども行っていない。しかし、彼は自分がある宗教に帰属していると考えている。」ここで強調したいのは二点。一つは、彼が少なくとも自分を無宗教であるとは認識しないということ。もう一つは、その認識において戒律や儀礼が二次的な要素であるということだ。

この仮定からは、無宗教という認識には宗教への帰属意識の有無が問題である、ということが理解されるだろう。よってここから、無宗教(という認識)が支配的であるという世界的特殊状況の解明には、「宗教的帰属意識」の中身や変遷を検討する必要があると結論づけられるのである。

※上の仮定を見て、その非現実性を非難する方もいるだろうが、このような書き方をしたのには二つの理由がある。一つは、無宗教という認識はどうやって生じるのかということをよりはっきりと理解してもらいたかったからであり、もう一つは、人々の認識は往々にして適当で非論理的な内容であるということを意識してもらいたかったからだ。
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