雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

Academic

2008-09-12 20:42:05 | 文学
ニュースを斬る 小泉改革が“ぶっ壊した”強靭な首相 御厨 貴・東京大学教授が語る、現代日本政治の危機(日経ビジネスオンライン) - goo ニュース

記事の内容はさておき、Academic のことを考えた。

Academic は本来複雑な現実を構造化して把捉することを目標としているからこそ、具体的な非難や責任には言及しないはずだった。

しかし現実とは本来複数の分野間にまたがっているものだから、特に現在の専門化した専門家ではどうしても難しい。一分野のなかで普遍性を見出そうとするから余計現実の構造化ができない。

もちろんそれ自体は悪いことじゃない。

昔友のひとりが「井の中の蛙大海を知らず」のあとに「されど天を知る」と読んだことがあると呑んだ席でいっていた。

それが本当かどうかはおいておいて(中国人に訊いたがそんなの聞いたことがないといわれた)、大江さんの『表現するもの』にも同じようなことが書いてあり、僕自身そうした考え方は好きだ。

が、専門家として記事を書く場合は、あくまで構造的な分析にはげんでいただきたいと思う。

そういえば、京大の中西さんが、小泉さんの存在を英国政治史にみられるひとつの典型として、小泉さんが就任した当初から、実は改革を遅らせる存在として論証しようとしたことがあったが、結局英国政治史を構造化した結果の論説だったから当たっていなかったと思う。

小泉さんは荒廃をもたらしたが、いつか書いたように、構造改革というより近代の徹底に向かおうとしただけで、安倍さんはそれを継ごうとしてあまりにも本丸から攻め過ぎて失敗し、福田さんはなんとか公務員の人事を内閣に委譲する法律を通した。

という意味で3人には明らかな同じ路線を走っているように思う。

今度の自民党総裁候補のなかでそれを引き継ぎそうなことをいっているのは、与謝野だけだが、そんなことは置いておいて、Academicに話を戻そう。

本来のAcademic の役割をしたとしてもAcademic は非難される。

何せ構造化を所詮現実はすり抜けるものだからだ。

Faulkner が描く現実はまさにそうしたelusiveを強調していたからこそ、その構造化が面白かったのである。

気功風にいえば、人体理解は死体の解剖から、つまりモノとして始まっているが、本来生身の身体はそういうものではない。気功や東洋医学でいう経絡は血の気の無い死体にはなかった。つまり人体の本質と考えられていた部分は、人体の液体状の部位にこそあったから、誰だったかはじめて人体を解剖した中国人は、実際の人体が間違っている、といった(人体解剖を許されたのは犯罪者の身体だったから、犯罪者だから身体の構造も間違っていると思ったらしい)。

やっぱり文学だなぁと、埴谷雄高や金芝河と同じ結論に達したところで、お開きにしましょう。


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