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NO2 ニューイヤー(実業団)駅伝を3回制覇した優勝請負人の白水昭興(しろうず・てるおき=82) リッカー時代とメキシコ五輪マラソン代表の宇佐美彰朗(うさみあきお)を語る

2024-03-21 12:16:14 | ブツブツ日記
 「リッカー」というミシンの単品商売の会社が、福利厚生予算でチームを構成して「ニューイヤー」駅伝で3回優勝(58年、59年、60年)した。その頃には、前回の東京五輪(1964年)で陸上競技に9人の選手を送り込んでいた。
こうして躍進したリッカーは、東京五輪の前年の63年に、銀座6丁目に本社ビルを新築した。帝国ホテルとJRを挟んだ向かい(泰明小学校脇)、銀座コリドー通り角のオシャレな9階建て。
 それまでは神田駅南口の神田鍛冶町に自社ビルを建てていた。1950年代の頃の話である。通称「リッカー通り」。いまのふれあい通りである。
「リッカーさんがきて、神田の南口も賑わうようになりましたね。駅から本社に通じる線路沿いの道を、地元が「リッカー通り」として、街灯設置の予算とか、出してもらったんですよ。私はそこで果物屋店をやっていて、リッカーさんは、いいお客さんでした」と地元の年配女性。今の神田ステーションホテルの辺りだろうか。
 その線路沿いを拡張して、新幹線の建設が始まったのが、前の東京五輪前。移転することになって、五輪景気で、そのビルが高値で売れた。その資金で銀座に新築した。都下立川に工場があったのに、当時の都心のど真ん中の神田に本社があり、移転すると今度は銀座。商売がうまかった。しかも見栄っ張りなのである。これも企業精神だった。
 
 思い出せば、東京ビルラッシュとは、超高層ビル第一号といわれた霞が関ビル竣工(68年)から始まったとする思いが強いが、リッカーはその5年も前、東京五輪前年にして、首都東京の草創期に黄金期を迎えていたことになる。
後年バブル時期、日比谷通りから銀座に入るには、日生劇場を左折して、ガードをくぐってリッカーの前に出る抜け道が、タクシー運転手はもちろん、銀座通には知られていた(今でも同じ)。それほど立地がいい場所に、リッカー本社はあった。
 そのビルは今では築60年を過ぎたのに、オフィスビルとして健在である。あのCMで有名な法律事務所も入居するし、1階には、イタリアンも入る。外壁の強度でビル全体を支える構造になっているとかで、窓ガラスは大きく採光が良さそうだ。当時は建築賞にも輝いた。


 
 いまそのビルに入ってみると、さすがに天井のやや低さとか、通路の狭さの圧迫感はあるものの、オフィスビルとして十分機能する。
 なお言えば、東京のビルの歴史とは、関東大震災(1923年)でほぼ全滅した時に、被害がなかったのは、歴史的遺産といわれる、丸の内の旧丸ビルと、東大の法学部一号館などのゴシック建築の2棟だけだったはずである。その100年前の記憶と、それから敗戦で再度焼け野原になった後の、東京五輪という60年前の記憶の、大きく二つしかない。その2度目の復興に合わせて、リッカー本社が新築されなお機能しているなら、これも前回の東京五輪(高度経済成長)のレガシーの一つだと思うのは、考えすぎなのだろうか。

「銀座にこういう本社ビルが欲しかった」というのは、リッカー創業者平木信二の夢の一つであったろうと思い返す。そしてこのビルは、リッカー消滅後には「ニューイヤー」で一時代を築き、白水もそれに参加した「ダイエー」の所有になった。実にまったく不思議な縁としか思えない。それはダイエー創業の中内功もまた、銀座に本社が欲しかった。そのビルはなお変遷して、今は、Daiwaに所有権が移っている。
 ついでにいうなら、平木のもう一つの趣味は、日本中の浮世絵を集めて「平木コレクション」を完成させることだった。企業家の夢とか道楽は、常人の想像を超える。

 リッカーがそうしたように、日本人の五輪狂騒は「マラソン」や「駅伝」の好きさ加減が、五輪を予想以上に盛り上げてきた。歴史的に見ても、どうやら「駅伝」と「マラソン」は、「大相撲」に比肩するほど、ニッポンの「国技」にも近いと思っている。けっして妙な話でもないだろう。
 かつて文科省に聞いたことがある。「国技」には規定でもあるのかと。先方は「ない」と答えた。つまり大相撲が国技といっているのは、ある場合に横綱の土俵入りを、神社に奉納するなどの習慣があるから、一部のメディアや当事者がそういうのであって、公式的には誰も関知していないらしい。ならば「駅伝」が国技に近いと私がいっても、誰からも文句が来ないことになる。

 さて、今年2024年正月の「箱根駅伝」は100回を迎える記念大会になった。その初回(1920年=大正9年)といえば「大正デモクラシー」の時代になる。あの頃には、甲子園の高校野球も始まった。大学野球も同じ頃だ(プロ野球はずっと遅く1936年(昭和11年)から)。大正時代は、実は「バブルだったのではないか」と、当時の私は子供心に思ったものだ(ウソ)。
 でもせめて、その対岸に帝政ロシアが第一次大戦を急遽取りやめて、ソビエト連邦になる「ロシア革命」(1917年)を起こした時代に重なる(そこが今ウクライナを攻撃しているなら、理想はとっくに崩れた)。帝国や王国たちが戦争を起こしていた時に、理想的な地球の未来社会が描けると、反帝国主義の民主化運動の一環で、ロシアは共産化してソビエトになった。大正時代のニッポンのスポーツブームは、その理想郷に従った気配がある。時代の後ろ盾だった帝国陸軍の軍部もまた、この「体育」ブームに便乗した。
 その「箱根駅伝」の3年前、日本で最初の駅伝(1917年4月)が行われていた。京都~東京の500キロを23人でリレーするという「東海道駅伝」。関東組と関西組の2チーム対抗戦。3日間連続の無謀な大会。あまりにも馬鹿げている。その「奠都(てんと)50周年行事」とは、江戸時代の都京都とは別に、東京にも都を創設したという「明治維新」(1868年)から50周年という意味で、計算は合っている。つまり「駅伝」は天皇行事だった。
主催は読売新聞で、当時は朝日毎日の後塵に泣いてわずかに5万部。歴史は古いのだが、販売力がなかった(今では箱根の主催者)。日本人で最初に五輪に出場した金栗四三(かなぐりしぞう=1912年のストックホルム五輪)は当時21歳。五輪ではボロボロになってまったく歯が立たなかった。
幕末の黒船襲来以降「外人を排斥(攘夷)する」という「大和魂」は、平和時に言い換えれば「五輪に勝つ」と同義語だったと思う。その方法に「駅伝」を思いついた。実行した東海道駅伝の関東組のアンカーは、その金栗四三。彼は優勝のゴールテープを切った。そのゴール地点になった上野不忍の池のほとりには、今「駅伝の歴史ここに始まる」の記念碑(モニュメント)が建つ。


 
「駅伝の父」金栗四三という人は、数年前の大河ドラマ「いだてん」の主人公にもなった。ストックホルム五輪(1912年)出場は21歳のとき。出場したマラソンは途中棄権だった。コースを外れた後で、どうやら沿道の農家宅で気を失ったようだ。翌日目覚めてそのまましょぼしょぼと帰国。シベリア鉄道経由で日本まで20日間。「死してお詫びを」という遺書めいた手記を残した。現地フィンランドのOC(五輪委員会)は、彼を「行方不明」の処理をした。この問題が解決したのは、なんと55年後のことだったという。現地五輪の55周年行事(1967年)のときだったと記録に残る。笑い話である。金栗はその祭典参加のために現地に赴いて、なお当時の五輪コースに戻って、遅ればせながらゴールテープを切ったらしい。55年間走り続けて、ようやくマラソンゴール。当時の五輪は、のんびりムードだった。

 金栗は自分の失態も含めて、長距離強化に目覚めた。先の東海道駅伝を開催し、その3年後の「箱根」の開催に際しては、
「いずれアメリカ大陸横断駅伝をするための、選手養成」
 という構想で、これをスタートさせた。箱根の山登りをコースにしたのも、アメリカのロッキー山脈(4000m峰)を走り抜ける想定だった。「箱根」の第1回参加校はわずかに4校で、優勝は東京師範(今の筑波大学)。他に、慶応、早稲田、明治。その歴史が100回を迎えた。その代わりに「アメリカ横断の夢」は霧散した。後に間寛平が一人マラソンで世界一周をしたのは、別の意味で快挙にもなったが。
この100年間で、箱根駅伝は消えなかったばかりか、大きく育った。2日間にも渡る長蛇のイベントなのに、正月の高視聴率番組になった。
 その100年間の途中、前回の東京五輪の「マラソン」レースをこれに反映させると、駅伝開始されて40年の頃。その後現在まで60年が経過したというなら、私が生きている時代の偏向のせいで、前半がとてつもなく長く感じるのはどうしてか。その東京五輪ではマラソンの円谷選手は3位に入ったが、数年後に「走れなくなった」と自死した。悔やまれる悲劇も決して非難されない。マラソンとは何なのかと視聴者の共感も呼ぶ。
 大正時代は野球と相撲しか運動はなかったはずであるが、徒競走と言われたマラソンや駅伝は、どっこい細々と続いてきた。そこに共感する沿道の応援者も確かにいた。しかも格段に増加してきた。

 その真っただ中に、白水は入り込むことになった。
 前回の東京五輪の直前に福岡から東京に異動した。白水は実はリッカーでは、駅伝メンバーに入ったことは一度もなかった。企業の代表選手としての活躍はゼロだった。ただ福岡からの異動に合格して東京採用となったからには、それでも仕事があった。陸上部マネジャーを3年間やり、続いてコーチを10年間やり、そして監督になった。

「やっぱりねえ、高校でも大学でも、それなりの駅伝成績があった者が、その後企業の駅伝メンバーになるわけで、ただ長距離が得意だというだけでは、企業メンバーには歯が立ちませんよ。私のように全国大会の経験なしで、企業駅伝の監督になった者は、珍しいですよね(笑う)

 リッカーはメキシコ五輪(68年)にも出場した宇佐美彰朗(うさみあきお=他に72年ミュンヘン五輪、76年モントリオール五輪と3度の五輪出場)をリッカーの駅伝メンバーに迎えた。過去に3度の五輪を走った選手といえば、宇佐美の他には君原健二しかいない(瀬古や宗茂はモスクワ五輪をボイコットした)。白水は振り返る。
「リッカーのマネジャー稼業としては、当時「嘱託社員」といっていましたが、いまでいう「契約社員」という条件で、何とか選手集めとチーム強化をしたかったものですね。獲得したい選手を見つけると、母校へいったり、その実家を訪問したり、その親御さんに会ったりして、進学就職はもちろん、それこそ「長距離人生」の相談にも乗ってきました。
 宇佐美は東京五輪の頃には日大で「箱根」を走っていましたが、卒業したものの、教職志望で再入学する頃に出会って、その支援をするという条件で2年ほど「リッカー嘱託」となりました。駅伝要員ですね。当時は都下立川市本社周辺の競技場などが普段の練習場で、そこに来て走っていましたね。
 往年の駅伝メンバーの内川義高さん(52年ヘルシンキ五輪)が長距離コーチに在籍していて、マンツーマンでした。メキシコ五輪出場のときには、日大OBの「日大桜門会」所属で走りましたが、駅伝ではリッカー3位(66年)のメンバーだったと思いますよ」

 当時の駅伝資料などはほとんど残っていないのだが、青森県の十和田で「十和田八幡平駅伝」というローカル大会(鹿角市開催)が、当時から現在まで8月開催の「真夏の駅伝」としてなお続いている(5区71キロ)。そこの過去資料を見ると、例えば19回大会(1966年)は、前回の東京五輪(64年)とメキシコ五輪(68年)の中間年。この年20チーム参加した大会で優勝したのはリッカー(5区間77キロ)だった。こういう小さな大会にも、リッカー陸上部は正面から向き合っていた。
 その3区17キロは、大湯~花輪の区間(冬ならスキークロカンをやりそうだ)で、区間1位と表記されているのは、まさに「宇佐美彰朗」56分56秒のタイムで、2位とは1分以上の差をつけて区間賞に輝いた。リッカー駅伝チームに、ある意味では五輪候補のマラソン選手を、助っ人として加入させていた。ほとんど知られていない話である。





 思い出した。妙な経過であるが、私は偶然にも宇佐美彰朗に面会したことがあった。84年のロス五輪直前の瀬古が台頭してきたマラソンブームの頃に「人類は2時間でマラソンを走れるか」という、思い付きにもほどがある雑誌の企画で、宇佐美を取材した。当時現役を引退して、大学で教鞭をとっていた宇佐美だったが、これほどの愚門にも付き合ってくれた。その時彼は思わぬ反応をした。
 71年から福岡国際を4連覇した米国選手フランク・ショーターを例にして、
「彼などは、給水にコカ・コーラの炭酸を抜いたまあ砂糖水ですよね、それをスペシャルドリンクにしていたわけですよ。つまりマラソンには何が効果的なのかには、明確な基準はないんですね。42キロという苦しい中から、自分で見つけ出さないことにはね」
 と話していたことを思い出す。確か宇佐美もショーターに負けていた。
 宇佐美は努力型の選手だった。10年を超えるマラソン人生では40レース以上を走って、11回の優勝を果たした。練習方法には、インターバルトレーニングも、ニュージーランド合宿も、高地トレーニングも(ある時には血液ドーピングも)いわれたが「明確な基準がない」という漠然としたものの言い方が、実は正解だったのではないかと、今になれば思う。当時は歯切れの悪い、あいまいな人だなあと勘違いした私は愚かだった。40年後の今になれば、マラソン記録の短縮は、皮肉にも「シューズの進化」が最大効果になったが、そんなことさえ明確に言い切った人はいなかった。マラソンを走る「人類」という言葉に「アフリカ人」と言い切る人さえ、宇佐美の時代にはいなかった。手探りなのである。それを含めて私は的確な名言を聞いていたことになる。苦しくなると表情を少し歪めて、顔を傾けた感じの走法を、少し思い出した。その彼もまた、リッカーの駅伝部員でもあった。(続く

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