sptakaのブツブツDiary

sptakaさんは、毎日ブツブツ発言しています。

ニューイヤー(実業団)駅伝を日産自動車と日清食品で3回制覇(他に「リッカー」「ダイエー」などでベスト3まで26回)。天下の優勝請負人「駅伝屋」の白水昭興(しろうず・てるおき=82)監督

2024-03-18 16:11:39 | ブツブツ日記
 一家は満州から九州福岡に引き上げてきた。白水の記憶では、弟が父親のリュックの上に肩車されて、長男の彼は母親に手を引かれて、接岸していた大きな引き上げ船を前に、それに乗るところか降りるのか、雑踏の中に紛れていた記憶しかない。敗戦の昭和20年のこと、その3年前に彼は生まれていた。引き揚げてからさらに5人の弟たちに恵まれて、彼は7人兄弟の長男になった。
 両親は満蒙開拓団として日中戦争のさなかに現地に渡ったが、夢は破れた。後に母親からは「政府の言うことなんか、信じるんじゃないよ」と言われたこともあった。満州に渡る前には、父親は土地持ち農家の長男だったが、引き上げてきた頃には、その家督も兄弟に取って代わられた。

 運動神経はよかった。進学した県立の福岡農業高校は、現在創立146年の名門で、陸上部も充実していた。1950年に開始された全国高校駅伝では、53年、54年の大会で連覇している。主催の毎日新聞の、この大会の担当は運動部長の南部忠平。そう1932年のロサンゼルス五輪では、三段跳びで金メダル。のちには幅跳びの世界記録も打ち出した日本人選手で、早大からミズノ、その後毎日新聞社に入った。運動は大企業のみならず、マスコミにも就職できたし、彼は後の東京五輪の陸上競技監督にもなった。すでに始まっていた箱根駅伝が読売新聞という、当時は弱小新聞社のイベントなら、老舗新聞は高校駅伝をスタートさせていたということになる。

 ところが白水はこの高校を中退した。現在は群馬県に居住するが、その頃を思い出して話を聞かせてくれた。
「家が貧しかったですね。高校の授業料が払えないと、学校を辞めて稼業を手伝ったりしていて。ある日新聞広告で「陸上部員求む」の求人広告を見つけたわけです。それが採用の条件というなら、就職することができる。応募すると合格したんですね。今となれば奇妙な話ですが、その時19歳でした。そこが「リッカーミシン」という、ミシンの会社でした」
 1942年(昭和17年)生まれだから、1962年の話だ。前回の東京五輪は1964年(昭和39)年のことだから、その2年前のことになる。

 リッカーミシンというのは、戦後の混とんとした時代に、バブルのように花開いたミシンという単品の会社だった。平木信二(1910~1971)という気の利いたワンマンタイプの創業者は、30代の頃にすでに財を築いていたといわれる。経歴は、京都大学を卒業して、会計士の仕事ですでに成功し、東京で起業した。
 履歴によれば、1939年に日本殖産という食品加工の会社。43年には理化学工業という化学会社。「リッカーミシン」は、戦後の49年に社名変更して事業スタートとなっている。その経過というのも、前年に先行の帝国ミシンが会社分裂したことを機に、吸収したことがきっかけらしのだが。

 当時、リッカーと取引のあった、東京神楽坂の工務店の倉さんは、思い出しながら話す。
「昭和の嫁入り道具の三種の神器とうなら、冷蔵庫に洗濯機に白黒テレビ……という話になるけど、ミシンというのは、それ以前からの道具だったんでしょうねえ。
 先代の平木さんはミシンの技術者じゃなくて、明らかに計数管理のできるインテリタイプの経営者でしたよ。あの頃は全国のすべての大都市の駅前に、リッカーミシンの販売店を開店させて、その2階には「ミシン教室」を開いて、若い女性たちの、いわばカルチャーを育てていましたね。その後の、音楽教室と同じですよ。
 その2階建てはどこも同じ設計図だから、今でいうコンビニの店舗。視察した先々で、取得した駅前の土地に、私の父親はその建築注文を受けました。
 商売のうまさは、就職したばかりの十代の女性に「毎月500円ずつ貯金しましょう」と。すると数年後の結婚するときに、ミシンを嫁入り道具として購入できる。平木さんは、戦後の景気のよさを見越して、500円の積立預金が数年でどんどん利息が付くことに目を付けたという点では、後の丸井デパートの月賦(クレジット)販売よりも早かったんじゃないかなあ。それが若い娘さんを呼び込んで、あっという間に日本中を席巻したんですよ」
 と話す。

 創業5年で会社は10倍規模になり、同時に借入金も膨大で、借金のツケは上場企業の中でもダントツとなった。不渡り手形も出した。当時は「東映、三共、リッカー」は借金の三羽烏といわれたそうだ。一時は不安定な経営。それを乗り切ると、次にはあっという間に全国展開して、社員も7000人規模にまで拡大した。
平木がまだ40代の頃に、倉さんの父親は頼まれた。
「どこか東京で一等地を見つけて、俺に住まいを建ててくれよという注文のようでしたね。それで目黒区の一等地にお屋敷を建てましたよ。それから彼は20年くらい住んだのかな。亡くなると、そこは整理されて、敷地は野球の王貞治さんが取得しました。今でもそうだと思いますよ」

 リッカーという社名の響きは、私はどうにも好きだ。ところが命名は、都下立川市に本社を起こした理由で、それを音読みすれば「リッ川」。諸説あるなかで、これを信ずる人が多い。倉さんもそうだ。高をくくってシャレがきつい。
 しかもリッカーは、白水が就職する頃には、野球部もあった。陸上部には短距離選手もフィールド選手もいた。陸上部は、その2年後の前回の東京五輪には、9人もの選手を派遣したことになった。当時の陸上部監督は、暁の超特急と言われた1936年、ベルリン五輪選手の短距離選手の吉岡隆徳(東京教育大卒=今の筑波大)。女子ハードルの依田郁子も所属した。ある意味で、平木は東京五輪に向けて、自社の実業団チーム創設に大勝負をかけていたのではないかと思える。「暁の超特急」はその頃、広島で教職に就いていたようだが、それを「東京五輪」の名目でリッカーの監督に引っ張っていた。 

 五輪の話をもう少し続けるが、ニッポンの「五輪」崇拝は、幕末の「黒船襲来」の反動で、それは「攘夷運動」という、外人排斥が始まったことの、裏返しだったかと思う。
 知られるように、ニッポンには、戦前の1940年(昭和15年)に幻となった、東京五輪の開催権利を持っていた。これにしても、その招致活動は11年前からスタートして、3年後に立候補して、7年後に開催が決まったものの、軍部は日中戦争をやらかしてしまって、応じるように政府は9年後に「大会返上」するという、大失態を演じることになった。
つまり戦前の最後の五輪は、先のベルリン五輪で、ここに吉岡隆徳と、もう一人後のエスビー監督で瀬古利彦を育てた、中村清も早大の学生ながら出場していたのは、後の因縁にもなる。
 そして敗戦無条件降伏してからは、マッカーサー進駐軍に7年間も占領され、東京裁判も、戦犯の処刑も財閥解体もしたが、サンフランシスコの講和条約で独立(1952年)開放されると、なんとその翌週辺りには、1964年(昭和39年)に開催された東京五輪の招致活動をすぐに始めたという経緯がある。まるで昭和のニッポンは、本当は「五輪」をやりたかったのに、間違えて「日中戦争~太平洋戦争」に突入したのかと思うほどなのだ。
 その憧れの東京五輪開催のために、「国家の威信をかけた」と一言で済ますが、開催に合わせて東海道新幹線を建設したことも、東京に首都高速道路網を整備(60年後の現在でも、それから少し整備が進展した程度)したことも、他にいくらでもあったはずなのだが、リッカーや、そのライバルの東急に実業団選手を揃えさせることなどは、そう難しいことではなかったろうとも思う。

 白水の入社の頃には、すでにリッカーは黄金期を迎えていた。吉岡隆徳の中大人脈からだろうか、中大の箱根駅伝組を続々入社させていた。その中大とは、50年代には10年間で6回優勝し、その後60年代にかけては、さらに6連覇した。彼らはごっそりリッカーに入社していた。
「ニューイヤー駅伝」、いや当時はまだ実業団駅伝と称されて、レースは三重県の伊勢周辺で行われていた。1957年(昭和33年)の3月に第1回大会は開催されたが、リッカーは翌年の第2回大会に初参加して初優勝。参加は15チーム、83キロの駅伝競走だったと記録に残る。この年から5年間(58年~61年)には3回優勝して準優勝が1回。出場すれば優勝に絡んだ。すでにこれこそが「リッカーの黄金期」であったようだ。
その中心メンバーに布上正之(1934年~2023年)がいた。やはり中大の箱根メンバーの一人である。同年代には内川義高もいる。彼はびわ湖マラソンでも優勝し、戦後日本が初参加したヘルシンキ五輪(1952年)にも出場した。

 その布上が福岡支店の責任者になっていた。九州でミシン会社の支店を作って、そこで社員兼陸上選手を募集すれば、一挙両得になる。アイデアというのか、思いつきなのか、成長企業とはそんなことも平気でやっていた。この日本代表クラスで五輪選手がゴロゴロいる組織に、長距離が少し得意な19歳の少年が混ざってしまったのである。

 白水は話を続ける。
「私の仕事というのは、そのミシンの訪問販売でしたね。農家の子供が「ミシン買ってください」といっても、はいそうですねとは言われません。でもミシンは嫁入り前のお嬢さんたちには必要なものでした。20人くらいの営業部員がその福岡支店にはいましたかね。そして仕事が終われば長距離の練習。しかし私としては、就職できたということと、給料がもらえる。走ってさえいればそれでも十分。辞めたら他にやることがないでしょう。
 2年目くらいになると、布上さんから、
「ちゃんと基礎体力をつけなさい」
 と倉庫部門に異動になった。部品や運びや荷物の整理で、肉体労働でしたかね。他にミシンの足踏み部分(足踏みミシン)の機械組み立て。そんな汗かき仕事をやりながら、体も少し筋肉質になってきたものでした。
 福岡の地元でクロカン大会がありました。出場してみろということで走ると、ここで意外にも優勝できたのですよ。自分でも嬉しかったですねえ。これがきっかけで、陸上部としても準部員扱いだった私は、晴れて部員に昇格できたようなことに。それにしても、あっという間の3年ほどが過ぎましたね」
 
 64年の東京五輪が迫ってきた。福岡支店は閉鎖することになった。一つには、東京五輪に9人もの選手を送り込んだリッカーとしては、陸連に対しても、一つの義理が果たせたという理由にもなろうか。他にも理由はある。
「準社員扱いの私に、辞めるか、東京に移って陸上部を続けるかの選択がきましたね。私としてはもちろん継続したい。先のクロカンの成果もあって、東京採用になって、社員待遇を受けることになりました。
東京五輪はあの年(1964年)の10月10日(旧体育の日)に開会式がありましたが、私はその10月1日に東京採用。なんだか縁起のいい年になりましたね。ただ五輪そのものは、テレビ観戦とうことでしたが」
 と今でも笑う。(続く
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藤井聡太という将棋指しの、生真面目で未熟児的な正座対局16時間の毎日

2024-02-07 17:21:54 | ブツブツ日記
 今日も藤井と菅井の王将戦をやっているのだが、いつみても両者が正座して、悶々と、ウンコが出ないのか、気持ちが悪いのか、陣痛で悩んでいるのか、頭むしって、ぼーっとしながら、対局しているが、そういうのは見たくないと思う人はいないのか。
「全部見せます」ということで、アベマの中継棋戦動画は始まったのだが、それは「全部見せます」という分娩室の出産動画と同じだと思っている。いっとき夫婦で分娩というえげつないのが流行ったが、成功しなかった。あんなの見たら、二度とセックスしたくない。
 同じで、亭主が会社で上司に怒られて「売り上げ悪い」と小突かれている姿は、妻は見たくない。
今は未熟児状態だから、対局の藤井聡太小僧の悶々としたウンコ詰まりを見ているが、ホームラン打つ前に、大谷がベンチ裏で、鼻くそほじっているところを、誰か見たいのか。
 将棋の考慮時間とは、他人に見えないように(それは風呂に入っているのと同じで)裏でベッドに寝て横になって考えたいのとは違うのか。相手が2時間も考えているときには昼寝でもしていたい。「相手が指したら起こせ」。
 大谷翔平はホームラン打つその瞬間を見たいだけで、ベンチ裏でタバコ吸っているなどは(仮の話)誰も見たくない。ならば藤井聡太は、「王手」とやる時を見たいだけで、それまでに、売れない会社の企画会議みたいに、頭かきかきコーヒー飲んでいる、三流予備校の受験学生のような間抜けな仕草はみたくないし、本人も見せたくない。
 そんな嫌悪感をまじまじ見たいのは、先の分娩室に入りたいという悪趣味と同じで、アベマが16時間も中継するその王将戦も、いい加減に飽きてきた。というよりも、棋士はほとんどの時間は空席にして、裏に隠れていろ。
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作曲家すぎやまこういちから、宮崎国夫へと、バックギャモンが将棋ルートへ浸透して、急速に普及してきた30年史

2024-01-26 16:00:41 | ブツブツ日記
「バックギャモン」なんいうマイナーなゲームが、しかし私もこの30年の当事者の一人として、3人の世界チャンピオンが生まれて、AIが進化することでさらに普段のゲームも面白く、世界の国別では、ニッポンとデンマークが急速に力量を向上させてきたといわれ、その理由を探せば、作曲家すぎやまこういちからアマ将棋クラブの宮崎国夫へ、伝言ゲームのように流れたこと。それは団塊世代の宮崎が、昭和一桁のすぎやまの弟子ならば、孫弟子に当たるのが5,60年代の下平憲治や私たちで、ひ孫に当たるのは70年代以降のモッチーやアッコやタクミツが世界で優勝したことに、大きなストーリー性を感じる。
すぎやまと宮崎は共に3年前に亡くなったが、私もその時にコロナで死にそうになった。行きがかりの人生のなかで、楽しい出会いがあったあと、嬉しく思う日が続いている。
テンヨーという中堅玩具メーカーが創立100年にもなるのだが、天洋さんという手品師が、知的なグッズを販売した会社だったらしい。つい最近知ったのだが、小学生だったころに(60年代)プラパズルという子供相手の知的玩具が仲間でブームになった。その使用説明書にご丁寧にも「富士通の協力でコンピュータ解析したところ2千通り以上の組み合わせがある」など紹介されていた。「富士通りって、どこの道だ」と、子供にはもっと親切に教えろよ。
仲間は、一つの組み合わせが完成すると、専門のノートにそれに書き入れ、200通り、500通りまで増えたとか、いずれその遊びも遠のいた。今ネットの保存画像を見ると、確かに「天洋」。バンダイとかタカラとか玩具は大手のはずなのに、珍しさも偶然ということになろうか。そこはまもなくジグソーパズルなどを輸入販売制作するなかで、73年からバックギャモンの製作販売も開始したと社史に残る。
世界史の中では、ギャモンはメソポタミアが起源になるようだが、誰も知らないからこそ、どう普及させようと考えたのか。当時麻雀荘は都内で2千軒を超えているという時代に、月に1回八丁堀にあったホリデーインの会議室を2時間だけ借りて、東京中の20人程度の仲間を集めて例会をやっていたなんていう、およそ過疎ローカルもいい加減にしてくれ。
ただ妙なことに、これはサイコロ発祥と同時に伝播したゲームで、奈良時代に日本に伝わって、つまりこのバックギャモンも(盤双六)、後白河とか、一部貴族には理解されていたとは言われるが、世間では子供用の双六(絵双六)として、知られるようになった。そういう未熟な理解を一掃して、テンヨーは新たな開拓を始めた、手品の会社だった(初代の引田天功とか、ミスターマリックはこの手品会社の契約者)。
 テンヨーは同じように六本木のオシャレなバーで、このサイコロゲームを流行らそうとしていた。プレイボーイクラブ主催では、優勝者に車がプレゼントされた。酔っぱらった拍子に「6」が出るだろうと振って、成功した、失敗したという偶然性に、酒との親和性がある。テンヨーのクリエイターと紹介される人たちは、手品のネタを考える珍しいエンジニアたちなのだが、その伝説の近藤博は、すでにタイガースの作曲家として多芸なすぎやまこういちにこのゲームを紹介して、彼はおよそ熱中した時期があったのだろうと思う。
 同じ頃に、すぎやまは将棋も習得しようと、このアマ名人の宮崎国夫を自宅に師匠として通わせて、将棋のレッスンを受けていたらしい。私が宮崎と90年代に知り合うのだが、「すぎやまさんの家に将棋の稽古に行っているときに、逆にこのバックギャモンを教わって、それで覚えたんだけど、いや~面白くてはまってねえ」
 こんな行きずりが、その後大変変革を起こすわけだから、もののブームというのは、計り知れないものだ。
 テンヨーはゲーム発売と同時に、日本バックギャモン協会を設立し、74年から日本選手権という大会を主催するようになった。当時でも全国から80人ほどの参加者(上級クラス)はいたようだが、協会の過去歴を見ると、77年の大会の優勝者に、すぎやまこういちの名前が残っている。あの男は音楽家として芸大を目指していたが挫折して東大からフジテレビ入社し、音楽番組ディレクターをしながら退社して作曲家になり、タイガースの生みの親になった。「大阪から来たならタイガースでいいじゃないか」という彼の思い付きは大成功して、グループサウンズという日本の流行歌を一変させた。すでにザピーナツの「恋のフーガ」を作り「モナリザの微笑み」で歌謡界を自由に操った。しかも多芸で、酒は飲まないが喫煙趣味で長生きして、ゲームの熱中度も高かった。作家渡辺淳一もエロ作品の片手に将棋マニアだったというが、そう団鬼六も誰も彼も。すぎやまもそう。74年とは、タイガースも解散して、一段落したところだったろうか。
 その頃の優勝準優勝リストには、島田誠が3回も登場し、彼は奨励会メンバーだったし、加藤英夫は、近藤と同じテンヨーのクリエイターの一人でもあった。
 70年代という高度成長は、麻雀の第二期ブームでもあって、当時の学生(私も)は、酒タバコと同じように誰もが麻雀をやった。高度成長の企業人も、勤務や勤勉の後のくつろぎに、あの偶然性が面白い麻雀というゲームは、日本を席巻した。
 まったく似たような感覚で、先の師匠の宮崎は、81年に新宿で三桂クラブという将棋道場を開設したのだが、その時に大判のバックギャモンボードをそこに一台常設して、将棋ファンにもチャンスがあればバックギャモンを教えようと、妙なアイデアを発揮した。あんな将棋盤が10台(20人)も入れば満員ビルの一室。喫煙モクモクのクラブの片隅にそれがあり、その10年後に私も常連になるのだが、「誰でも座れば1p200円のギャモンシュエット」と楽しく誘われ、(そのゲームは1対1で対局するのがヘッドといわれるが、3,4,5人と参加者が増えても、親対子供たちの組み合わせで、対局ができる)。200円というレートは、親で勝てば子供の数だけ2倍、3倍層。負けると逆層。公然とマネーが店内で動いた。
宮崎はその適正レートについて「例えばね、100点負けることないけれど、仮に負けても2万円ならば、「しかたがねえ」と諦めもつくからねえ」。多分にそれは、テンヨーからすぎやまに、さらに宮崎にと伝わっていったものと理解する。大人がタダでゲームなどやるか。あの将棋の真剣師の小池重明もこのクラブの常連で、宮崎にギャモンを教わって、初級者大会で優勝した過去がある。
 他方そこのクラブは、宮崎の人柄で大勢のプロ棋士も集まった。当時将棋のNHK杯で優勝(89年度)した櫛田陽一が専属であり、名人戦の挑戦者にもなったA級の森鷄二(通算2期タイトル)も契約プロであり、この二人にしても、明らかに宮崎にギャモンを教わった。その森の人脈として、先の連盟会長の佐藤康光も、今の羽生も、永世の名人の森内も、私も対戦した過去がある郷田も、先崎も、新宿の場所柄もあったが、錚々たるメンバーが出入りしていた。囲碁の武宮正樹も、亡くなった上村邦夫も、森鷄二の人脈からギャモンに流れた。永世名人の森内俊之は、モナコの大会でベスト4まで勝ち上がったが、対戦の3時間程度は「まったく姿勢を崩さないジャパン将棋のチャンピオンに驚く」と現地でも評価されたように、プロ棋士のそのゲーム脳と集中力は、世界を凌駕させた。
 さらにそこに学生アマ将棋で上京して歯科医となった下平憲治も、バックギャモンを知るようになった。しかも大ハマりして、ついにテンヨーから「協会」の名義を譲り受ける。その頃から私も参加するようになったが、以降は自分史と同じことになる。バックギャモンの月例会を手伝って、この公式戦はマネーゲームはやらずに「レーティング」で成績を管理した。パソコン時代に入って世界のゲーム組織が取り入れたレーティング方式で、AIの普及も拍車をかけた。例会の上位者は国内にとどまらずに、海外に出るようになった。私も香港、ラスベガスに何度も通った。
 振り返ってよかったのは、ゲーム感のいい人というのは、社会のどこにでも存在するのだが、プロ棋士というのはその最たるもので、連中が1ミリの誤差も許容できない将棋対局の後に、酒を飲みながら麻雀やるように、1メートルくらい誤差があっても許容するよという、サイコロ使ったギャンブル偶然性の高いバックギャモンが実は一番ハマった。それはよく野球に例えられ、いくら大谷翔平が投げても、「ホームラン打たれて負けることがある」の比喩になる。それは強いという人でも勝率は6割が限度で、ヘボと言われても、4割は確保できる(ある程度ゲームをできるレベルでは)。しかしその直接対戦でも、強者の勝率は2対1程度。逆にヘボでも3割は勝てるという、麻雀と似たような偶然性、ギャンブル性、「打撃は水物だ」として、偶然性がスポーツに存在するように、ゲームの中にもそれがあった方がむしろ楽しいと解釈できる
 その比較を宮崎は、
「ギャモンは出目の通りにゲームを進めるから、出目が大事になるけど、将棋は自分で出目を探さないといけないから、ギャモンよりもちょっと難しい」
 というのが持論で、分かり易かった。これが1ミリと1メートルの違いになった。いやむしろ、その1メートルの誤差があったとしても、ゲームとして成り立つことに、このギャモンの不思議さを感じていた、今でも。
 将棋81マスにくらべれば、ギャモン24マスしかない。駒は似たように将棋20に対して、こちら15。ただ将棋は各こまに大きな個性があるのに、こちらは何の意思もない、ただの石ころ。それを出目に従って動かすだけなのに、なぜか戦略は将棋同等。しかもこちらは1勝負3分~5分がいいところで、それで1アウト程度。27アウトして、9回終わる野球と同様に、2,3時間やって、ようやくトータルで、少し勝った、負けたの勝負になる。やっぱり1対局に、8時間、16時間も、いやせめて2時間かける将棋に比べれば、呑気でしかし気楽で楽しい。
 宮崎は93年頃から、月に2回の例会を始めた。当日は2千円の席料を徴収して、6時間継続した。参加は100人を超えるメンバーはいたが、常連は20人ほど。成績とレーディング表がまもなく郵送されてきて、参加者を管理した。そのランキングのトップに自分の名前が掲載されると、それは生涯の宝とは大げさだが、切り抜いて、いやそのまま保存して30年経った今でも手元に残る。参加者の興味を継続させた。その後現在までの30年の中で、レーティングは計算方法の修正はあったものの、今でも継続する。私などは、その後20年ブランクがありながら、再度また参加してもレーティングは継続した。これは間違いなく下平が欧米のギャモンクラブ例会方法を採用して、それを宮崎が実践させてきたと、記憶がよみがえる。
 例会の他に、棋戦のように「ギャモン王位戦」も始めた。(後にジャパンオープンとか、最上カップもスタートした。私唯一ジャパンの99年タイトルだけ)。初回は16人だか32人限定だと思ったが、過去タイトル経験者必須だったために、私はダメ。優勝は先の櫛田陽一だったが「お~い、櫛田」と揶揄されて、彼もニコニコしていた。この時の参加費2万円から、16人として優勝賞金20万円(他は開催費用)。こういう分配を仲間内だから平気でやった。
「プロ棋士は恵まれていますよ。対戦の給料は連盟から出るし、勝てばさらに賞金。負けても持ち出しはない。そういうの、片懸賞といって、棋士だけ。ギャモンなどギャンブラーはそれが辛いですよ」。とも。
 宮崎は風貌にも愛嬌があった。小太り格好。ちょび髭をはやしていて、ちょっとマリオに似ていた。故武者野もそういわれたらしいが、そう言えば二人は似ていた。生涯独身で、酒タバコが大好きで、それでいて例会はワンドリンク付きというと、200円のドリップコーヒーを丁寧に入れていた。それに宮崎にとっても、ギャモンの相手が大勢増えたことが、プレーヤーとしても、楽しかったことのようだった。
 私のような新参者にとって、ギャモンというゲームの異様姓は驚くことばっかりだったが、それは対戦回数が増えた宮崎にとっても、同じだったのだろう。
――どうしてギャモンのチェッカーは15個なんですかね。
「1~6までクローズアウトするには12枚で足りるのに、残り3枚あるというのは、不思議だよねえ」と同意してくる。
 将棋の主催者にとって、「どうして飛車と角があるのに、「潜」なんて言う駒はないの」と聞いたとしたら「キミは馬鹿じゃないのか」と言われる。数千年のゲームの仕組みに疑問を挟むなというわけだ。しかし彼は、ギャモンのその定理にたいしても「不思議だよねえ」と応じた。
「最初は20枚くらいあったんじゃないの。そのうちに多すぎるとだんだん減って、きっと12枚まで減らしたこともあるけど、それじゃ足りないとまた増やして、15枚が適正になったんだよきっと」と答えた。ああ、私の10年先輩のプレーヤーにそういわれたら、きっと正解だよなあとも思う。素人を納得させることができた。共感がある。
――残り2枚になってからも勝てるよねえ。
「だからねえ、不思議ですよ」
 15枚のチェッカーのうち、相手に13枚上がられても、そこから逆転できることもあった。残り2枚をヒットしてクローズアウトすれば、それだけで逆転になった。
「2枚ヒットのクローズアウトから、6ポイントが空いた瞬間に66を振って、(1枚もあがっていない状態)それから逆転するのも、年に1回くらいは見るよね」
 そういう普通の会話が楽しかった。将棋ですら、囲碁に比べれば逆転のゲームと言われるが、ギャモンはさらに、不運も含めて逆転が多い。
――負けて怒り出した人が、窓ガラス割って、ボードを外に投げたらどうするの
 と聞く。かつて絶望的な状況に追い込まれた男が、試合中に泣き出したことがあった。子供じゃない立派な大人である。その状況からでも、ある場合は逆転した。
「面白いよ。窓ガラスが割られて、物が下の通行人に当たって、警察がきても、その男が補償するだけのことで、こっちに責任こないからねえ。それが暴力人だったら出禁にするだけで。でも将棋指しにそんな勇気がある者見たことないよ、ハハハ」
 彼は例会には参加しないが、普段のシュエットやタイトルリーグには出た。あの頃は他人のプレーに講釈する者がいたが、同意すれば「ああそうか」。
「一日一つずつ利口になればそれでいいんだよ。一気にいくつも思えられない」
 ギャモンを20年やっている人にしても、そんなことを言いう。それこそゲーム性の高さというものだ。
 道場の席主というのは、達観していた。かつて高校野球でも、池田高校の蔦とか、常総学院の木内とか、悪役明徳の馬淵など面白い監督がいたが、後の時代にはもういない。同じことだ。
 参加者たちは、六本木のオシャレなカフェバーや、プレーボーイクラブ出身の異色で理系の学生たちもいるし、海外ヒッピー欧米系ではストリート賭けギャモンから勝ち残った者もいるのだが、やはり太いのは将棋関係者、プロ棋士の知り合いや友人たちもあり、アマ将棋連中もギャモンにスライドしてきた、麻布中高の将棋部活にギャモン部が公式に派生して、異色な者たちが今でも多い(世界のモッチーがその一人)。
まあそうだろう。ゲームとしての将棋は、藤井聡太の大人気でさらに見直されてきたが、チェスの100倍難しいといわれ、囲碁将棋は華道や茶道のように、日本の文化になった。さすがにAIで解析されるようにはなったが、将棋の複雑で難しい戦略(といっても、ルールは小学生でも理解するが)で鍛えられた日本人特有の頭脳は、世界一難しいゲームができるという、自分たちの誇りにまで思う。例え勘違いがそこにあったとしても、ゲーム脳の高いところにたまたまターゲットにした宮崎の普及作戦が、こうして大成功したと思える。ゲームの認知度としては、麻雀やトランプの足元にも及ばないが、しかしこのゲーム性の高さを理解して楽しめる一人として、テンヨー~すぎやまこういち~宮崎国夫~下平憲治~モッチーの輝くようなラインが、歴史を作ってきたことに、それを継続させていく必要性も感じながら、感慨にひたっている。

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「千石自慢ラーメン」の空箱廃業夜逃げ跡

2024-01-24 18:48:12 | ブツブツ日記
 巣鴨から徒歩5分程度のところに、30年以上も人気営業していたラーメン屋が、2年ほど前に廃業したのだが、今でもその4階建て建物はそのままに、空箱で廃材のような(建て直しするのか)、残骸が残って、その「ラーメン」表示も風雪に叩かれたまま、ああ情けない。だらしない廃業だ。
さほどラーメン好きでもないが、このとんこつは名物だったし、モヤシラーメンが600円くらいだったか安くて、90年代には、真夜中でも3回転待ちでもしょうがねえなあと、並んだものだったけど。
あの頃汚い立ち食いで、20時間くらい営業していたような、カウンター12人分くらいしかなかった。キッチンでは、1回で8人分のラーメン作っていた。食券買って並んで、(その3回先までの食券受け取って、定規のようなものに、24人分を順よく並べて、よく間違えねえなあと感心した)。つまり店を取り囲むと24人くらいが限度で、後は帰ってしまう。それがよかった。
クッキングは8分程度。そこでラーメン出すのだが、前の8分から食い終わっている人4人。残りはまだ食っていて、だから12人分のカウンターで、常に満席回転していた。
1時間に7回転の8人で、600円だと3万3千円。20時間で67万円、年間2億円を超えるの売り上げ。荻窪の丸福だったか隣が、脱税であげられたときに「こんな店で2億円も売り上げるのか」と税務も呆れたらしいが、この千石も同じような人気店だった。1時間くらい経過すると、その鍋を目の前で洗うのも職人芸のようだった。
ところが2000年の頃だったが、経営が変わったらしくて、汚い立ち食いを改装して(その間1か月くらいの休業あって)今度はオシャレ風なカウンターに座って、座席数も減った。汚いラーメン屋が見え張ったと思ったように、客も何となく減っていた。あんなラーメンは座って食うもんじゃない。その後20時間営業が12時間営業くらいに短くなって、何だかつまらなくなった。ある時は、家族4人で立ち食いいったものだが、後に爺になって、それほどいかなくなった。でも通るたびに気になって、ガラーンとしたのも見たが、ついに閉店していた。そういえば当初はトイレなども「そんなのないよ」と言っていたのに、途中から二階に上がるとトイレがあるようになった。
立ち食いは汚いままでよいのだ、それで人気があれば。それを二代目だか、誰かがつまらないいたずらすると、客が減る。従業員だって、寝ないで儲かるから元気に職人やっていたのに、(いつも5人くらいそこにいた)、ラーメン屋もゆとり教育でダメになったんだろうなあと思う。あのとんこつ味よかったのになあと、懐かしい。
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松本人志なんて、裁判に負けるに決まっているでしょ(もしかして5億円のうち、100万円くらいは勝てるのかも)

2024-01-24 17:33:53 | ブツブツ日記
 芸能人の名誉棄損は過去にいくらでもあったが、メディア側にすれば「事実関係で争うだけでいいんですか」と笑い声が聞こえてくるのだ。名誉棄損とは「デタラメ書いたな」ということで、女と合コンしているときに、実は海外にいたとか、収録していたとか、そういうアリバイがおかしいという主張になる。
事実関係の争いとは、女を強姦したとか、和かんであるという主張だろうが、女が「こういう経過がありました」とメディアに話すのは、そこに怒りがあって、タレントからバカにされているわけで(お車代の10万円でももらえば)まあいいかと納得するのだが、それもないから、ケチやろ~とか、強姦野郎と怒り出すわけである。それがネタ元であるから、メディアのこの手の記事に間違いはない。どうせスマホ写真他の証拠も残っているはず。
さて問題はここに「プライバシーの侵害だ」という屁理屈が入り込むときがあって、それは平たく言えば、「風呂ののぞき見か」、「夫婦の寝室か」という例えで、たとえ夫婦の寝室の様子が「変態」の事実があっても、「それを表記する必要にない」というのが、プライバシーの侵害というやつだ。ある場合は「舐めろや」とか「オレの子を産め」が、これに該当するかも知れないと問われることがあって(本来は問われるわけがないが)、こうなると、事実であっても、少々困るわけで、しかし今回はこれがないことから、メディアは笑ってあしらえるという話だ。
そもそも合コンでホテルのスウィートを使うことは、逆にホテルから訴えられるんじゃないのかと思うほどで。女に刺されたらいけないとは、吉行淳之介も、松本清張も心掛けていたことで、女が色恋で訴えてくるのは、誠意がない(金払いが悪い)ためがほとんどで、たまに約束破りとか、裏切ったなどもある。連中はそれを「銀座の学校」と屁理屈を言って、一人前の男に育つには、女を怒らせたらいけないともいう。松本人志なんて、その足元にも及ばない、ガラクタ芸人だったということだった。金を出さないのもいけないば、カネで横っ面をひっぱたくのも、また刺される理由にもなる。
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天皇家愛子の日赤就職に大喜びする間抜けな皇室崇拝

2024-01-24 16:36:00 | ブツブツ日記
 女性皇室は処女時代(独身)だけは、妃としてもてあそばれるが、結婚すると、もう人格用済みで、切り捨てられる。それは歴代の処女崇拝っていうだけのことで、御手付き(妊娠)すると世間から用済みと言われることだ。
 雅子さんだって、女性を産んでもいいけど、ちょっと前なら「男が生まれるまでどんどん妊娠しろ」。だって女じゃしょうがない。女が天皇家継げないなら、継げるように男を産め。でも今は言わなくなったよね。
 でも娘が結婚したら皇室辞めるのは、母親にしたって残念でつまらない。そんな制度でいいのかね。
 政府が少子化対策するのは、女性も仕事して結婚して、そこに手当他余裕を作ることで、出産子育てが楽しいことだという認識で、人生観の再構築しようという話である。
ならば手っ取り早いのは、女性皇室は妊娠してこそ一人前で、女性天皇家を相続させるように、第一子が天皇家を継げるように。仮に天皇継げなくても、皇室に残って、公務いつまでもやれる様に。そんな分かりきったことが、できないという、失われた30年。
 女に生まれた皇室は、時限爆弾抱えて生活しているようなもので。本来男を好きになったらダメか、妊娠してもダメか。戦国時代に、城の石垣に、生きた女が生き埋めされて、それが天下泰平への捧げものだったとか。アホウと唸りたいよね。
 馬鹿でも分かる理屈なのに、政府も国民もバカ以下だから何も分からない。
皇室女性は、結婚すると下野に降りて、生活が苦しくなる。ならば全員行かず後家で、独身生活を謳歌するといい。三笠家などはその通りだ。どうやら二枚舌の政府はそれを望み、他方で結婚出産を国民に強いても、それは無理ってもので。秋篠の眞子が全く歓迎されないのに、佳子はいつまでも行かず後家でいたいだろう、歓迎される人生を継続させたく、結婚したらそれは地に落ちる。
派閥のキックバックが賄賂だと分かっていたのに、平然と今日まで来て、女性皇室の理想形はどこにもモデルがありもしないのに、なんだかいい話としてつたわっているなどは、バカ。愛子だって、22歳はちょっと前なら婆あ扱いされるし、皇室女性の立場も困るよね。
 こういう馬鹿げたことが、笑い話のように、国民の黙認の中で、平然と存在していることに、島国部落国の後進性がよく分かる。

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いい加減に政府は博打(賭け金)解禁にしないのか

2024-01-12 23:54:25 | ブツブツ日記
 10円掛けても取り締まるという、建て前国家。安倍政権の高検だった茶坊主の黒川は、賭け麻雀やったと批判されたが、裁判では「千点100円(ピン)だった」と、こんなの多分ウソなのだが、罰金20万円の略式で人生消えた。ホントはその5倍10倍の掛け金だった。東尾とかパクられた時も、高額であり、それが表に出るのは、カネのないやつに貸し付けて、それで負け分支払わせて、後で回収できないから、ポリに駆けこむという構図がある。いつもニコニコ現金払いとは、正しい屁理屈なのだ。
 ところがいま麻雀ZOOへ行くと、千点50円の掛け金だと公言して、店内で現金のやり取りしている。それは平気なのだと。(馬なし箱てんで終了)。それはつまり3万点持ち、同額返しで、なくなると1500円の負けになる。それだけ。なんだか勝った人でも時給千円程度であり、負けても同じこと。このヤミレートが実は合法っぽいと店でいっているというのは、ZOOならば、信用店舗として、ポリが暗黙していると思われる。ならば、これを公開して、解禁しないのか。
 知り合いのポーカーカジノは、合法の健全店だが、ポリは目を光らせている。なのだが、3000円でチップ買って、テキサスを10人で囲んで、普通は飛んでおしまいになるのだが、勝って残ると、それを預ける。次に来た時に、半額の1500円をチャージ風に支払って、先の勝ち分を引き出して続きで遊ぶ。つまり勝つと次が半額になるというサービスなのだが、いくら勝ってもゼニにはならない。なった瞬間にパクられるという構図であり、夜も11時半以降営業していてもパクられると、店はポリと仲良くするが、やっていることは小学生のダイヤモンドゲームと一緒で、掛け金ゼロの大人のママゴト。それで面白いのかといえば、つまらないが国内の場合は仕方がない。儲けたいなら、近場で済州島、いやマカオ、香港、ラスベガスで賭けてくれと、そういうツアーも組んでいるが、これで大人の国か、呆れる。
 ギャモンにしてもゼロ。ゴルフで握るとバレたらパクられる。だから勝っても時給千円程度の金額を政府上が決めて、このゲームでいくら、このゲームでいくらとして、公開する。じゃないと横浜大阪でカジノ始めたいといっても、それはつじつまが合わない。
 政府だけが、パチンコ、ボート、馬、クジその他で寺銭儲けようと、それはいい加減に辞めろと思う。300円のクジの積み重ねで、3億円当たるなどは、気違い風だとは誰も思わないのか。
 例えば、忘年会新年会で、じゃんけんカジノをやると、これは多分合法だという屁理屈がある。一人500円を主催者が用意する。会合に会社50人が集まって、じゃんけんやって最後まで勝った一人が総額25000円をゲットする。
 それが賞金金額を、会社が社員に提供したという屁理屈が付くから合法になる。ところが、その場で一人500円続集めて、同じことをやるとパクられる。こんなのただのトンネル会社が合法で、直が違法という二枚舌。
 なぜなら、この新年会に会社は一人千円の会費だと集めた。食事は1万円ほど出ているが、9千円は会社の負担という。ところが、実は9500円でていて、残り500円は、先のじゃんけんカジノの掛け金にスルーしているだけなのだが、それを言わなければ、大丈夫というバカへ理屈をポリは信じる。
 こんなことで、1円でも賭けたらパクられるというバカ社会なのだから、いい加減に大人になれと大いに思う。
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少子化は国を滅亡させる~10年後には出生数30万人という、妊娠出産子育ては苦手科目だ

2023-12-31 08:37:38 | ブツブツ日記
 2023年に国内で生まれた日本人の子どもは、推計で72万6千人程度になることがわかった。国と同じ方法で朝日新聞が計算した。少子化に歯止めがかからない状況だ。
22年の確定数は77万759人で、それより5・8%程度減る見通しだ。22年は前年比5・0%(4万863人)減ったが、減少幅はさらに広がることになる。 

 この数年は「少子化」の問題が面白くてたまらない。この減少数を当てはめれば、10年後には出生30万人になる。世界ワーストの韓国の出生率が0・9。ニッポンはそれに続く1・2。ああ共に先日までは日本の領土だった。産めよ増やせよとわめいていたキチガイ軍部の時代から、よくも見事に国家消滅の直前まで激減していると呆れる。
そんな理屈よりも、わが身を思う。視力が弱まって体力も落ちて、2年前にはコロナで死にそうになった。別に~~いつ事故にあってもいいが、妻がいて、愚息を2人育てた39歳と37歳、その二人が元気で一人は結婚した。たまに会う。そんなくだらない当たり前のことが、過去に年配女性から聞いた「子供は人生の宝物」なんていう言葉を、ふと思い出した。この老体に、この事実がどうにも自信になる。妻との共通話題にもなる。
 こういう人生が、もしかして「間違っている」と今の時代は問うているような錯覚に陥る。今どき子育ては道徳の時間に説くのか。家庭科はケーキの作り方だけだし、保育科は消滅した。妊娠出産子育ては、苦手科目に過ぎないか。
 多くの少子化仮説の中で「恋愛ができない」層が3割いるというのは、何となく理解できる。かつてお見合いは適齢者に配偶者を与えたのである。ところが、それは自由恋愛を否定するという。
 女側の準備の話として、地方には昭和でも残っていたという二十三夜の「夜這いの下弦の月」文化は、きっと大いに役立ったはずである。青年男女が夜中に集まって明け方に寝る。あの坂本龍馬にしても、童貞が去った夜は、目的の女に行こうとしたとき「いい夜這いができますよ」とポン引きに誘われて応じたとなっている。夜這いとは、適齢期の娘に、その母親が幹事を通じて男を案内して、処女を終わらせる日だった。その裏に、将来適正な妊娠ができるように、男との夜を知らせる目的があった。誰かが保証する文武両道と、母が保証するわが娘との一夜限りの逢瀬。世間に男根を本尊とする奇妙な神社が、案外数多く存在するのだが(日光の金精神社とか=ああ男の精液とは金貨だったか)、さらに子宝の混浴温泉まで(群馬の宝川とか)そこまでしても、我が子が妊娠するのは大事なことだった。カトリックはそれを強烈に支持するし、徳川その他は妾にいくらでも産ませた。
 ところがこれをすべて「女性の自由を奪う」と戦後のニッポン教育は否定した。そうですか、ならば刑事犯罪の自由とか、殺人も、自殺の自由もあるんですかという理屈になる。ゆとり教育になってからは、あらゆるプレッシャーやノルマ、課題、規制を取り除いた。今では文科省でも教育の現場教師までも、そのゆるさを歓迎する。
 スウェーデン育ちの女優・川上麻衣子は、小1からエロビデオを見せられたと大笑いする。少子化対策には、週刊大衆のグラビアが必要で、「ハウトゥセックス」じゃないかと思う。これだけラブホテル世界一の林立国家なのに、少子化ワーストというのも、極端なねじれでしかない。において、ニッポン女子は、多分世界一のミニスカート国家じゃないかとも思う。戦争が流行ると女性はミニを履くとは言われるが、ロシアとイスラエルのせいだけとは思えん。
 ここまで落ち込んだなら、一人っ子政策をした中国の反対をやるしかないだろうね。政府の兆円単位のばらまきよりも、一人出産したら1千万円、プラス毎月10万円の子育て支援の18年間継続。独身者には、年間120万円の増税して、それを支援に回すとか。こうして出生100万人を維持させるのはどうか。でもないと、将来中国インドから、50万人単位で、赤ん坊を輸入買い付けしなくてはならない。

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世界遺産の富士山で、平然と遭難できてしまう、平和

2023-12-30 17:23:40 | ブツブツ日記

2023年12月30日、富士山で40代の男性から警察に救助要請があり、静岡県警の山岳遭難救助隊が、救助要請に向かっています。~~彼は一人、動けない~~

 警察に彼が怒られる姿が思い浮かびます。富士は7,8月以外年間10ヶ月は登山禁止。どの登山口にも「立ち入り禁止」の物々しいバリケード。お前らは(ポリ行政)は、過激派かといつも思いますよ。理由は複雑にいろいろあるらしいが、とにかく県警も行政もこれを実行する。
 だが、今どき明後日は元旦であり「初日の出」拝む文化は江戸から昭和にはあったんですね。それを今県警に聞くと「ある場合は黙認」というふざけた回答するわけですね。朝日新聞などは、数年前までは、連中も一緒に登山して「初日の出」と大きく元旦記事を掲載してましたね、お笑いですよ、お前らの二枚舌。
 今はこれも少なくなったようで、禁止はかなり強制的。
 そうなんです、今どきの富士登山者は犯人であり刑事事件対象になっていて、だったら、ポリが人前で偉そうに講釈垂れる前に「裁判所に起訴するから刑事罰受けるように」。一言これを実行すればいいだけなんだけどね。罰金の100万円か、禁固の15日か、くらいが相当だと私も思っているんですが。
 が、無理なんです。あの山はある意味で裏金つくりの財産でもあって、山梨県は何の意味もなくて、老人アホ行政なのか、登山電車を5合目まで敷きたい。スバルラインを利用して。それはスイスの山岳鉄道を模倣するという、まったくの猿知恵ですね。地元富士吉田市などは、大反対。つまり行政ごときも、縄張り争いばかりしている、右側の百姓(山梨県)と、川向こうの百姓(富士吉田市とか地元)の喧嘩レベルで、大笑いなんですね。
 その上、自衛隊の演習場は「富士山を崩している」というように、実弾射撃やヘリの訓練は、山に向かって年中やってますから、紅葉時期に麓で散策やっていると(これは山頂目指していないからOKですよ)。実弾とか、ヘリの騒音で、とても世界の文化財とは思えない。これで世界遺産というのだから、ユネスコもインフレたし、富士周辺の縄張り争いも、極端でもう散々。ああ御殿場市は、秋に自転車レースすると、1年前から大宣伝大勢かき集めた割には、「落ち葉が回収できなくて、中止」なんて、ほんの2か月前に醜態さらしてましたね。ウソでも無理ででっち上げでも、「富士」の名をつけてイベントやりたい。今日は女子マラソンやってました。
 夏の間はオーバー登山者だというなら、入山料1万円で、ひと夏5万人までと制限して、チケット持ってない人入山禁止。こんな簡単なことができませんよ。それを口先ばっかでノロノロやっているから、休憩先なしで(あの山で汚い山小屋に予約取るなんて不可能、旅行会社に買い占められているでしょう)、寝袋持って、野宿しながら登るなんて、男らしいと本当は褒めたいですよ、山の基本ですからね。ただ、富士だけはそれも辞めろと、県警が大騒ぎするから、もうあそこははっきりダメな山です。遺産として共通認識で保全維持する気持ちがなくて、地元のバカたちが縄張り争いしているだけの、ああ、ニッポン人の素性がよく分かる。
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瀬古利彦は箱根駅伝で4年連続花の2区、11位、2位、1位、1位で区間記録ぶっ飛んでいた~一体彼は何を考えて箱根を走ったか(1977年~80年大会)

2023-12-29 02:01:47 | ブツブツ日記

 あの当時、箱根駅伝のテレビ中継はなかった。ファンの関心も相当に薄かった。中継されたのは、82年からとされる。瀬古と同世代の私にしても、瀬古の記憶は、いつもマラソンで勝ってばかりいる選手。瀬古は早稲田大学1年からマラソンを走っていた。大学2年でも走っていたが、まだ勝て(優勝)なかった。瀬古がマラソンで初優勝したのは、大学3年の福岡国際。その彼は、ソウル五輪の32歳までマラソンを走るのだが、生涯のマラソン記録は、15戦して10勝(優勝)。凄まじいマラソンの成功率。しかし結論から言えば、失敗した(2位以下)5敗とは、先の大学1,2年と、ロス、ソウル五輪と、あと一つだけ。つまり福岡国際とか、後の自己記録のシカゴとか、ボストンとか、びわ湖などは、全部優勝した。今でいえば、大谷翔平か藤井聡太である。ドジャースに入って、ワールドシリーズを狙う大谷翔平に「日本シリーズで優勝する(16年)秘訣は何ですか」と聞くような愚問は、瀬古利彦に「キミの箱根駅伝の記憶は何ですか」と問うのと同じこと。だがしかし、昨今の箱根ブームの中では、早稲田の花の2区として、4年連続走った瀬古の意気込みとは何だったのかと、改めて思う。
 そもそも箱根駅伝などは、マイナーな大学生の部活の記録会として、大正年代にスタートしたようだ。当時は大正デモクラシー。高校野球の甲子園も同じ頃にスタートした。共に100周年を経過した。それは、帝政ロシアが革命後にソ連になった頃で、世界の赤化(共産化)ブームとは、当時は理想社会を生み出すという、バブル時代でもあったらしい。
 でもまだラジオ放送すらない時代で、どこに箱根が世間に知られようか。それが少しずつ時代に即すようになって、テレビ中継は瀬古が早大を卒業した3年後から。それでも二日に渡る長距離駅伝はマイナーであり、大東大や東洋大が活躍するようになって、青学に原監督が出現し、5区の山の神が三世代に渡って登場し、ブームになってきた。今は駒沢や青学の学校応援もさることながら、一人の学生選手の一挙手一投足まで関心が及ぶようになった。であるからの、瀬古時代の再訪になる。
 瀬古の早稲田入学には、不可解さがあった。それは同年代の野球江川卓の慶応不合格から法政入学、さらに巨人入団と似たようなものだと記憶する。
 当時の早稲田競争部は箱根に予選落ちするほどに成り下がっていたらしく、乞われるように受験した。あの頃は、早稲田にスポーツ推薦は公式に存在しなかったとされ、ところが瀬古に声を掛けた早稲田OBの陸連幹部と、受験処理をした大学の手違いだろう、瀬古は不合格となり、だからと言って中大からの推薦はすでに断っていた。高校時代にインターハイで優勝していた将来有望な選手が、一浪するという、人生の間違い。OBはメンツを保つために、瀬古に海外留学を指示した。それは南カリフォルニア大学であり、後に安倍晋三も留学した大学になった。ところがこの留学が瀬古の失敗で、体重が10キロ増えたというのは、知られた。
 今の瀬古は、当時をこう振り返った。
「何人かの陸上選手と一緒に留学しましたが、それは名ばかりの隠れ生活で、ホームシックで泣いてばかりいたんですよ。だから練習も満足にできない、体重が増える。金髪女性に妙な関心ばかり湧いてくる。名目は語学留学でしたが、その取得はダメ。ボロボロの1年間を過ごして、翌年早稲田に入りました」
 その早稲田で出会ったのが中村清監督になる。中村はベルリン五輪に出場したし、早大時代は箱根も走った。その後軍人になって、招集された。「オレは人を何人も殺した」と当時は喝破していた。「戦地から引き揚げたときに、まあうまくやったよ」とも。その中村の先見の明とは言うが、入学した瀬古をいきなりマラソン選手として育て始めた。一方瀬古自身は、明確には語らないが「この人の言うことを聞かないと、自分の人生が終わる」という自己規制を課した。それはドラフト外からレギュラーを取る姿勢に見えた。中村は「散髪は瀬古カット、外食禁止、恋愛禁止」その他、いくらでも監視した。
 中村の自宅は絵画館に近い石垣の上の屋敷、今はもうないだろう。その二階に6畳一間がずらーと並んでいた。トイレは共同、風呂はなし。彼らの練習が終わった後に付いていったことがあったが、大部屋玄関のような様相で、そこに乱雑にマラソンシューズが脱ぎ捨てられ、瀬古の他に、ワキウリも、佐々木七恵も、学生下宿の生活をしていた。少しすると「キミは誰だ」と怒ったのは中村。他の選手は他人に文句を言うことすらしない。ちょっと見に来たと逃げ出したが、ああ懐かしい。
 瀬古は大学4年間と、その後の5年間の9年間、従属した修行僧のような生活をそこで強いられた。その間に、先のマラソンの世界的な栄光を獲得する代わりに、一度もその従属から逃げ出さなかった。
 瀬古は長距離走がどれくらい好きだったのだろうか。瀬古は楽しく走ったと言ったことがない。言うのは修行僧という言葉。仮に楽しくなかったとしても、走れば箱根の区間新、走れば福岡国際での優勝。栄光が付いてくれば、その練習も苦ではなくなるし、拒否する理由はない。好きでなくても、堪えられるという理屈になる。営業成績のいい社員は、ごますりなどは嫌いだが、でも耐えられるし、成果が励みになる。
 逆を言えば、川内優輝こそは、狂ったような「走り屋」であり、マラソンは好きそうだと理解するしかない。瀬古の対岸のように見えるのだが、その瀬古は今では一番好きなランナーが川内優輝だともいうのだ。
「スターなんですよ。マラソンにスター選手がいないとダメなんですね。私もスターだった。ライバルの宗兄弟も。今は川内優輝と大迫傑がそうだ。ファンの記憶に残る選手を育てないと」
 スター選手がいないとうのは、どうやら五輪の金メダリストが生まれていないのもその一つなのだが、何度もマラソンで優勝できる選手がいない(せめて連続優勝くらい)。例えば箱根のスター(山の神)が、卒業後のマラソンで活躍できていない。一発屋では記憶に残らない。
「何もケニア勢に勝てとは言っていません。視聴者の記憶に残るような走りができていないということ」
 と今の瀬古は話す。その裏付けは、瀬古の過去の栄光はもちろん。さらに今のマラソンシューズと、今の練習環境が当時あれば、瀬古自身のマラソンベストの2時間8分台から、
「3分は速く走れた自信がありますね」
 という達観した自信。2時間5分台は世界記録には4分遅かったとしても、日本記録になる。今は三枚目キャラの瀬古が、盛った話をお喋りするのは、これが理由なのだ。
 瀬古の箱根は、1,2年はさほどでもなかったようだが、3,4年はその花の2区で区間新を連発した。1時間12分、1時間11分(当時の距離と記録)。しかも今では2区の区間賞とは、後続(2位)と、秒差、最大でも1分差でしかないのに、瀬古はその2回とも区間3分差でタスキをつないだ。当時の記録を検索しても、卒倒するほどのぶっちぎり。そのトップでタスキを渡した爽快感はと聞いても、
「それは僕の仕事の一つであるだけ。その後抜かれて、早稲田が優勝できないのも、しかるべき理由がありますから」
 まあ仕方がないというわけだ。優勝は日体大とか順天堂。何故なら頭の8割はマラソンにあって、2割が箱根駅伝に過ぎないとう、当時の人生観によるらしい。
 早稲田は、瀬古が入学する前年は予選会で敗退。本戦に出場できなかった。以前の遠い過去には、優勝経験がいくらあっても、100年の歴史の中では、どの大学も衰勢の過去を持つ。だからこそ「瀬古を見習え、瀬古のように走れ」と部員は言われていたが、さて理解できていたかどうか。早稲田は瀬古が卒業した4年後、ついに30年ぶりに箱根で総合優勝した。それは瀬古が在籍した成果が、そこで現れることになった。瀬古にとっての箱根は、この時にこそ使命が完結して「自分がいた時代よりも、ずっと嬉しかった」と話す。
 瀬古にとっての箱根駅伝は、あまりに簡単だったという話になる。それは、持って生まれた素質があり、さらに修行僧の生活に堪えられたことが、その理由になるとしか思えない。
 大学4年(79年)の12月、それは最後の箱根のひと月前の話になるが、その福岡国際は、翌年のモスクワ五輪(日本はボイコットした)の選考会でもあった。15戦したマラソンの中で、瀬古が最も記憶に残すレースはこの時だった。レースは40キロまで、瀬古と宗兄弟の三つ巴だった。ところがスパートした二人に、瀬古は引き離された。瀬古が振り返る。
「ダメだと思いましたよ。でも諦めたらいけないというのが、中村先生の教え。何とか追随していくと、宗兄弟が近づいてきた。おっ、追いつけるかと競技場に入った。ラストスパートならば、自身がある(高校時代は中距離トラックレーサーだった)。そこでようやく追い付いて、最後、まくって優勝したレースでした」
 優勝した瀬古と、2位、3位、宗兄弟が、五輪出場資格を得た。と同時に、このレースこそが、瀬古と宗兄弟の人生の分岐にもなっている。負けた宗兄弟は、高卒からのたたき上げランナーであり、今でもその旭化成の指導者の立場で、後進の指導と、実業団のニューイヤー駅伝での成果に生涯を捧げている。他方瀬古は、一時はエスビーで活躍したが、その後、陸連副会長まで上り詰めた。長嶋茂雄のようなスター性を発揮した。宗兄弟はノムさんのように、マラソン界の月見草になった。
 だが瀬古を見ていると、あのチャランポランさが、時には間抜けに見えるし、それが魅力にもなっている。今でも不参加だった80年のモスクワの恨めしい話をする。当時24歳だった。最速ランナーの適齢期だっただろとは思うが、その悔いを平然としゃべる。ならばアメリカに追随してボイコットした日本政府を批判すればよさそうに、それは全くない。それなら、柔道の山下も宗兄弟も同じである。山下はその4年後、84年のロス五輪で金メダルを獲得して、柔道連盟やJOCのトップまで登りつめた。宗兄弟も瀬古とその五輪に出場して、失敗した瀬古よりも上位で完走した。ついでにいえば、レスリングの富山英明も金メダルを獲得して、協会トップまでのぼった。その瀬古は、よくいえば今の大谷翔平のような騒がれ方をして、平静でいられない時期を過ごしただろうが、ゴルファー尾崎将司が一度として海外で勝てなかったように、瀬古もまた内弁慶でしかなかったかと思う。あの一浪した時代に、在米生活に適応できなくて、「毎日泣いていた、ホームシック」というのは、さらに4年後のソウル五輪で失敗した理由でもあろう(シカゴやボストン、ロンドンでは勝っているが)。
 ちなみにレスリングの富山英明は、自由主義がまん延したそのロス五輪で、応じた日本選手団も、楽しい開会式閉会式を実践し始めたときに、入場行進中に、ポケットカメラでスナップ写真を撮ったことが、JOCでけしからんと罰則通達された(日本選手は、整列して行進しなければならない)。に対してレスリング協会の会長福田は、すでに五輪開催されているのに、日本に滞在したままで現地にもいかない瀬古(マラソンは最終日)が無罪なのはどうしてだと。
 灼熱の現地よりも、日本に滞在して、レースの数日前に現地に入る方がコンディションを作れると、チーム中村は考えていた。今となって瀬古は、
「いや実際は現地の方がずっと快適でした。蒸し暑い日本よりも、現地は湿度が低い。そのコンディション作りにも失敗した」
と思い返す。そうした参加方法は、中村の構想に無理や勘違いがあったということだろう。またこれがすべて事実ならば、なお、へ理屈を一発かましたい。すでに女子マラソン(佐々木七恵)の監督として現地に入っていた中村清は、国際電話をしても、その快適空間へ瀬古を呼び寄せればよかったのに。子細な行き違いはいくらでもあったろうか。
 レースの中継にしてもそうだ。箱根駅伝の難所といえば、海岸線から標高800mまで駆け上がる5区に決まっているのだが、解説の瀬古は自身が4回も走った2区の権太坂(横浜戸塚)を「2区の壁」と平然と言う。まあ大手町から1区、2区と平地ばかり走る中で、あの坂は標高60mまで駆け上がるわけで、トラックランナーにすれば驚きかも知れないが、高々箱根の10分の1以下。それを「壁」と言われても視聴者は戸惑う。平気な身びいきなのだ。
 中村清との9年間の蜜月を経て、30歳直前の瀬古は、結婚しないと一人前の人間になれないという、昭和の正当な理屈で、お見合いをしていた。どうやら恋愛禁止令も雪解けしていた。同時に中村にしても、瀬古のお見合い宣言をして、全国から釣り書き(女性からのお見合い写真)を応募して一週間に300通集めたと豪語した。その行き違いはあったが、五輪後に結婚した。瀬古は、
「その一度きりのお見合いでも、私は練習ジャージーのまま行きましたね。派手な格好はするなという教えの元、普段着ですから。それが今も女房ですよ」
 翌年の結婚式までのわずかな期間に、中村は休日の渓流釣りで不徳にも足を滑らせて事故死した。享年71歳。あれだけ老兵といい騒ぎを起こしたのに、若かったんだあと改めて思う。神宮外苑の絵画館の周回道路に仁王立ちして、マスコミを蹴散らかして、選手に説教垂れていたのは、60代半ばだったか。
 実は制限された取材時間の中で、瀬古に聞き忘れたことが二つだけあった。一つは、明らかに日本政府いや、日本行政の汚点だと思うのだが、どうして日本は五輪種目に「駅伝」をブレゼンした過去がないのかということ。ソウル五輪ではテコンドーが競技になった。ロス五輪では、いい加減に辞めろと今でも言われているのに、野球を新競技にした。どこぞはサーフィンだったし、昨今はスケボーのそれもつまらない隙間産業を種目とした。だったら世界の格闘技「相撲レスリング」だって、種目になっただろう。しかしどうせ、答えは知れている。そんなの無理ですよ。日本はすべてを無理にした。
 もう一つは、当時ワキウリ(彼は、世界陸上のマラソンで、後に優勝した)は、走らずに、鉄アレイを持たされて速歩だけをやらされていた。見た目に大いに違和感があった。しかし多分に、走る価値がないと思われていた。中村は当時「駄馬」といわれた佐々木七恵をエスビーに迎え入れていた。それをほんの1年でロス五輪の新種目「女子マラソン」の選手に仕立て上げた。彼女は、その大会で、国賊とまで言われた増田明美(マラソン解説者)は、なんと途中棄権してしまったが、しっかり完走して日本初代の五輪女子マラソン完走者になった(まもなく自衛隊員と結婚引退、早逝した)。中村学校は、駄馬のマラソンフォームまでも、理想的に改造できた。同じように、どうせ助っ人ケニアのワキウリもそれに違いない(今の女子大学駅伝などは、みんなゴリラ走りで見るに堪えない)。あの学校はそこまで徹底した。そこの従属生徒の瀬古は、優等生で卒業したのだろうが、やはり何かが足りないのだ、クリエイティブさに欠けた。それは日本の失われた30年と言わるように、世界にとは言わないが、第三者へのアピールそのものが、やはり足りないまま現在に至る。
 瀬古がそれだけのランナーなら、花の2区で後続を10分ぶっちぎれば、20分ぶっ飛べばと妄想するならば、それは馬鹿話にしかならない。ただ、弱小早稲田で鼻にもひっかけない集団に、たった一人だけ場違いのようなぶっちぎりの瀬古利彦がいて、気の狂ったような独走をした。しかし成果はチームには反映されなかったし、瀬古本人も、それは「悔しくもない、チームの現状でしたから」と、案外冷めていた、角刈り瀬古カットの修行僧のような青年がそこにいたという、寓話のような過去を瀬古は持っていた。
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