一家は満州から九州福岡に引き上げてきた。白水の記憶では、弟が父親のリュックの上に肩車されて、長男の彼は母親に手を引かれて、接岸していた大きな引き上げ船を前に、それに乗るところか降りるのか、雑踏の中に紛れていた記憶しかない。敗戦の昭和20年のこと、その3年前に彼は生まれていた。引き揚げてからさらに5人の弟たちに恵まれて、彼は7人兄弟の長男になった。
両親は満蒙開拓団として日中戦争のさなかに現地に渡ったが、夢は破れた。後に母親からは「政府の言うことなんか、信じるんじゃないよ」と言われたこともあった。満州に渡る前には、父親は土地持ち農家の長男だったが、引き上げてきた頃には、その家督も兄弟に取って代わられた。
運動神経はよかった。進学した県立の福岡農業高校は、現在創立146年の名門で、陸上部も充実していた。1950年に開始された全国高校駅伝では、53年、54年の大会で連覇している。主催の毎日新聞の、この大会の担当は運動部長の南部忠平。そう1932年のロサンゼルス五輪では、三段跳びで金メダル。のちには幅跳びの世界記録も打ち出した日本人選手で、早大からミズノ、その後毎日新聞社に入った。運動は大企業のみならず、マスコミにも就職できたし、彼は後の東京五輪の陸上競技監督にもなった。すでに始まっていた箱根駅伝が読売新聞という、当時は弱小新聞社のイベントなら、老舗新聞は高校駅伝をスタートさせていたということになる。
ところが白水はこの高校を中退した。現在は群馬県に居住するが、その頃を思い出して話を聞かせてくれた。
「家が貧しかったですね。高校の授業料が払えないと、学校を辞めて稼業を手伝ったりしていて。ある日新聞広告で「陸上部員求む」の求人広告を見つけたわけです。それが採用の条件というなら、就職することができる。応募すると合格したんですね。今となれば奇妙な話ですが、その時19歳でした。そこが「リッカーミシン」という、ミシンの会社でした」
1942年(昭和17年)生まれだから、1962年の話だ。前回の東京五輪は1964年(昭和39)年のことだから、その2年前のことになる。
リッカーミシンというのは、戦後の混とんとした時代に、バブルのように花開いたミシンという単品の会社だった。平木信二(1910~1971)という気の利いたワンマンタイプの創業者は、30代の頃にすでに財を築いていたといわれる。経歴は、京都大学を卒業して、会計士の仕事ですでに成功し、東京で起業した。
履歴によれば、1939年に日本殖産という食品加工の会社。43年には理化学工業という化学会社。「リッカーミシン」は、戦後の49年に社名変更して事業スタートとなっている。その経過というのも、前年に先行の帝国ミシンが会社分裂したことを機に、吸収したことがきっかけらしのだが。
当時、リッカーと取引のあった、東京神楽坂の工務店の倉さんは、思い出しながら話す。
「昭和の嫁入り道具の三種の神器とうなら、冷蔵庫に洗濯機に白黒テレビ……という話になるけど、ミシンというのは、それ以前からの道具だったんでしょうねえ。
先代の平木さんはミシンの技術者じゃなくて、明らかに計数管理のできるインテリタイプの経営者でしたよ。あの頃は全国のすべての大都市の駅前に、リッカーミシンの販売店を開店させて、その2階には「ミシン教室」を開いて、若い女性たちの、いわばカルチャーを育てていましたね。その後の、音楽教室と同じですよ。
その2階建てはどこも同じ設計図だから、今でいうコンビニの店舗。視察した先々で、取得した駅前の土地に、私の父親はその建築注文を受けました。
商売のうまさは、就職したばかりの十代の女性に「毎月500円ずつ貯金しましょう」と。すると数年後の結婚するときに、ミシンを嫁入り道具として購入できる。平木さんは、戦後の景気のよさを見越して、500円の積立預金が数年でどんどん利息が付くことに目を付けたという点では、後の丸井デパートの月賦(クレジット)販売よりも早かったんじゃないかなあ。それが若い娘さんを呼び込んで、あっという間に日本中を席巻したんですよ」
と話す。
創業5年で会社は10倍規模になり、同時に借入金も膨大で、借金のツケは上場企業の中でもダントツとなった。不渡り手形も出した。当時は「東映、三共、リッカー」は借金の三羽烏といわれたそうだ。一時は不安定な経営。それを乗り切ると、次にはあっという間に全国展開して、社員も7000人規模にまで拡大した。
平木がまだ40代の頃に、倉さんの父親は頼まれた。
「どこか東京で一等地を見つけて、俺に住まいを建ててくれよという注文のようでしたね。それで目黒区の一等地にお屋敷を建てましたよ。それから彼は20年くらい住んだのかな。亡くなると、そこは整理されて、敷地は野球の王貞治さんが取得しました。今でもそうだと思いますよ」
リッカーという社名の響きは、私はどうにも好きだ。ところが命名は、都下立川市に本社を起こした理由で、それを音読みすれば「リッ川」。諸説あるなかで、これを信ずる人が多い。倉さんもそうだ。高をくくってシャレがきつい。
しかもリッカーは、白水が就職する頃には、野球部もあった。陸上部には短距離選手もフィールド選手もいた。陸上部は、その2年後の前回の東京五輪には、9人もの選手を派遣したことになった。当時の陸上部監督は、暁の超特急と言われた1936年、ベルリン五輪選手の短距離選手の吉岡隆徳(東京教育大卒=今の筑波大)。女子ハードルの依田郁子も所属した。ある意味で、平木は東京五輪に向けて、自社の実業団チーム創設に大勝負をかけていたのではないかと思える。「暁の超特急」はその頃、広島で教職に就いていたようだが、それを「東京五輪」の名目でリッカーの監督に引っ張っていた。
五輪の話をもう少し続けるが、ニッポンの「五輪」崇拝は、幕末の「黒船襲来」の反動で、それは「攘夷運動」という、外人排斥が始まったことの、裏返しだったかと思う。
知られるように、ニッポンには、戦前の1940年(昭和15年)に幻となった、東京五輪の開催権利を持っていた。これにしても、その招致活動は11年前からスタートして、3年後に立候補して、7年後に開催が決まったものの、軍部は日中戦争をやらかしてしまって、応じるように政府は9年後に「大会返上」するという、大失態を演じることになった。
つまり戦前の最後の五輪は、先のベルリン五輪で、ここに吉岡隆徳と、もう一人後のエスビー監督で瀬古利彦を育てた、中村清も早大の学生ながら出場していたのは、後の因縁にもなる。
そして敗戦無条件降伏してからは、マッカーサー進駐軍に7年間も占領され、東京裁判も、戦犯の処刑も財閥解体もしたが、サンフランシスコの講和条約で独立(1952年)開放されると、なんとその翌週辺りには、1964年(昭和39年)に開催された東京五輪の招致活動をすぐに始めたという経緯がある。まるで昭和のニッポンは、本当は「五輪」をやりたかったのに、間違えて「日中戦争~太平洋戦争」に突入したのかと思うほどなのだ。
その憧れの東京五輪開催のために、「国家の威信をかけた」と一言で済ますが、開催に合わせて東海道新幹線を建設したことも、東京に首都高速道路網を整備(60年後の現在でも、それから少し整備が進展した程度)したことも、他にいくらでもあったはずなのだが、リッカーや、そのライバルの東急に実業団選手を揃えさせることなどは、そう難しいことではなかったろうとも思う。
白水の入社の頃には、すでにリッカーは黄金期を迎えていた。吉岡隆徳の中大人脈からだろうか、中大の箱根駅伝組を続々入社させていた。その中大とは、50年代には10年間で6回優勝し、その後60年代にかけては、さらに6連覇した。彼らはごっそりリッカーに入社していた。
「ニューイヤー駅伝」、いや当時はまだ実業団駅伝と称されて、レースは三重県の伊勢周辺で行われていた。1957年(昭和33年)の3月に第1回大会は開催されたが、リッカーは翌年の第2回大会に初参加して初優勝。参加は15チーム、83キロの駅伝競走だったと記録に残る。この年から5年間(58年~61年)には3回優勝して準優勝が1回。出場すれば優勝に絡んだ。すでにこれこそが「リッカーの黄金期」であったようだ。
その中心メンバーに布上正之(1934年~2023年)がいた。やはり中大の箱根メンバーの一人である。同年代には内川義高もいる。彼はびわ湖マラソンでも優勝し、戦後日本が初参加したヘルシンキ五輪(1952年)にも出場した。
その布上が福岡支店の責任者になっていた。九州でミシン会社の支店を作って、そこで社員兼陸上選手を募集すれば、一挙両得になる。アイデアというのか、思いつきなのか、成長企業とはそんなことも平気でやっていた。この日本代表クラスで五輪選手がゴロゴロいる組織に、長距離が少し得意な19歳の少年が混ざってしまったのである。
白水は話を続ける。
「私の仕事というのは、そのミシンの訪問販売でしたね。農家の子供が「ミシン買ってください」といっても、はいそうですねとは言われません。でもミシンは嫁入り前のお嬢さんたちには必要なものでした。20人くらいの営業部員がその福岡支店にはいましたかね。そして仕事が終われば長距離の練習。しかし私としては、就職できたということと、給料がもらえる。走ってさえいればそれでも十分。辞めたら他にやることがないでしょう。
2年目くらいになると、布上さんから、
「ちゃんと基礎体力をつけなさい」
と倉庫部門に異動になった。部品や運びや荷物の整理で、肉体労働でしたかね。他にミシンの足踏み部分(足踏みミシン)の機械組み立て。そんな汗かき仕事をやりながら、体も少し筋肉質になってきたものでした。
福岡の地元でクロカン大会がありました。出場してみろということで走ると、ここで意外にも優勝できたのですよ。自分でも嬉しかったですねえ。これがきっかけで、陸上部としても準部員扱いだった私は、晴れて部員に昇格できたようなことに。それにしても、あっという間の3年ほどが過ぎましたね」
64年の東京五輪が迫ってきた。福岡支店は閉鎖することになった。一つには、東京五輪に9人もの選手を送り込んだリッカーとしては、陸連に対しても、一つの義理が果たせたという理由にもなろうか。他にも理由はある。
「準社員扱いの私に、辞めるか、東京に移って陸上部を続けるかの選択がきましたね。私としてはもちろん継続したい。先のクロカンの成果もあって、東京採用になって、社員待遇を受けることになりました。
東京五輪はあの年(1964年)の10月10日(旧体育の日)に開会式がありましたが、私はその10月1日に東京採用。なんだか縁起のいい年になりましたね。ただ五輪そのものは、テレビ観戦とうことでしたが」
と今でも笑う。(続く