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NO3 ニューイヤー(実業団)駅伝を3回制覇した優勝請負人の白水昭興(しろうず・てるおき=82) リッカー後期の黄金時代と瀬古利彦を語る

2024-03-25 13:14:27 | ブツブツ日記
 リッカー後期には「ニューイヤー」を優勝にまで導くことはできなかったが、3年連続3位(79年~81年)という妙な偉業を達成したこともあった。その時に3年連続で優勝したのは、憎き「旭化成」であったのも、また因縁でもある。旭化成は「ニューイヤー」を通じて、通算25回優勝したというモンスターである。2位につけるのが、コニカミノルタの8回。続いてトヨタ、鐘紡、エスビーの4回。3回優勝とは、このリッカー、新日鉄、富士通である。


 監督時代の白水昭興 レース後のインタビューから

 リッカーでマネジャーになった白水は、選手勧誘に熱心になった。マネジャーとして、初リクルートした選手は、瀬古世代に当たる、農大卒の岩瀬哲治だった。4年連続箱根経験があった。彼はリッカーに入社して、29歳のときにびわ湖毎日マラソンで優勝(84年)した。現役引退後には、母校農大陸上部監督にまでなった。白水には岩瀬の記憶も強い。
「思い出すとね、84年の「びわ湖」というのは、瀬古が出場したあのロス五輪(84年)選考レースの一つでもありました。あの頃は福岡と、びわ湖と、別府大分が3大マラソンと言われて、優勝することに大いに価値があった。しかもびわ湖は、五輪の選考レースに指定されていた。なのに、瀬古と宗兄弟が五輪に派遣されたのはいいとしても、その陸連の選考会では、岩瀬の優勝は「議題にもでなかった」と後から聞きましたね。それは優勝した本人はもちろん、私にとっても憤慨ものですよ。
 私にとっての五輪候補の第一号は、間違いなく岩瀬なのですよ」

 岩瀬に続いて、
「学生時代に箱根の2区で、瀬古を抜いた」と話題になった選手がいた。法政大の成田道彦。「法政が初めて、箱根の2区をトップで疾走した」と言われたのは、78年1月の箱根駅伝の話だ。この成田もリッカーに入社した。
 細かい話をするなら、瀬古とは同年生まれの二人ではあったが、早生まれの成田は瀬古の一学年上。さらに瀬古は早大入試で一浪していたために、成田が4年の時に、瀬古は早大2年だった。浪人中に10キロデブになった瀬古は、大学1年ではボロボロ。但し2年から復活したものの、箱根前月(77年12月)の福岡国際マラソンも走って(5位)いた。その翌月に「箱根」を走る。それで成田に負けて2位。瀬古にとっては仕方がないのだが、しかし勝った者にとっては「瀬古を負かした」と、本人以上に「陸上界」では話題になった。瀬古は学生時代から、包囲網のなかで、誰ものターゲットになった。50年の一人の逸材の宿命でもある。その成田がリッカーに入った。

「彼は「箱根」の直前、法政4年の12月に、立川にきてリッカーの年末合宿に参加しているんです。走れる者にとっては、学生仲間と走るよりも、社会人チームに参加して、もまれてみたいわけですよね。インターバルにしても、長距離にしても、社会人は本気でガツガツ走っている。大学に戻ればNO1であっても、こちらではそうはいかない。参加できるとなれば、喜んで参加するものですよ。走れる選手というのは、そういうものです。
 その翌月に、箱根の瀬古との対決に彼は「勝った」。大きな自信と、一つの「夢の完成」ですよね。
 彼はその後、トラック選手として、3000m障害で活躍しましたね。それは布上正之さんの影響もあるでしょう。私にすれば「3000m障害」というのは、ちょっと危険な感じがしていました。障害や水濠を超えるのに、転倒や衝突がある。集団のままハードル超えるのですから、視界も遮られて怖いですよ。でもアフリカ勢にすれば、それがクロカンの障害と一緒で「だから勝てる」というわけですね。確か布上さんも、衝突してひざ関節悪くしていたと思いますね。
 言い方はよくないですが「隙間産業」という種目。5000mや1万メートルで勝てるなら、それをやりたい。でもダメならば3000m障害にチャンスがあるかも知れないという考え方ですね。「駅伝メンバー」を強化したいのですが、個人として障害をやりたいとうなら、会社としても認めていましたね」

 工藤一良に出会ったのもその頃だった。青森県三戸の高校生。珍しくも就職希望だという。当時リッカーのライバルのエスビーなどは、大卒の箱根OBがターゲット。高校生で見込みがある選手が、就職志望というなら白水にもチャンスがある。
「親御さんに会ったり、何度も青森に足を運びましたね。彼は入社してまもなく、19歳で熊本日日30キロという老舗のレースがあるんですが、そこで優勝(1981年)しました。
「マラソンでも行けるんじゃないかな」
 と周囲は思うわけです。およその企業チームで優先するのは「駅伝」。「マラソンは余力があれば」なんていう判断でしたからね。ところが翌年20歳で「びわ湖毎日マラソン」(82年)に挑戦すると、予想外にも2位。優勝したのは新日鉄の選手。新人にとっては、凄い結果でしたね。
 と当時に、その頃から思ったものですが、何故九州の選手に勝てないのか。日本の長距離の実情というのは、間違いなく「西高東低」。旭化成はもちろん、新日鉄、神戸製鋼、その後東洋工業(マツダ)という時代もありました。
瀬古の現役時代にも重なりますが、その頃から陸連の高橋進さんなどは「ニュージーランドの長距離練習法」として「リディアード方式」など取り入れて「ニュージーランド合宿」などを組んでいました。「ロングスロー・ディスタンス」という言い方で持てはやされたときもありましたね。平たく言えば「長距離の走り込み」。中には800mの中距離選手にも、マラソンの距離を経験させた方がいいとも言っていました。長い距離の経験が、中距離にも跳ね返るとね」

 マラソン練習に限れば、古い時代には人間機関車といわれた「ザトペック選手(52年ヘルシンキ五輪)」の「インターバルトレーニング」が持てはやされた。それは400mを1分(通常のマラソンでは72秒)で走る。少し休んでまた走る、何度も何度も。それは中距離選手相当の強い負荷を繰り返すことで、マラソン選手を鍛えるというやり方である。
 私は、その程度の質問を白水にしたが、「釈迦に説法」の大笑いだった。
「それ(400m走)を70本とか100本とか繰り返すメニューもありますよ。100本繰り返せば4万メートルで、マラソンの距離でしょ。
要は目標を設定して、それに基づく計画(メニュー)を立てて、それを自分で理解して、どこまで実行できるかということですね。但し直前になったら、やりすぎるな!。こういう基本が理解できているかどうかということですね。
 それでも当時マラソン練習では一般に30キロ走くらいが目途で、月間でも600~700キロくらいでしたね。それを「リディアード」では、練習でもフルマラソン。月間でも1000キロくらいまで走り込めというわけです。スピードは若干落ちたとしてもね。
 そういうことを、例えば旭化成(宗兄弟監督)でも、あるいはエスビーの瀬古選手でも、やっていた。まあエスビーの中村学校は鉄のカーテンの向こう側でしたから、瀬古の練習メニュー情報がくることはないですが(笑い)。
そうした公開されていない練習方法の存在を、私たちは知らなかったということでした。工藤ともそれを探ったり検討したり、何度もしましたね」
 
 工藤は五輪候補として成績を上げてきた。候補選手として、どの選考レースに臨むのか。彼も探っていた。
 過去の五輪選考を見てみると、マラソンほど揉めている種目は、他には見当たらない。当初は「指定レース」の成果を見て、後から陸連が理事会を経て、五輪派遣選手を決めていた。
 工藤の前の時代にはこんなことがあった。メキシコ五輪(68年)当時の話だ。佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二、采谷義秋の4人が、選考を争っていた。リッカー駅伝メンバーでもあった宇佐美もここにいる。問題は市民レーサーだった采谷(うねたに)のことだ。Wikによれば、
「指定二つ目の毎日マラソンでは、優勝の佐々木精一郎に次ぎ2位は采谷。3位に君原。指定レース三つ目のびわ湖では、優勝宇佐美に続き2位は采谷。3位に君原」
 とすれば、派遣を3人に絞るなら、君原が選考に落ちるような気がする。が、采谷が落ちた。采谷には指導監督がいないとか、メキシコの高所レースでは、体躯が大きい彼に負担が大きいとか、へ理屈のような理由で落選した。対して君原には「経験豊富である」など賛辞がある。君原のコーチは、その高橋進でもあった。
 さて、本番の五輪では、その繰り上げされた君原が銀メダルを獲得した。結果的に、君原は本番に強かったか。競技を主宰する側の陸連にとっては、選考に滑り込ませた彼が活躍したのだから、結果的に選考は正しかったことになった。しかし選考の不明確さは問題視された。

 工藤一良は、87年12月の「福岡国際」で日本人3位に滑り込んだ。88年ソウル五輪の選考レースのことである。中山竹通が瀬古に対して「這ってでも出てこい」と吠えた、あのレースのことである。瀬古は欠場した。
 この頃になると、問題視されていた選考は「一発レース」に変更されていた。アメリカの五輪選考に倣って、トラブルが生じないのが一発レースと、当時は言われた。Wikによれば、
「この大会は「88年ソウルオリンピックマラソンへの一発選考大会」と位置付けられた。優勝は中山竹通、2位は新宅雅也で、日本人3位は2時間11分36秒のタイムの工藤一良。だが、日本陸連は中山、新宅をソウルオリンピック代表に内定させたものの、工藤については経験不足を理由に保留とした」
 理由は明らかである。五輪の本命だった瀬古利彦は、怪我によって、この大会を欠場していた。そのために急遽の救済策で、3か月後の「びわ湖」に出場する瀬古の様子を見ることにした。するとその大会で瀬古は優勝。ならば陸連は3人目の選手に、工藤ではなく瀬古を五輪派遣した。

 生涯のわずかなチャンスを生かして、五輪に出るか出ないかは、あまりにかけ離れ過ぎて、実感が伴わないほどだ。これまでの人生で「甲子園に出たことがあるよ」という人に二人くらい出会った。「マジか」ビックリした。彼はその後ウソをついて「エースだった」とも言った。こうなると、資料で調べたくなって、ウソがばれる。ああ、明徳の野球部がその時に「外人部隊」と言われつつ、甲子園に初出場した頃の話で、彼は客席からの応援部員だった。それでも「凄いなあ」。俳優の高知東生のことだ。
「インターハイに出たことがあるよ」と聞いても、驚く。そうか、私の場合は「箱根」でもびっくりするのだ。「五輪に出た」と聞いたら、それはテレビの向こうのことだし、取材では出会ったとしても、日常には現れないはずである。
 ただ負け惜しみをいうなら、五輪に出たことを「過去の栄光」だけにして、その後を生きるのは辛い。ある女優は言っていた。
「過去の栄光その1,その2はあるんですよ。でも忘れたわよ。今は「過去の栄光その3」を獲得するために、頑張っている」
 こちらにすごく共感した記憶がある。「過去の栄光」は、他人が誉めるものではなくて、自分への静穏な誇りなのだと思う。

 後年、瀬古がエスビー監督時代に、白水と初めて対面するときがあった。白水は現役時代の瀬古とは話をしたことがない。白水は当時の様子を話す。
「白水さん、ホントのところ、私を恨んでいるでしょ」
 と瀬古は悪ふざけのように、いきなり話しかけてきた。
「いや~、私はびっくりして、とっさにどう答えたらいいのか迷っていたんですよ。すると向こうのマネジャーが、瀬古の言葉を抑えてきた。ちょっと言い過ぎだと思ったんじゃないですか」

 その理由は、ソウル五輪マラソン選考に際してのことだとすぐに分かった。改めて思い出すように白水は話す。
「私が彼を恨むよりも、あの選考問題については、瀬古自身が割り切れない気持ちを、ずっと抱えていたのではないかと思ったわけですね。仮に瀬古のネームバリューと経験で選ばれたならそれでいいとしましょう。それなのに、瀬古はソウル五輪で失敗した。思うように走れなかったわけですね。
こうなると、選ばれなかった工藤にしても、な~んだということになる。瀬古はいよいよ、重責を果たせなかったことに、今度は悩み出すんですよ。結果的には、国内のマラソンではほとんど敵なしだったのに、2度の五輪では失敗しましたね。五輪は難しい」
瀬古のマラソン優勝伝説は、生涯15戦10勝という快挙。今では本人もよく発言する。負けたのは、学生時代に走った2レースとボストン。他には、福岡でも、ロンドンでも、シカゴでも、ボストンのもう一レースでも優勝した。ただ、2度の五輪のロス(84年)とソウル(88年)も、14位、9位の負けレースに終わった。「本番に弱い」とも言われた。

 女子マラソンにも似たような話がある。有森裕子は(彼女も選考でもめた経過がある)が、2度の五輪ともメダルに輝いた。世間が選考に納得しないことがあっても、五輪で結果が出てしまえば「勝てば官軍」とはよく言われる。
瀬古は今になれば、ソウル五輪での失敗理由を隠しているわけではない。昨年私が瀬古に聞いたのは、
「マラソンは最終種目、ほとんどの競技が終わった選手村では、夜を通しての打ち上げ花火やらどんちゃん祭りで、寝られなかった。調子もあまりよくなかった」
 負けた選手の言い訳にはなるが、数少ない瀬古の失敗レースで、これが笑い話になればいいのだが。失敗した選手には、他に対応の方法がない。白水にはそれもよく分かった。
「工藤にも悔しい気持ちはあっただろうが、瀬古自身にも同じように、ぬぐえない気持ちがあって、いつまでたっても晴れない。五輪には、選ばれた者でさえ、同じように苦労があるわけですよね。だからこそ、マラソン選考がMGCのようにいくらか明確になって、よかったと思うんですよ」(続く
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