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NO9(最終回) 「ニューイヤー」優勝請負人 白水昭興(しろうず・てるおき) 教え子の大迫傑、佐藤悠基を語る

2024-03-31 18:29:26 | ブツブツ日記
 日清食品は2010年に「ニューイヤー」で初優勝に輝いた。それは白水にとっては、日産自動車で優勝して以来、生涯2度目の栄冠にもなった。東京の本社では、間もなく優勝祝勝会が開かれた。陸連からは名誉会長である河野洋平(政治家・河野太郎の父親)が、お祝いに駆け付けた。
「世界の「ニューイヤー駅伝」ですからね。駅伝の日本一は、世界一と同じです。日清食品の駅伝世界一、おめでとうございました」
 と挨拶した。
日本が音頭をとって「国際駅伝」や、国別対抗を組んだこともあったが、それ以上の大会に発展しなかった。日本から、相撲とか駅伝を五輪種目へとプレゼンした過去も、どうやらなかったようだった。あの野球でさえ、アメリカの主導で開催されていたが、今年のパリ五輪では見送られるほどの、五輪マイナー競技。日本の世界への発信は弱かったのか。でも国内だけでは人気があった。

 祝勝会で、白水は河野洋平と会談すると、21年も前のことだが、日産自動車の優勝祝勝会(89年)にも面会したことを、河野は覚えていた。当時は神奈川陸協から河野洋平が訪れていた。1年置いて、2012年に再度優勝した。
 
 その後、3度目のチャンスも明らかに到来した。早大から大迫傑が日清食品と契約した。前年は3位、翌2015年に大迫もメンバーに加わった。
「大迫は同じ佐久長聖高校でありながら、佐藤悠基とは対象でね、マラソンしかやりませんね。駅伝などのようにメンバーの一人というのが、気に入らないのでしょう。個人種目としてのマラソンをやりたい。彼も東京在住ながら長野の高校に通ったし、佐藤も静岡在住ながら、長野に通った。中学生の時分から、自分の将来設計ができた青年たちでしたよ」
 入社1年目の駅伝シーズンを迎える頃、大迫は担当マネジャーを通じて「ニューイヤー」は、1区を走りますと伝えてきた。私としては、4区以降の長い距離で勝負して欲しかったのですが、1年目だし、本人の希望も強かったからそうしました」
 入社の契約では、「ニューイヤー」のメンバーに入ることは条件にあったが、どこを走るのかは本人次第。希望を入れ替えても、多分選手の意にそぐわないのであれば、成果は薄い。1区はつなぎ区間とは言わないが、一斉スタートのなかで、秒差で遅れるくらいであるなら、それは合格圏内。何もエースが走ったとして秒差の区間賞でトップでたすき渡しをしても、レース全体では効果は大きくない。大迫にとっての1区12キロは、マラソンのスタートからのそれと同じで、他のことはしたくなかったという、強烈な意思のようだった。

 当時の大迫の走りを見ると、1区区間賞にはなったが、6位までが8秒差になだれ込んでいた。残り1キロからのスパートで区間賞を取って、
「個人としての役割は果たせた」
 とコメントしていた。
 あのMDIのニジガマが、この1区で、2位に40秒差をつけて突っ込んできたが、助っ人外人と日本人を同じ扱いにはできない。
 この年、日清食品はまたしても3位に甘んじた。日清食品の優勝は、前記の2回だけだった。

 ところで、2000年からの15年間は、トヨタとコニカミノルタと日清食品が上位を占めていて、あの旭化成が、顔を見せなくなっていた。理由は簡単である。弟の宗猛監督の時代になっても「外人補強」をしなかった。日本人だけで勝つというのは、それで立派な意思ではあったが、1区間で1分を詰めてしまう助っ人がいないと、逆に彼らは区間で1分離された。今でもそうである。アフリカ勢とは太刀打ちできない。

 大迫は1年で、日清を退社した。それでも今年のパリ五輪にマラソンで出場する。白水の教え子に当たるのだ。
「一緒にいたのは、たったの1年ですからね。彼は日清食品との契約も終えて、オレゴンプロジェクトというチームに移籍しましたからね。接点も薄いですよ」
 と苦笑いした。
 一方佐藤悠基は、日清食品が駅伝を撤退した後、いまは「佐川急便」で走っている。今年は38歳を迎える。1万メートルでは国内敵なしではあるのだが、マラソンを走ると、あの同級生の市民ランナー川内優輝に負けてしまうのが、微笑ましいのか、忌々しいのか。旭化成の宗兄弟などからは、
「佐藤にはもっと早くからマラソンをやらせるべきだった」
 という声が飛ぶ。それは本人にも届いているのだろうが、部外者にとっては、どこかで名前がでれば、好きな方でいいんじゃないのかと思う。駅伝とマラソンをやるのは、二刀流ができるのと、違うのだろうか。二刀流の可能性の実現したのは、やはり瀬古と宗兄弟しかいなかった。

 白水は東京を離れて4年目になる。上州アスリートクラブの代表として、群馬県高崎市に居住する。年も重ねてきた。
「佐藤にはね、どうせなら40歳まで走ってくださいと言ってあるんですよ。彼が走っているのは、老いた私のとっても、人生の励みになっているからね。同年代の人も亡くなって、80歳過ぎると自分の終活もやってくる。でも「駅伝」と「マラソン」は励みだなあ」

 この日清食品もついに駅伝を撤退するときがきた。創業の百福さんは亡くなり(2007年没)、外資が入ってホールディング会社になった。
「もう20年も駅伝をやってきましたからねえ」
 創業者亡きあとは、企業内でも関心が薄くなった。「ニューイヤー」という宣伝のコンテンツに関心が薄れたとなれば、仕方がない。
 一旦は駅伝だけを廃止して、大坂なおみや錦織圭など世界のスポーツ選手の契約に切り替えたが、それも終了した。そう考えると、1950年代から68回の歴史を数える「ニューイヤー」の中で、浮き沈みがなかったのは「旭化成」だけになる。通算の優勝回数は25回とダントツで、2位は2000年代に入ってから急速に強くなったコニカミノルタの8回。3位には、トヨタと鐘紡とエスビーの4回と続く。続いて、リッカーと富士通と日本製鉄は3回である。宮崎県の延岡という遠隔地で、駅伝だけに集約された選手たちが切磋琢磨している。旭化成にそういう伝統の評価があるとしたら、継続という意味での、企業宣伝にもなるだろ。

東京墨田区 小森コーポレーション本社

 駅伝初期の頃から、今でもずっと駅伝チームを維持している企業は、「旭化成」の他にもう一つ、知る人ぞ知る「小森コーポレーション」という会社である。東京墨田区という下町に本社があり、チームは茨城県の工場周辺に存在する。印刷機械のメーカーである。社史によれば、関東大震災の焼け野原から工場が立ち上がって、間もなく企業内部活の長距離走が生まれて、そのまま維持されてきた。先代のその意思が、三代目にまで続くようだ。
 本社周辺の商店街に聞けば、
「そうですよ、ここが駅伝で有名な小森さんでね。「私も昔は走っていたんですよ」という社員の人にも良く会いますよ」
 と地元ではおらが町の企業でもある。本社に入って、インタホンから広報に、
――最近の駅伝の様子はどうでしたっけ
 と聞いてみると、
「前はねえ、大会でも1桁順位なんてこともあったんですけど、昨年とかは、予選会で惜しくも負けて、「ニューイヤー」には出られませんでしたよ。東日本の予選は、11位までが全国大会進出でしたけれど、12位だったのかなあ。
 でも今年などは、縮小どころか、再度強化するという目標もあって、箱根の青学から入社した選手もいるし、外人補強もしているし、また「ニューイヤー」でいい走りを見せたいと思っているんですよ」
 期待を上回る意気込みに驚いた。と同時に、ただこうした一般的な企業内のチーム維持だけでは、いくら偶然性があったとしても、上位に進出することは多分できない。チーム作りというのは、本稿で白水の系譜を見てきたようで、他社をぶっち切る要素がないと、浮上できないものなのだ。

 余談になるが、駒大の総監督の大八木弘明は、高卒で一旦就職した会社が、この小森印刷だった。「夏の駅伝」という、十和田八幡平駅伝にも出場した。1区をトップで激走したことがあった。その時、2位から追い上げていたのが、リッカーだった。白水はよく覚えていた。
「十和田湖はねえ、湖畔からスタートして200m(標高差)くらい山を登っていくんですよ。その時にはね、大八木君がトップで走って、リッカーは2位でした。彼は高卒の翌年だったんじゃないかな。そんな新人にトップを走られるとはね。私は伴走車から「あんな者に追いつけなくてどうするんだ」とか「リッカーの駅伝魂はどこへいったんだ」とか、激しくやりましたよ。そして登りきったのち、今度は300mも激下りになって、そこでどうにか追い抜くことができたんですね。いやあ、激しい時代がありました」
 と笑い出す。古い記録の中にそれがある。31回大会とは、78年の頃だろう。大八木19歳のときだ。1区13キロは、結局17秒差でリッカーが抜け、小森印刷は2位。そのまま最終5区までつないで、優勝リッカーに、5分差をつけられたものの、2位に入ったのが小森印刷だった。
後年、二人は昵懇になったが、大八木はその度に「あの時の白水さんの伴走には、参りましたよ」という。後に彼は夜学で駒大に入って、箱根を走った、異色の経歴がある。その大八木は箱根では、凄い声援が飛んだ。
「お前、男だろう! 男の走りを見せてみろ」
 パワハラである。それでも大八木は平気だった。あの小森印刷の少年が、リッカーの応援に負けてしまった、腹いせが今でも生き残る(ウソ)。
 
 この真夏の十和田八幡平駅伝などは、1日で箱根を登下降するほどの、激上りと激下りを含んでいる。こんな強烈駅伝あることは、わずかに知られることだ。5区間71キロ。今でもチームエントリーが1万円という、格安のローカルな手作り感のある駅伝のままである。遠征費の補助もあると、要項には書かれる。旭化成はたまに出場するが、エスビーなどは決して参加しなかった。エスビーは「ニューイヤー」だけに限定していた。
他方、駅伝は過去には、青森~東京の東日本縦断駅伝もあったし、九州一周駅伝もあった。淡路島一周駅伝も、鎌倉駅伝も。すべて消滅した。地元が警察と折衝すれば、全国どこでも駅伝は開催できるし、それが企業にとって目標になれば、参加チームはいくらでも増える。地元やファンに支えられているとは、そういうことかと理解する。

「ニューイヤー」の歴史と共に、60年以上もそこに身を置いてきた白水は、その長年の理由を、
「駅伝が廃れなかったから、私の仕事も続いたわけですよ」
 と、それが優勝請負人の言い分だった。
「よく聞かれるんだけどねえ、こうしたいとか、こうありたいというのは、なかったんですよ。まあしいて言えば、自分にも家庭があったし、仕事として懸命にやってきただけでした。それと最初のリッカーでは、マネジャーや監督として相当やってきたのに、本社に残るかつて黄金期(5年間で3回優勝して1回2位)のメンバーに言わせれば、
「優勝できないなんて、まだまだじゃないか」
の一言に、常に反発してきたという思いもありましたね。そんなことをしているうちに、選手獲得のコツとか、いい成績上げるための養成とか、少しずつ蓄積してきた。そして成績に現れた。そこが面白かったんだと思いますよ」
延々と続く、旭化成と小森コーポレーションの70年間の継続もいいのだが、日本経済のまったくの生き写しのように、企業が浮き沈みの中で、現れては優勝するのだが、しかし消えていく様相も悪くない。いつの時代でも必ず「駅伝」に参加したいとするチームが、相当数存在することが、準国技のようであり、仮に辞めようと思っても、辞めきれないファンの支援声援があるからだと、思わずにはいられない。
「だたね、強いチームを作ろうと思ったら、ちょっと予算が必要なくらいですよ(笑い)」(終わり
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