西蓮寺を後に、黄色い稲穂が広がる、のどかな田園地帯の中に車を走らせます。
夏の気配を残したまま、白い雲を浮かべる青空の下に筑波山が望めました。

はしり続ける片側一車線の国道の赤信号に止めた車窓の中で、静かな湖面を見せた霞ケ浦が濃い緑の灌木に縁どられていました。

雲がすこしずつ空に広がってきましたが、僅かにクーラーを利かせた車内に50年代のジャズが流れ、車は交通量の少ない国道を順調に北へスイングしてゆきます。
常陸太田市に入り、ナビのままに国道293の坂を登り進むと、なにやら昭和レトロな雰囲気の建物が見えてきました。
すぐに路肩へ車を止めて解説板を確認しました。

解説板には
「登録有形文化財 梅津会館 昭和11年に太田町役場として建築された。
南東角に角塔を持ち、正面に大アーチの車寄せを張り出した本格的な庁舎建築である。
この建物は、常陸太田市出身で23歳の時に北海道函館に渡って海産物問屋を営み、成功を収めた梅津福次郎から三万五千円の寄付を受けて建てられた。
福次郎は故郷への恩返しを忘れず、対象末期から昭和初期にかけて、この梅津会館をはじめ、久昌寺、太田高等女学校、西山修養道場、若宮八幡宮などに寄付をし、事業の援助を行った。
昭和53年まで常陸太田市役所として利用された後、梅津福次郎の徳に因んで梅津会館と改称し、郷土資料館として活用している。」
と記されていました。
そしてこの方が梅津福次郎さんだそうです。

日本には、様々な土地で、このような郷里のために財や労力を投じた人物の話が伝わります。
北九州小倉の白洲灯台を建てた岩松助左衛門、愛知県知多半島の愛知用水完成に労を尽くした久野正太郎さん、等々。
そして、それほどの規模なくても、人知れず、世の為人の為に小さな善意を積み重ねる人々が、私の心に温かな灯をともし続けてくれます。
常陸太田市の市役所があったこの辺りは、鯨ヶ丘と呼ばれています。
丘陵の起伏があたかも鯨が浮遊している様子に似ることから、この辺りを「久自」と名付け、それば「久慈」から「鯨が丘」に変じたと説明されます。
そして、この辺りは平安時代末から500年近くに亘ってこの地を治め、後に秋田へ国替えとなった佐竹氏の居城があり、古くから商業や文化が栄えた場所だそうです。
梅津会館の先で十字路を右に折れると、粗挽きそば、石臼うどんの暖簾を掲げた塩町館が目に入りました。
この店は明治30年に建てられた旧太田銀行の建物を利用しているそうで、私は暖簾を潜りたい誘惑に駆られましたが、旅は始まったばかりで、今日のスケジュールを考えると、昼は予定通り、ハンドルを握りながらのコッペパンで我慢することにしました。

車を路肩に止めたまま、塩町館の先へ足を運ぶと、三階建ての赤煉瓦作りの建物が見えてきました。
この建物は、この地で酒造業を営んでいた「稲田屋」の稲田敬造氏が明治43年に建造したそうです。

周囲を見回すと、往時には多くの人々が行き交う賑わいを見せたであろう商店街が、今は静かに息をひそめ佇んでいました。

車に戻り、ナビのガイドのままに車を進めると、国道が丘を下り始めた場所に豊かな緑に包まれた神社を見かけました。

殆ど車が通らない国道に車を止めて、神社名を確認すると、若宮八幡宮と記されていました。
若宮八幡宮といえば、梅津会館の解説板に記載されていた、梅津福次郎さんが寄付をした神社です。
石段を上って参拝してゆくことにしました。
苔むす石畳みが社殿まで続いていました。

参拝を終えて車へ戻るとき、巨大な二本のケヤキが、圧倒的な存在感を誇って空を覆っていました。
ケヤキの根本に
「若宮八幡宮のケヤキ、幹回 11.4m 根本 25m 樹高約30m 推定樹齢640年」
と記された掲示板が掲げられ、茨木県の文化財に指定されているそうです。
若宮八幡宮は1394年(応永元年)に13代佐竹義仁が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を奉り、1708年(宝永8年)に現在の場所に移されたそうですから、このケヤキは移築前からこの地に枝を広げていたことになります。

神社を囲む石柵に寄ると、なだらかな丘陵地に挟まれた谷中に続く街並みが望めました。

20年近い歳月、全国に花を求めて旅を続けてきましたが、今回初めて常陸太田市を訪ねることができました。
車に寝具一式を積んで、日本全国津々浦々に足を運んできましたが、魅力的、個性的な文化と歴史に彩られた街が、まだまだ各地に眠っているのだろうなと、思わせてくれた常陸太田でした。
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