東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

山口県指定無形文化財 田布施町 大波野神舞 年期神舞奉納 2017.3.20

2017年03月22日 | ふるさと



 20日の午前中、田布施町大波野の大波野神舞を久しぶりに見に行きました。以前、麻郷の高松八幡宮の秋祭りなどで見たことがあります。ただ、その時は演目の二つか三つだけだったように思います。今回のように十演目以上見たのは初めてです。元々は十六演目あるそうです。八幡八幡宮の十年祭ではすべての演目を演じるそうです。その十年祭で全ての舞を見るとなると、シートを敷いて朝から晩までずっと見続ける覚悟が必要のようです。

          今年の会場は、大波野上段の菜の花畑


 最初に町長や教育長などの挨拶がありました。挨拶や紹介終わると、いよいよ祭の始まりです。賑やかな音楽と共に、最初の演目である「湯立」が始まりました。男の子4人による踊りです。なかなか息の合った動きのある踊りです。今回の奉納のため、たくさん練習したのでしょう.

   横笛,鉦,太鼓        湯立の舞        勧請の舞
  

 ところで、大波野神舞は江戸時代の元文五年(1740年)に惣津金毘羅社が鎮座した時に始まるとされます。その十年ほど前の享保の大飢饉時、大波野を含むこの地域は大飢饉に見舞われました。住民の1/3が亡くなったとされます。近くの大恩寺にはその飢饉で亡くなった方々を弔う「飢民の供養塔」があります。これら飢民の方々を弔うため始まったとも言われます。大波野神舞で使われる鉦には天明元年(1781年)の銘があります。少なくとも天明元年(1781年)には大波野神舞があったことが分かります。

            三鬼神の舞、今回は四人が舞うため四鬼神


 演目が次々に進み、演目「三鬼神」を初めて見ました。この神舞が伝えられた江戸時代は科学がまだ進んでいませんでした。そのため、ちょっとした病気や飢饉が日常茶判事だったと思います。原因が分からないためそれらを鬼とし、それらを救うものを神として崇めたのではないかと思われます。ある演目の中に男性を象徴するものが出てきます。子供がたくさん生まれ子孫繁栄するようにとの願いだったのではないでしょうか。大波野神舞には、当時の人々の切実な願いが込められていると思います。

   休憩中のお接待       四天王の舞       子供だけの演技  
  

 大波野神舞はその昔、その地域の長男だけが演じていたそうです。つまり、その村に残って家を継ぐ男子だけが舞っていたそうです。昭和20年以前の法律では家を継ぐのは長男だけでしたので。その昔、神舞はとても人気があったそうで舞う人はちょっとしたヒーローだったのではないでしょうか。

             大波野神舞を一生懸命演じる子供達


 しかし、今のような少子高齢化の時代、そんな事は言ってられません。伝統文化を伝承することがとても難しい時代になりました。今は、女子も舞っています。その昔、田布施のあちこちで神舞が舞われていたとの記録が残っています。衰退した一番の理由は戦争です。舞っていた若者が、根こそぎ戦争に駆り出されたからです。大波野神舞を習った平生町田名の神舞は、戦時中回天基地のため地域を追われ消滅しました。唯一残った大波野神舞、いつまでも継承して欲しいと思います。
 午前中大波野神舞を見た後、午後は西田布施公民館に移動してたぶせ少年少女合唱団の定期演奏会に行きました。

   勇壮な四人の舞      難しい槍の舞      舞った子に付け届け
  

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