宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (3)
さて、賢治の死後3年、賢治顕彰の初めての碑建立の話はすすみ、碑文は高村光太郎の揮毫に決定。
昭和11年(1936年)11月21日、建碑式が行われた、と伝えられる。
光太郎は賢治碑第一号となる揮毫依頼をされたときに、花巻の政次郎氏・清六氏宅に逗留して、賢治の遺品・黒皮の手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の詩文を写し採ったのであろうか。
それとも、賢治の著作物を管理する者、または、雨ニモマケズの文を写し採りを認められた者が写詩実行し、東京の光太郎宛へ送ったのであろうか。
この問いをする理由は、雨ニモマケズ改竄問題が取り沙汰される今日、確認しておきたい事である。つまり、写し採ったおりに改竄がおきた可能性が絶無ともいえないのでは・・・と思われるふしがないでもないからである。
高村光太郎の年譜を軸に、そのあたりも推理してゆきたいことである。
この検証をおもいたった理由は、日本の良識と尊敬する宗教学者山折哲雄氏のご発信であった。
山折氏は《賢治の原文ではたしかに「ヒドリ」と 書かれているわけですが、 それを高村光太郎は「ヒデリ」すなわち「日照り」のことだと読み替えた》(出典:吉田司/山折哲夫著『デクノボー宮沢賢治の叫び』2010.8.30 朝日新聞出版発行 228頁)と言われておられたと思う。
私は、光太郎を訪ねることにした。
東京・巣鴨の染井墓地。高村光雲・光太郎・智惠子の墓。
2013年、3月29日撮影。正面奥が高村家墓、ご名刺受があった。
高村光太郎が「改竄」の〝犯人〟説になっておることは、妥当であるのかないのかを考えたい。
筑摩書房の『北原白秋 高村光太郎 宮澤賢治 集』1979年3月25日発行の年譜を出典とさせて頂き、光太郎と賢治の考察をさせて頂きたいと思います。
信頼性のある筑摩書房さまの出版本に依拠し、引用させていただき、光太郎「改竄」説が妥当であるのかないのかを、注釈の※の文も添記して観てゆきたい。
賢治碑の第一号建立前後の光太郎と賢治の生活を眺めることで、見えてくることもあるのではないか、と期待したい。
賢治ファンのご教示ご鞭撻を賜わりたくおもいます。
以下。
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・・・・・・・前略・・・・・・・・・・
明治44年 (1911年)、光太郎 29歳
『青鞜』に表紙絵を描いた長沼智惠子を知る。
智惠子は日本女子大学の家政学科 を卒業後、東京に残って女流画家の道をふみだしていた。
創刊号の表紙(絵:長沼智恵子)
※『青鞜』創刊号の表紙は、長沼智恵子(後の高村智恵子)が描いた。巻頭を与謝野晶子の詩が飾り、平塚らいてうが『元始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せた。平塚は初めて「らいてう」の筆名を使った。青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、女性による月刊誌で、その編集内容は革新性に富み、社会に大きな影響を与えた。
大正3年 (1914年)、光太郎 32歳
12月22日、智惠子(28歳)とアトリエでの生活はじめる。結婚。
※正式の入籍は、19年後になる。
大正8年、光太郎 37歳
智惠子、順天堂病院に入院。7月、再入院。光太郎も病む。
大正12年 光太郎 41歳
1月、インフルエンザにかかり血を吐く。9月、関東大震災。下町からの被災者にアトリエを開放し、何ヶ月かを、四畳半にこもる。智惠子の実家から取り寄せた清酒「花霞」を人に頒けたりしたのもこの頃。自己の内攻を感じ、この冬あたりから個人雑誌を出す計画があったが実現しなかった。
大正13年 (1924年)、宮沢賢治29歳
4月、『春と修羅』第1集 1000部、自費出版。
5月、花巻農学校生徒を引率して北海道に修学旅行をした。
8月、花巻農学校生徒を監督して自作の劇、「飢餓陣営」、「ポランの広場」、「植物医師」、「種山ケ原の夜」、を上演公開した。
12月、童話集『注文の多い料理店』(挿絵 菊池武雄)光原社発行(発行所東京)から出版した。
※1979年3月25日発行の筑摩書房『北原白秋 高村光太郎 宮澤賢治 集』年譜に、賢治は《 詩集『春と修羅』を自費出版した 》とある。賢治は著名詩人に送りつけたようである。その詩集を読んだ高村光太郎と草野心平のみが礼状を送ってきた。礼状を賢治は懐にいれて喜んでいた、と吉田司氏は実母の思い出で語っておられる。(出典:山伏哲雄×吉田司著『デクノボー宮沢賢治の叫び』)。
※草野心平は、新潮文庫昭和44年4月10日刊の『宮沢賢治詩集/草野心平編』の解説で、賢治の生前自費出版された『春と修羅』を読んだのは、大正13年の秋頃であっただろう、と記していた。筑摩書房の年譜と合致していることが頷けられた。
大正14年(1925年)、賢治30歳
7月ころから、草野心平と文通を始める。
大正15年(1926年) 光太郎 44歳
4月、光雲が東京美術学校を退く。
大正15年(1926年)、宮沢賢治 31歳
12月、月はじめに上京して、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京国際倶楽部に出席して、フィランド公使ラマステッド博士と農村問題、言語特に方言のことなどについて話しあった。また新交響楽団員の大津三郎にセロの個人授業を受けたのはこの頃と推定される。また、光太郎宅を訪問したのもこの頃と推定される。
※上京した宮沢賢治は大正15年12月に、光太郎のアトリエを訪問した、と推定。
光太郎の談話によると、《「宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だったでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰って行かれました。」》 その後、二人が会う機会はなかった。
昭和4年 (1929年)、光太郎 47歳
智惠子の実家長沼家(酒造業)が破産し、一家は離散。これはその後の光太郎らの生活に大きな影響を与え、智惠子の健康も再び傾き始める。
※この昭和4年(1929年)、賢治 34歳のときに、年譜には、
病床で詩の推敲をつづけた、とある。つぎの年の
昭和5年 (1930年)、賢治 35歳
病床で文語詩の創作をはじめた。・・・・とあり、「雨ニモマケズ」に書き記した
〝丈夫ナカラダヲモチ〟へのおもいは切実な願いであったこが窺え知れよう。
昭和6年、(1931年)、光太郎 49歳
8月、時事新報の依頼で岩手県三陸地方を旅行し紀行を書く。一ケ月近く家を空けたのは結婚以来はじめてのことだったが、その留守の頃から、智惠子には精神疾患の兆候が現れはじめた。
※《智惠子には精神疾患の兆候が・・》と替えさせて頂きました。こんにちの日本の医学界は、その年譜の病名は使用しておりません。日本精神神経学会の理事会で2002年1月19日 、わが国で用いられてきた病名は「統合失調症」に名称を変更しております。
昭和6年 宮沢賢治、36歳
3月、病気は一時快癒した。・・・・中略・・・
9月、炭酸石灰とその製品見本を持って上京し、神田区八幡館で発熱病臥した。このとき死を覚悟して父母近親者への遺書2通を書いたが、父の厳命により帰宅し、病床生活に入った。
11月3日、「雨ニモマケズ」を手帳に書いた。
昭和7年(1932年)、光太郎 50歳
7月15日、智惠子が自宅画室でアダリン自殺をはかり、未遂に終わる。そのため九段坂病院に入院。8月退院。
※アダリンは睡眠薬。鎮静剤のこと。芥川龍之介が不眠症でアダリンを常用していたと伝えられる。
昭和8年(1933年)、光太郎51歳
5月、智惠子の静養のためにともに草津に遊ぶ。8月、墓参も兼ね、智惠子のふるさと福島県二本松や川上、青根、土湯、塩原など東北の温泉めぐりをしたが、帰京したときには智惠子の精神病はかえって悪化していた。この年の8月23日に正式に入籍をした。
昭和8年(1933年)、宮沢賢治 38歳
9月21日午前11時半、喀血して容態急変したが意識は明瞭で、国訳妙法蓮華経を翻刻して知己に頒布するように遺言した。
午後1時30分、永眠。賢治38歳であった。
23日、花巻町浄土真宗安浄寺に埋葬。
※賢治の年譜に、昭和26年7月、同町日蓮宗身照寺に改葬した。
法名は「真金院三不日賢善男子」である。
※宮沢家の菩提寺は日蓮宗ではなかった。浄土真宗であった。父の政次郎氏は敬虔な浄土真宗の信者。賢治は父との諍った背景のひとつに、宗派上の問題での衝突があったと研究家は分析してきた。家父長制度の強く残る時代にあって、賢治の理解者で妹トシが葬られたように、賢治も宮沢家の菩提寺・浄土真宗のお寺に埋葬されることは、諦観し憎い事であったのであろう。
※父の改宗は、亡き賢治の声望が年々あがり、賢治ファン、世論におされたかたちで父政次郎は息子賢治に歩みよったことになろう。子孝行である。
賢治が生前、あれほどまでに争った信仰での宗派闘争であったのだが、賢治の火の玉のごとき菩薩行、創作によって、父は賢治の死後18年後に改宗したことになろうか。
もし、賢治が無名であれば、父は改宗改葬にまで踏み込んで決断はしなかっただろうと思われる。賢治の火の玉のごとき法華経実践行動が、父をも動かしたことになった。その父親に、賢治は、遺言をした。
国訳妙法蓮華経を翻刻して知己に頒布するように遺言をした。
このことは、吉田司氏の指摘、「賢治はパラサイト」ぶりが見えてくるだけに、父親政次郎の度量の大きさを感じ取るのは私だけであろうか。
※参考までに、パラサイト・シングルの意味は、親に基本的に依存して結婚もせずに生きる独身の子をさす。
このパラサイト・シングルと把握された嚆矢は東京学芸大学の山田昌弘教授(現:中央大学教授)。
宮沢賢治を深く理解するには必読本とおもうので以下に記しておきたい。
たしか、「婚活」のネーミングを流行らせたのも山田昌弘教授のはずです。人間観察が鋭い先生。
お奨めの本:
ちくま新書『パラサイト社会のゆくえ』山田昌弘著。
昭和9年、光太郎 52歳
光太郎の父光雲は胃癌で没する。智惠子を九十九里の療養地からアトリエへつれもどすも、症状はますます悪化。この数年間、光太郎は家事の雑用と看病に追われて、彫刻も作らず、詩もまともにまとまらず、空白時代をすごす。
※精神疾患の病名を今日的に表現するなら「統合失調症」とおもわれる。当時の光太郎は妻智惠子の病気対応で非常の時であったと見做される。智惠子の症状は、幻覚や幻聴、妄想、認知障害、昼夜逆転などが起きていたのではなかろうか。光太郎は妻が狐に取り憑かれた、とおもったかもしれない。光太郎は悲しみでいっぱいであったことだろう。憔悴し、オロオロしただろう。そして、妻から目を離せぬ日々であっただろう。 ということもあり、
岩手県の花巻町へ、賢治碑文の選考をしに出掛ける余裕はなかったのである。
昭和10年 光太郎 53歳
2月、智惠子を南品川ゼームス坂病院に入院させる。
※この年、または翌年の11年に賢治碑の 雨ニモマケズの揮毫を依頼されたとみられる。
※私は《宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (1)》で《高村光太郎揮毫の碑文をみると、脱字があったことが認められましょう。このことは何を暗示しているのでしょうか。》と述べた。
光太郎が揮毫に着手したのは、昭和11年の春ころかと思われる。
年譜をみれば、光太郎、智惠子がどのような状況下にあったか。見えてくる筈です。
本来なら、揮毫はできなくなった、とお断りをしてもおかしくなかったのではないか。
ところが、賢治を評価する光太郎は惻隠の情もはたらいたのか、揮毫をされたように思う。ところが脱字が起きた。その脱字のひと文字、ひと文字は光太郎のナミダとともに落ちてしまったようにも思えるのです。
昭和11年(1936年)光太郎 54歳
12月、光太郎は突然、咽喉から大量の血を吐き、1ケ月ほど寝る。このころから、智惠子は病院で紙絵をきり始める。
昭和11年 。
羅須地人協会跡地:花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)に
賢治文学碑 雨ニモマケズの碑建立(高村光太郎揮毫)
※賢治没後3年目
昭和13年(1938年)、光太郎 56歳
10月5日夜、智惠子53歳がゼームス坂病院で没する。死因は粟粒性肺結核。病院で作られた紙絵は千数百点にのぼる。制作中の九代目団十郎の首は九分通り出来上がってひび割れた
――――――――――――次回のブログ宮沢賢治 (4)へ続く。