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花が咲く

埴沙萠さんの世界

2013-04-29 11:29:22 | 日記
今朝4月29日のnhkテレビは
驚愕、
そして
感動でした。

大分から群馬のみなかみ町に移り住み
身近な植物を題材に
撮影の
植物写真家 埴沙萠さん。

感動をありがとうございました。

キノコの胞子の飛ぶさまは
北極のオーロラをみるようでした。

おくさんのお姿も拝見でき、
よかったです。



映画『天地明察』のはなし

2013-04-22 22:11:02 | 日記
映画『天地明察』のはなし

 今年の3月下旬、御焼香でフクシマへでかけてきた。親友の親御さまが亡くなられた時は、原発爆発が続き、避難さわぎとなり、葬儀をおこなえず、1ケ月もすぎて、なんとか野辺送りができたとのこと・・・。

そのような事情から、私は訃報もしらずにきてしまった。
親友の町内には今も原発避難者の仮設住宅が建っていた。さらに、建設をすすめようと、山を削り、宅地造成がすすめられていた。同じ県内とはいえ、他郷でくらしてゆく覚悟にいたるまでには、どんなに悩まれたことだろうか。
もちろん、ご先祖の墓参りのときは、故郷に瞬間的に戻ることになるだろうが・・・。
それらの福島のひとたちのお話しをうかがって、一段落がしたときに、『天地明察』をみたげ、と問われた。
私は、正直、天地明察をしらなかった。映画の話であった。                   原作者は福島市に住んでっぺ・・・、
冲方丁氏。
福島の住人さまに、是非、みてほしい、といわれたことで、帰京して、すぐに、ツタヤでDVDを借りてきた。
江戸時代前期の物語であった。囲碁棋士で天文暦学者の安井算哲(のち改名されて渋川春海 )の奮闘が描かれていた。
朝廷の支配する暦に狂いがある、このことを憂い、天の法理を學究し、日本に合う暦を作りあげる物語。失敗の連続で、挫けそうになった算哲は妻や市井の学者関孝和のはげましで、真理をつかみ、徳川幕府の初代天文方に就任する。
安井算哲を庇護した会津藩主の保科正之公や水戸藩主の光圀公の存在。妻のえんの存在はひかった。
原作は第7回本屋大賞の作品を映画化。検索でひろってみた。以下
映画『天地明察』は、監督: 滝田洋二郎/脚本:加藤正人・滝田洋二郎である。
キャスト・・・・・・
●安井算哲(渋川春海)・・・・岡田准一  ●えん〔算哲の妻〕・・・・宮崎あおい
●村瀬義益〔えんの兄〕・・・・佐藤隆太   ●関孝和・・・・・市川猿之助
●水戸光圀〔算哲の庇護者〕・・・・・中井貴一 ●保科正之〔算哲の庇護者〕・・・・松本幸四郎
●四代将軍家綱・・・・・・染谷将太 ● 本因坊道策〔算哲の碁友〕・・・横山裕(関ジャニ )
●本因坊道悦〔道策の師〕・・・尾藤イサオ  ● 安井算知〔算哲の師〕・・・きたろう
●ナレーション・・・真田広之
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
江戸時代初期に天の法則を突き止めた学者安井算哲の存在は驚きであった。
現代でいうとすれば、
地の法理をつぶさにつきとめて、大地震の予知ご明察ということだろう。
大地震の予知、ご明察、であってほしいとねがいたいものだ。
福島の親友が、映画『天地明察』をみてほしい、と望んだ気持ちは、そのあたりにあったのかもしれぬ。
原作者を検索していると、フクシマから北海道へ避難されておられた。
福島に戻られることは、なさそうらしい。

原発爆発の影響は、フクシマ在の巨星作家を北へ飛ばしてしまったようだ・・・。

映画『天地明察』のはなし

2013-04-22 22:11:02 | 日記
映画『天地明察』のはなし

 今年の3月下旬、御焼香でフクシマへでかけてきた。親友の親御さまが亡くなられた時は、原発爆発が続き、避難さわぎとなり、葬儀をおこなえず、1ケ月もすぎて、なんとか野辺送りができたとのこと・・・。

そのような事情から、私は訃報もしらずにきてしまった。
親友の町内には今も原発避難者の仮設住宅が建っていた。さらに、建設をすすめようと、山を削り、宅地造成がすすめられていた。同じ県内とはいえ、他郷でくらしてゆく覚悟にいたるまでには、どんなに悩まれたことだろうか。
もちろん、ご先祖の墓参りのときは、故郷に瞬間的に戻ることになるだろうが・・・。
それらの福島のひとたちのお話しをうかがって、一段落がしたときに、『天地明察』をみたげ、と問われた。
私は、正直、天地明察をしらなかった。映画の話であった。                   原作者は福島市に住んでっぺ・・・、
冲方丁氏。
福島の住人さまに、是非、みてほしい、といわれたことで、帰京して、すぐに、ツタヤでDVDを借りてきた。
江戸時代前期の物語であった。囲碁棋士で天文暦学者の安井算哲(のち改名されて渋川春海 )の奮闘が描かれていた。
朝廷の支配する暦に狂いがある、このことを憂い、天の法理を學究し、日本に合う暦を作りあげる物語。失敗の連続で、挫けそうになった算哲は妻や市井の学者関孝和のはげましで、真理をつかみ、徳川幕府の初代天文方に就任する。
安井算哲を庇護した会津藩主の保科正之公や水戸藩主の光圀公の存在。妻のえんの存在はひかった。
原作は第7回本屋大賞の作品を映画化。検索でひろってみた。以下
映画『天地明察』は、監督: 滝田洋二郎/脚本:加藤正人・滝田洋二郎である。
キャスト・・・・・・
●安井算哲(渋川春海)・・・・岡田准一  ●えん〔算哲の妻〕・・・・宮崎あおい
●村瀬義益〔えんの兄〕・・・・佐藤隆太   ●関孝和・・・・・市川猿之助
●水戸光圀〔算哲の庇護者〕・・・・・中井貴一 ●保科正之〔算哲の庇護者〕・・・・松本幸四郎
●四代将軍家綱・・・・・・染谷将太 ● 本因坊道策〔算哲の碁友〕・・・横山裕(関ジャニ )
●本因坊道悦〔道策の師〕・・・尾藤イサオ  ● 安井算知〔算哲の師〕・・・きたろう
●ナレーション・・・真田広之
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江戸時代初期に天の法則を突き止めた学者安井算哲の存在は驚きであった。
現代でいうとすれば、
地の法理をつぶさにつきとめて、大地震の予知ご明察ということだろう。
大地震の予知、ご明察、であってほしいとねがいたいものだ。
福島の親友が、映画『天地明察』をみてほしい、と望んだ気持ちは、そのあたりにあったのかもしれぬ。
原作者を検索していると、フクシマから北海道へ避難されておられた。
福島に戻られることは、なさそうらしい。

原発爆発の影響は、フクシマ在の巨星作家を北へ飛ばしてしまったようだ・・・。

宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に 新解釈の玄侑宗久氏 (3)・・・智恵子と光太郎

2013-04-21 10:49:27 | 日記

宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (3)

 さて、賢治の死後3年、賢治顕彰の初めての碑建立の話はすすみ、碑文は高村光太郎の揮毫に決定。
昭和11年(1936年)11月21日、建碑式が行われた、と伝えられる。

 光太郎は賢治碑第一号となる揮毫依頼をされたときに、花巻の政次郎氏・清六氏宅に逗留して、賢治の遺品・黒皮の手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の詩文を写し採ったのであろうか。
それとも、賢治の著作物を管理する者、または、雨ニモマケズの文を写し採りを認められた者が写詩実行し、東京の光太郎宛へ送ったのであろうか。

この問いをする理由は、雨ニモマケズ改竄問題が取り沙汰される今日、確認しておきたい事である。つまり、写し採ったおりに改竄がおきた可能性が絶無ともいえないのでは・・・と思われるふしがないでもないからである。

 高村光太郎の年譜を軸に、そのあたりも推理してゆきたいことである。
この検証をおもいたった理由は、日本の良識と尊敬する宗教学者山折哲雄氏のご発信であった。

山折氏は《賢治の原文ではたしかに「ヒドリ」と 書かれているわけですが、 それを高村光太郎は「ヒデリ」すなわち「日照り」のことだと読み替えた》(出典:吉田司/山折哲夫著『デクノボー宮沢賢治の叫び』2010.8.30 朝日新聞出版発行 228頁)と言われておられたと思う。

私は、光太郎を訪ねることにした。





東京・巣鴨の染井墓地。高村光雲・光太郎・智惠子の墓。
2013年、3月29日撮影。正面奥が高村家墓、ご名刺受があった。

 高村光太郎が「改竄」の〝犯人〟説になっておることは、妥当であるのかないのかを考えたい。
筑摩書房の『北原白秋 高村光太郎 宮澤賢治 集』1979年3月25日発行の年譜を出典とさせて頂き、光太郎と賢治の考察をさせて頂きたいと思います。

信頼性のある筑摩書房さまの出版本に依拠し、引用させていただき、光太郎「改竄」説が妥当であるのかないのかを、注釈の※の文も添記して観てゆきたい。

賢治碑の第一号建立前後の光太郎と賢治の生活を眺めることで、見えてくることもあるのではないか、と期待したい。
賢治ファンのご教示ご鞭撻を賜わりたくおもいます。

以下。
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・・・・・・・前略・・・・・・・・・・

明治44年 (1911年)、光太郎 29歳
『青鞜』に表紙絵を描いた長沼智惠子を知る。
    智惠子は日本女子大学の家政学科 を卒業後、東京に残って女流画家の道をふみだしていた。



創刊号の表紙(絵:長沼智恵子)


※『青鞜』創刊号の表紙は、長沼智恵子(後の高村智恵子)が描いた。巻頭を与謝野晶子の詩が飾り、平塚らいてうが『元始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せた。平塚は初めて「らいてう」の筆名を使った。青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、女性による月刊誌で、その編集内容は革新性に富み、社会に大きな影響を与えた。

大正3年 (1914年)、光太郎 32歳
12月22日、智惠子(28歳)とアトリエでの生活はじめる。結婚。
※正式の入籍は、19年後になる。

大正8年、光太郎 37歳
智惠子、順天堂病院に入院。7月、再入院。光太郎も病む。

大正12年 光太郎 41歳
1月、インフルエンザにかかり血を吐く。9月、関東大震災。下町からの被災者にアトリエを開放し、何ヶ月かを、四畳半にこもる。智惠子の実家から取り寄せた清酒「花霞」を人に頒けたりしたのもこの頃。自己の内攻を感じ、この冬あたりから個人雑誌を出す計画があったが実現しなかった。

大正13年 (1924年)、宮沢賢治29歳

4月、『春と修羅』第1集 1000部、自費出版。
5月、花巻農学校生徒を引率して北海道に修学旅行をした。
8月、花巻農学校生徒を監督して自作の劇、「飢餓陣営」、「ポランの広場」、「植物医師」、「種山ケ原の夜」、を上演公開した。
12月、童話集『注文の多い料理店』(挿絵 菊池武雄)光原社発行(発行所東京)から出版した。

※1979年3月25日発行の筑摩書房『北原白秋 高村光太郎 宮澤賢治 集』年譜に、賢治は《 詩集『春と修羅』を自費出版した 》とある。賢治は著名詩人に送りつけたようである。その詩集を読んだ高村光太郎と草野心平のみが礼状を送ってきた。礼状を賢治は懐にいれて喜んでいた、と吉田司氏は実母の思い出で語っておられる。(出典:山伏哲雄×吉田司著『デクノボー宮沢賢治の叫び』)。

※草野心平は、新潮文庫昭和44年4月10日刊の『宮沢賢治詩集/草野心平編』の解説で、賢治の生前自費出版された『春と修羅』を読んだのは、大正13年の秋頃であっただろう、と記していた。筑摩書房の年譜と合致していることが頷けられた。                


大正14年(1925年)、賢治30歳
          7月ころから、草野心平と文通を始める。

大正15年(1926年) 光太郎 44歳 
      4月、光雲が東京美術学校を退く。

大正15年(1926年)、宮沢賢治 31歳 
           
12月、月はじめに上京して、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京国際倶楽部に出席して、フィランド公使ラマステッド博士と農村問題、言語特に方言のことなどについて話しあった。また新交響楽団員の大津三郎にセロの個人授業を受けたのはこの頃と推定される。また、光太郎宅を訪問したのもこの頃と推定される。
※上京した宮沢賢治は大正15年12月に、光太郎のアトリエを訪問した、と推定。
 光太郎の談話によると、《「宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だったでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰って行かれました。」》 その後、二人が会う機会はなかった。

昭和4年 (1929年)、光太郎 47歳
智惠子の実家長沼家(酒造業)が破産し、一家は離散。これはその後の光太郎らの生活に大きな影響を与え、智惠子の健康も再び傾き始める。


※この昭和4年(1929年)、賢治 34歳のときに、年譜には、
病床で詩の推敲をつづけた、とある。つぎの年の

昭和5年 (1930年)、賢治 35歳
病床で文語詩の創作をはじめた。・・・・とあり、「雨ニモマケズ」に書き記した
〝丈夫ナカラダヲモチ〟へのおもいは切実な願いであったこが窺え知れよう。

昭和6年、(1931年)、光太郎 49歳
8月、時事新報の依頼で岩手県三陸地方を旅行し紀行を書く。一ケ月近く家を空けたのは結婚以来はじめてのことだったが、その留守の頃から、智惠子には精神疾患の兆候が現れはじめた。

※《智惠子には精神疾患の兆候が・・》と替えさせて頂きました。こんにちの日本の医学界は、その年譜の病名は使用しておりません。日本精神神経学会の理事会で2002年1月19日 、わが国で用いられてきた病名は「統合失調症」に名称を変更しております。

昭和6年 宮沢賢治、36歳
3月、病気は一時快癒した。・・・・中略・・・
9月、炭酸石灰とその製品見本を持って上京し、神田区八幡館で発熱病臥した。このとき死を覚悟して父母近親者への遺書2通を書いたが、父の厳命により帰宅し、病床生活に入った。
11月3日、「雨ニモマケズ」を手帳に書いた。


昭和7年(1932年)、光太郎 50歳
7月15日、智惠子が自宅画室でアダリン自殺をはかり、未遂に終わる。そのため九段坂病院に入院。8月退院。

※アダリンは睡眠薬。鎮静剤のこと。芥川龍之介が不眠症でアダリンを常用していたと伝えられる。

昭和8年(1933年)、光太郎51歳

5月、智惠子の静養のためにともに草津に遊ぶ。8月、墓参も兼ね、智惠子のふるさと福島県二本松や川上、青根、土湯、塩原など東北の温泉めぐりをしたが、帰京したときには智惠子の精神病はかえって悪化していた。この年の8月23日に正式に入籍をした。

昭和8年(1933年)、宮沢賢治  38歳

9月21日午前11時半、喀血して容態急変したが意識は明瞭で、国訳妙法蓮華経を翻刻して知己に頒布するように遺言した。

午後1時30分、永眠。賢治38歳であった。
23日、花巻町浄土真宗安浄寺に埋葬。

※賢治の年譜に、昭和26年7月、同町日蓮宗身照寺に改葬した。
法名は「真金院三不日賢善男子」である。

※宮沢家の菩提寺は日蓮宗ではなかった。浄土真宗であった。父の政次郎氏は敬虔な浄土真宗の信者。賢治は父との諍った背景のひとつに、宗派上の問題での衝突があったと研究家は分析してきた。家父長制度の強く残る時代にあって、賢治の理解者で妹トシが葬られたように、賢治も宮沢家の菩提寺・浄土真宗のお寺に埋葬されることは、諦観し憎い事であったのであろう。

※父の改宗は、亡き賢治の声望が年々あがり、賢治ファン、世論におされたかたちで父政次郎は息子賢治に歩みよったことになろう。子孝行である。

賢治が生前、あれほどまでに争った信仰での宗派闘争であったのだが、賢治の火の玉のごとき菩薩行、創作によって、父は賢治の死後18年後に改宗したことになろうか。
もし、賢治が無名であれば、父は改宗改葬にまで踏み込んで決断はしなかっただろうと思われる。賢治の火の玉のごとき法華経実践行動が、父をも動かしたことになった。その父親に、賢治は、遺言をした。
国訳妙法蓮華経を翻刻して知己に頒布するように遺言をした。
このことは、吉田司氏の指摘、「賢治はパラサイト」ぶりが見えてくるだけに、父親政次郎の度量の大きさを感じ取るのは私だけであろうか。

※参考までに、パラサイト・シングルの意味は、親に基本的に依存して結婚もせずに生きる独身の子をさす。

このパラサイト・シングルと把握された嚆矢は東京学芸大学の山田昌弘教授(現:中央大学教授)。
宮沢賢治を深く理解するには必読本とおもうので以下に記しておきたい。
たしか、「婚活」のネーミングを流行らせたのも山田昌弘教授のはずです。人間観察が鋭い先生。

お奨めの本:
ちくま新書『パラサイト社会のゆくえ』山田昌弘著。

 
昭和9年、光太郎 52歳
光太郎の父光雲は胃癌で没する。智惠子を九十九里の療養地からアトリエへつれもどすも、症状はますます悪化。この数年間、光太郎は家事の雑用と看病に追われて、彫刻も作らず、詩もまともにまとまらず、空白時代をすごす。

※精神疾患の病名を今日的に表現するなら「統合失調症」とおもわれる。当時の光太郎は妻智惠子の病気対応で非常の時であったと見做される。智惠子の症状は、幻覚や幻聴、妄想、認知障害、昼夜逆転などが起きていたのではなかろうか。光太郎は妻が狐に取り憑かれた、とおもったかもしれない。光太郎は悲しみでいっぱいであったことだろう。憔悴し、オロオロしただろう。そして、妻から目を離せぬ日々であっただろう。                    ということもあり、
岩手県の花巻町へ、賢治碑文の選考をしに出掛ける余裕はなかったのである。


昭和10年 光太郎 53歳
2月、智惠子を南品川ゼームス坂病院に入院させる。

※この年、または翌年の11年に賢治碑の 雨ニモマケズの揮毫を依頼されたとみられる。
※私は《宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (1)》で《高村光太郎揮毫の碑文をみると、脱字があったことが認められましょう。このことは何を暗示しているのでしょうか。》と述べた。

光太郎が揮毫に着手したのは、昭和11年の春ころかと思われる。
年譜をみれば、光太郎、智惠子がどのような状況下にあったか。見えてくる筈です。
本来なら、揮毫はできなくなった、とお断りをしてもおかしくなかったのではないか。
ところが、賢治を評価する光太郎は惻隠の情もはたらいたのか、揮毫をされたように思う。ところが脱字が起きた。その脱字のひと文字、ひと文字は光太郎のナミダとともに落ちてしまったようにも思えるのです。

昭和11年(1936年)光太郎 54歳 
  12月、光太郎は突然、咽喉から大量の血を吐き、1ケ月ほど寝る。このころから、智惠子は病院で紙絵をきり始める。

昭和11年 。
羅須地人協会跡地:花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)に
賢治文学碑 雨ニモマケズの碑建立(高村光太郎揮毫)
※賢治没後3年目

昭和13年(1938年)、光太郎 56歳
10月5日夜、智惠子53歳がゼームス坂病院で没する。死因は粟粒性肺結核。病院で作られた紙絵は千数百点にのぼる。制作中の九代目団十郎の首は九分通り出来上がってひび割れた

――――――――――――次回のブログ宮沢賢治 (4)へ続く。

宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に 新解釈の玄侑宗久氏 (2)・・・光太郎は濡れ衣か

2013-04-21 10:36:26 | 日記
宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (2)

 無名の宮沢賢治を高く評価し世に送り出されたのは、草野心平、高村光太郎の功績と伝えられる。いちファンとして、感謝の念でいっぱいです。

 失礼なことをしていた。
宮澤清六著『兄のトランク』93頁には、二人のほかに横光利一氏のお名前もあり、3人のご尽力で全集出版の運びとなった、とあった。
横光さまにお詫びをもうしあげ、加筆をしておきます。


 さて、そのひとりの高村光太郎は、東京の駒込林町のアトリエを空襲で焼失。宮沢賢治の令弟宮沢清六宅の岩手県花巻町へ疎開した。
ところが、宮沢宅も1945年敗戦月の8月に戦災にあった。

花巻町の中心街はほとんど焼失したといわれる。賢治の書きかけの原稿の一部が焼け焦げもした空襲であった。

光太郎は、清六宅を出ざるをえなくなり、花巻を転々ののちに落ち着いた先は岩手県稗貫郡大田村山口(現在:花巻市太田山口)の鉱山小屋であった。このとき光太郎は63歳。
その鉱山小屋とは、銅鉱を採鉱した宮手沢鉱山の飯場の建物を3百円で払い下げてもらって解体、それを材料にして建て替えた小屋で自炊農耕の独居生活を始めた。

自分を鞭打つかのような雪の吹き込む陋屋での小屋生活であった。
  
 光太郎は敗戦後、軍国主義に加担し若者を戦場に送ったことを悔い、自省から、みちのくの小屋に籠もり謹慎生活を選びとったとみられている。
その「謹慎」生活の日々のなかで、高村光太郎は賢治のナマ原稿の束に本格的に向き合うことになれたのではなかったかと思われる。
それまでは、賢治の送りつけた詩集『心象スケッチ 春と修羅』のみの接点でしかなかった筈、と思う。では、その『春と修羅』には「雨ニモマケズ」が網羅されていたのであろうか。ノーである。

 国会図書館では宮澤賢治生誕100年(1996年)を記念して、「春と修羅」初版本の復刻出版がなされた。インターネットで『心象スケッチ 春と修羅』を検索なさるなら確認できましょう。

「雨ニモマケズ」は、賢治の死後、遺品片づけのおりに発見された、と伝えられる。ということから、私は 「春と修羅」初版本に「雨ニモマケズ」の掲載はノーであると述べた。

第一号の賢治碑の碑文選定作業のおりに、膨大なナマ原稿のなかから光太郎が選びとったとする話は、ありえないことであろう。このことは、年譜も検討しながら考察したい。
  
和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』の一章「椿説」によると、東京の光太郎宛へ碑文用作品を写し採って送った、とする話が披露されていた。では、誰が賢治の作品を選びとり、碑のサイズ内に美的におさまる文字数はいくつまでなら妥当か、も検討された上で、揮毫をお願いしたのであろうか。

 高名な光太郎先生の手を煩わすことは最小限にとどめるのが礼儀であろう。そのためには作品を選び取って書き写し、お届けする案が、妥当な思慮ではないだろうか。
雨ニモマケズの全文を碑文とすると、文字は細字化し読み難くなる、そこで、碑石には、雨ニモマケズの後半のみを刻む判断を決定した上で、揮毫をお願いしたのであろうと思われる。

ということで、和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』に記述されている「椿説」は、光太郎が賢治作品のなかから選びとり、その選んだ作品の文章を勝手に直したかのような断定的記述が紹介されていたかと思うが、はたして、そのようなことをする詩人の光太郎であろうか。

揮毫を頼まれて、快諾された光太郎さんである。
〝改竄〟問題で犯人扱いされていると知ったならば、あの世で悲しまれておられよう。

 イーハトーブの人々は、恩のある人を、そのような決めつけをなされるのであろうか。
されないだろうと私は思いたい。

 インターネットで検索をしておると、岩手の地元のお人であろうか、先行して研究をされる御仁を発見した。
ほっとした。
以下のブログの発信者「みちのくの山野草」さんである。

《 1853 高村光太郎の名誉のために - みちのくの山野草
『遺作(最後のノートから) 故宮澤賢治』(昭和9年9月21日付岩手日報)》 最近恩師 より『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井 書店平成22年4月28日発行)という本を頂いた。 興味深く読ませてもらっ ..   blog.goo.ne.jp/.../e/796efb4528cfe48c0dc219bb1d7d9131 - ・・》。

 みちのくの山野草さま、感謝もうしあげます。ネーミングから察しますに山登り、山野草を愛好の御仁さまとおみうけします。
私は、登山はひよっこですが、山がすきで、岩手山の頂上で出合った群生のコマクサは、それはそれは見事でした。未だに忘れられません。
そして岩大山岳部のOGさんに教えられて岩手山鬼ヶ城コースを歩いたことも忘れられぬ思い出です。早池峰山の蛇紋岩のあいだに咲く山野草も、格別の思い出です。

みちのくの山野草さまに助けて頂きながら、引用もさせて頂きながら困難な「濡れ衣事件」をみてゆきたい。ねがわくば、賢治の精神理解にむけて努力できればと思っております。

みちのくの山野草さまの応援を得て鬼に金棒となりました。

私は繰り返し述べたい。

宮沢賢治の遺品の中から黒皮の手帳が見つかり、その手帳に「雨ニモマケズ」の書付があったことが真実ではなかったか。
とするなら、ブログ(1)で発信した「ささやき戦術」、と私はみるが、うわさ話的に撒き散らすことは、いかがなものであろうか。

姑息なことをやるイーハトーブの人々ではない、と信じる。
私は、宮沢賢治と高村光太郎の友情を信じるがゆえに、和田氏の「椿説」に憂慮する。

 和田氏は歴史的な例証をあげられて立派な理論書「ヒドリ論」を公表された。
そのご努力は、御労作は賢治をさらに深く理解させ、おし進めたことである。
それゆえに、惜しまれる「椿説」の掲載ではなかろうか。

 さて、高村光太郎には毀誉褒貶がついてまわるようだが、誰しも生きておれば、いろいろ云われることだ。己がお天道様に恥じない生き方をすればそれでよいのだがと思う。

高村光太郎は自分にきびしく生きられた。

岩手県の鉱山小屋に籠もった高村光太郎はすでに齢63であった。人生50年弱の時代にあって、真善美・生老病死を見詰める生活でもあっただろう。
この後、光太郎は自らの生涯を問う詩『暗愚小伝』を編んだ。題名からして、賢治がデクノボーと呼ばれたいと渇望したその信念の影響を強く受けてのタイトル『暗愚小伝』であるように思えてならない。

光太郎は65歳のときに、帝国芸術院会員に推挙されたが、辞退した。この辞退は光太郎の謹慎の表明ではないだろうか。謹慎を本物とする己に突きつけての辞退ではなかっただろうか。

光太郎71歳の時には、日本芸術院第二部会員に選ばれたが、また辞退をした。
誠実な光太郎ではないか、と私には感じられてならない。

その、光太郎が、賢治の雨ニモマケズの詩文を、替えた、と云われている。
日本の良識と尊敬する山折哲雄氏のご指摘もある。私は詩文を、替えた、といわれる本質は、改竄した、という意味にとらえた。改竄となればゆゆしきことではないか。高村光太郎は、そのような人間であったのであろうか。

                 ――――――――――――次回ブログ宮沢賢治 (3)へ続く。

追記:光太郎の住んだ鉱山小屋に関しては、佐藤隆房著『高村光太郎 山居七年』を出典としました。