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宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (6)・・・岩手日報

2013-05-30 21:49:09 | 日記

宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (6)

 清六氏のお孫様で宮澤和樹氏は日蓮宗宗務院伝道部でご講演をされたときの― YouTube《祖父 清六から聞いた 宮澤賢治 その1~8》に私は出合えた。
ご講演は2012年4月に林風舎さまのご投稿とあることから、つい最近の講演であるようだ。

私は拝聴させていただいて、いろいろと教えられた。
が、ショキングなことがあった・・・と前回ブログ(5)で既述した。

 昭和20年、東京の高村光太郎はアトリエを空襲で焼失し花巻へ疎開した。
東京での被災体験から光太郎は、防空壕を掘ってほしいと提案された由。宮澤家はその提案を受け入れたことで、
賢治文学を焼失させずに済んだ話を、和樹氏は講演なさったと思う。

ところが、宮澤和樹氏は「講演その5」で「清六か、光太郎さんがヒデリにしたらしい」といわれたかと思う。

和樹氏は、
雨ニモマケズのヒドリをヒデリと直した理由をいくつか挙げらてたかと思う。以下

1、「祖父の清六は、ヒドリという言葉は使ったことがない」こと。
2、清六は言葉の「ヒドリを聞いたこともない・・・」こと。
3、そして和樹氏の見解とおもわれるが、雨ニモマケズの詩文中のここの行だけに賢治さんが方言を使うのは考えられぬこと。
  いくつかの例を挙げられて指摘されたかと
  思う。

4、詩創作手法の対句でみると、気候は夏と捉えて「ヒデリ」が妥当である、とおもわれると述べられたかと思う。

私は、原詩の、

   ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ
   サムサノナツハ オロオロアルキ
     
  ・・・・であったと思うので、二行とも賢治は夏のことを詠んだとは限らないのではないだろうか。むしろ
  対句手法での作詩ならば、

   ヒデリノトキ ナミダヲナガシ
      ・・・・・との考えが導かれてきてしまうし、夏のヒデリ、を想定してしまいましょう。

ヒドリの次の行では “寒さの夏”を、賢治は書いておりますので、
季節の夏を二行も続ける作詩法は、「夏」を強調してしまうことになるのではないでしょうか。

夏を強調したかったことより、冷夏による飢饉。日照りによる旱害での飢饉を強調したかったのでありましょうか?

ここで、
私は玄侑宗久氏のヒドリ説、和田文雄氏のヒドリ説などが妥当な説ではないか、と思い浮かべてしまうのです。

音楽の作曲でいえば、転調としたいところになっているのでは、と思うのですが・・・・。
夏、夏と二行連として作詩を賢治はしたのでしょうか。

やはり、原詩のヒドリ・・・ を尊重したいのです。


ところが、賢治文学の相続人様・著作権のある宮沢のご本家さまのご意思は
ヒデリ、の立場で解釈をしてゆかれるのですね。



宮澤和樹氏は、次のようにもいわれたかと、思う。

賢治さんは、
    北ニ ケンクワヤ ソショウガ アレバ 
        ツマラナイカラ ヤメロトイヒ

と書きましたように、喧嘩はきらいでしたから、ヒドリかヒデリで喧嘩は よしてほしい。
今後も活字のときは、ヒデリとしますが、ヒデリのところには注釈をつけて原詩はヒドリ、「日用取(ヒドリ)」の説がある、と
したい・・・と述べておられたかと思う。

 ご本家さまのご発言だけに重みのあるご発言となりましょう。

 賢治碑建立の際も、ご本家さまは、〝ヒドリは聞いたこともない言葉であり、賢治の書き間違いでしょう〟と解釈をされ説明がなされたのでしょうか?

 雨ニモマケズの文を正確に、ありのままに受けとめたい、賢治精神の真髄に拘った詩碑建設委員長の佐藤隆房氏であったのではないでしょうか。
ところが、佐藤隆房氏は栃木県那須のご出身であることから、方言です、といわれたとするなら、そのヒデリ論を受け入れざるを得なかったのかもしれない。

佐藤氏は、詩碑には雨ニモの後半部分を提案していただけに、賢治文学の真髄の脱落文字「行ッテ」や「デクノバウ」の誤字については、許容できぬことであったのであろう。ゆえに光太郎先生に書き直しをと主張されたのだろうと思われる。

 佐藤隆房氏のご令息佐藤進氏は、「高村先生は謙虚な方でありますので、他人の詩を勝手に添削するような事は全く考えられません。また揮毫するにあたり、誤記することもあり得ません。高村先生に揮毫の原文を送るとき、どなたかが、添削したとしか考えられません。」と記している。この高村先生人物論は、謙虚に咀嚼反芻したいところと思います。

高村光太郎を疑っておられる方々に証拠の資料をご提供しますので、
ご高覧ねがいます。
        
岩手日報の写真 以下。







貼り付けた写真は、昭和9年の岩手日報です。

学芸欄には「宮澤賢治氏逝いて一年」との活字が見える。
この特集記事で「雨ニモマケズ」の紹介がされたが、遺品の手帳にある
「雨ニモマケズ」との差異がみられる。

この新聞写真は、
ブログ「みちのくの山野草」さまが、高村光太郎の「濡れ衣」を晴らそうとされて公表されたブログ《1853 高村光太郎の名誉のために - みちのくの山野草 》から引用させていただきましたが、

宮澤和樹さま、
ブログに貼り付けた岩手日報をご覧いただきたいと思います。

時系列的に見てゆくと、以下のようになろうかと思います。

●岩手日報の雨ニモマケズの発行日は昭和9年9月21日。
●高村光太郎先生の揮毫着手は、昭和10年後半から11年の夏ころまでであったかと思 われます。

推理小説的に推理をさせていただきますなら、
高村先生はクロと断定できるのでしょうか。
つまり、光太郎先生が揮毫をされる以前に、地元紙の岩手日報掲載の雨ニモマケズは原詩を改竄していたということではないでしょうか。そのことは、シロかクロか・・・です。

光太郎先生が率先してヒドリをヒデリと改竄した説をかかげられる著名な宗教学者がおられたかとおもいますが、
その御主張には、証拠を目にされての御主張でありましょうか。
岩手日報昭和9年9月21日付けで、既にヒデリとなっていますので、この改竄に光太郎が関与していた、といわれるのでしょうか。
無理があるのではないでしょうか。

昭和9年9月に、既にヒデリとなって公表されたにも拘らず、その後年に光太郎先生はヒデリと揮毫したことを、否、光太郎が最初にヒデリと改竄したのですと主張続けられるのであれば、それは、非科学的な強弁となりましょう。

私は、岩手日報社とは離れて居住する関係上、その新聞のオリジナルを視認できにくい環境ですが、宮澤和樹さまは、花巻在。
どうか、岩手日報の原紙とオリジナルの手帳とを照合されて
ご確認のほどを、お願いもうしあげます。



私は、原詩と岩手日報掲載写真とを照合しておりますと、ヒデリだけではなく、たくさんの改竄があるようにみてとれました。
たとえば、

清六著『兄のトランク』には、
  原詩     サムサノナツハオロオロアルキ
  清六著は   サムサノ夏ハオロオロアルキ

とされておりましたように、
賢治遺品の雨ニモ手帳に忠実には再録はされてはおられないように思われます。

宮沢賢治は現代でこそ高く評価されておりますが、当時は原詩の改竄の具合からみると、著作者への敬意はどうであったのであろうか、と思わされます。つまり、原詩への侵害が起きていたのではないでしょうか。


以下は岩手日報掲載の「雨ニモマケズ」。()内の赤字は原詩

 雨ニモ負()ケズ
 風ニモ負()ケズ
 雪ニモ 夏ノアツ()サ(・・脱落)モ負()ケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテイカ()ラズ
 イツモシヅカニ ワラツテヰル
 一日ニ玄米四合ト味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトニ()ジブンヲカンジョウニ入レズ(・・脱落)
 ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ(林ノ・・脱落)陰()ノ
 小サナ茅()ブキノ 小屋ニヰテ
 東ニ病氣ノ子供(コドモ)アレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニ疲(ツカ)レタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコワ()ガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンカ(クワ)ヤ ソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデ()リノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニ デクノボウ()トヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ 
 ワタシハナリタイ
                      (出典:ブログ みちのくの山野草)

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ヒドリ探究一休止について・・・・賢治の手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌年の
1934年2月16日。この日、東京・新宿「モナミ」で
開催された「宮沢賢治友の会」の席上であったと伝えられる。

会合には、賢治の弟・宮沢清六さんが賢治の遺品の大きな革トランクを持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し他の参会者にも回覧された。
その模様を参加した詩人の永瀬清子が後に書き記している。

私は、この会に光太郎が出席していたとなれば、
宮澤和樹氏の主張は、ありえることかも・・・と探究をしてきたことで、再吟味を覚えた。

私の懼れは当たった。
光太郎さんはご出席をされていた。
ということは、宗教学者の山折氏の主張も、ありえることかも、と自省している。

その日のモナミには、以下の方々の出席であったそうだ。

折居千一、瀬川信一、永瀬清子、菊池武雄、宮澤清六、高村光太郎、岡村政司、八重樫祈美子、梅津善四郎、
巽聖歌、新美南吉、神谷暢、右京就逸、鱒沢忠雄、深沢省三、土方定一、草野心平、
尾崎喜八、逸見猶吉、吉田孤羊、儀府成一

当日の参加者の写真を眺めると、光太郎さんは黒ネクタイ姿で写っていた。
その喪服姿は
賢治さんへの礼儀であった。

東京での、宮澤賢治追悼会であったのだ

永瀬清子さんの当日の記録を吟味し、洞察をし、続行したいとおもう。                         (2013年6月15日 追記)


                            ―――次回ブログ 宮沢賢治(7)へ続く――――


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1 コメント

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はじめまして (「みちのくの山野草」です)
2015-06-15 18:45:54
 はじめまして。「みちのくの山野草」の管理者の鈴木 守という者です。
 たまたま、貴ブログに気付きました。
 つきましては、是非
   『石川朗様ご教示ありがとうございました』  http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/214a2c68c03d21866454e250c47d2fd0
をご覧下さい。
                                                        花巻市 鈴木 守    

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