《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

『彼は早稲田で死んだ』――川口大三郎君の死を無駄にしないという強い思いの結晶

2021-11-07 12:26:36 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって



『彼は早稲田で死んだ』――川口大三郎君の死を無駄にしないという強い思いの結晶

(1)樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋、2021年11月10日刊)を一読しました。本書を契機として、多くの方々が、カクマル(革共同革マル派)による7時間にわたる監禁と集団的リンチの末に虐殺された早大生・川口大三郎君(享年20)を記憶し、想起し、追悼していただきたいと願います。
 中核派の私(2006年に離党したとはいえ)がいうと著者もありがた迷惑でしょうが、カクマルの早稲田における常軌を逸した暴力支配、日常的なテロ・リンチ、そのカクマルを庇護する大学当局の実態、カクマルに抗する早稲田の学生たちのほんとうに大衆的な蜂起が、当事者でなければ書けないドキュメントとして半世紀近くたって、満天下に明らかにされました。
 カクマルがすでに衰退の極みにあるとはいえ、なおも党派として存在していることを考えると、本書出版は、著者の再度の「蜂起」といえるでしょう。テロ・リンチの恐怖とたたかう「小さな勇気」(1973年6月にまかれたチラシのなかのことば)を今も持ち続ける著者の「熱い思い」(本書)に心から拍手を送ります。
 著者の樋田さんのスタンスは、カクマルの暴力支配にたいして「非暴力不服従」「不寛容にたいする寛容の心」というものです。カクマルにたいする武装自衛には当時も今も反対の立場です。ものたりないと感ずる向きもあるでしょう。でも、そうだからこそ、本書はカクマルという党派、そのテロ・リンチを根底から鋭く告発するものとなっています。私は、樋田さんの抑えた筆致によって、かえって、カクマルが左翼の一派というものではなく、特別にきわだって理不尽、特殊に暴力的な集団であるという姿が浮かび上がっていると、読みました。
 ぜひとも多くの同時代の人たち、今の若い世代の人たち、社会運動史の研究者が貴重な歴史の証言として本書をじっくりと読んでいただきたいと思います。

(2)また本書の重要な意義がもうひとつあります。それは、元カクマルの大岩圭之助(当時はカクマル一文自治会副委員長、現在は明治学院大学名誉教授、筆名・辻信一)との対談を実現し、大岩の生のことばを引き出したことです。元カクマルの証言や現在の心境を聴き取ることは誰がやってもほとんど実現できていません。それを引き出しえた著者の信念と執念は特筆されるべきでしょう。
 では、元カクマルの大岩は何といっているのか、詳しくは別途分析・批判したいと思います。

 だが、もっとも重要な点は、大岩は1975年1月か2月にカクマルを離脱しているものの、いまだに当時のカクマルとその暴力支配、何よりも川口君虐殺について、あれこれと弁明しながら、なんの謝罪も、自己批判もしていないことです。「川口君の事件への罪の意識」ということも口にしながら、むしろ開き直り的に、「謝罪というのはそういう一種の茶番にならざるを得ない」「責任なんてそもそも取りようのないものだ」「僕は責任を取ることができないと思っている」などといっているのです。
 大岩はカクマルであった自己、自己が所属したカクマル組織について、まったくなんの総括もしていません。その作業を拒否しています。いわく。「僕はこれまでに学生運動が自分の原点だと考えたことがない」「その辺りというのは、僕の中でもポッカリと開いているエアポケットのようなもの」というわけです。なんと卑劣な自己保身であることか!
 私は、現在の大岩の言動は、1972年・73年当時のカクマルそのものだと受け止めました。

 関連して、川口君虐殺の下手人の一人に村上文男(当時、二文自治会委員長)がいます。村上は獄中で、「「一部の未熟な分子」呼ばわりによって(あるいは、この規定に象徴されるすべてによって)僕を疎外した組織を僕は絶対に許すことができない」「革マル派に革命などやらせてはならないと思う」と書きました(『梯明秀との対決』こぶし書房、1979年7月刊)。この村上もまた川口君虐殺をまったく謝罪しておらず、なんの自己批判的総括もしようとしていません。しかし、村上の前出のことばが示すように、川口君虐殺問題をめぐって、とりわけ早稲田の学生の大衆的蜂起に直面して、カクマルとその全構成員は動揺し、ガタガタになったのです。
 ですから、カクマルの暴力支配の先頭に立ってテロ・リンチをほしいままにし、「革マル系自治会の暴力の象徴的な人物の一人」(本書)である大岩が、それを「エアポケット」などということは大嘘なのです。いまだに、問題の隠ぺいをはかっているのです。
 カクマルとはこういう卑劣で独善的で傲慢な党派集団なのです。

(3)本書は、川口君がなにゆえに虐殺されねばならなかったのか、なにゆえに死に至るまでのテロ・リンチを受けねばならなかったのかについて、つまり死の真相究明について、必ずしも踏み込んでいないように思われます。著者のジャーナリストとしての知見と経験からすれば、かなりのことができたのではないかと思います。もしかすると、「不寛容にたいする寛容の心」という著者の信念が、死の真相究明に向かうことと矛盾するからかもしれません。その点、まだ読み込めていません。

 私は、カクマルが川口君を白昼、学生大衆の面前で連行・拉致した目的は初めから川口君を早稲田から抹殺することにあったと考えます。あらゆる事実がそれを立証しています。それにたいして川口君はカクマルからの自己批判強要にけっして屈しなかったがゆえに、つまり「中核派の同盟員ではない(これは事実です)」といい抜いたがゆえに、また自己の反カクマルの思想と信念を最後まで曲げなかったがゆえに、カクマルどもが川口君の不屈さに追いつめられ、動揺し、逆上し、初期の政治的目的を軍事的に実行したのだと思います。「一部の未熟な分子」のしわざではないのです。

 じつは、カクマルは中核派早大支部のなかにスパイを潜入させていました。そのスパイがカクマル中央に「川口=中核派同盟員」と通報していたことは間違いないと思います。
 といいますのは、カクマル機関紙『解放』139号(1969年6月15日)に「ブン=ブク連合の革命的解体のために」という無署名論文、つまり黒田寛一およびカクマル政治組織局の組織的責任で執筆された重要指導論文があります。そこでは「ブン=ブク連合解体そのものの独自的追求に関して」として、「他党派への加入戦術の駆使を通じた組織的内情の適確な把握」を具体的な戦術としてあげ、「他党派解体のための組織戦術の具体的解明とその貫徹のたたかいを組織的に一段と強化していかねばならない」と結んでいるのです。
(なお、ブン=ブク連合とは、ブントとブクロ派の連合というカクマル特有のいい回しです。)
 このように、1969年前半の段階で、カクマルは中核派とブントへのスパイ送り込みを組織決定したのです。以後、スパイ戦術をどんどん強化、拡大していったのです。
 いろいろなところでカクマルのスパイ潜入の事実があります。
 このスパイ送り込み戦術の問題は、川口君虐殺に直接結びついたカクマルの悪行として特別に記録されるべき問題であると思います。

(4)川口大三郎君は、反戦反核、狭山差別裁判糾弾に熱心に取り組み、人間解放を求めてやみませんでした。それゆえにカクマルの暴力支配を許さずにたたかいました。カクマルの暴力と脅しに屈せず、最後までその正義の信念、思想を曲げませんでした。虐殺死をとげた川口君はどんなに悔しい思いだったでしょうか。
 改めてここに、川口大三郎君の生と死に思いをはせ、心から追悼の意を捧げます。あわせて、当時の私たち中核派が川口大三郎君の存在をほんとうに大事にしえていたのか、殺された川口君追悼をやりえていたのかを振り返るとき、いろいろな慚愧の思いにとらわれます。
「川口大三郎君の死を無駄にしない。川口君の死を後世に語り継ぐ」という樋田毅さんと数十人の協力者の皆さんの強い思いの結晶が『彼は早稲田で死んだ』の出版です。これを、誰よりも川口君が喜んでいることでしょう。
 樋田さん。さまざまな困難をのりこえて、この貴重な事業をやりとげられ、ほんとうにご苦労様でございました。当時の私たち中核派には、残念ながらこのような事業はできませんでした。同じ早稲田大学に籍をおいた者の一人として、お会いしたことはありませんが、樋田さんに深く感謝申し上げます。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-11-11 02:24:17
まさしく目糞鼻糞。お前らの法大白色支配やインターへのテロをどう総括するのか。内ゲバ主義3派は自己批判して解党しろ。話はそれからだ。

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