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「今どき琳派」パネルディスカッション風景(スケッチ&コメント)

2014-07-06 13:04:54 | スケッチ


「今どき琳派」パネルディスカッション風景

江嵜企画代表・Ken


「今どき琳派」と題して、京都日本画家協会主催のパネルディスカッションが、7月5日午後
2時から4時までの予定で、京都文化博物館別館ホールで開かれると聞き、楽しみにして出かけた。会場の様子をいつのようにスケッチした。

日本画教室の仲間も顔を見せていた。予定時間を30分オーバーした。榊原吉郎(美術史家、京都市立芸術大学名誉教授)、上村淳之(京都日本画家協会理事長}、北村恵美子(同副理事長)、雲丹亀(うにがめ)利彦(同理事)に佐藤敬二(京都精華大学教授)がパネラーとして参加した。

京都日本画家協会は、昭和16年(1941)に竹内栖鳳、菊池契月、西山翠嶂、川村曼舟、橋本関雪を顧問として設立。日本画家現在約570名が参加している。本館5階では本日7月6日(日)まで会員149人の作品が展示されており壮観だった。日本画家、森田りえ子さんの「白露」と題する作品も会場で見ることができ幸いだった。

『琳派』とは、大正時代に美術関係者が、尾形光琳(1658~1716)の「琳」を取って名付けられた。俵屋宗達の「風神雷神図」は「琳派」を代表する作品として美術の教科書にも掲載されている。尾形光琳は、俵屋宗達や本阿弥光悦とも姻戚関係にある。光琳は『風神雷神図』屏風を手本に同じ図柄の屏風絵を残している。

「琳派」を育てたのは町の旦那衆や庶民たちであった。光琳は「雁金屋」という東福門院出入りの呉服商の次男坊だった。家業が分散し、中年になって絵師として活躍した。光琳から100年遅れて中村芳中、さらに100年遅れて神坂雪佳、芳中の時代には、酒井抱一が江戸に光琳の画譜を触れ回って「光琳」気運が一気に盛り上がった。ほぼ100年ごとに現れる不思議な流派だ。」と榊原吉郎教授は話した。

「雪佳は「琳派」をデザインとして理解される道を開拓した。「琳派」は、衣・食・住の生活の場で生きている。エルメスではたらくひとも、日本から世界に発信する最高の美の一つとして「琳派」をとらえる。「今どき琳派」の出現が期待される」と基調講演を結ばれた。

基調講演のあと、4人のパネラーが順番に正面に映されるご自身の絵を解説しながら、『琳派』とのつながりを解説した。上村淳之画伯は「せっせとスケッチをしなさいと教えられた。自然を見つめる。見つめた自然から教わる。自然の有様を見て生まれる胸の内の高まりを具体的に表したのが絵になる。琳派の絵にその源流がある。」と説明された。

北村恵美子画伯は「本日、こんなところに座っているが、「琳派」を意識したことはない。」とご自身の絵を紹介した。「自分の中での「琳派」は、むしろ体の中を流れる「リンパ液」の「リンパ」の方かもしれない。」と話した言葉が印象に残った。

雲丹亀利彦画伯は、絵を映しながら、どこに琳派かと問われると答えられないが、中学の時に見た、俵屋宗達の『風神雷神図』の印象が強烈に残っている。今振り返ってみて、自分の絵の原点になっているのかもしれない。」との言葉が印象的だった。

この日の京都は土曜日とはいえ、JR,地下鉄、道路と、人、人、人であふれかえっていた。今なぜ京都なのか。外国人の姿も月を追って増えてきている。京都に綿々と受け継がれてきた日本の伝統文化がいま改めて世界に受け入れられようとしているのかもしれない。(了)

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