「未来のイヴ」 ヴィリエ・ド・リラダン著 斎藤磯雄訳
創元ライブラリ 東京創元社刊
を読む。
最近、積読になっている本を少しでも片付けておこうという気になっている。ここ数年で、積読になっている本が、膨大な数になってしまっているからだ。
もちろん、読むスピードより買うスピードの方が早いから積読になってしまうわけだが、実は読める量より買う量の方が多いというわけではない。買ったものをすぐに読めば、きっと読破してしまっているのだろうと思う。本を読む速さは、ぼくはそれなりに速いのだ。じゃあなぜ積読本が増えるのか。
つまり、そもそもそんなにすぐに読みたいわけではないが、なんとなく欲しいという本を、古書店の均一棚などで随分と相場より安い値段で並んでいるのを見つけた場合、そのうち読むだろうと思いつつ、買ってしまうからだ。それで、手元にあるという安心感を抱いたまま、結局読まずに、図書館で借りた本とかをどんどん読んでしまうわけである。そうしたことを繰り返しているうちに、いつのまにかこんなことになってしまった。本を新刊書店でしか買わなければ、多分こんなことにはならなかっただろう。数えたことはないけれども、積読になっている本は、多分、百冊を遙かに超えてしまっているはず。以前よりも本を置くスペースが出来た途端、この有り様である。しかもその大半は、多分、この先も読むことはないだろう。中には読もうとは思ったもののどうも読みにくくて、投げてしまったという本も少なからずある。古いSFの文庫にそういうものが多いが、もともとSFが好きだから、サンリオ文庫の火星人やハヤカワの青背は並んでいるのを見るだけでも嬉しいので、そういうのはもう一種のコレクションだと思って、罪悪感からは目を逸らすことにしている。
そうした、そもそも読むつもりがそんなにない積読本以外に混じって、いずれきっと読もうと思っている積読本もかなりあって、この「未来のイヴ」などはその代表格だった。幻想文学の文脈からも、SFの文脈からも、「超」がつくほどの重要作であるから、タイトルは十代の頃からよく知っていた。なのに、これまで読んでこなかった。文庫になる前は結構高価な本だったし、いろんなところで言及されているのに触れてきたので、なんとなく読んだような気になってしまっていて、読みそびれていたのだ。正漢字、歴史的仮名遣いを使った名訳とされる翻訳も、一見とっつきが悪くて、読もうという気持ちを萎えさせるのに十分であった。
ストーリー自体は、極めてシンプル。登場人物も多くない。最重要な登場人物は四人。まずは発明家のトマス・エディソン。もちろん「あの」発明王エジソンがモデルなわけだが、ここではあくまで「エジソンをキャラクター化した人物」である。それから、その若き日の困窮して死にかけていたエディソンに手を差し伸べてくれた恩人、エワルド卿。彼は女性に対する幻想ににっちもさっちもゆかなくなっている青年であり、その恋わずらいのせいで自殺さえ考えている。まあ、言ってしまえば中二病をこじらせたような、めんどくさい人物である。それから、そのエワルド卿の恋わずらいの原因となっている絶世の美女、アリシヤ・クラリー。彼女は女優であり、完璧な容貌とスノッブな内面を持つ女性である。そしてもう一人、というか、もう一体。それはハダリーという人造人間である。彼女はエディソンが、クラリーの顔は好きだが内面はどうしても受け入れがたいから、一体どうしたらいいのだろうというエワルドの悩みを解消してあげようと、外面はクラリーそのものだが内面は遙かに高貴な存在として作り上げた人造人間、「未来のイヴ」である。で、肝心のストーリーだが、この登場人物紹介だけで、ストーリーの大半は語り尽くした感があるほどだ。つまり、クラリーに対する複雑な恋に苦しむエワルド青年のために、万能の発明家エディソンが究極の理想の女性とも言うべきアンドロイドをつくり上げるが、結局そのアンドロイドは運搬の最中に海中に沈んでしまう、というだけの物語である。はっきり言ってしまえば、ストーリー性が希薄な上に、登場人物たちの感情に共感できるという人も少ないだろうから、かなり読み手を選ぶ作品だといえそうだ。しかし、読み手を選ぶとはいえ、今に至るまで人造人間テーマの古典にして金字塔である。
では、物語性や文学性に期待できないなら、いったいどんな取り柄があるのかといえば、それはハドリーをめぐる綺想の数々である。例えば、エディソンの家の地下には、「江戸川乱歩かよ」というような、人工楽園が広がっていて、ハドリーはそこに安置されている。地下の人工楽園と人造の美女という取り合わせは、ちょっと出来すぎだ。それに、物語の大半を占める、ハドリーの設計図とも言える部分。皮膚はどうだとか、肉はどうだとか、そんな細かい部分について、それなりの説得力を持たせながら、事細かに描かれている。最期の最期でちょっとオカルトに頼る部分はあるものの、本当に細かく描かれているので、当時これを読んだ人の中には、なんだかすぐにでもこうした人造人間が出来そうな気がしてきたという人も多いのではないだろうか。現代的に言えば、ある種、スチームパンクの極みとも言える部分である。この小説の肝はここにあるので、この部分を愉しめなければ、どうしようもなさそうだ。
創元ライブラリ 東京創元社刊
を読む。
最近、積読になっている本を少しでも片付けておこうという気になっている。ここ数年で、積読になっている本が、膨大な数になってしまっているからだ。
もちろん、読むスピードより買うスピードの方が早いから積読になってしまうわけだが、実は読める量より買う量の方が多いというわけではない。買ったものをすぐに読めば、きっと読破してしまっているのだろうと思う。本を読む速さは、ぼくはそれなりに速いのだ。じゃあなぜ積読本が増えるのか。
つまり、そもそもそんなにすぐに読みたいわけではないが、なんとなく欲しいという本を、古書店の均一棚などで随分と相場より安い値段で並んでいるのを見つけた場合、そのうち読むだろうと思いつつ、買ってしまうからだ。それで、手元にあるという安心感を抱いたまま、結局読まずに、図書館で借りた本とかをどんどん読んでしまうわけである。そうしたことを繰り返しているうちに、いつのまにかこんなことになってしまった。本を新刊書店でしか買わなければ、多分こんなことにはならなかっただろう。数えたことはないけれども、積読になっている本は、多分、百冊を遙かに超えてしまっているはず。以前よりも本を置くスペースが出来た途端、この有り様である。しかもその大半は、多分、この先も読むことはないだろう。中には読もうとは思ったもののどうも読みにくくて、投げてしまったという本も少なからずある。古いSFの文庫にそういうものが多いが、もともとSFが好きだから、サンリオ文庫の火星人やハヤカワの青背は並んでいるのを見るだけでも嬉しいので、そういうのはもう一種のコレクションだと思って、罪悪感からは目を逸らすことにしている。
そうした、そもそも読むつもりがそんなにない積読本以外に混じって、いずれきっと読もうと思っている積読本もかなりあって、この「未来のイヴ」などはその代表格だった。幻想文学の文脈からも、SFの文脈からも、「超」がつくほどの重要作であるから、タイトルは十代の頃からよく知っていた。なのに、これまで読んでこなかった。文庫になる前は結構高価な本だったし、いろんなところで言及されているのに触れてきたので、なんとなく読んだような気になってしまっていて、読みそびれていたのだ。正漢字、歴史的仮名遣いを使った名訳とされる翻訳も、一見とっつきが悪くて、読もうという気持ちを萎えさせるのに十分であった。
ストーリー自体は、極めてシンプル。登場人物も多くない。最重要な登場人物は四人。まずは発明家のトマス・エディソン。もちろん「あの」発明王エジソンがモデルなわけだが、ここではあくまで「エジソンをキャラクター化した人物」である。それから、その若き日の困窮して死にかけていたエディソンに手を差し伸べてくれた恩人、エワルド卿。彼は女性に対する幻想ににっちもさっちもゆかなくなっている青年であり、その恋わずらいのせいで自殺さえ考えている。まあ、言ってしまえば中二病をこじらせたような、めんどくさい人物である。それから、そのエワルド卿の恋わずらいの原因となっている絶世の美女、アリシヤ・クラリー。彼女は女優であり、完璧な容貌とスノッブな内面を持つ女性である。そしてもう一人、というか、もう一体。それはハダリーという人造人間である。彼女はエディソンが、クラリーの顔は好きだが内面はどうしても受け入れがたいから、一体どうしたらいいのだろうというエワルドの悩みを解消してあげようと、外面はクラリーそのものだが内面は遙かに高貴な存在として作り上げた人造人間、「未来のイヴ」である。で、肝心のストーリーだが、この登場人物紹介だけで、ストーリーの大半は語り尽くした感があるほどだ。つまり、クラリーに対する複雑な恋に苦しむエワルド青年のために、万能の発明家エディソンが究極の理想の女性とも言うべきアンドロイドをつくり上げるが、結局そのアンドロイドは運搬の最中に海中に沈んでしまう、というだけの物語である。はっきり言ってしまえば、ストーリー性が希薄な上に、登場人物たちの感情に共感できるという人も少ないだろうから、かなり読み手を選ぶ作品だといえそうだ。しかし、読み手を選ぶとはいえ、今に至るまで人造人間テーマの古典にして金字塔である。
では、物語性や文学性に期待できないなら、いったいどんな取り柄があるのかといえば、それはハドリーをめぐる綺想の数々である。例えば、エディソンの家の地下には、「江戸川乱歩かよ」というような、人工楽園が広がっていて、ハドリーはそこに安置されている。地下の人工楽園と人造の美女という取り合わせは、ちょっと出来すぎだ。それに、物語の大半を占める、ハドリーの設計図とも言える部分。皮膚はどうだとか、肉はどうだとか、そんな細かい部分について、それなりの説得力を持たせながら、事細かに描かれている。最期の最期でちょっとオカルトに頼る部分はあるものの、本当に細かく描かれているので、当時これを読んだ人の中には、なんだかすぐにでもこうした人造人間が出来そうな気がしてきたという人も多いのではないだろうか。現代的に言えば、ある種、スチームパンクの極みとも言える部分である。この小説の肝はここにあるので、この部分を愉しめなければ、どうしようもなさそうだ。