漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

探偵ガリレオ

2006年10月31日 | 読書録
「探偵ガリレオ」
東野圭吾著

を読んだ。
食い足りない感じ。
科学が題材になった推理小説で、面白い事は面白かったし、読みやすかったし(朝、出勤の電車で読み始めて、帰りの電車の中ではもう読み終わってしまったくらい)、さすがに人気作家の作品だとは思ったけれど、一時間ドラマの脚本を読んでいるようでもありました。

僕は、もともと余り推理小説を読みません。
面白いことは確かだし、特に嫌っているわけでもないのだけれど、読んだ後に何となく虚しさが残ることが多いので、滅多に読まないのです。種が明かされ犯人がわかると、ああ、時間を潰したなと、そんな気がするのですね。これは僕だけかもしれませんが。
この小説は、時間が無駄になったという風には思いませんでした。思いませんでしたが、趣味に走るなら、もっと思い切り走った小説を読みたかったとは思いました。「探偵ガリレオ」というくらいなのだから、もっととんでもない主人公を期待していたのですね。

七枚綴りの絵/六枚目の絵/土手での邂逅・5

2006年10月29日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 その日は、朝からとてもよく晴れた日でした。
 わたしは前もって手に入れていた切符を持って、男の子を迎えに行きました。
 男の子は、緊張と興奮で、落ち着かない様子でした。孤児院を出てから、わたしは男の子の手に、切符を握らせました。それから、興奮させすぎてはよくないと思い、手を回して肩を軽く叩いて、さあ行こう、と促しました。
 駅に辿り着くと、わたしたちは駅舎の中で、座り心地の悪い木製のベンチに並んで腰掛け、汽車の到着を待ちました。窓の外をふと見ると、紋白蝶が、ひらひらと飛んで行くのが見えました。
 わたしは男の子に、孤児院の生活はどうだと訊きました。
 男の子は、頷いただけで、何も答えませんでした。
 次にわたしは、いつからあそこでいるのか、尋ねました。
 ─赤ちゃんの頃から。
 男の子は答えました。
 ─じゃあ、お父さんの顔もお母さんの顔も知らないんだね。
 わたしは言いました。男の子は、答えました。
 ─うん。でも、寂しくないよ。
 ─本当に?
 ─本当に。園長先生は、僕たちはみんな、神様から預かった子供たちだと言っていたから。神様が、いつでも僕達を見守っていてくれていると言っていたから。
 ─そうか。
 わたしは答えました。ふと、先日孤児院を訪ねた時に出会った、色の白い女の子のことを思い出しました。それから、誰かが、あそこにいるのは、みんな、「あいのこ」ばかりだよと言っていた言葉を思い出しました。
 わたしは男の子の顔をじっと見詰めました。その時、大きな汽笛が響きました。男の子は、さっと立ち上がりました。向こうには、真っ黒な煙が青い空に映えていました。
 ─汽車だ!
 男の子が小さく叫びました。そして、それから彼は緊張してしまったらしく、じっと無言で駅に滑り込んでくる汽車の黒い車体を目で追っていました。さあ行こう、とわたしは男の子を促しました。男の子は立ち上がり、手に握り締めた切符をちらりと見詰め、またしっかりと握り直しました。
 汽車での小さな旅は、素晴らしいものでした。
 男の子は終始興奮していて、あらゆるものが珍しくてたまらないようでした。わたしは男の子の投げかけてくる問いに答えながら、その輝いた瞳を見るにつけ、本当にすがすがしい、満ち足りた気分になりました。まるで自分が男の子の父親になったかのような、そんな悦びを感じていたのです。
 ─いつまでも乗っていたいなあ。男の子は言いました。どこまでも、僕の知らない町の、その向こうの町の、ずっと先まで、乗ってゆきたいなあ。
 ─大きくなったら、いくらでも乗れるよ。わたしは言いました。それに、君は機関士になりたいんだろう?そしたら、それこそいくらでも乗れる。嫌になるくらい乗れるよ。
 ─嫌になんてならないと思うな。男の子は言い張りました。僕は機関車と合体してもいいくらいだもの。機関車になって走りたいくらいだもの。嫌になんて、なるはずないよ。
 ─合体かあ。わたしは笑いながら言いました。それはすごいなあ。
 開いた窓からは風が吹き込んで来て、石炭の匂いを残し、また別の窓から出てゆきます。わたしは窓の外を眺めました。遠くに見える山の頂き辺りに、ちょうど白い雲がかかっていました。それはまるで、山が煙を吐いているように見えました。

「化け物の文化誌」展

2006年10月27日 | 雑記
 先日、現在上野の国立科学博物館で開催されている特別展示、
「『化け物の文化誌』展」を見に行った。
 人魚や天狗のミイラが来るというので、噂には聞く化け物のミイラ、いったいどれくらい精巧にできているんじゃろかと、思ったわけだ。
 展示物は撮影禁止だったので、画像はないけれど、どちらのミイラも、「八戸藩南部家旧蔵」のものだという。
 でも、まあ、なんて小さいんだろう。どちらも三、四十センチほどしかないよ。嘘臭さ満点なんだけど、でも、もしかしたら、これがずっと昔の時代に、いきなり見せられたら、びっくりするかもしれない。
 他の展示物では、変わったものではリュウグウノツカイのホルマリン漬けや(ただし、身体が折りたたまれていたのがちょっと残念)、漫画「陰陽師」の原画などがあったけれど、展示の大半を占める書物類は、手にとって見れるわけではないから、研究者でもない僕には、それほど面白いものでもなかった。展覧会の図録を買ったけれど(序文は、やっぱりというか何と言うか、荒俣さん)、これがあれば十分。
 展覧会では最後に、寺田寅彦や、そして南方熊楠などの紹介があったのだが、博物館では同時に「『南方熊楠』展」も開催されていて、そちらへ誘導するようになっている。そう思えば、なるほど、この展覧会の趣旨もよくわかる。
 「『南方熊楠』展」、こちらはかなり充実していて、面白かった。僕は熊楠については、博覧強記で破格の人間だったという事以外に余り良く知らないのだが、展覧会を見て、その強烈さを垣間見た気がする。残されたもの全てから、尋常じゃないほどのエネルギーが隠しようもなく溢れていて、ただただ圧巻だった。

葛西臨海公園にて

2006年10月26日 | 記憶の扉

 葛西臨海公園から、房総方面を見る。
 
 この写真は、どこかJoel Meyerowitzの写真のようじゃないかな。
 そうだと言ってもらえると、嬉しいんだけど。

 Joel Meyerowitzの写真集は、一冊だけ持っている。
 僕は、彼が撮影した潮の引いた海を写した写真が好きで、時々眺める。
 乾いた色彩に惹かれるのです。
 

Durutti Column

2006年10月24日 | 音楽のはなし
 昨日の夜、久々に絵を描いていたら、ドゥルッティ・コラムのアルバムが無性に聞きたくなって、調べたら初期の二作が再発されているのを知り、今日帰りにタワーレコードでファーストアルバム「The Return of the Durutti Column」を買ってきた。で、今聞いているが、やっぱり素直にセカンドの「LC」の方を買えばよかったかなと思っている。今はもう持っていないけれど、「LC」は、どれだけ聞いたかわからないアルバムだった。ドゥルッティ・コラムは、この「LC」ばかりを繰り返し聞いていた。
 今日買ったファーストは、当時余り印象に残らなかったのだが、今聞くともしかしたら良いかもしれないと思って買ってみた。でも、やはりリズムマシンがどうしてもちょっと気になってしまう。
 Durutti Columnは、八十年代のポストパンクの中でひっそりと出てきたバンドだが、実際はヴィニ・ライリーの個人バンドだ。アズテックカメラやコーネリアスみたいなものだ。このファーストアルバムは、最初のプレスではレコードジャケットが両面ともサンドペーパーで出来ていた。他のレコードを傷つけたいからだそうだ。有名なレコードなので、その逸話だけで知っている人も多そうだ。
 今さらドゥルッティ・コラムなんて聞いている人もあまりいないんだろうなと思いながら、調べると、今年新作が出たようで、ああ、まだちゃんとやっているんだと思った。ヴィニといえば、拒食症の美青年というイメージがあるので、下手したらもう死んでいるのではないかという気さえしていたからだ。写真を見ると、さすがに随分年を取っているけれど、相変わらずガリガリで、変わらないように見える。

 ところで、You Tubeに、その「LC」に収録されていた「Never Known」のビデオクリップが収録されているのを見つけて、驚いた。同じ「LC」収録の「The Missing Boy」のライブクリップも。どこにも行き着かないギターの、ちょっとミニマリズムのような音楽。

七枚綴りの絵/六枚目の絵/土手での邂逅・4

2006年10月23日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 男の子を汽車に招待することができたのは、わたしが機関助手になってから、三回目の休みが取れた日のことでした。
 できるだけ早くと思ったのですが、彼を汽車に招待するにあたって、前もって孤児院の許可を取らなければなりませんでした。そのため、少し遅れたのです。
 わたしが院長の許可を頂くために孤児院を訪ねたのは、試験に合格してから二週間ほど経った、休日の午後でした。
 門をくぐり、敷地内へ入ると、わたしは辺りを見渡しました。季節は春で、花壇には様々な花が咲いていました。薔薇をはじめとした、赤い色の花が多いようで、はっと目を奪われます。わたしはどちらに向かえばよいのか少し戸惑い、立ち呆けていましたが、その時たまたま通りかかった、薄い目の色をした、肌のとても白い女の子を見つけて、声をかけて捕まえ、院長先生の部屋はどこかと訊きました。女の子は警戒したような、少しこわばった様子で、突き当たりの一室を指差しました。わたしは礼を言って、そちらに向かいました。
 院長は、驚いたことに中年の女性でした。ふくよかな身体をして、眼鏡をかけています。彼女は部屋に通されたわたしを見て、ゆったりと立ち上がり、こんにちは、と深いお辞儀をしました。わたしは慌てて、ぴょこんと頭を深く下げ、挨拶を返しました。彼女はそのままわたしを来客用のソファに案内し、わたしが腰を下ろすのを見届けたあと、自分もわたしの前に座りました。
 わたしは、自分がどういう人間なのか、そしてどういう用件で今こうして訪ねているのかを、できるだけ詳しく話そうと努力しました。丁寧にきちんと話す事で、伝わるものがあるはずだと考えたのです。彼女は、ちょっとした質問を二つ三つした以外は、最後までわたしの言葉を遮らずに聞いてくれました。
 わたしが語り終えたあと、彼女は、本来は一人だけ特別扱いするようなことはしたくないのです、と言いました。子供たちを支えているのは、とても脆いバランスなのです。様々な感情が、互いに距離を取りながら、子供達を支えているのです。
 それはわかります、とわたしは言いました。ですが、わたしは彼に約束してしまったのです。迂闊だったかもしれませんが、わたしは約束を破るようなことはしたくないのです。
 園長先生は、指を組んで、しばらく黙っていましたが、やがてわたしに言いました。
 ─もし私がこのことを許すとして、そのことから生じた結果に、あなたは責任を持つことができるでしょうか?
 わたしはその言葉を頭の中で転がしながら、様々なことを考えました。
 わたしは答えました。
 ─責任を、持ちます。
 ─どういう責任を持たなければならないのか、あなたは分かっていないと思うのですが、それでもそう言い切れるのですか?
 わたしは言葉に詰まりました。もしかしたらわたしは、とても無責任なことを言おうとしているのかもしれないという考えが頭をよぎったからです。けれども、いや、そうではない、真剣にあの男の子に向き合おうと腹を据えているのなら、何も言葉に詰まる必要はないのだと思いました。
 わたしは言いました。それでも、責任を持ちます。
 ─わかりました。彼女は言いました。許しましょう。このことがどういう結果になるのか、私にはおおよその見当はついても、それでもはっきりと分かるわけではありません。ですが、あなたを信じることにします。ただ、ひとつだけ言っておかなければならないことがあります。大事な事なのです。
 ─なんでしょうか。
 ─彼の身体のことなのです。彼女は言いました。彼は、心臓に疾患があるのです。ですから、あまり無理をさせないで欲しいのです。
 わたしは、その言葉に驚き、言葉を失いました。
 ─私が今回のことを許すのは、実はそのこともあるのです。彼は、おそらく長く生きることができないと思います。医者は、はっきりとそう私に告げました。だから、断れないのです。……さっきの質問は、あなたの覚悟を聞きたかったのです。あなたは、もしかしたら彼の命すべてをまるごと受け止めなければならないのかもしれないのです。どうです、怖くなりましたか?
 心を打ちぬかれてしまって、わたしはしばらく言葉が出ませんでした。それは、想像をずっと越えたことだったからです。
 ─そんなに悪いのですか?
 ─決して良くはありません。
 ─そうですか。
 わたしはそれ以上、聞くことはできませんでした。
 ─可愛そうに。
 代わりに、わたしはそう呟いていました。
 ─許して頂いて感謝します。わたしは彼女に頭を下げ、そう言いました。
 それは、心の底からの気持ちでした。けれどもそれは、とても辛い気持ちでした。

スローターハウス5

2006年10月22日 | 読書録
 先日、三浦半島へ向かう電車の中で、
 
「スローターハウス5」
カート・ヴォネガット・ジュニア著

 を、二十数年ぶりに再読した。
 
 書架から引っ張り出してきた本は、昭和59年の刊行。第五刷となっている。本の扱いが悪い僕らしく、水で本の下部が濡れた跡があり、ややベコベコになっている。だから、心置きなく、濡れるに違いないバックに入れて持ち運べた。 

 どうして再読しようと思い立ったのか。多分、最近村上春樹がノーベル文学賞を取れるかどうかという話題があったから、思い出したのだろう。ヴォネガットの小説を幾つか読んでいた僕は、初めて村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」を読んだ時、「いい小説やけど、これって、まんまヴォネガットやん」と、鬼の首をとったみたいに思ったのだ。けれどももちろん、ヴォネガットはヴォネガットだし、村上春樹は村上春樹だと今は考えている。

 「スローターハウス5」は、反戦小説だ。だが、「政府」だとか「戦争」だとか、そうした巨大な記号のようなものに焦点を当てた、プロパガンダのような反戦小説ではなく、人々をそうした熱狂に駆り立てるものを冷ましてゆくような反戦小説である。今読むと、さすがにこうした語り口も珍しくないから、初めて読んだ時のような衝撃はなかったけれど、やはりよい小説だと思った。

 そうそう、この文章を書こうとして、そういえば最近ヴォネガットも読んでないけど、何を書いているのだろうと、ちょっと調べたら、こんなサイトがあった。

 日本を取り巻く状況も、最近はやや緊迫しているけれど、ただ感情に流されることは、本当に怖いことです。人々の感情に訴えて、扇動しようとする情報には、注意するべきでしょう。そうした情報は、目的をもって流されることが多いからです。戦争は、人が起こすものである以上、避けられない戦争なんて、誰が何と言おうと、本当はありえないはずなのですから。

きつね浜

2006年10月21日 | 三浦半島・湘南逍遥
 

 「三浦半島デジカメ日記」のshuさんが、浜諸磯のきつね浜に行ったという記事を読んで、刺激され、僕も出掛けてきました。
 浜諸磯は、僕もずっと気になっていながら、行きそびれていた場所でした。
 浜諸磯行きのバスは、一時間に一本程度で、電車&バスでは、多少アクセスが悪いのですが、それだけに、季節はずれには余り訪れる人もいない穴場になっているようです(浜に面した家はあるのですが)。実際、僕は半日そこにいたのですが、浜で出会った人はたった一人だけでした。
 シンプルで美しい諸磯灯台のあるこの浜は、通称で「きつね浜」と呼ばれているようで、浜にある立て札には、このように書かれてありました。

 

 「この付近一帯を浜諸磯と云い、この左手の浜をきつね浜と呼んでいます。この浜には、漁村につきものの哀話は残っています。
 昔、大時化の時、この浜の沖で十余人の漁師が乗り込んだ船が遭難し、全員が死んだことがありました。それ以来、この浜に立つと、凪の日でもあらしの日でも、沖で櫓をこぐ ぎーこーぎーこ という音が人々の耳に絶えず聞え、ときには死者の呻き声も交じわり、悲愴な思いが、胸に迫って来たといわれております。
 また、この浜にはこんな話も残っています。新井城主の三浦荒次郎義意が射った矢で、狐が落ちたことから、きつね浜と名付けられたといわれます。落ちた九尾の狐を郷戸というところに埋めて塚を作りましたが、その塚が、夜中に畑の中をあちらこちらと駆けまわり、附近の人が見ると、毎朝、塚の位置が変っていたということです。その塚にさわると、必ず病気になると恐れられていたということであります。」
 


 おっかないですね。
 で、この浜で少し泳ぎました。



 上の写真は、何だと思いますか?
 これはしらすです。
 
 

 見渡す限り一面のしらすの中で、泳ぎました。
 下の方では、ウツボなどが泳いでいました。
 ウミウシなども多く(美しい、蛍光ブルーのムカデノウミウシが、やたらといました)、楽しめる海です。
 ただ、海外町の方での埋め立ての影響は、多少あるようでした。

 shuさんの美しい写真を見て、それからgoogleのマップ検索で航空写真を調べて、ここは良さそうだと思いましたが、間違っていなかったようです。
 僕は5㎜のスーツを持っていないので、スプリングで入水したのですが、さすがに少し寒くなってきました。それで、30分ほどで上がってしまったのですが、やや心残りになっています。来年の初夏には、一番でここに来ようと思っています。

レンタル屋さんバトン

2006年10月17日 | 映画
 秋だというのに、創作に取り掛かるために上げなければいけない腰が妙に重く、時間もあまりないくせに、気が付くと、娘のDSのポケモンのレベルアップを淡々とやっている自分がいて、はっと我に返って愕然としたりしています。
 困ったものですね。

 それはそうと、seedsbookさん経由で知ったlapisさんという博学な方のブログで、「レンタル屋さんバトン」というものを見つけて、眺めているうちに、ちょっとやってみたくなった。バトンは、基本的に拾わないので、珍しいこと。
 以下がその結果です。

あ 】愛の嵐
い 】イル・ポスティーノ
う 】美しき諍い女
え 】エーゲ海の天使
お 】大人は分かってくれない
か 】カリガリ博士
き 】霧の中の風景
く 】グレート・ブルー
け 】
こ 】ゴシック
さ 】サラ・ムーンのミシシッピー・ワン
し 】ジョイラック・クラブ
す 】スノーマン
せ 】ゼブラーマン 
そ 】ソフィーの選択
た 】太陽に灼かれて
ち 】チャーリーとチョコレート工場
つ 】ツゴイネルワイゼン
て 】ティファニーで朝食を
と 】東京物語
な 】ナビィの恋
に 】ニューシネマパラダイス
ぬ 】
ね 】ネヴァーランド
の 】ノスタルジア
は 】パリ・テキサス
ひ 】ピアノレッスン
ふ 】ブレードランナー
へ 】ペーパー・ムーン
ほ 】炎のランナー
ま 】マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ
み 】未来世紀ブラジル
む 】無能の人
め 】メメント
も 】モーレツ大人帝国の逆襲(クレヨンしんちゃん)
や 】野獣死すべし
ゆ 】ユリシーズの瞳
よ 】汚れた血
ら 】ラテンアメリカの光と影
り 】リバー・ランズ・スルー・イット
る 】ルパン三世(ルパンVS複製人間)
れ 】レニングラード・カウボーイズ・ゴーズ・アメリカ
ろ 】ロード・オブ・ザ・リング三部作
わ 】ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ


 「け」「ぬ」は、好きな映画に限れば、自力ではどうしても思い浮かばなかったので、欠けています。あと、アンゲロプロスの作品が、ダブってます(笑)。
 こうした淡々としたリストって、じっと見ていると、なんだか自分の履歴書のようですね。

七枚綴りの絵/六枚目の絵/土手での邂逅・3

2006年10月13日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 わたしは、折にふれて街外れの孤児院の方に散歩するようになりました。子供の姿を見ることはしばしばありましたが、あの少年の姿をその辺りで見かけることはありませんでした。かわりに、停車場の側では頻繁に、大抵は午後の遅い時間でしたが、少年の姿を見ました。意識をしているから、無意識のうちに捜していたせいもあったのでしょう。
 そうこうしているうちに、やがてわたしたちは言葉を交わすようになりました。仕事の合間だったから、それほどの時間ではありませんが、それでも私が彼を見つけて声をかけると、少年は嬉しそうでした。彼にとっては、わたしは憧れの職業に就いている大人だったのです。そして、わたしにとって彼は、かつてのわたしの姿のようでした。
 彼の名前は……いえ、名前を挙げるのは止します。代わりに、わたしは彼のことを、ただ「男の子」と呼ぶことにしましょう。
 男の子は、機関車に触れて仕事をしているわたしと知り合えたことが嬉しくて仕方がないようでした。
 わたしは男の子に言いました。
 ─けれどわたしはまだただの庫内手だから、それほど大した仕事でもないんだよ。
 ─大した事がない仕事って、あるの?
 わたしはそう言われると、はっとしました。いや、どんな仕事も大した事がないなんてことはないね。言い方が悪かったよ。わたしは、ただ、庫内手より、機関士になりたいと考えているだけなんだ。少し考えて、わたしはそう言い直しました。
 ─僕も機関士になりたい!
 ─だろう?だから、わたしも子供の頃からずっとそう思っていたんだ。それで、今は一生懸命に勉強をしている最中なんだよ
 ─勉強をすれば機関士になれる?
 ─もちろんなれる。わたしは言いました。あと半年ほど勉強したら、わたしは試験を受けるんだ。それに合格できたら、機関助士になれるはずなんだよ。そしたらまたもっと勉強をして、次は機関士だ。
 ─すごい!
 ─まあ、まだ先の話だけど、とわたしは言いました。でも、きっとなれる。それに、君だって、頑張って勉強すればきっとなれるはずだよ
 ─本当?
 ─そうさ。請け負うよ。わたしも昔は君のようだった。機関車が好きでたまらなかった。だから努力して、今こうしているんだ。機関助士の試験もきっと合格してみせるよ。そのために努力してきたんだから。……そうだ!ねえ、もしわたしが合格できたら、君を機関車に乗せてあげるよ。機関室にってわけにはゆかないけど、二等の切符をあげるよ
 ─えっ?本当!
 わたしは頷きました。
 ─だから、応援してくれるか?
 男の子は目を輝かせていました。
 
 わたしが試験に合格することを楽しみに待っている男の子の姿を見ることは、忙しい仕事の合間を縫って勉強するわたしにとって、確実に励みになりました。あの子の悲しむ顔は見たくない。嘘つきにはなりたくない。そう思うことで、勉強にも自然と力が入りました。
 半年後、わたしは難なく機関助士の試験に合格することができました。そして、晴れて夢が叶って、実際に蒸気機関車の運行に携わることになりました。機関助士として数年、機関士に付いて経験を積み、ボイラー技師の免許を取り、社内の試験に合格すれば、今度は機関士になることができるのです。わたしの最終的な目標は、男の子にも言ったように、もちろんそこにありました。
 機関助手というのは、そういう名称だけを聞くと聞こえはいいが、通称「かま焚き」と呼ばれる仕事で、つまりは石炭を火室にくべる仕事です。もちろんそれだけではなく、列車の運行に必要な雑用の大半をやらなければならなかったのですが、主な仕事はといえば、やはり「カマ焚き」です。想像はつくでしょうが、これは相当の重労働でした。火室からの熱気は凄まじく、皮膚は焼けるように熱くなり、絶え間なく汗が噴き出してきます。殊に夏は地獄のようで、ただでさえ暑い機関室に燃え盛る火室があるのですから、並大抵ではありません。水をがぶ飲みして、水分を補給するのですが、飲む側から汗になってしまい、一滴の小便もでやしません。かといって、冬ならいいという訳でもありませんでした。身体の、火に面した半分は焼け付くように熱かったのですが、背中は冷たくて、汗に濡れた身体にはそれが特に辛く感じました。それに、雪の中で作業しなければいけないことも多かったので、余計に辛く感じたものです。
 そういう風に、仕事はきついばかりで、その上、昼勤夜勤が入り乱れた忙しいものでしたが、憧れて入った職場でしたし、機関車を操縦したいという子供の頃からの夢もありましたから、やめたいなどと考えたことは一度もありませんでした。体中煤だらけになり、仕事が遅いと怒鳴られながらも、毎日毎日、汽車がきちんと運行するように、くたくたになるまで、いいえ、くたくたになってもなお、必死になって働きました。自分が汽車の運行に関わっているのだという誇りは、何にも替え難いものでしたし、汽車が安定して走行している時に、一息つきながら眺める外の風景は、子供の頃に夢に見た風景とは違っていましたが、それでもいつ観ても素晴らしいものに思え、飽きるということがありませんでしたから、辛さも半減して感じて、働きぬくことができたのです。

七枚綴りの絵/六枚目の絵/土手での邂逅・2

2006年10月11日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
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 物心がついた頃から、わたしはずっと蒸気機関車が好きでした。
 思い返して、覚えている限り最も古い記憶を辿っても、蒸気機関車の力強い姿があるのです。
 金属の刻む力強い音に胸を躍らせ、振り返ると、真っ青な空にもうもうと舞い上がる煙が見え、その黒と白の混じった煙に続いて、蒸気機関車の鈍く光る黒い車体が現れます。それは、わたしにとって、ぱっと全てが明るくなるような、晴れやかな一瞬でした。
 その光景を目にするために、わたしは飽きることなく、毎日毎日、駅に通ったものです。家がそれほど裕福ではなかったし、遠くへ出かける用事などもそうはなかったので、汽車に乗れる機会などほとんどありませんでしたが、わたしはただその姿を見ているだけでも、その列車と共に長い旅をしているような気分になれたものでした。事実、わたしは何度となく夢の中で、列車に乗って長い旅に出かけたものです。それは明るい海沿いの街であったり、賑やかな都会であったりしました。……それくらいわたしは汽車が好きで、本当に好きで、それこそ一日中その黒々とした車体を眺めていても飽きないほど、わたしは汽車に惹かれていました。だから年を経て、機関士になろうと心を決めたのも、ごく自然な成り行きでした。
 学校を出てすぐに、わたしは国鉄に、臨時人夫という身分ではありましたが、なんとか入り込むことができました。その時のわたしの肩書きは、庫内手というものでした。これは通称で「かまみがき」と呼ばれる仕事で、つまり機関車の清掃を主にする雑用係でしたが、ここで仕事に精をだせば、いずれは正社員に登用されるはずでしたから、どんな仕事でも、本当に嬉しかったのです。
 庫内手の仕事は、相手が煤ですから、綺麗な仕事ではありません。手や顔は言うまでもなく、噴き出して伝ってゆく汗のせいで、下着まで真っ黒になります。仕事の前には上から下まで全て作業着に着替え、仕事が終わったら、そのまま風呂場へ直行です。身体を洗いながら、そのうちこの煤は染み付いて落ちなくなるんじゃないかという気がしたものです。それでも、当時は他の仕事に比べてこの仕事が特に辛い仕事というわけでもありませんでしたから、それほどの苦痛には感じなかったものです。「機関士になりたいなら、誰もが通る道だ」と先輩に聞かされながら、毎日毎日、煤だらけ油まみれになって、機関車を掃除しました。しかし、実際、こうして作業することで、機関車に肌で親しんでゆくことができたのです。
 もちろん、庫内手として働いているからといって、誰もがその上に進めるというわけではありません。日雇いのように、僅かな金さえもらえればいいという人も、中にはいたのです。けれどわたしの目標は勿論こんなところではありませんでしたから、熱心に勉強し、そのかいあって正式に国鉄に就職することができました。晴れやかな気持ちでした。これで、好きな仕事をしながら、安定した暮らしができるんだと思いました。
 やがてわたしは寮に移り、国鉄の鉄道教習所に通いながら、機関助士になるための勉強を始めました。機関士になるための勉強ですが、当面はその前の段階、つまり機関助士になるための勉強をしなければなりません。働きながらの勉強は決して楽ではありませんでしたが、それでも楽しいものでした。目的を持って学ぶというのは、それほど苦にはならないものなのです。それに、寮があったのは街でしたらから、寮の仲間と皆で連れ立って、日曜日などの休みの日に遊びに出るのは、本当に楽しいものでした。
 
 寮のあった街は、わたしの生まれた街から汽車で一時間ほどの距離でしたが、最初は随分都会に感じたものでした。けれども、少し街から離れるとやはり田園の風景が広がっていて、居心地は随分良かったのです。一年ほどをその街で過ごした後、わたしは、出来れば家をこのに構えたいと考えるようになりました。それで、もちろん皆での遊び歩くことも多かったのですが、次第に、時間が空いた時などは、街と、街の周辺を一人で歩くようになりました。街が好きになれば、その街のことをもっと知りたいと考えるようになるものです。恋人でも出来れば、一緒に散策できるのにとも思いましたが、わたしはいざとなると奥手で、なかなかそういう機会も巡ってはきませんでした。それで、もっぱらわたしは一人で、街や、街を見下ろす事の出来る丘などを、散策して歩きました。職場の仲間たちは、わたしのことを多少変わった奴だと考えていたようです。けれども、わたしに言わせれば寮は変わり者の巣のようなものでしたから、お互い様といったところです。
 そのような散策の中で、街の外れのやや小高い丘になっている場所に、そこだけは明らかに周囲とは違った雰囲気を持った場所がありました。辺りを低い塀で囲まれた大きな敷地でしたが、鉄柵で閉じられた門から中を覗き込むと、平屋ではありましたが、洋風の建物がいくつか見えます。周囲に薔薇などの花を植え、綺麗にしているにも関わらず、どこかくすんだ印象を与えるのでした。
 その建物は、孤児院でした。
 そう思って見るから、余計にその建物がくすんで見えたのかもしれません。けれども、その孤児院の側を通る時、どうしてもわたしにはそう思えてなりませんでした。
 実は、わたしがその孤児院を気にかけるようになったのには、理由がありました。
 わたしが寮生活を始めてから半年ほど経った頃のことです。わたしは相変わらず庫内手として働いていたのですが、ある時、敷地の外の柵に取り付くようにして、こちらの方をじっと見詰めている少年がいることに気が付いたのです。年の頃はまだ五歳か六歳といったところでしたが、とても熱心な表情で、機関車に対する憧れを隠そうともしていませんでした。けれどもただそれだけなら、他にも熱心に蒸気機関車を追いかけている少年たちは少なくありませんでしたから、それほど印象に残る事も無かったでしょう。
 わたしに強い印象を与えたのは、着古した洋服を着た色白の少年が、いつでもたった一人で、しかもまるで今にも崩れそうな様子で柵に取り付いているからでした。その姿は、何かわたしに訴えかけるものがあったのです。
 わたしはそれとなく先輩にその少年のことを聞いて見ました。
 「ああ、あれは多分、坂の上の孤児院の子だよ」と先輩は何でもないといった口調で教えてくれました。これまで何度か、孤児院の先生に連れられている姿を見たことがあるそうなのです。その言葉は、それからほどなくして、わたし自身がその少年が年配の女性に連れられて、孤児院に入ってゆく姿を見たことで裏付けられました。その時の少年の、青白い横顔が、とても寂しそうに見えて、どうしても忘れがたくなったのです。
 わたしが孤児院を気にかけるようになったのは、そういういきさつがあったのです。

芝崎海岸

2006年10月09日 | 三浦半島・湘南逍遥

 昨日(10月8日)の、葉山芝崎海岸。
 ここは、葉山のダイビングスポットになっています。
 道路から海岸まで行くには、潮が引いている時でなければ少し海に入らざるを得ず、そのためもあって、道端で皆タンクをしょって行きます。知らない人には、ものめずらしい光景かもしれません。
 ウミウシが多いというので、有名なスポットです(ウミウシには、コアなファンが多いのです)。
 写真には、結構ダイバーがいますが、この日は、海は荒れていたので、多分、ほとんど何にも見えなかったんじゃないかなあ。
 こんなサイトが参考になると思います。