ここ二、三日、まったく頭が働かない。だからブログを書く気もしない。いったいどうしたのかと考えたら、思い当たることがあった。内田百(ひゃっけん)のせいだ。
「内田百の冥途と阿房列車」
私は、私の悪い仲間に、上下型1種の文章は、抽象的、論理的で、退屈でちっともおもしろくないと、口をすべらした。
すると、何人もの仲間が、「俺は上下型の傾向がある。お前は俺様の文章にケチをつけるのか」と言ってきた。
私は腹の中で、「よしんばお前らに上下型の傾向があるとしたって、そんなのは本物の上下に比べたら稚児のようなもんだ。なにをつべこべ言ってやがる」と思ったのである。
それで、本物の上下型1種の文章がいかにおもしろくないものかを証明してやろうと思い、内田百を取り上げたのである。
内田百(1889ー1971)を知っている人は、もうあまりいないのかもしれない。小説家、随筆家で、岡山市の造り酒屋の一人息子として生まれる。
東大独文科在学中に夏目漱石の門下となる。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などでドイツ語を教えた。『冥途』『旅順入城式』『百鬼園随筆』『阿房列車』など著書多数。1967年、芸術院会員推薦を辞退。酒、琴、汽車、猫などを愛した。
ということで、内田百の『冥途』と『阿房列車』を読み始めたのである。
処女作『冥途』。33歳のときのこの作品は、百が見た夢を書いたものではないだろうか。ほとんど空想の世界で、とりとめがない。登場人物は猫とか、トラとか動物が多い。
もちろん人間も出てくるが、ほとんど存在感がない。ふつうの小説や随筆なら、人間の心理描写があるだろうが、それが全然ない。この作品集では百の心の内しか書かれていない。だから夢なのだろうが、変わった人だ。読者はわけのわからない世界に引きずり込まれるだけだ。
『阿房列車』のほうは、昭和26年から28年にかけての作品。百が60代半ばの作品で、いくらか現実感が出ている。これは結構ヒットしたらしい。
冒頭に「阿房(あほう)と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない」とある。
しかし、阿房なのである。なんにも用事がないのに、汽車に乗って大阪に出かけようと決意する。用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくないと云う。汽車の中では一等が一番いい。
(このあたりの理屈、私にはさっぱりわからない。)
ところが、用事がないという境遇は片道しか味わえない。なんとなれば、帰りの片道は「返ってこなければならない」からである。したがって帰りは用事のある旅行になる。ならば、一等になんか乗らなくてもいいから、三等でよい。
(?)
このあたりの論理はわけがわからぬ。往復一等で帰るほど金がない。それを自分で慰めているのか。いや、そうではなく、どうも本心からそう思っている節がある。
ところが、百先生、いざ大阪に立とうとして、持病が気になってきた。それで、若いヒマラヤ山系氏を伴うことにしたが、それには彼の一等汽車賃をもってやらねばならない。これは思わぬ出費だ。しかし、金はない。さて、どうやって人に金を借りよう。
人に金を借りるとき、一番悪いのは「必要なお金を借りること」だそうだ。借りなければ困るし、(相手が)貸さなければ腹がたつ。その点、必要もない大阪への旅の借金はたちがいいのだそうだ。謝金を断られても腹が立たないからだそうである。
同じ要る金でも、女道楽の挙句はまだたちのいいほうで、たちが悪いのは、地道な生活の結果脚が出て家賃がたまり、米屋に金が払えないというものであるという。これは最もいけないという。
放蕩したではない、月給が少なくて生活費がかさんだというのでは、そんな金を借りたって返せる見込みは初めから有りやせん――これがその理由である。
こういうわけのわからない妙な理屈がずーっと続いて、ようやく大阪に用事のない旅に出かけるのである。それからは車内とか沿線の様子である。
もうひとつ変わっているのは、ヒマラヤ山系氏がどういう人物かさっぱりわからないところである。平山三郎という人がモデルのようではあるが。
読んだ限りでは、二人はとりたてて気が合うようにも見えないのである。しかし、なぜか旅にはいつも山系が一緒なのである。私は何が楽しくて山系がついてくるのかさっぱりわからなかった。相変わらず登場人物には主人公を除いて個性がない。しかし、現実には非常に気が合うのだろう。そういうことは、百はあえて書かないようだ。
阿房列車は好評だったらしく、後続列車が出ることになった。二作目の区間阿房列車(御殿場、沼津、静岡方面)、三作目の鹿児島阿房列車では、妙な理屈は比較的省略され、汽車の様子や沿線の駅の様子がいきなり描かれている。ただし、駅を降りて町の様子を描くことはほとんどない。百先生はもっぱら汽車マニアのようなのである。
当時この随筆がヒットしたのは、まだ汽車旅ができるほど国民に余裕がなかったためではなかろうか。今で言えば、東京12チャンネルの「いい旅夢気分」版といったところであろうか。
正直言って、読んでいても、ところどころおもしろいところ、はっとする風景描写はあるのだが、全体を通してはちっともおもしろくない。妙に現実離れした旅がふわふわ続く。
本の裏表紙には「上質なユーモアに包まれた紀行文学の傑作」とあるが、私にはとてもそうとは思えなかった。
あるいは、この先を読めば、もう少しおもしろくなるのではないか、もうちょっと上質なユーモアを理解できるのではないか、そう思う。そう期待しながら読んでいったのが、いくら読んでも一向に面白くならないので、私も根負けして、ここらで打ち止めにする。
そういうことで、私の頭はすっかりへんになってしまったのである。
「百とは」
上下型1種というのは、抽象化能力が優れている。学者に多いタイプである。世間的な雑事からは遠く離れた仙人のようなところがある。
頭は基本的にものすごくいい。というか、頭を使うのが得意のタイプである。そのぶん、肉体を使うのは苦手である。
百先生は、頭にあることをそまま原稿に書くそうだ。それで原稿は全然修正しなかったそうである。
これは私から見れば驚くべきことである。私など、原稿用紙の時代には、あっちを切り貼り、こっちを切り貼りで、順番は大きく変わり、元の原稿の姿など跡形もなくなる。ところが百先生は、頭の中で構成がきちっとできてしまっているのである。こういうのはいかにも上下型一種らしい。
また、一種というのは、非常に世間体を気にするタイプなのである、名誉心が旺盛なのである。
百は自分で「官僚趣味」であると公言しており、位階勲等や規則秩序が好きであったそうだ。この好みのためか、秩序の破壊と復讐を行った赤穂浪士が大嫌いだとも書いている。珍しい人である。
内田百の経歴等を下記に記す。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(内田百 から転送)
最終更新 2006年3月5日 (日) 06:57。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E7%99%BE%E9%96%92
「内田百の冥途と阿房列車」
私は、私の悪い仲間に、上下型1種の文章は、抽象的、論理的で、退屈でちっともおもしろくないと、口をすべらした。
すると、何人もの仲間が、「俺は上下型の傾向がある。お前は俺様の文章にケチをつけるのか」と言ってきた。
私は腹の中で、「よしんばお前らに上下型の傾向があるとしたって、そんなのは本物の上下に比べたら稚児のようなもんだ。なにをつべこべ言ってやがる」と思ったのである。
それで、本物の上下型1種の文章がいかにおもしろくないものかを証明してやろうと思い、内田百を取り上げたのである。
内田百(1889ー1971)を知っている人は、もうあまりいないのかもしれない。小説家、随筆家で、岡山市の造り酒屋の一人息子として生まれる。
東大独文科在学中に夏目漱石の門下となる。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などでドイツ語を教えた。『冥途』『旅順入城式』『百鬼園随筆』『阿房列車』など著書多数。1967年、芸術院会員推薦を辞退。酒、琴、汽車、猫などを愛した。
ということで、内田百の『冥途』と『阿房列車』を読み始めたのである。
処女作『冥途』。33歳のときのこの作品は、百が見た夢を書いたものではないだろうか。ほとんど空想の世界で、とりとめがない。登場人物は猫とか、トラとか動物が多い。
もちろん人間も出てくるが、ほとんど存在感がない。ふつうの小説や随筆なら、人間の心理描写があるだろうが、それが全然ない。この作品集では百の心の内しか書かれていない。だから夢なのだろうが、変わった人だ。読者はわけのわからない世界に引きずり込まれるだけだ。
『阿房列車』のほうは、昭和26年から28年にかけての作品。百が60代半ばの作品で、いくらか現実感が出ている。これは結構ヒットしたらしい。
冒頭に「阿房(あほう)と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない」とある。
しかし、阿房なのである。なんにも用事がないのに、汽車に乗って大阪に出かけようと決意する。用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくないと云う。汽車の中では一等が一番いい。
(このあたりの理屈、私にはさっぱりわからない。)
ところが、用事がないという境遇は片道しか味わえない。なんとなれば、帰りの片道は「返ってこなければならない」からである。したがって帰りは用事のある旅行になる。ならば、一等になんか乗らなくてもいいから、三等でよい。
(?)
このあたりの論理はわけがわからぬ。往復一等で帰るほど金がない。それを自分で慰めているのか。いや、そうではなく、どうも本心からそう思っている節がある。
ところが、百先生、いざ大阪に立とうとして、持病が気になってきた。それで、若いヒマラヤ山系氏を伴うことにしたが、それには彼の一等汽車賃をもってやらねばならない。これは思わぬ出費だ。しかし、金はない。さて、どうやって人に金を借りよう。
人に金を借りるとき、一番悪いのは「必要なお金を借りること」だそうだ。借りなければ困るし、(相手が)貸さなければ腹がたつ。その点、必要もない大阪への旅の借金はたちがいいのだそうだ。謝金を断られても腹が立たないからだそうである。
同じ要る金でも、女道楽の挙句はまだたちのいいほうで、たちが悪いのは、地道な生活の結果脚が出て家賃がたまり、米屋に金が払えないというものであるという。これは最もいけないという。
放蕩したではない、月給が少なくて生活費がかさんだというのでは、そんな金を借りたって返せる見込みは初めから有りやせん――これがその理由である。
こういうわけのわからない妙な理屈がずーっと続いて、ようやく大阪に用事のない旅に出かけるのである。それからは車内とか沿線の様子である。
もうひとつ変わっているのは、ヒマラヤ山系氏がどういう人物かさっぱりわからないところである。平山三郎という人がモデルのようではあるが。
読んだ限りでは、二人はとりたてて気が合うようにも見えないのである。しかし、なぜか旅にはいつも山系が一緒なのである。私は何が楽しくて山系がついてくるのかさっぱりわからなかった。相変わらず登場人物には主人公を除いて個性がない。しかし、現実には非常に気が合うのだろう。そういうことは、百はあえて書かないようだ。
阿房列車は好評だったらしく、後続列車が出ることになった。二作目の区間阿房列車(御殿場、沼津、静岡方面)、三作目の鹿児島阿房列車では、妙な理屈は比較的省略され、汽車の様子や沿線の駅の様子がいきなり描かれている。ただし、駅を降りて町の様子を描くことはほとんどない。百先生はもっぱら汽車マニアのようなのである。
当時この随筆がヒットしたのは、まだ汽車旅ができるほど国民に余裕がなかったためではなかろうか。今で言えば、東京12チャンネルの「いい旅夢気分」版といったところであろうか。
正直言って、読んでいても、ところどころおもしろいところ、はっとする風景描写はあるのだが、全体を通してはちっともおもしろくない。妙に現実離れした旅がふわふわ続く。
本の裏表紙には「上質なユーモアに包まれた紀行文学の傑作」とあるが、私にはとてもそうとは思えなかった。
あるいは、この先を読めば、もう少しおもしろくなるのではないか、もうちょっと上質なユーモアを理解できるのではないか、そう思う。そう期待しながら読んでいったのが、いくら読んでも一向に面白くならないので、私も根負けして、ここらで打ち止めにする。
そういうことで、私の頭はすっかりへんになってしまったのである。
「百とは」
上下型1種というのは、抽象化能力が優れている。学者に多いタイプである。世間的な雑事からは遠く離れた仙人のようなところがある。
頭は基本的にものすごくいい。というか、頭を使うのが得意のタイプである。そのぶん、肉体を使うのは苦手である。
百先生は、頭にあることをそまま原稿に書くそうだ。それで原稿は全然修正しなかったそうである。
これは私から見れば驚くべきことである。私など、原稿用紙の時代には、あっちを切り貼り、こっちを切り貼りで、順番は大きく変わり、元の原稿の姿など跡形もなくなる。ところが百先生は、頭の中で構成がきちっとできてしまっているのである。こういうのはいかにも上下型一種らしい。
また、一種というのは、非常に世間体を気にするタイプなのである、名誉心が旺盛なのである。
百は自分で「官僚趣味」であると公言しており、位階勲等や規則秩序が好きであったそうだ。この好みのためか、秩序の破壊と復讐を行った赤穂浪士が大嫌いだとも書いている。珍しい人である。
内田百の経歴等を下記に記す。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(内田百 から転送)
最終更新 2006年3月5日 (日) 06:57。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E7%99%BE%E9%96%92
なかなか興味をそそられる生き方をした人ですね。
考え方がユニークです。
昔流行ったジャッキーチェンやサモハンキンポーのカンフー映画で
ボケ役のサモハンキンポーが、ジャッキーに攻め立てられた時
訳のわからない理屈を言ってその場を丸く治めるというシーンが
何度もあり、屁理屈なんだけど妙に説得力があるんです。
それを思い出しました
いつもコメントありがとうございます。
内田百は、なかなかおもしろい人です。
5年目社長さんなら好きになりそうだなあ。
そんな気がします。
でも、はまると危ないかも。
東海道線の東京駅があんまり込むので、
東京駅と大阪駅を長いプラットホームでつなげろ、なんて書いてます。
それで、東口を東京口、西口を大阪口にしろ、とね。
要するに入場券で東京大阪間を歩いていけるようにしろ、と言ってるわけです。
これって、後々漫才のギャグに使われたんじゃないかな。