日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

こんな話 2題

2005-11-18 08:05:11 | 私の雑感あれこれ
こんな話 その1
大学時代の仲間と談笑しながら街中を歩いていると、兄弟がやってくるのに気付く。
心のうちで「あっ」と。
言葉を交わさないで通り過ぎる。
そして彼は思う。
(兄弟に対して)あの時そ知らぬ振りをしてくれた、その気遣いをありがとう、と。
そして、同じようにそ知らぬ振りをした自分自身に対しては、その狭量であることを嘆く。白っぽかった彼は白人との友人関係の中で生きていたのでしょう。
彼ら兄弟はアメリカの黒人。少しでも黒人の血が入っていると黒人とみなされるので、殆ど白人に近い黒人もあるらしい。そして兄弟でもその差があるという。

この文章を読んだのは10年も前のこと。アメリカの著作業の方だったと思うけれど、名前は覚えていない。彼は通り過ぎた一瞬の心の葛藤を道連れに生きて来られたのでしょう。彼がその若者だった時代から幾年たってこの文章を書かれたのか。
それから随分経つのに、私の心に留まっている(その短文をコピーしておけばよかったと悔やまれます)。

そして、昨日ケーブルテレビであの「ルーツ」の続編を見た。
アフリカから奴隷船で連れてこられたクンタ・キンテから4代目の時代。

こんな話 その2
娘が付き合いたいと若い男性を連れてくる。
その男性は黒人とはいっても殆ど白人に見える。
若者は父親(義理※)から仕込まれた家具職人としてと生活していけると訴える。
父親は言う「ダメだ」と。
「黒人とはいっても、口元に特徴が残るだけで、殆ど白人だ。
白っぽい黒人は白人の家に入れてもらい執事になったり、馭車になって、俺ら黒人を酷い目にあわせたんだ。
だから、白っぽい黒人は嫌いだ。だからなんとしても認められない」と。
若者は失意で村を出る。

二つの話は時代が違う。20世紀と南北戦争後。
暮らしの端々で葛藤が生まれ、その人なりの価値観が育っているのだとおもいます。
遠い国の話だけれど、知らないよりは知っていたほうがいい。それが文章であっても映像であっても。時代や場面が異なっても、皆それぞれが抱えている葛藤の中で生きているのだと知らされます。
きっと、その葛藤が人を育てる一助にもなっていると、そう思うところがあります。

(※)当時の黒人女性は白人男性のもてあそぶ対象として扱われてもいたから、彼のいう父親は血のつながった親ではないと、娘の父は察してしまう。
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