日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

夜中の災難。

2016-06-29 09:35:55 | 私の雑感あれこれ

夜中に足がつる、ということは何度か経験している。

昨夜のは、膝の腱のささくれが引っかかっての痛み、でした。

突然左ひざが90度ぐらいに曲がった状態で、脂汗が出るほどの痛みに襲われました。実はかつて仕事中に右膝で経験しています。

姿勢を変えることもできず、堪えるだけ。今トイレに行く必要もないのだから、このまま様子を見ていよう、と暗闇の中で痛みと格闘していました。引っかかった腱が何かの拍子に外れてくれるには、まったく静止していればいいのか、微妙にでも動かしたらいいのか、の思案。

30分ほどで、すっ~と痛みを感じなくなり、ハイ終わり、です。

右ひざの時は、タクシー読んで大事でしたが、今回は6時前に起床で、朝食後は雨が上がった合間にと汗ばむほどの庭仕事をしました。

着実に加齢の道を歩んでいるわけです。

昨晩は自治会の盆踊りの太鼓の練習のときも、ちょっと膝に不具合を感じた瞬間はありました。ほかの人もいることで、気付かれないように知らないふりで作業をしていたのです。太鼓の練習をするのは応募した子供たちで、私はハッピの数とサイズの確認、飲み物出し、CDのかけ方を教わったり。

太鼓を叩く子供たちを見ていると、脳みそが違うな~と思います。つぎつぎと新しいことを習得していくんですもの。羨ましい。

そう思いながら、60代は頑張ります。苦笑

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司馬遼太郎著「菜の花の沖」 を読み始めた。

2016-06-28 09:25:57 | 

山本周五郎の「ながい坂」に続いて、これも夫の実家の書棚にあったそうな。50年(半世紀ですね!)ほど前に、これらの本を夫の父が読んでいたというのも私にとっては感慨の一つです。文庫本にして全6巻。長い旅ですが、今1巻目で楽しみな船出をした気分です。

 今朝の切り花。雨の合間に庭から室内に。

今を生きる私たちにとって、思うところ多し、の本です。

ほんの2百年ほど前の私たちの国、私たちの暮らしは、こういう社会であったのか、と反芻しながら読んでいます。

イギリスのEU離脱で、金融市場は大混乱との報道に接しながら、真珠湾攻撃の報道を聴くよりは格段に平穏じゃあないか、と思ったり。映画や書物で、飢餓や、圧政、戦争、動乱の歴史を描いたものばかりに接しているせいでしょうか。

温故知新。

今回の混乱も、きっと、修正を加えながら良いほうにかじ取りがなされると、かつてよりよい選択をしていくだろうと、そう思う外野です。

晴耕雨読。本日は本読みの日、ありがたい。

 

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花殻切りと夏の庭に向けて。

2016-06-24 09:04:46 | 庭 6月

雨が降ってくれるので、水やりしなくて済むから助かる。

のをいいことに、ここ数日は朝イチ庭に出なかった。今朝は久しぶりに一日を庭仕事からスタートした。高枝切りばさみで、ローズヒップをチョキチョキ。やたら伸びた枝をバッサリ。

やり始めると、やること山積なのだけれど、ひとまずここまで、と室内に入る。

5月のバラシーズンが終わって、それぞれの間合いで2番花を咲かせてくれているのだけれど、虫害で無残なもの多し。膨らんだ蕾が横原からザックリ食べられていたり、花びらの外辺に灰色のホソオビ(?)がへばりついていたり。見回りして捕獲してやらないといけないのだろうけれど、ほかのことにかまけていた。

バラの数はこれ以上は増やさないでおこう。今の株を丁寧に世話してやると、見事になるはずだから、と自分に言い聞かせる。

春先のワスレグサとノースポールの水色と白のグランドカバーは自分なりに満足できた。

この夏は、グランドカバーのメインをポーチュラカにしようと思っている。これまでは、園芸店で花苗をケース買いして植えていたけれど、今年は早目に苗を3株購入して挿し芽で増やしてみよう作戦です。炎暑ににぎやかなガーデンになりますように。

そして、この春初めて楽しんだニゲラとアングロステンマの種を採取した。ぜひ種から育ててみたいものです。

「庭づくりは欲張らない。自分の好きな庭に」と自分に言い聞かせる。

水分たっぷり含んだ土は、移植に絶好。合間をみて、ポーチュラカを植え付けないと、今日やりたい仕事です。

 何度も冬越しに失敗しているハイビスカス。再チャレンジと購入。

 ペチュニアフリル。挿し芽苗です。

 シャンテロサミサトの二番花。

 クレマチスの2番花とアブラハムダービー。

 松葉菊もしっかり繁茂。

 鉢植えのロベリア、アズーロコンパクトです。

 ジュリアの2番花。

 アガパンサスとバラの2番花(アンネフランク、ジュビレデュプリンスモナコ)

 アガパンサスの群舞です。

 シャルルドゴールの2番花。

 マリリンモンローの2番花。

 咲きだしたポーチュラカ。

 同じく。夏はグランドカバーとしての活躍を期待しています。

 レットレオナルドダビンチです。挿し木です。先日テレビの趣味の園芸では、お勧めのバラとの紹介がありました。

 ブラキカムです。最初の年から増やそうと思っていた多年草です。 ようやくここまで増えました。

 ガザニアです。

 オオキンケイギクの仲間。コレオプシスのピンクリボンとレッドムーンです。

 

 

 

 

 

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山本周五郎著「ながい坂」を読んでいます。

2016-06-18 10:47:03 | 

名前はずいぶん以前から聞いたことがありましたが、読み込むことはありませんでした。なにしろ遅読タイプでしたから。既読は「赤ひげ」ぐらいかしら。今回のこの本は良い出会い、出会えてよかった本です。ここしばらく忙しい毎日でしたが、集中力が少しでも残っていると、吸いつけられるようにスマホ画面に向かっていました。(これまでは、キンドルで購入した本はipadでの読書だったのに、クラウドからの取り寄せをスマホで行ったので、「ながい坂 上」は、まことに小さい画面で読み終わりました。

で、今、「ながい坂 下」は、ipadで読書中。(あらすじなどは検索すればたどり着けるので書きません。)

本にシンパシーを覚えている自分がいて、リアル社会で交流している人たちよりも、共感を覚える。読書せずにはいられないって、こういうことなのだと改めて感じ入っています。そこにはリスペクトできる人や、自分の思考方法と触れ合う部分を見つけることができたり、そういう琴線に触れるところがあるから。自分の中のもう一人の自分が、私に「学べ」「これからのあなたの生き方のためによく学ぶんだよ」と背中を押してくれているようです。今日は自宅。雨。読書日和です。うっふふ。数日来の忙しさにかまけての部屋掃除さぼりが目に余るのですけどね。

今回も、私より先に夫が読んでいるのですが、夫は内容はすっかり忘れていたけれど子供の頃にも読んだことがある、とのこと。父親の書棚にこの本があったから、だそうです。夫は自宅の本は全部読んだというほどの本読み少年だったそうです。彼のお父さんとは私の舅です。私にとって、そのころ60代の舅さんは、相手を思いやる素敵な人でした。お父さんもこの本を購入して読んでいらしたのかと思うと、「ながい坂」仲間ができたようで、うれしい思いがします。なかなか、リアル社会で本の話もしないし、出会うことはありませんものね。

きっと、まだ出会っていない本も多くあるのでしょう。それらに出会ったときに、読みたいという意欲が衰えていませんように。そう願うばかりです。 

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ラッキョウを漬ける。

2016-06-17 18:25:49 | その他

台所に菜園で収穫したラッキョウがスタンバイしていた。

いろいろの行事が一段落したので、朝からラッキョウの甘酢漬けの準備作業にかかる。確か去年は友人と二人で作業をしたような記憶。今年は全部自宅用にと、ひとりで作業。ひげ根や茎を取り除き、汚れた薄皮をはがして計ったら、2キロ250グラムあった。クックパットで漬け方を検索。洗ったラッキョウは数秒間熱湯をくぐらせる。酢、砂糖、塩の分量を量ってひと煮立ちさせる。これらを冷ましてから瓶に詰めて保存。

汚れた薄皮はがしは一粒一粒だったりするので結構な手間がかかる。値段に占める人件費は大きいな、なんて思いながらの作業。夏バテ防止のためにエンヤコラ、です。

あとは瓶に詰めて完了です。

 

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太鼓の練習

2016-06-17 07:04:17 | 私の雑感あれこれ

長距離バス旅から戻ったのは14日の20時過ぎ。疲れがまとわりついている気だったけれど、太鼓練習初日のこともあり、コミュニティセンターに向かった。

練習時間は19時から21時の2時間。太鼓打ちに申し込んだ子供たちは子供たちは17名です。自治会の担当者らも今年初めて顔合わせした仲間。太鼓の先生とも電話連絡のみでお顔は見たこともない。どうなるのだろうと、心配はぬぐえませんでした。

コミュニティーセンターまでは10分足らず。近づくと太鼓の音が聞こえてきます。「やってるやってる」頬が緩んで、なんだかうれしくなりました。そして小走りに。超疲れていて、膝痛の持ち主なのに、、、と自分自身が滑稽に思えました。

ホールに入ると、大きな音でドンドコ、ドンドコ。先生らしい方と子供たちは練習に集中。いいものですね。一つのことにまとまって取り組んでいる姿。4人の係りの組長さんも皆さん初体験です。なんとか予定通りのスタートができて、ワタシは、ほっ。

私の顔を見ると、細かな問題点の指摘を受ける。翌日はそれらにひとつずつ対処して、そのことを割り当てられた方に電話連絡しました。

 

 

写真では4つですが、全部で8つの太鼓でドンドコでした。

 

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6月7日8日の飛鳥、斑鳩紀行。

2016-06-16 13:05:50 | 旅行・休養

いつもの友人との3人旅。2月ぐらいに予約したのですが、この60代にとっては6、7、8で覚えやすい日程でした。

7日の朝9時発の近鉄特急で飛鳥を目指す。

下調べによると、飛鳥も法隆寺界隈も足の便が悪いのか、旅行ガイドにはレンタサイクルの案内が多い。

我ら60代。大丈夫かしらと思いつつ、小回りが利くし、、、とレンタサイクルバージョンを想定して、車内で自転車で回るコース説明などをしていた。

特急は途中一駅の停車があっただけでサッサと進む。大和八木で乗り換えて、飛鳥で下車した途端に、雲行きが怪しくなってきた。

雨。

レンタサイクルは急遽取りやめ。ウン十年前以来だった石舞台めぐりなどはおじゃんかと覚悟もしたけれど、コースの総距離が遠くもないし、タクシーで回ろうか、誰となく提案がでて、駅前の観光案内に相談。1~2時間の観光タクシーもあり、とのこと。Kさんがちょうど駅前に留まっていたタクシーと1時間5250円でとの交渉してくれた。

雨がざぁざぁ降る中を手始めに高松塚古墳、高松塚壁画館を見る。この60代がのろまそうに見えたのか、駐車場待機の運転手さんが入ってきて、見どころ(見落とさないようにと)ポイントを示してかつ説明してくれる。なんと便利。あぜ道に毛の生えたような細い道を踏み外さないようにタクシーに戻る。

天武・持統陵はタクシーの中で運転手さんの説明を聴いて通り過ぎる。

聖徳太子の生まれた(お産まれになった)橘寺を見学。見たかったら二面石はこちらです、と運転手さんがサクサクと案内。

飛鳥寺を見る。建物は何度も火災にあっているけれど、本尊様は一寸たりとも動いていません。よって、聖徳太子も曽我入鹿も皆様が座っていらっしゃるその場所にお座りになられたと思います、との解説に、ありがたみ大いに上がる。私は仏像そのものよりも、その時代を率いて生きた人々に関心があるタイプです。

例えば聖徳太子の2歳の像と16歳の像があり、2歳でお経の一部を口にし、合わせた手から良い香りがして、指の間からお釈迦様の骨が零れ落ちたとかの説明があった。その言い伝えをそのまま受け入れる熱心さはないけれど、さぞかし聡明なお子さんで双葉のころから英知が垣間見られたのだろう、と想像する。

そこでの仏様だったか、大きな仏像をまじまじと見上げると、異様に手が長い。デフォルメした彫刻というのもあるけれど、これっておかしくない? な~んて疑問を持ってしまう不届きものです。仏像通の友人に話すと、衆生に広く手を差し伸べるために仏像の手はどれも長いのよ、と。そんな理由なのか、と聞いたのだけれど、いくつもの仏像を見てどれもに異様さを感じたわけではないその仏像の手はあまりにも長かった。施主さんの意向?仏師の力量?どっちだろうとひそやかに思ったりしていた。

それから石舞台。石舞台は巨大な石でできた石棺だけれど、本来は土で覆われていたものが、年月を経て巨石がむき出しになったものです。本来の古墳の姿の参考にと曽我稲目(入鹿の父親)の古墳を先にタクシーで案内してもらう。観光案内ベテランの運転手さんの配慮です。ありがたや~。

運転手さんによると、考古学の学者さんらもお客さんとして乗せておられるそうで、まだまだあちこちに古墳があるだろうと思われるけれど、費用のねん出ができないので、もうこれ以上発掘はしないのだそうです。キトラ古墳も管理に費用の問題で、そっとふさいでおくことになった、とか。飛鳥の里にはまだまだ古代が眠っています。

飛鳥資料館前でタクシーおしまい。ここまでで1時間。ワタシ「おつりはいりません」って初めて言った。勿論1万円札で、ではありませんよ。苦笑

資料館前におしゃれなお土産屋兼レストランがあったので、資料館に入る前に食事することに。

何食べたかな~。もうウル覚え。確かなんとかカツ定食だった(※)。お上品な(お肉3キレほど)かつ丼で胃に重くはなかった。デザートの葛餅はお店で作った感じがして、さすが葛の名所と思った。(※)メニューはヒレかつめしセット。レシートで判明。苦笑

飛鳥資料館。名前から思うに、ここでひとまとめに飛鳥を味わえると思っていたけれど、総論的な資料館ではなかった。1982年に発掘された山田寺東回廊の展示がありました。ちょっと私の興味、イマイチで貴重な資料には申し訳ないです。いままであわただしく見学、移動を繰り返してきたので一休み。

資料館から橿原神宮前までバスを利用。宿泊ホテルは駅前なのでウルトラ便利。…こんなこともあって、名所めぐりにはレンタサイクルを使い、駅前で乗り捨てを考えていたのです。

ホテルのお風呂は温泉。お肌がツルツルに感じる泉質で満足。食事はフランス料理の基本コースだったのですが、思ったよりGOODでした。翌朝のバイキングはこの系列のリゾートホテルの中では一番満足と言っていいほどでした。

さて翌朝は晴れました。斑鳩の里行きです。

法隆寺はJR法隆寺から歩いて20分です。近鉄郡山からJR郡山へと歩いて15分の負担は覚悟していたのですが、ふと見たホテルフロントのガイドによると、近鉄「筒井」から法隆寺前までのバスがあることがわかりました。JR法隆寺~法隆寺間20分も、二つの郡山駅間の15分も歩かなくてもいいことになります。法隆寺駅前でレンタサイクルを借りて巡る案もボツになりました。ほっ。

路線はスマホでサクサク検索できる世の中です。なんと便利。パソコンを持ち歩いているのと同じなんですね。近鉄電車で30分足らずで「筒井」到着。15分間があってバスで法起寺まで行く。

①法隆寺、②中宮寺、③法起寺、④法輪寺の4つを見るとの計画でした。奈良の某女子大卒で、仏像通の人がメンバーなので、私にとってマイナーなお寺も教えてもらいました。結構近距離にあるので、③の入り口という名前の付いたバス停で下車して、③、④、②、①という順に見て回りました。

法起寺の三重の塔

事前検索で④のお寺の仏像写真が素敵だったので、その期待が田舎道歩きも背中を押してくれました。結構バス停から④そして③へは距離がありました。暑かったし。こんな程度で「距離があると感じる(遠い)」なんて、飛鳥時代の人とは感覚が違うでしょうね。

②はあの弥勒菩薩の中宮寺です。拝観料無料とあります。これまであっちでもこっちでも拝観料ばかりでしたのに、なんで?と思ったら、弥勒菩薩さんは今韓国へ出張中で、私が拝観したのはレプリカだったのです。精緻だからちっとも素人の私には区別がつかないのですけれどね。

①では、たくさんの修学旅行生に出会いました。私が先回夢殿にきたのも中学3年の修学旅行でしたもの。まさしくあれからウン十年、、、です。私の百済観音のイメージも中3の時のものです。今も昔もまことにスレンダー。

法隆寺夢殿

今回の斑鳩の里めぐりは、仏像よりも五重塔よりも、夢殿よりも、学び舎としての講堂にこころが惹かれました。伽藍の中で講堂だけは焼失して時代が新しかったりでした。世界遺産の価値としては古いものがいいのでしょうが、なんだか、学ぶためにお寺にやってきた当時の学僧をどのお寺に行ってもしのびました。塔があって、金堂があって、そこを行き交って講堂で学ぶ若き学問の徒。きっと優秀な人材だったのだろうな~とか、思いめぐらしました。当然学問が嫌いなのに身分格式で入れられていた人もいたのは、今も昔も通じるところあり、でしょうけれど。

法隆寺のエリアは堂々としています。逆コースから廻ったらしく、最後は正門通りを出て、「筒井」を通るバスに乗りました。

近鉄筒井から大和八木で乗り換えて、7日にスタートした駅に戻りました。

60代のになってふたたびの飛鳥、斑鳩の里めぐりは、遠い先人たちの知恵の具現として感じることができました。病や飢饉、災害から救われ、平安な暮らしをと願うところは、いにしえも今も通じるところです。

■ 読んでいただいてありがとうございました。どちらかというと骨格だけの文章になりました。近日中に加筆予定あり。

 

 

 

 

 

 

 

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書いてみます。福島の被災地訪問のこと。

2016-06-16 07:33:11 | 社会問題

いくつかの行事でてんてこ舞いしていました。

その中の一つに、某団体での県外研修として、被災地福島を訪ねました。
どうだった?と尋ねられて返答できるように、自分なりに書き留めておこうと思います。


中京圏から福島までのバス旅なので、早朝7時に35名を乗せたバスは出発しました。
宿泊先のスパリゾートハワイアンズ到着予定は16時です。
なんと9時間。昼食もバスの中でお弁当という強行軍。
60代が多数というメンバー構成ですから、トイレ休憩を適度にはさみながらの走行です。
膝に弱点を抱えている私としては、休憩に下車するたびにストレッチ。エコノミー症候群対策でもあります。

早目のスタートが功を奏したのか、東京をスムーズに通過できたこともあり、1時間早く到着しました。
日帰り客も利用している温泉で長旅の疲れを流してから、宿泊ホテルの被災状況の話を聴きました。


■ いわき市のスパリゾートハワイアンズでの講話
いわき市は明治16年から昭和51年まで東北一の炭鉱(常磐炭鉱)地帯であったところに、炭鉱に代わる雇用創出の産業としてできたフラダンスで話題の温泉施設(昭和41年)です。
2011年の3月11日には、ホテル宿泊客が約1000名、日帰りバス客が約1500名、従業員が約300名おり、従業員がお客様を1階フロアや駐車場と安全と思われる場所に避難誘導した。
ライフラインが遮断されることはなかったので、情報は入ったけれど、高速道路は通行止めとなり、他の道路も通行困難なところがあちこちにあり、2500名のお客様を東京方面へどうしたら送ることができるかが課題だった。
翌12日の朝、従業員が東京までの2つのルートで走れないかを試走してみた。国道6号線ルートは途中津波被害で通行不能になっており、国道4号線ルートは何とか通行OKだと連絡がホテルに届いたのは、夜の11時だった。

ホテルのバスで送れるのは630名。あと9台のバスが必要で、民間のバス会社にご無理をお願いして、13日の朝に帰宅のバスが出ます、とお客に伝えることができた、とのこと。

13日の朝9時に、18台のバスがホテルを出発。東京の各所に着いたのは夜の11時でした。

地震発生から帰宅の連絡をするまでのお客様の様子、食事のことを質問しました。
情報が入っていたこと、ホテルに全員の5日分の食糧在庫があることを伝えていましたので、混乱はありませんでした。むしろ、他の被災地の方々の受け入れの打診がありましたが、当座はこちらのお客様のを無事送り届けることで頭がいっぱいで、そこまでの余裕はありませんでした。
従業員の方々の事情についても質問。
勿論、自宅が地震被害にあっている従業員も大勢いますので、従業員は家族も心配ですので、ローテーションを組んでお客様の世話をしました。勿論食料は無償提供だったとのこと。
いわき市のホテル所在エリアは3.11の本震の後にも、M7、震度6弱の大きい余震が来て、ホテルのフロアにも大きな亀裂が入ったそうです。



■ 13日朝8時出発、雨の中、双葉郡楢葉町へ向かう。
ふるさと案内人の方(語り部)にバスに同乗してもらい、被災地域の案内をしてもらう。

楢葉町のほとんどの地域は福島第一原発から半径20キロ圏内にあります。
3月12日の原発事故で、町の判断で全町民に避難指示が出て、いわき市(上記ホテルはいわき市です)方面への非難が開始された。
4月22日20キロ圏内 警戒区域設定され、一時立ち入りにも時間制限というエリアです。

ちなみに、福島県双葉郡には6町2村があり、双葉町と大熊町の境界のに東京電力の第一原発6基、楢葉町に4基あります。この地域は福島のチベットと言われ、冬場は都会に出稼ぎに出るという貧しい村で、50年前福島県出身の方が東電の社長だった時に、県知事との間で、なんとか住民の暮らしを豊かに、と考えたことから、原発誘致の話が持ち上がった、ということらしいです。

2012年6月以降 避難先の会津美里町やいわき市に楢葉町の避難民用の仮設住宅が作られて、楢葉町の皆さんが入居。
学校はいわき市に仮設の学校が作られていが、多くはそれぞれの避難先の地域の学校に通っている。
来年にも、楢葉中学の敷地に、小学校、中学校、保育所などを一か所にまとめたものが作られる予定。果たしてどれだけの子供たちが戻ってくるかが問題だ、ということです。


雨降りの道路は人気もなかったけれど、朝夕の時間帯は作業関係の車が列をなして、東京にも負けないほどの渋滞になるそうです。
2014年8月 コンビニが営業再開。復旧作業員の必要なものが置いてあるのが特徴だとか。
2015年6月 常磐線が楢葉町まで復旧。線路はその先の富岡町には届いていません。
窓の外には、きちんと区画された田園風景が広がっています。でもほとんどが雑草が青々としています。所々に田植えをしたところがありましたが、これらは放射能含有量を調べるために試に耕作しているそうです。人の姿はありませんでしたが、さみしい光景でした。


「ここなら商店街」と看板がかかったプレハブの施設がありました。お土産が売っているのではなく、簡易食堂のような場所でした。
2015年9月 避難指示解除。解除された自宅は、ネズミ、野生動物のハクビシンやアライグマで荒らされとても住めるような状態ではなかった。
原発より近い双葉町(現在も帰還困難区域)からの避難者のためのコンパクトタウンが作られていが、もう5年も経過しているので、全国に散らばって避難している方のどれだけが入居のために戻ってこられるかは不明です、と。

地震発生後避難を呼びかけていたパトカー

上記パトカーに乗っていた方の説明。

線量計 0.288μsv/h


■ 楢葉町に北接する富岡町(さらに事故があった原発に近づく)で、今日二人目の語り部さんの話を聞く。
上記楢葉町は避難指示解除されて500名余が帰町したけれど、富岡町は朝の9時~16時まで、出入りOKとはなりましたが、夜通しいることはできないので、まだ住めません。10ベクレル以下の廃棄物の最終処分場があり、山積みされたフレコンバック(1トンは入る黒いごみ袋)があちこちで目につきました。
常磐線富岡駅の駅舎は津波で跡形もなく、駅より浜辺替わりも民家が並んでいたとのことですが、目の前には雨降る海辺しかありません。
富岡町の中でも放射線濃度の高い区域は帰還困難区域となって遮断されています。
帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域、などと汚染度によって区域分けがなされており、被災者の補償金額もそれぞれ異なるそうです。よって、避難所で仲良く茶飲み話をしていた人たちが、受け取っている補償金の違いに気分を害して翌日からは顔を見せない、とか住民同士の感情のもつれも頻発しているようです。

線量計  1.96μsv/h

 

前方は禁止区域

関係者以外入ることはできません。

■ 塩屋岬で語り部の話を聞く。
朝からの雨は止むことなく、バスの中での話になりました。
薄磯地域は津波被害にあったところです。7.2mの防潮堤がありましたが、8~9mの津波が来ました。
800名の住民のうち、160名が死亡した。
事故を起こした第1原発までは50キロで、雨と風向きの関係で放射能被害は少なかった。原発事故による避難区域の人には、一人当たり月額10万円(無税)が毎月出ているが、津波被害者への補償はありません、と。

語り部さんも津波経験者です。
地震の時は海岸から200mの自宅にいたそうです。まもなくして、3時頃に津波が来るという情報を聴いた。テレビはダメでもラジオで。
3時10分になっても津波は来なかったので、海まで様子を見に行った。
海辺に付いたら、普段の海と違って、真っ黒いものが目の前を覆った。沖に向かって、水深3m、6m、10mのところがの水底が見えるのです。これは津波だとビックリして引き返し、神社の高いところに向かった。神社の階段を10段ほど登って振り返ったら、くぐってきた神社の鳥居が見えなかった。

津波の10数分間の記憶が今もないそうです。保身本能でそうなっているのかもしれません。
それほどまでに、すごい体験をご自身がなさったということです。

現在も除染作業の現場監督で働いていらっしゃるという、その語り部さんの次の言葉が心に残っています。

自然災害は仕方がない、とは言いますが、命を失ったのは自然災害のせいだけではありません。津波に対する判断ミスが命をも失わせるということを自覚しないととつくづく思います。
避難指示が出ていないことをなじるのは間違いです。責任を人に求めないで、自分を守る判断はまず自分でしなくてはならない、ということです。


 

長くなりました。
まだまだ加筆訂正すると思いますが、ひとまず投稿しておきます。














 

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盛りだくさんの行事は終わった。

2016-06-15 06:17:48 | 私の雑感あれこれ
昨晩8時過ぎに、福島から北関東の35名の団体バス旅から戻った。

長い車内時間の疲れがへばりついたような身体だったけれど、荷物をリビングに下ろしたら、「太鼓(の初練習日)行かないの?」と家人が。
…「(7時から9時までだから)まだ、小一時間は残っている。行ったほうが後悔しない(自分に)」
と判断して、徒歩でコミュニティーセンターに向かった。

近づくにつれて太鼓の音が聞こえてくる。

センターのホールでは、子どもたち17名は講師の指示にしたがって全員で好調に練習中。
係りの皆さんへの連絡事項は伝わっているものの、いろいろ追加事項もあって対応してくださっていた。

人数が増えたこともあり、予算オーバーになる可能性大になりそうです。
もう一度去年の太鼓関連の出費内容を把握しなおして、配分変更で何とかならないか、予算枠の増額も頼んでみたい、などなどの懸案事項も出てきました。

今日は出勤。
帰宅後に盆踊り会計さんへ電話連絡をしようと思っています。

東北の被災地の研修内容も自分のためにもまとめたいと思っています。(課題2)

その前の奈良旅も、わたしにしては珍しく写真を撮ったりしてきたのです。(課題1)

忘れないうちに整理しなくては…、なのですが、ひとまず今やらなくてはならないことがあって、順番に、です。

2泊3日の旅は、庭が私にすこしだけよそよそしくなります。
忘れないでね、と花殻摘みをしたり、新芽や蕾を覗き込んだり、やけに伸びた雑草を抜いてやったりなどのチェックして回ると、私も花たちも普段通りに戻るのです。

5月10日にした挿し木バラの何本かが発根しているようです。
花が咲くように育つのは、先の話です。
でも、それなのに、
またまた増えたらどうしよう。
など、とらぬ狸の皮算用もしっかりしているワタシでもあります。











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「それは辺境だから・・・」

2016-06-10 20:27:07 | 私の雑感あれこれ
朝食を食べながら、奈良の旅や司馬遼太郎の「この国のかたち」のことを話題にしていた。


いにしえの昔から、書物を外国(中国)から取り寄せることに熱心だった。
古代から江戸期までの長きにわたって貿易の輸入高の一番が書籍という日本。
こんな国は世界広しといえどもほかにはないだろうね。

それは、この国が辺境だからだよ。
自分の国が辺境にあるという意識が常にあったから、書物を取り寄せて、より高い文化を学ばなくてはならない、という志で貫かれてきたのだと思う。

なんだか、手にしていた知恵の輪がカチャッとはずれたような気がした。

四面が海という天然の防塞を持っていたから侵略されなかった、とか、ユーラシア大陸の東の縁に、それも島国で、という日本を辺境という、という表現にも出会ったことはあった。

でも、今朝の、「辺境という意識があったから、発展していくためには、中国の書物に学ばなくてはならない」というスタンスで貫かれていたのだという応答は私の胸にストンと来た。

だから、現状に固執するよりも改革することや、外国文化を取り入れることについて、ハードルが低いのかもしれない。


そして、この国の中で見ると、私は北陸(育ったころは裏日本とも表現されていた)育ち、というのも、日本の中にあっての辺境育ちだったのだろう。

そしてさらに、女性であることも、私が生育した時代においては人として扱われることにおいて次順位、二番手であり、どちらかというと非メインとみられてきた、ともいえる。

そんなことを、じくじくと考える一日でした。


私は、そんな辺境要素に満ち満ちているからかしら、いつまでも、知らないことを知る(私の場合は歴史がらみの読書する)ことに興味が尽きない。

辺境ありがたし、
というか、
読書できることありがたし、
です。








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