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古田武彦氏の「失われた九州王朝」を読む

2011-09-02 14:44:52 | メモ帳

古田武彦氏はその著作『失われた九州王朝』において、エッと驚く説を展開している。煎じ詰めれば次のようだ。

倭国は北九州に一世紀の志賀島の金印当時から存在し、卑弥呼の時代から5世紀の「倭の五王」の時代を経て、7世紀末の持統天皇の時代まで続いた。しかし、「倭の五王」の時代に半島に出兵を繰り返して疲弊し、663年の白村江における大敗が主因となって滅亡した。『紀記』は倭国(九州王朝)の歴史を日本国のものとして取り込んで、日本国は神代から続く万世一系の王朝であるかのごとく歴史を歪曲した。

古田氏はこの説を裏付ける数々の証拠を挙げている。

 

中国側は倭国を日本列島の中心的王朝と認識していた。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり。…旧(もと)百余国。漢の時、朝見するものあり。」

(『魏志倭人伝』)。つまり、倭人は漢の時代から朝貢していた。

博多湾の志賀島で発見された「漢委奴国王」という金印は、漢が倭奴国の王に与えたもの。

『旧唐書』に、「倭国は古の倭奴国なり。…世々中国と通ず」とある。「世々」とは「長い間、ずっと」の意味である。

「日本国は倭国の別種なり。…日本は旧小国、倭国の地を併せたり」(『旧唐書』)

 

5世紀に晋や宋に朝貢した「倭の五王」すなわち讃(413、421、425年)、珍(438年)、済(443、451年)、興(462年)、武(479年)とは大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の王である。

『記紀』に五王の朝貢に関する記述がないのは、それが九州王朝の事績だからで、大和朝廷の天皇に比定しようとしても無理があるのは当然である。

『梁書』には梁の武帝が502年に武を征東将軍に任じたとある。通説では武を雄略天皇に比定しているが、『紀』によれば雄略の治世は456-79であり、その死後23年経って、しかも清寧、顕宗、仁賢、武烈天皇のあとに征東将軍に任命したというのはつじつまが合わない。

武の上表文に「渡りて海北を平らぐること95ヵ国….道百済を経て船舫を装治す」とあり、海北が朝鮮半島と意味することは明らか。もし大和を起点とするなら、半島の方向は海西でなくてはならない。

筆者注:日本列島から半島に向かう最後の出発地点は九州である。その出発時点から見れば、朝鮮半島は「海北」になる。したがって、古田氏の主張が正しいとは言えない。

 

高句麗が戦った相手は北九州の倭国

好大王の石碑の建立は414年で、好大王の治世は391-412年。倭の旨と讃の時代(百済王は372年に倭王旨に七支刀を贈っている)に相当する。この時代の大和朝廷は半島に出兵していない。したがって、好大王が戦った相手は九州の倭国である。

筆者注:5世紀初頭は大和朝廷では神功皇后の時代である。神功皇后の新羅征伐を史実とすれば、好大王が戦った相手は大和朝廷だったことになる。

 

磐井の乱

通説では北九州の豪族磐井が反乱を起こし(527年)、大和朝廷が鎮圧した(528年、継体22年)ということになっているが、事実は逆で、九州王朝を大和朝廷が滅ぼしたのである。

の継体記末尾に「或る本(『百済本記』)に曰く、〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」とある。しかし、継体天皇の長子の安閑天皇、その弟の宣化天皇は、継体の死後も生きていた。この記述は大和朝廷のことではないと理解すべきだ。

継体21年、天皇は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発している。一地方豪族の討伐としては大げさである。

継体が物部大連麁鹿火に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言ったが、それでは長門以東は大和の領域ではなかったことになる。

 

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」(『隋書倭国伝』607年)

この国書を送ったのは聖徳太子ということになっているが、それでは矛盾がある。『隋書』に、600年に隋が倭国に使節を遣し、国王に面接したという記述があり、国王の名前は姓が阿毎(あめ)、名が多利思北孤、阿輩鶏弥(おおきみ)、皇后の名は鶏弥とある。明らかに国王は男性だが、当時の大和朝廷の天皇は推古で女性。

 

遣隋使の矛盾

『隋書』によれば、最初の遣隋使は開王20年(推古8年、600年)だが、『紀』では推古15年。『隋書』では、608年の遣隋使が最後となっているが、『紀』では614年にも遣使の記録があり、九州王朝からも大和朝廷からも、遣隋使が派遣されたことになる。

 

白村江の敗戦

663年に白村江で唐・新羅の連合軍と戦ったのは、すでに滅びていた百済の残党と九州王朝の連合軍だった。その後、郭務悰が率いる唐の占領軍がやってきたとき、白村江の戦いで捕虜になった筑紫の君と呼ばれた薩野馬(九州王朝の王)が帰国したことが『紀』に記されている。

筆者注:磐井の乱で、天皇、皇太子が殺されるという大打撃を蒙った九州王朝が勢いを盛り返し、白村江に何万という大軍を送ることが可能だろうか。

 

神籠石山城群

北九州一帯および山口県に残る神籠石の山城は、5世紀から7世紀まで戦っていた新羅と高句麗が攻めてくることを恐れて九州王朝が構築したもの。大和朝廷が北九州に城を作る必要はまったくなかった。

 

九州年号

継体天皇16年における善記(522年) から文武天皇5年における大宝(701年) まで179年続く年号が存在した(『海東諸国記』李氏朝鮮の史書)。大和朝廷では、この期間に大化、白雉、朱鳥という三つの年号が飛び飛びに存在したが、飛び飛びに年号を定めることなどありえない。この九州年号は全国各地に記録があり、大和以外の王権が存在したことを示す。なお、九州年号が制定された理由は、502年を最後に、九州王では中国の南朝(梁・陳)との交流が途絶え、自前の年号が必要になったから。

 

大嘗祭

『紀』によれば、天皇家のもっとも重要な祭祀である大嘗祭は、673年まで行われていない。その理由は、大和朝廷は統一王権ではなかったからで、それまで大嘗祭を執り行っていたのは九州王朝である。

 

古田武彦氏の九州王朝説は推理小説の謎解きのようにエキサイティングである。文献の引用も豊富であり、説得力がある。そして、通説と中国の史書との矛盾をいくつも指摘している点で、高く評価できる。しかし、その矛盾は九州王朝の存在の可能性を示すものの、その存在を断定するものではない。言うなれば、状況証拠は十分だが、物的証拠に欠けている感がある。次回は専門家による古田説批判について考察する。

 

 



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2 コメント

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家康が知っていた古代史 (いしやま)
2013-12-20 08:02:31
最近珍しい書籍を教えてもらいました、ご存知かもしれませんが、紹介したいのですが。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。特に銀山開発には家康はスペインからの技術者導入のために尽力しています。スペイン国王からは難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書ということでしょうか、日本大文典のこの内容は、ウィキなどにも記載されていません、もう既に見ていますか。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 日本紀 と 日本書紀813年頃成立 は 別物という考証があります。
宜しくお願いします。
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虚しい批判… (セロディーゴ)
2017-07-12 23:33:58
弁当箱の隅を突つくだけの単なる批判なら誰も聞く耳を持たないよ…
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