磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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被爆40年原爆被爆者援護のあゆみ-被爆者白書-

2008年11月08日 | 読書日記など
『被爆40年原爆被爆者援護のあゆみ-被爆者白書-』
   広島県環境保健部原爆被爆者対策課・編/
     広島県環境保健部原爆被爆者対策課1986年

あの重松逸造の文章もあります。

チェルノブイリから広島へ



■目次・主なものだけ■

第1篇 原爆被害の 実態
 第1章 原爆による物理的破壊  1
 第2章 原爆による身体的障害  11
 第3章 原爆による社会的破壊  23
第2編 被爆者援護対策史
 第1章 原爆投下直後の救護活動  33
 第2章 占領下における原爆障害の医療と調査研究  35
 第3章 占領解除後の原爆後障害対策  37
 第4章 原爆医療法  40
 第5章 原爆特別措置法  44
 第6章 原爆被爆者対策基本問題懇談会  52
 第7章 広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協議会)  54
 第8章 広島県・市の被爆者援護対策と行政組織  57
第3編 被爆者援護対策の概要
 第1章 原爆医療法による健康管理と医療  65
 第2章 原爆特別措置法による諸手当  102
 第3章 原爆二法以外の被爆者援護対策  132
第4編 被爆者援護対策の回顧(寄稿)
 第1章 被爆者関係団体のあゆみ  145
 第2章 広島県の被爆者行政の回顧  162
第5編 被爆者関係団体及び施設  177


「被爆者養護事業」財団法人広島原爆被爆者援護事業団理事長 志水清・著 下「」引用。

「1 原爆養護ホーム開所の経緯」
 被爆者の強い要望にこたえて、広島原爆病院が昭和31年9月に開院されたが、退院後の居住と再発の強い不安を訴え、同じ境遇にある被爆者同士が肩を寄せ合い、慰めいたわりつつ、安心して療養し、安らかな楽しい余生を過ごしうる施設の実現が熱望されていた。
 昭和36年に(財)広島原爆障害対策協議会(原対協)により刊行された「原爆医療史」にも、被爆老人の養護施設は、最上のオアシスとして喜び迎えられるであろうと述べている。
 昭和36年には広島大学原爆放射能医学研究所と広島原爆被爆者福祉センターが新設され、昭和41年には広島市立舟入病院に被爆者健康管理所が、昭和42年には原爆被爆者有福温泉療養所が相次いで設置された。しかし、被爆者の熱烈な心情もむなしく、被爆者養護施設は依然として日の目を見るに至らなかった。
 昭和42年10月、(財)広島市原爆被爆者協議会は、被爆者の健康管理と療養保護のため原爆障害者のコロニー設置を、国に強く要望した。すなわち、被爆者のうち、病気回復者で後保護を要する者、要介護療養者、高度小頭症患者など被爆に起因すると疑われる障害者に対して、適切な医学的管理の下に収容、保護を行う後保護的施設の実現化であった。
 国は昭和43年度に、広島県分として特別養護1施設、広島県・市分として一般養護各1施設の整備計画を進めていたが、その後国及び広島県・市との調整により、3施設を広島県・市共同施設として1か所に建設することとなった。
 しかし、その用地や運営主体と施設の形式などについてう余曲折がみられたが、原爆養護ホームとして広島市立舟入病院の敷地内に昭和44年7月着工、翌45年3月完成した。その管理運営は、県・市の共同出資による(財)広島原爆被爆者援護事業団にいたくされることとなった。
 昭和45年4月の開所当初の定員は、一般養護100人、特別養護50人であったが、施設の需要増による被爆者と関係の強い要望によって、県・市は昭和47年に各50人増の増改築に踏み切り、昭和48年4月から一般養護150人、特別養護100人となり現在に至っている。-略-」

優先順位が違うんじゃないかと思います……。
--いかにもイメージとして福祉をやっている感じのを進められたように思えてなりません。

「原爆放射線影響研究活動」財団法人放射線影響研究所理事長 重松逸造・著
--4ページも書いている。









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