『短歌雑誌 真樹-広島平和希求号-平成11年8月号』
山本光珠・編/真樹社1999年
「『長崎の鐘』(永井隆著)を読みて」広島 山本光珠・作 下「」引用。
「東洋の生地」長崎にも核爆(は)ぜき争いの非を知る道長く
-略-
終戦に萎えいし永井氏「長崎」を大き燔(はん)祭と綴りそめしか
-略-」
永井隆博士も短歌を詠まれていたのを思い出しました。
「沖縄」広島 河本美代子・作 下「」引用。
-略-
兵士らの自決なしたる洞窟よ長靴型とや底いは見えず
詣で来てひめゆりの塔に彫られたる名前は見入る同じ世代よ
-略-」
戦争はヒロシマだけに限りませんね……。
解説つきのコーナーがあります。
電車内で被爆された人が詠まれた……。下「」引用。
「 石井恵美子
二折れに伏したる老婆の背に上がり路上に飛びつくかくて今日の日
『慰霊』117頁
「白鳥線の電車」と題された平成二年の作品である。
生命体が己の危険を察知した時、とっさにその身を守ろうとして行動をとる。原爆が炸裂したとき、電車に乗り合わせていた作者は老婆を踏み越えて車外に逃れた。その瞬間の切迫した行動を現在形の畳み込んだ調べで詠んでいる。そして結句「かくて今日の日」と、一点四十五年を経た今日の日の感慨を自省をこめてうたい収めている。
生きているという喜びと老婆に対する哀惜の思いが複雑にからみ合って、重く忘れ難い一首である。-略-」
そして、さらに電車……。下「」引用。
「 山本光珠
外つ国の電車も彩る広島に幻なして黒き一両
『閃光』118頁
作者は、白鳥線の路面電車内で被爆した。その電車は、以後長く被爆地点に放置されており、朝日新聞社によって撮影され、鉄骨のみとなったその「黒き一両」の写真は、この歌集『慰霊』の巻末に掲載されている。
被爆後半世紀が経過して、現在の広島市外にはドイツから寄贈された瀟洒な電車も行き来している。その景を見つつ広島を歩く作者の脳裏には、かの日自分の存在を原爆から守った一両、被爆後何度も手を触れに来たという黒く煤けた一両が拭えないのである。被爆し、なお生き得た不思議はつねに「黒き一両」に象徴され、作者の、平和を求める心の源であり続けるであろう。」
「原田東岷氏を偲ぶ」山本節子・著の文章がありました。下「」引用。
「-略-医とバラの博士、東岷先生は-略-
そうだ。先生は「音楽=私の生涯の資産」の通りご幼少時代から音楽の素養に富み、広島交響楽団を支え、時には、ふと唄われ、生粋の平和希求、平和先導者であった。」
『短歌雑誌 真樹-広島平和希求号-平成12年8月号』
山本光珠・編/真樹社2000年
時代は流れていますね……。下「」引用。
「原爆の悲しみはさぞわれよりも深からん母惚(ぼ)けて忘る」
徳田さんの歌をとりあげて他の人が書かれている。
こんなことも書かれてあります。下「」引用。
「いかにせよそその時に生き戦いし滅私の者をわれは尊ぶ
徳田義幸
なぜ戦争に反対しなかったのかと若者はつめよる。お国のためにとひたすら耐え生き抜いた青春時代を理解されない悲しみ、靖国神社参拝の是非を云々されることなどへの憤り等々が、いつも心のどこかにある私は、折にふれてこの歌を朽ちずさむ心慰められるのである。」
しかし、もう滅私はやめていただきたい。
--特に官僚にはそれを望む……。
靖国神社参拝も、政治の問題であり、その問題をすりかえてはおかしなものだと思う……。
中曽根総理が参拝するまでは、問題にならなかった。中曽根という人物が、原子力発電を日本ではじめたことも有名なこと……。
index
学徒動員で兵器をつくっていた人が無辜なのか?
--戦争責任があると書かれている人もいる……。
その武器で戦争がおこなわれたのだから……。
--だったら、今も戦争に関わるものをつくっている人たちも同様だろう……。
それも強制ではないのだから……。
先年、臨界事故がおこり、これでも「安らかに眠って下さいあやまちはくり返しませんから」となるのだろうか?
--ならないだろうとボクは思います……。感情に流されず、よく勉強されている人もおられる……。
核抑止論いうものがあるならば……。下「」引用。
「戦力の均衡が平和を生むとせば零対零もその選択肢
徳田義幸」
エコで平和な、0対0ですね。
index
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もくじ
Index
山本光珠・編/真樹社1999年
「『長崎の鐘』(永井隆著)を読みて」広島 山本光珠・作 下「」引用。
「東洋の生地」長崎にも核爆(は)ぜき争いの非を知る道長く
-略-
終戦に萎えいし永井氏「長崎」を大き燔(はん)祭と綴りそめしか
-略-」
永井隆博士も短歌を詠まれていたのを思い出しました。
「沖縄」広島 河本美代子・作 下「」引用。
-略-
兵士らの自決なしたる洞窟よ長靴型とや底いは見えず
詣で来てひめゆりの塔に彫られたる名前は見入る同じ世代よ
-略-」
戦争はヒロシマだけに限りませんね……。
解説つきのコーナーがあります。
電車内で被爆された人が詠まれた……。下「」引用。
「 石井恵美子
二折れに伏したる老婆の背に上がり路上に飛びつくかくて今日の日
『慰霊』117頁
「白鳥線の電車」と題された平成二年の作品である。
生命体が己の危険を察知した時、とっさにその身を守ろうとして行動をとる。原爆が炸裂したとき、電車に乗り合わせていた作者は老婆を踏み越えて車外に逃れた。その瞬間の切迫した行動を現在形の畳み込んだ調べで詠んでいる。そして結句「かくて今日の日」と、一点四十五年を経た今日の日の感慨を自省をこめてうたい収めている。
生きているという喜びと老婆に対する哀惜の思いが複雑にからみ合って、重く忘れ難い一首である。-略-」
そして、さらに電車……。下「」引用。
「 山本光珠
外つ国の電車も彩る広島に幻なして黒き一両
『閃光』118頁
作者は、白鳥線の路面電車内で被爆した。その電車は、以後長く被爆地点に放置されており、朝日新聞社によって撮影され、鉄骨のみとなったその「黒き一両」の写真は、この歌集『慰霊』の巻末に掲載されている。
被爆後半世紀が経過して、現在の広島市外にはドイツから寄贈された瀟洒な電車も行き来している。その景を見つつ広島を歩く作者の脳裏には、かの日自分の存在を原爆から守った一両、被爆後何度も手を触れに来たという黒く煤けた一両が拭えないのである。被爆し、なお生き得た不思議はつねに「黒き一両」に象徴され、作者の、平和を求める心の源であり続けるであろう。」
「原田東岷氏を偲ぶ」山本節子・著の文章がありました。下「」引用。
「-略-医とバラの博士、東岷先生は-略-
そうだ。先生は「音楽=私の生涯の資産」の通りご幼少時代から音楽の素養に富み、広島交響楽団を支え、時には、ふと唄われ、生粋の平和希求、平和先導者であった。」
『短歌雑誌 真樹-広島平和希求号-平成12年8月号』
山本光珠・編/真樹社2000年
時代は流れていますね……。下「」引用。
「原爆の悲しみはさぞわれよりも深からん母惚(ぼ)けて忘る」
徳田さんの歌をとりあげて他の人が書かれている。
こんなことも書かれてあります。下「」引用。
「いかにせよそその時に生き戦いし滅私の者をわれは尊ぶ
徳田義幸
なぜ戦争に反対しなかったのかと若者はつめよる。お国のためにとひたすら耐え生き抜いた青春時代を理解されない悲しみ、靖国神社参拝の是非を云々されることなどへの憤り等々が、いつも心のどこかにある私は、折にふれてこの歌を朽ちずさむ心慰められるのである。」
しかし、もう滅私はやめていただきたい。
--特に官僚にはそれを望む……。
靖国神社参拝も、政治の問題であり、その問題をすりかえてはおかしなものだと思う……。
中曽根総理が参拝するまでは、問題にならなかった。中曽根という人物が、原子力発電を日本ではじめたことも有名なこと……。
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学徒動員で兵器をつくっていた人が無辜なのか?
--戦争責任があると書かれている人もいる……。
その武器で戦争がおこなわれたのだから……。
--だったら、今も戦争に関わるものをつくっている人たちも同様だろう……。
それも強制ではないのだから……。
先年、臨界事故がおこり、これでも「安らかに眠って下さいあやまちはくり返しませんから」となるのだろうか?
--ならないだろうとボクは思います……。感情に流されず、よく勉強されている人もおられる……。
核抑止論いうものがあるならば……。下「」引用。
「戦力の均衡が平和を生むとせば零対零もその選択肢
徳田義幸」
エコで平和な、0対0ですね。
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http://www.a-net.shimin.city.hiroshima.jp/www/contents/1019814377617/index.html
メルアドも書かれてあります。