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天野遠景の系図。

2007年09月15日 03時17分26秒 |   源頼朝


<天野遠景の想像図(※イメージです)>

また系図のお話。系図なんていくつも見ても何も楽しくないと思われるかも知れません。(私も系図キライ)。ごめんなさい。でも、天野遠景のことを考えるにはまずあれこれ眺めてみなければならぬ必要な物なのです。こんな(鬱屈した心境の)時じゃないとこんな記事書けないし(本当はカメラ持って車で出かけたいんですよぅ)、私以外にこんなことに興味を持つ人もあんまりいないと思いますのでね。
天野遠景、マイナー武将だと思われるので不本意ながら一言解説しておきますと、「源頼朝の配下で九州大総統となった人。各地を鬼のように暴れ回った」です。享楽的で気ままな伊豆人の性格の最もアグレッシブな部分を象徴している人だと言ってもいい。本当に外に向かう一族だったらしくて、全国各地に天野氏の末裔がいます(天野さんの故郷は伊豆ですよ!)。でも遠景は、北条一族以上に系図を眺めていると何が何だかわからなくなってくる、不思議な人なんです。もはや、天野遠景の人生って系図を迷路にする為に存在したと言ってもいいくらい。(←早くも言ってることがわからない)

さてさて、天野遠景は知られている詳細が多くない人ですが、
平凡社の世界大百科並びにウィキペディアでは、「藤原南家の流れを汲む狩野工藤家の傍系(入江工藤家)」としていて、一致しています。きっとこれが定説なんですね。
で、系図と言ったら尊卑分脈。ところが尊卑分脈は入江氏の系図部分が非常に充実してるくせに、遠景の名が見えません。尊卑分脈では遠景は入江氏じゃないのです。
でも慌てなくて大丈夫、群書類従にはちゃんとありますから。尊卑分脈はほんと問題資料です。狩野氏の部分だって変な所がたくさんあるんですよ。

今日のこの記事(系図)は、大部分を中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』 (静岡教育出版社、2005年)に負っています。ご了承ください。
これを見ると、初めて木工助となった「工藤氏の祖」藤原為景が、同時に入江氏にもなっている事が分かりますね。そして、遠景の父景光の代に伊豆国住人となっているところが注目ポイントだ。別に代々伊豆に住んでいたわけじゃなかったのね。

ところが実は群書類従には、もうひとつの天野氏系図が収録されているのです。
(…と、件の御本には書いてある)

なんだこりゃ。
と思ってネットで情報収集してみますと、もうちょっと詳しい同じ系図が見つかります。「天野遠景の謎 その一-『萩藩閥閲禄』」さんより。

天野遠景はもっとダイレクトに皇族の近い縁戚ですよー。(後三条源氏というらしい)
こりゃ大胆だ。藤原南家とか工藤氏の縁戚とか、そんなことはもうどうでもよくなっています。ただし、これは何の根拠もないムチャクチャな系図かというとちょっと注意が必要で、この資料自体は毛利氏の萩藩に由来するものですが、実はたぶん我らが伊豆長岡に伝わる伝説も深く関わっているらしいということです。伊豆の歴史に詳しい人なら有名なことですが、後三条天皇の皇子・輔仁親王とは白河天皇の弟で、父の後三条帝から「白河の後に天皇にしてやる」と言われていたのに、白河はその約束を守らなかったんですね。やがて「輔仁親王がクーデターを画策している」という噂が立ち、バタバタと首謀者が捕まって親王の師父だった仁寛大僧正が伊豆に流され、伊豆はエロ宗教のメッカとなるのです。源平盛衰記には「仁寛流されの事」という一章があって、これがほぼ同じ境遇の以仁王が源頼政の力を借りて挙兵する物語の布石となっています。で、伊豆には仁寛だけではなく「輔仁親王も伊豆に流されていた」という伝承があるのです(笑)。「輔仁親王が住んでいた屋敷のあと」だとされている場所もあって、それが「天野遠景が住んでいた場所」とされている所と同じ場所なのです。あやめ御前も親王のむすめとされているんですよ。これほんと。

ま、そんなのは置いといて、狩野氏系流の系図の方をもっと追求してみますと、

入江流の流れを示した系図ですね。
伊豆の天野氏は遠景以降もいたそうで、現在も御子孫が天野郷にはうようよいらっしゃいますが、勢力を持つ一族としては後北条氏の時代に絶えてしまったらしいです。しかし戦国武将としては甲斐武田、駿河の安倍川の奥、遠州の徳川家康の家臣にそれぞれ天野遠景の子孫を名乗る武将たちがいたそうで、相良系図ってことはそのどれかが伝えていた系図ってことでしようかねえ。
やべ、うっかり工藤狩野介茂光の名を書き入れ忘れていましたけど、茂光とは七親等の親族ということになります。(遠い)。
ふーん、という感じですが、参考までに次の系図と対比してみますと、面白い事になります。(遠景は出てきませんけど)

治承4年の「波志田山の戦い」で突如名前の出てくる、甲斐の工藤庄司景光と行光の親子。系図上からは、「工藤氏は伊豆へ行く本流と駿河に留まる一族と甲斐に新天地を求める一派に分裂した」ということが読み取れると思うのですが、工藤庄司景光の一党は甲斐の武田氏と深い結びつきを持ったらしいのです。
ところが、1981年に山縣明人という人が『豆州水軍の奥州兵乱における役割~工藤行光の遠征参加への史的考察~』という論文の中で、「狩野茂光の息子の行光と、甲斐の工藤庄司行光は同一人物」だと断じ、それが定説となっている。山縣氏いわく、工藤行光と、工藤景光・工藤茂光の関係が「どちらが実父であり養父であるか問題であるが、政治経済的関係を配慮しての養子縁組であることは確かであろう」と述べておられるのです。石橋山の戦いでの当主狩野茂光の死と大庭景親による狩野郷占領によっても狩野氏がなんとか崩壊しなかったのは、甲斐に養子に行っていた行光の存在があってのことだと述べておられる。甲斐武田氏と伊豆との深い結びつきは北条時政だけじゃなかったのね。
で、私が問題としたいのはここ!
相良系図での「入江景澄-入江景光-天野遠景」の流れと、
二階堂系図でも「工藤景澄-工藤庄司景光-工藤行光」の流れ。
かつてさがみさんに、「工藤庄司景光と天野遠景の父景光が同一人物という事はありえますか?」とお尋ねした原因がここにあります。天野景光は息子の遠景と共に何度か伊豆に出現しているんですよね。
ま、材料が無いのでこれ以上先を考察する事ができません。

先程、「尊卑分脈の藤原南家には遠景が出てこない」と言いましたが、実は尊卑分脈では遠景は「藤原北家」の一員にされているのです(笑)。この系図が一番問題だ!

えーーーと、安達藤九郎盛長の弟の息子が足立遠元で、その息子が天野遠景… 絶句。
しかし、これが「天野遠景が足立遠元の養子となった」という説の根拠にされているんですよね。(藤九郎盛長も遠元の養子なんじゃなかったっけ?) この系図では安達藤九郎が「小野田藤九郎」で、その弟(とされる)遠兼が安達藤九郎だし。ややこしいわ。
足立遠元は関東中央に勢力を持つ幕府の宿老です。でも、いわば建国の功臣の一人で九州大元帥として戦功を挙げまくり、精力絶倫で各地にぽこぽこ大量に子供も設けている天野遠景が、どうして彼の養子にならないといけないのでしょうか。何らかの深く暗い事情があるように思えます。群書類従の天野氏系図でも遠景の子孫が足立氏を相続しており、まんざら無根拠とも思えないですし。

で、この項の最大の問題点。
どの系図にも、吾妻鏡で天野藤内遠景と並んで出てくる天野平内光家の名がどこにも出てこない!ということだ。これが最大のミステリーかもしれない。だって吾妻鏡だよ吾妻鏡! これに先祖の名前が出てくるということは最大の誉れだと思うのに。もしかして天野平内光家は頼朝の脳内にしか存在しない人だったのかも。(※伊豆にはちゃんと光家のお墓もあります)


 


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47 コメント

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藤原南家 (さがみ)
2007-09-15 09:29:56
お久しぶりです。
復活を心から喜んでいます。

系図話私は好きです。

北条氏も時政以前の系譜は確かに専門も方もお手上げ状態のようです。
安達氏も盛長以前は???の連続で・・・
(盛長の前半生もほぼ不明、
盛長が熱田大宮司家出身説や盛長母が平忠盛の娘であるという説まであるようで・・・)

伊豆、駿河あたりは平安後期から藤原南家の子孫が活躍しているようですね。

是非続報お待ちしております!
系図。 (麁鹿火)
2007-09-15 12:37:02
わーーい、さがみさん
ありがとうございます。

武士って言うのは血筋を一番大事に考えていて、北条時政や天野遠景などの時代は、当事者たちは大事に大事にそれを守っていたに違いないのに、どうして現在には完全な形でそれが残っていないのでしょう?
おかげで「何か都合が悪い部分があったから抹消・改竄しなければならなかったのかな?」と勘ぐりをしなければならないじゃないですか。
おそらく記録を失ったのは後の時代の当事者たちでしょうし、改変をしたのは後の時代の子孫たちかもしれない。そもそも系図って言うのは門外不出なんでしょうかね。(うちは下賤な出なものでそういうのが良く分かりません)
日本って血筋とか慣習とかにはデリケートな気がするのに、中国に倣って記録とかも体系的に残してくれるようになれば良かったのに。

盛長が不明だらけなのは微笑ましいですね。
偉くなっても偉ぶろうとしない。彼らしい(^-^)
孫なんかにも「おじーちゃんが伊豆に頼朝さまと二人きりでいた頃はなぁ」と、それだけを嬉しそうに話してそれ以外の事は問題外だったんでしょう。
熱田大宮司家出身説や盛長母が平忠盛の娘説…
そんな説まで… 清盛の甥じゃないですか。

次は狩野氏の系図を取り上げて、それでおしまいにしようと思ってるのですが。
狩野氏も意味不明。本当に狩野氏は伊豆で勢力を持っていたんでしょうかね? 先祖は遠江守・駿河守で輝かしかったのに、時代が下るにつれて田舎に田舎に。下国中の下国とされた伊豆の国の押領使となってしかも国衙ではなく狩野なんて言う山の中でひっそりと暮らすなんて、まるで逃亡者みたいじゃないですか。まあ、中央でも政権の交代が目まぐるしく、駿河みたいないい国には次々と新しい権力者の縁者が派遣されてくるのですから、狩野氏も伊豆で「しょーがないなぁ」と悲哀を噛み締めていたのかもしれません。
Unknown (天野@野比)
2011-02-27 20:37:37
はじめまして、最近になって、最近天野遠景が鎌倉で活躍していた史実を知りました。私は箱根産天野姓ではありますが、横浜生まれで、鎌倉で20年程働いています。ご先祖様がこんな遊び人とは知りませんでした。。。。
いざ鎌倉。 (麁鹿火)
2011-02-28 20:00:28
野比の天野さん、はじめまして、どうぞよろしく。


すごいですね。
確かに遠景卿は死に関しての明確な記録が無い人ですが
未だに鎌倉で遊び人をやっていたとは。
ちなみに、遠景卿は基本的には伊豆の人ですが、
史料によっては生まれも没も鎌倉であったらしいです。
(遠景の生地を鎌倉としているのは『大百科辞典』だそうです(未確認)←手持ちの『犬居城主天野氏と戦国史』という本に書いてありました。どの社の大百科だろ)

箱根にも天野氏っていらっしゃったんですね
なんか嬉しいです (母方天野性。)
2014-05-25 11:55:25
随分前の記事に初コメント失礼します。

母方は天野性で北海道産まれなんですが、

・昔は武士だったらしく数代前のおじいさんは捕った首をごろごろと持って帰ってきた
・家臣をかばって城を捨て、北海道に移った
・代々子供が男の場合「景」という文字を名前に入れている(現在も)

という言い伝えと家系図を見つけて照らし合わせると「天野遠景」にいきつきました。けれど、全然ネットにも載ってないし調べてる人もいない・・・そんな中このブログを見て嬉しくなり、書き込ませて頂きました。
私が見た家系図は書き直された方ので、「実際元の古いのがあるはずだがどこにいったのか分からない」のと、「たぶんボロボロで読めないんじゃないか」という話です。残念。
天野氏。 (麁鹿火)
2014-05-25 21:29:14
母方天野性。さま
コメントありがとうございます。

なんとタイムリーな!と嬉しくなりました。
ちょうどいま、わたくしも遠江天野氏の家系図を前に頭を抱えていたところだったのです。
全国には天野さんがたくさんおられ、それはそれは長い歴史を持つ一族ですから、それぞれのお宅が独自の素晴らしい系図を持っているに違いないのですけど、辿っていけば一人の人に行き着くというのは素晴らしいことだと思います。
母方天野性。さんは駿河の興国寺城主だった“どちへんなしの”天野康景の御子孫なのでしょうか?
(意外と、遠江犬居城主の天野景貫とその息子与四郎・小四郎兄弟の線もあるかも。この兄弟も何かの罪によって早いうちにそれぞれ遠江を離れているので)。
康景のお墓は小田原付近にあるんですけど、その御子孫は北海道の方へ行ったのでしょうか。
「数代前のおじいさんは捕った首をごろごろと・・・」とは、箱館戦争の天野新太郎の御縁者?

遠江の天野氏の系図は(私にとって)よくわからないことだらけなので、どこかで母方天野性。さんの家系図も公開していただけたりしたら嬉しく思います。

最後に、わたくしのこの記事、とても読みづらくてごめんなさい。
康景ではない? (麁鹿火)
2014-05-25 22:47:38
すみません、
文中にある「家臣をかばって城を捨て」という点から「有名な天野康景の御子孫! すごい!」と興奮して先走ってしまったのですけど、調べてみたら康景の息子たちはみんな「景」じゃないですね。全員「康」を使っています。

「景」の字をそこまで大事にするのは、やはり遠江系の天野家かと。(三河系の天野康景は遠江天野家の傍系)
天野氏についての本は私はほとんど所持してないんですけど、唯一、犬居城址顕彰会という会が昭和55年に出した『犬居城主天野氏と戦国史』という詳しい本を持っています。おそらく静岡県史・春野町史や地元の伝承・系図を駆使して書かれたと思われる本です。

それによりますと、秋葉山麓犬居城の英傑であった天野宮内右衛門尉(安藝守)景貫(かげつら)は徳川家康との戦いに負けて武田氏を頼って逃亡し、その後小田原北条氏の元に行ってしばらく対佐竹戦に奮戦していた記録があるのですが、1583年以降は消息が絶えています。
景貫の長男であった與四郎景貞は一旦犬居領主となっておりますが問題行動をおこして廃嫡され、徳川家に走って奥平氏の家来となっています。その消息もまた不明ですが、のちに『塩尻』という有名な日記を書いた尾張藩士の天野信景(さだかげ、と読みます)は與四郎の子孫だと考えられており、平岩親吉の斡旋で尾張家に仕えるようになったといわれています。ただ、安政3年に名古屋から伊豆の天野郷に「天野家の代表」という人がやって来て「遠景の墓」を建てたのですが、その人の名は天野藤十郎宣重といったそうです。(「景」の字を使ってない)
景貫から家督を継いだのは次男・小四郎虎景(景直?)で、その息子は犬房景康。小四郎は対徳川戦が最も激しかった頃に武田の人質として清水へいっており、景直の墓は清水にありますが、景直と虎景は別人で、小四郎は小田原に行って父と一緒に戦ったという説もあります。
また景貫の4男・与七郎(九左衛門)正次は松平忠吉に仕えています。
沼津興国寺城主だった天野康景は、家臣を庇って逐電後、小田原城で隠棲し、その子孫は名誉回復して旗本となっています。

これ以外にどこかの城主になっている「景」のつく人といえば、秋葉城主・天野景顕・景秀・景正、八代城主・天野景保、横山城主・天野秀景(景貫の3男、詳細不明)、まだまだいるかも。


・・・お手元の御系図に何かヒントがあり、これらの名前が北海道の母方天野性。さんに繋がればとても嬉しいんですけど。「犬居の天野氏は行方不明になった」と言われているので。
ただただ凄い! (母方天野性。)
2014-05-27 14:22:02
詳しくご説明していただきありがとうございます!
歴史にとても疎いもので、理解するのに時間が掛かりそうです。。。

家系図が手元にあれば良いのですが、見たのは1度きりでうろ覚えなんです。たしか母が写メ(笑)を撮っていたのでそれを見て頂きたい気持ちでいっぱい。

5年前ぐらいに家系図を見て、【戦国大名】というサイトと照らし合わせた時、「藤原南家なんだなぁ」と思った記憶があるので(系図も似ていたため)遠江だと思います。

ただ、それだと、(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/to_amano.html)家紋が祖父母が言ってたのと違うんですよね…
〇に縦三本線と聞いています。
足利の方に仕えていたからって事である意味あってるんでしょうか?
それと遠景のお墓が伊豆にあることを知った時、「移ってきた県とは遠いなぁ」と感じた記憶が。(何県だったかど忘れしてしまいました)

どこでも大体藤原繋がりになる様ですし、
よくある系図なんだとは分かってますが、
こんなにご返事いただくとは。
嬉しいです。
ありがとうございます!
あぁ、ごめんなさい。 (母方天野性。)
2014-05-27 14:42:58
どっちも藤原南家ですかね。。。

母と話す機会があればもう一度聞いてみます。
とっても楽しみです。 (麁鹿火)
2014-05-27 23:17:06
母方天野性。さん
改めてありがとうございます。

丸に三本の家紋ですか。
意外に珍しい紋ですよね。
家紋から系図を辿るのはなかなか難しいと聞きます。お役に立てないのが心苦しいのですが、私にはほとんど何も分かりません。

いま、『寛政重修諸家譜』という江戸時代の著名な家系の系図を収めた本を読んでいたのですが、これには本当にたくさんの天野さんの名前が載っているのです。でも、ほとんどが皆さん「三階松」の家紋なんですよね。丸に縦三本は見つかりませんでした。

裏返すと、これに載れなかった天野氏(犬居天野氏のことです)は、敢えて三階松の家紋を使うことをやめたのかもしれない。(そういうことは多々有ったかもしれません)

で、この本を読んでいたら、三河天野氏なのに根気強く「景」の字を使い続けている家を2家見付けましたよ。両方とも、江戸城の御天守番を務めた天野家の傍系なのですが、

●天野孫平盛定(戦国時代の人。酒井忠利の家臣)-天野與四右衛門盛次(徳川秀忠の家臣)-3男=権九郎雅光(分家)-孫十郎(権八郎)景定-源八郎(五郎右衛門)景途-鍋五郎(九五郎)景盈-猪之助(数馬、左京)景貞

●天野孫平盛定-與四右衛門盛次-4男=彦右衛門(彦太夫)景正(分家・江戸城桜田門付近に居住)-彦右衛門景久(一橋家に勤める)-彦右衛門(彦三郎、宮内、古龍)景代(徳川家斉に仕える)-半九郎景信-彦次郎繁信-正之丞景行(徳川家斉の家臣)

この本、寛政の頃にまとめられた本なので、それ以降の経緯が載っていないのが口惜しいのですが、その後幕末の動乱に乗って北海道まで行った方があるかも知れませんね。暇なときで構いませんので、お母様の写メと名前を照らし合わせてみてくださいね。(できましたら結果をお教えください)

ほんと、家紋はヒントにはなりますが決定的な証拠とは限りませんからね。伊豆では「小川家」という一族が、「もとは天野氏の一族だったが源三位頼政から小川の姓をもらった」という伝説を持っています。「川」の字で○に三本線なのかもしれません。それから、天野氏は一般には藤原南家ですが、このブログのこの記事で書いていますように、「後三条源氏の流れ」だという伝説もあり(後三条天皇は延久の治というのをおこなった名君です)、また意味が分かりませんが天野遠景は藤原北家魚名流の足立遠元(源頼朝の有力家人)の養子となっているという事実もありますからね。とてもロマンに溢れる一族なのです、天野氏は。

個人的には母方天野性。さんが犬居天野氏のゆかりであることを熱望しますが(だとしたら遠江の歴史にとっては大発見ですよ)、そうでなくても天野氏には多彩な流れがありますので、少しでもルーツがお分かりになれればと思います。

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