オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

最近買った本。

2009年09月25日 11時04分33秒 | 小説・漫画

私が最も不幸だった時期(2007年)に夢中になって観ていたテレビドラマがありまして、松山ケンイチ主演の『セクシーボイス アンド ロボ』。いちいちわたくしのツボに嵌る箇所が多々あって、あの地獄のどん底だった日々に誠に力を貰ったのでした。ただひとつ、全11話中の第7話“ハンバーグさん”だけが、「当時起こった陰惨な事件が劇中のお話の設定と似ていた」とかいう理由で放映がされなかった。これがわたくしには非常な心残りだったのでありまして、でもそれが実はDVDボックスには収録されていたとのことで、それを今日観ました。ううううう、おもしろーーーい。・・・っていうかアマゾン見たら放映は07年6年に終了してるのに、DVD化されたのは07年9月じゃん。もっと早くこの事実を知りたかった。もっと早くハンバーグさんを見たかった。ま、あの当時は到底買えもしなかったんですけどね。(ちなみに私が最も好きだった話は「プッチーニ」(前編)です)。さらに言うと、こんなに大好きなのに、『大日本天狗党絵詞』も大好きなのに、セクシーロボの原作は読んだことが無いですけどな
・・・哀悼の意味も込めて。

 

さてさてさてさて。
最近の私は本すら滅多に買わなくなってしまったわけです。(たまに本屋には行くがね)。でもさっき本屋に行ったら、いつの間にか面白そうな本がずらーーっと並んでいるのです。それを見て、「ああ、このままじゃいかんのだな。私という人間は本を買わないと死んでるのも同然なのだ」と思いました。自分が現在何に興味を持って生きて動いているのかすら分かんなくなってしまってはお終いです。だめだよ君。だから、ちゃんと、買った本の記録ぐらいはしておかなければと。経験上、適当に流すと決めておけばエントリだけは気楽にできますので。目的は記録だと割り切るんだ俺。
個人的には、買った本は2割ぐらいしかまともには読まないですね。だがしかし、買った本が役に立つのは10年後ぐらいだということも実感しています。即ち、本を買うことによって自分の興味関心が蓄積してゆき、語りたいまでにそれが肥大化するのが数年後と言うことです。だから、ここではちゃんと感想を言うこともあればちゃんと何もいわないこともあります。

今日本屋に行って一番びっくりしたのがコレ。
クラーク・アシュトン・スミスの作品集ダーーッ!!!!
東京創元社、2009.8.28、1,200円(税別)。高ッ!
くるせるり(H.P.L.)の全集を完結させハワードのコナン新全集の刊行も半分まで進めた東京創元社は、とうとうスミスの作品集にも手を伸ばす気になったか! かくいう私はスミスの作品は意外と好きなのですが、単行本としては『イルーニュの巨人』と少し前に求めた『エイボンの書』しか持っていないのです。スミスの代表作はゾティーク短篇集というもので、それは日本では創土社から74年(!)に出た『魔術師の帝国』という本にしか収録されていなかったのですが、それがとうとう読めるようになったということでした。
わたくしにとっては、そのゾティークについては高校生だった頃に新紀元社の『幻獣ドラゴン』という本に大要が紹介されているのを読んで、それ以来の垂涎のものになっていたのでした。
ちなみに創元推理文庫からは最近、イルーニュの巨人とアーカム計画も復刊されています。これは絶対に買いの本です。どうしたんだ東京創元社! もちろんわたくしは両書を所有してるんですが、ただの再刊で表紙の変更もなく、昔の物が黒背で(現在の創元推理文庫は背表紙が白くて本棚への並び映えが悪いのだ)ありますので買いかえる必要も無いのですが、ただひとつ、私は軽度の“帯フェチ”でもありまして、帯の付いていない自分の手持ちの本はなんとなく金タマの座り心地の悪い気がしてしまって、その点にだけ悩んでしまっています。(昔の私はオビなんて捨ててしまっていたんです)。復刊の本のオビなんて悪趣味なものなんですけどね。でもなんせ私、マニアですから。

 

『「幽霊屋敷」の文化史』。
講談社現代新書、2009.4.20、760円(税別)。
私、小さい頃から祟られた屋敷が大好きなんですよね。
高校時代はトンネルズ&トロールズで幽霊屋敷ばっかり作っていた思い出があります。
幽霊屋敷の何が面白いって、それは「場所と雰囲気に込める人間の強い思い」なのでしょうが、この本ではディズニーランドの「シンデレラ城」と「ホーンテッドマンション」の造形を中核として、人間の隠靡な物に対する精神の発展史を概観しています。
本来なら「崇め奉るべきもの」を、萌え・娯楽に作り替えてしまう事は現代の歴史や民俗学やさらには宗教的なものにまで敷延して見られる物なので別に驚くべき事ではありませんが、この本ではその源流を18世紀後半のホラス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』に求めています。作家ウォルポールは大いなる金持ちで(だって英国の大宰相ロバート・ウォルポールの息子なのですから)、ゴシック的な物に憧れる余り自分の邸宅を巨大建築に作り上げ、自分の邸宅の雰囲気を元にその『オトラント城奇譚』を書き上げてしまったという人なのですが、この本ではウォルポールを筆頭に、19世紀の似たような人たちの列伝となっている第2章が一番おもしろい。『オトラント城奇譚』や『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』や『アッシャー家の崩壊』は有名だけれども、ウィリアム・トマス・ベッグフォードの『ヴァテック』やアン・ラドクリフの『ユードルフォの謎』は未だに日本では読めませんものね。
だがしかし、欧州の幽霊屋敷文化は本当に19世紀のゴシック(=ゴート人的な文化の)ブームから語るのが相応しいんでしょうか。英国には幽霊屋敷は大昔から無数にありましたし、一方ゴシックブームは12~18世紀の長~い『騎士道文学ブーム』の延長にあるとみなすべきで、だがその流れをこんな薄い新書なんかで概観することも不可能なんですよね。ホラス・ウォルポールの父のロバートが偉大なる英国宰相を務めていたハノーヴァー朝初期は、騎士道文学の集大成としてバロック音楽の巨人ジョージ・フレデリック・ヘンデルが『リナルド』『オルランド』『ゴールのアマディージ』などを次々と発表していた時期でもありました。
結局の所、歴史と民俗学上の要素に雰囲気(アトモスフィア)的に重層的な効果を与え、それを厚塗りした目に見える建築物に仮託してストレートな形で表現したのがゴシック・ブームで、一方それに対する反主題としてやや遅れて成立したのが(目に見えない恐怖を語る)クトゥルフ神話なのですよね。この両者は19世紀後半~20世紀初頭にかけての人類の叡智活動の鏡像なのですから、ちゃんと真っ正面に捕らえて対比する批評もしてみたいものです。

 

『倫敦幽霊紳士録』。
1993.7.4、リブロポート、2,884円(税込)。
ロンドンは幽霊だらけ。これは私の大学時代に夢中になって読んだ本で、「世界の三大亡霊都市」といえばロンドンと京都とニューデリーだそうで、ロンドンと京都についてはこんなに幽霊について充実した本があるのだから、「では私はニューデリーの幽霊についてたくさん調査しよう」と思った経緯がある。ニューデリーもなかなかですよ。

『オトラント城奇譚』。
1978.2.15、講談社文庫、240円。
2005年くらいに伊豆高原で仕事中に(営業をさぼって)読み終えたため、個人的には伊豆高原の秋の林を駆け抜ける風の香りと共に思い起こされる本。ホラスは意外にもその後の英国文壇で重鎮的な役割を占めることになり、たまに変な場面で登場するので、サイト上で「変な人列伝」で取り上げるつもりだったのですが、それは果たせませんでした。
でも、オトラントは読んだけどこの本と同時に“ファンタジー小説の祖”と並び称される『ゼンダ城の虜』(※日本語版がある)をまだ私は入手してないです。

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ウェニウィディウィチ(Veni vidi vici)。

2009年09月18日 08時12分16秒 | 今日の、エウクストロネラ


<初山宝林寺にて>

2009年7月27日 10:17
今日の警言 「王政ローマ第3代ツルルスの後嗣アンクスは優れた天稟に恵まれ、和戦両方にその才能を遺憾なく発揮した。はじめ隣国とは平和交渉を専らとしたが、近隣が自分たちを弱々しいと見下しているのを見て取り平和的だった第2代ヌマ王の政策よりも初代ロムルスの果敢の方針を採ることがローマを維持する為になるだろうと考えたのだった。王位に就くあらゆる指導者よ。願わくばこの前例に鑑みられんことを。ヌマに倣えば国は時代もしくは運命のムラに左右させられ興亡は定かではない。仮にローマの第4代の王がロムルスのように深謀遠慮をもって軍に下知し、なおかつ却って敵勢に奮い立たせるような愚を犯すことのない機敏を持つ人物でなかったならば、結局ローマは、甚しく惨い苦労をしたであろう」(ニッコロ・マキャベッリ『ローマ史論』)
 
2009年7月26日 0:12
今日の警言 「婦人に対しては嫌悪か、しからずんば上品な礼儀しか示さず、男子には支持する党員と賛美者を持つのみで一人の友人も持たなかった男。感情の中には概念のみあって人間が無かったために、人間の弱さと楽しさを見ることを欲しなかった公正無比な男。何者にも誘惑されることなく、無限の権力を擁しながら、これによって金銭をも名誉をも得ようとはしなかった男。ロベスピエールはかかる男だったから、彼の敵対者たちが激しい憎しみをもってその私生活の欠点を暴こうと努力しても、無駄だったのだ。
ロベスピエールは人間ではなく徳性を備えた幽霊だった。自らはそれと感じない夢遊病的怪物であった。歴史の上では、醒めている正気の人間は目めまいがして歩けないが夢遊病者のみは歩行しうるというような時期が往々にしてある。彼はルソーの描いた牧歌的な素朴な人間性と、徳性と、品位とを夢想し、そのまぼろしを夢見つつ、人波を押し分けてまっしぐらに車を駆ったのである。・・・君主的人間とは果たしていかなるものであるか。臆病で弱弱しく多感な偏屈者ロベスピエールこそは、最も残虐な君主的人間の一人であったのだ」(エルンスト・クレッチマー『天才の心理学』)
 
2009年7月25日 3:41
今日の警言 「『ぎゃーてい』という真言の2文字にはさまざまな法蔵・宗派にもとづく修行の成果をすべて内包し、『はらそう』という字には顕教と密教の双方の側から見た真理がそれぞれ表されています。般若心教の場合、たった一語の言葉に何万もの意味が含まれていてそれ一文字一文字が悟りにつながっているのですが、一方でひとつひとつの言葉の名称と意味は、無数におられる仏たちでさえ極められることはありません。
最初の『ぎゃーてい』は、“人から教えてもらって悟りに至る者”(=声聞;四諦について考える人)の修行の成果を表し、2度目の『ぎゃーてい』は“一人で悟れる者”(=縁覚;因縁のことがわかる人)について朗々とその覇行を誇ります。続く『はーらーぎゃーてい』はもろもろ諸万の大乗菩薩たちの最も優れた修行の成果を表し、第4の『はらそーぎゃーてい』は密教の奥義(真言・曼荼羅)を包括し、最後の『ぼうじーソワカ』は、以上に掲げたすべてのすばらしいものを全部ひっくるめて全てを究極的な悟りに持って行こうとするのです」 「行行として円寂に至り、去去として原初に入る(=空海は「羯諦」に「行」という訳語をあてています)」(空海『般若心経の秘密の鍵』)
 
2009年7月14日 8:47
今日の警言 「2つの国が同盟すれば、その対象と認められる第3の国から反感を持って迎えられます。つまり同盟は友邦を少なくするのです。国際平和を求めて、かえって国際不安を起こします。これに処するには、同盟ではなく協商にするのがよい。一番良い例が英仏協商です。英仏両国の間には長い歴史の間に覆すことの出来ないいろいろの問題が纏綿していましたが、同盟という形を取らずに結ばれた協商が懸案をすべて一掃したのです。これに次いで両国民間に好感が漲ってきた」(幣原喜重郎『外交五十年』)
 
2009年7月13日 23:21
今日のステキな皇帝 「私はメロン作りのバルヒーをメロン栽培のために置いていた。彼は何個かのメロンを世話していたらしく、それを今日私に持って来た。まことに美味しいメロンであった。
私は1~2本の若いつるをハシュト・ベヘシュトの園にも植えていた。それもかなり美味しいぶどうになっていた。シャイフ・グーランもひとかごのぶどうを送ってきていた。悪くなかった。私はヒンドゥスターン(=印度)でメロンやぶどうがこのように成長したことを殊の外うれしく思った」(ザヒールッ=ディン・ムハンマド・バーブル『バーブル・ナーマ』、1528年6月25日の日記)
 
2009年6月18日 0:30
今日の警言 「文公は夢を見た。楚王と組討して組み伏せられ、楚王にのしかかれられて脳味噌をすすられるという夢だ。とうてい吉夢とは思われない。これでは楚と戦うわけにはいかないと思った。このことを家臣の子犯に話すと、子犯は「それは最もめでたい吉夢でござる。君はあおむけに倒れているのですから天の方を向いている姿勢であり、楚王の方は下を向いているのですから、罪に伏している形なのです。(中 略)」と夢解きした。文公も気を取り直し、合戦を始めたところ、果たして晉軍の大勝利となった」 (海音寺潮五郎『孫子』)
 
2009年6月17日 23:51
今日の警言 「私の場合、発表の舞台が極めて限られているのは、現存する多くの雑誌に向くような作品がどうしても書けないからです。そうです、契約しているのでもないのですが、私が書くような作品を掲載してくれるのは、ウィアード・テイルズ誌しかないのです。不真面目な気取った書き方、…因襲的な低俗な駄作を生み出し、三文雑誌で当たりを取るような書き方… をする伎倆が、毛筋ほども無いのです。 (中 略) 真の文学の基準から見れば、私など存在しないに等しいでしょう」
「…(中 略) パルプ雑誌に犇いている型に嵌った三文文士たちもやはり同様です。我々如きは雑輩中の雑輩ですから、誤って我々を真の作家と目するならば、その様な敬意は無意味以外の何ものでもありません。パルプ雑誌小説は、芸術の所産であるどころか、老獪な職人や小商人と殆ど軌を一にするような計算高い商魂から産まれた物に過ぎません。他愛無いSF小説で名が売れるくらいなら、優秀な鉛管工や帳簿係や郵便局員になったほうがまだマシです」 (HPL ウィリス・コノーヴァー宛の書簡、1936年)
 
2009年5月4日 1:07
今日の警言 「憲法第9条の下で認められる自衛権の発動としての武力の行使については、以下の3要件に該当する場合に限られる。1.わが国に対する急迫不正の侵害があること。2.この場合にこれを排除するためにほかの適当な手段がないこと。3.必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。・・・自衛権の行使としてわが国を防衛するため実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土・領海・領空に限られない。それが具体的にどこまで及ぶかは、個々の状況に応じて異なるので一概には言えない」(防衛省 『防衛白書』より )
 
2009年4月16日 10:02
今日の真言
「おーん う゛ぃら う゛ぃら くはん う゛ぃら くはん なー すわーはー(〔ロ奄〕毘羅毘羅乾毘羅乾能娑婆訶(おんぴらぴらけんぴらけんのうそわか))」(天狗様の真言。遠州可睡斎御真殿にて)・・・意味は「(神秘にして不思議なかけ声で)塵垢を離れ、塵垢を離れ、虚空の如く、塵垢を離れた、虚空の如くの、無よ、成就あれ」。・・・ソワカちゃんって「めでたい」とか「幸いあれ」とかいう意味ですっけ。「アーメン」とか「アッサラーム」とか「アオイ」とかに対応してるんですよね。天狗真言にはもう一種類、「おん あろまや てんぐ すまんき そわか」というのもあります。
 
2009年4月15日 22:33
今日の警言 「「兄上にお伺いしたくござる。兄上はわたくしがいないとお困りになりますか?」「なんだと?」「兄上がどうしても私がいないと困ると仰るのなら、義のゆえ私はここに残って兄君を助けてもようござる」。・・・なんだと?と思ったが、とっさの間に決めねばならぬゆえ、鋭く「母上が心配している」と囁いてから「ここに残って俺を援けろ」と云ってやった。信繁は確認するように兄の顔を見た。それからうなづいて、分かりました、と丁寧に云った。あの確認は、信繁が自分自身の行動を決する為に必要な事項だったのであり、兄をやりこめたくて言ったことではないことは分かっている。あいつは昔からああいう奴だ。」 (志木沢郁『真田信之』)・・・待望の志木沢氏の新刊。1ページ目から泣けるのがスゴイ。兄から見たら真田幸村(信繁)ってこういう奴だったんでしょうねきっと。前巻『秀長』の裏返しみたいなからくりになっています。 
 
2009年4月14日 23:12
今日の警言 「アンティゴナス王の部下に健康も体格も悲惨なほど人より劣りながら、極めて勇敢で知られた兵士がいた。王がその勇敢な男に彼の不幸の原因を尋ねると、彼は彼の持病のおぞましい業を詳しく話したので、王は侍医たちに最高の医術で彼を治すように命じた。健康を取り戻せば彼の武はさだめし国の宝になろうと。しかし、篤い手術により病が癒えたその男は、それ以後、勇敢な働きを見せることをしなくなった。王が叱責を与えると、彼は王に言った。「私が臆病になった理由は、私に人生に愛着を抱かせなかったその病を、陛下が取り除いてくださったからであります」」(プルターク『英雄伝』)
 
2009年4月6日 4:09
今日の警言 「我、アッラーはユダヤ人に与えた律法(トーラー)の中に次のような規定を与えておいた。すなわち「生命には生命を、目には目を、鼻には鼻を、歯には歯を。そして受けた傷には同等の仕返しを」と。アッラーが下し給うた聖典によって裁きをなさぬ者、そういう者は全て不義の徒であるぞ。だが被害者の側が、この報復を棄権する場合はそれは一種の贖罪行為となる」 (『コーラン』五.食卓49)
「さらに我らはかの者ども(預言者)の跡に続けてマルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)を遣わし、これに福音書を授けた。これは正しき導きと光明を含む物であって、それより先に与えた律法(トーラー)を固める物であり、また神を懼れかしこむ者どもへの導きともなり戒めともなるもの。さらに我らはお前(マホメット)には真理の書(コーラン)を下して、それに先立つ律法と福音書の固めとする。さればお前は彼ら(ユダヤ教徒とキリスト教徒)を裁くに当たっても、必ずアッラーが掲示し給うた所に依拠して行うべきであって、決して彼等の根拠なき思惑に乗せられて真理に背くことがあってはならぬ」
「我らは汝ら(ユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒)のそれぞれに行くべき路と踏むべき大地を定めてやったのだ。もちろんアッラーさえその気になれば、すべての人類をすべてまるめて一つのものにすることもおできになったはず。だが、神は汝らに別々の啓示を授けてそれで試みてみようとの御心なのじゃ。されば汝ら、互いに争って善行に励まねばならぬそ。結局はみなアッラーのおそばに還り行く身。その時アッラーはなぜ神が互いをこう争い合わせたかそのわけを一々教えてくださるだろう」 (『コーラン』 五.食卓52、53)
 
2009年4月3日 2:22
今日の警言森の男はキンメリアの野蛮人コナンを眺めて、居酒屋の中の他の男たちを見比べてみた。そして今は敵地に併呑された土地で死んでいった男たちとも。そしてさらには敵である川向こうの別世界の野蛮な男たちとも。しかし、コナンはその視線に気づかなかった。「野蛮な状態こそ人間本来の姿だ」。文明国の国境地帯の男は依然としてキンメリア人を見つめながら続けた。「文明世界の方が不自然なんで、気まぐれな情勢の産物といったところだ。いつだって最後の勝利は野蛮の方にある」」 (ロバート・アーヴィン・ハワード『英雄コナン黒い河を超えて』)
 
2009年4月2日 18:27
今日の警言 「人々を不意に襲い、肉体的に拷問にかけ、骨をぶち折ることは、普通の百姓に関する限り、問題はない。しかし、我々は最高の知性をそなえている敵(=ソヴィエト諸機関と民衆のこと)を相手にしていることを忘れてはいけない。残酷なことをすれば彼等をなお一層かたくなにしてしまうだろうし、暴力を用いれば憎悪を呼び起こすだろう。我々は決して原始的な過去に生活しているのではなく、最高の技術と科学の時代に生活しているのだ。だから、我々の方法も当然変わるはずだ。そうなったとき、しかもそうなった時だけ、我々に必要な「自白」が手に入るのだ」 (ヨシフ・スターリン)
 
2009年4月2日 13:56
◆今日の柳田國男 「日本で幽冥という宗教のいちばんな題目は天狗の問題だけれども、天狗の問題については徳川時代の随筆とか、明治になってからのいろいろな人の議論などに気をつけて見ていると皆な僕の気にくわぬ議論をしている。それはすなわち天狗という字義から解釈している。これは間違いきった話で、ランプとかテーブルとかいうように実質とその名称が一緒に輸入したというものではない。天狗という字はなにから来ているとか、何という書物にあらわれているとか、あるいは仏教のいわゆる何がそうであるとか言われるけれども、実質は元来あったので、それに後から天狗という名称を付けたのである」 (『幽冥談』)
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クライバーのカルメン ~カルロスの微笑み。

2009年09月17日 21時05分02秒 | わたしの好きな曲

恐らく長くなるであろう千葉旅行記と平行してこれを書くことが、どれほど危険なことか、どんな結末を辿るか、どんな軽率な私にだって容易に想像がつきますが、私は書かざるをえません。だってこの奇跡のようなDVDを買って2週間も経ってるもの。あああああ、若い頃には5つの記事だって並行して書けたのになあ。

私は無類のオペラ好きなのです。
音楽は片道40分往復毎日1時間半の通勤時間に集中して聴くことにしていますが、毎日聴く音楽のうち、8.2割はオペラであろうと断言できます。所有するオペラのCDの枚数を数えれば軽く500はいくでしょう。だがしかし、かくいうわたくしがオペラの世界に通暁しているのかといったら、残念ながらそうではありません。だって私ヘンデルとモーツァルトしか聴かないもん。

これではいけない、と常日頃思っていました。
こんなに好きなのに世界の全体像を語れない悲しさ。
私はヴィクトリーガンダムや08小隊は大好きなんだけど、初代ガンダムはほとんど語れないのです。これは非常に致命的です。
折良く1年前ぐらいから、全日本的に、「オペラ初心者向け啓蒙プロジェクト」が始まっていたんですよ。皆さん知っていました?

まず2年ぐらい前に小学館から『魅惑のオペラ』というシリーズが出ました。
全24巻で、豪華なカラーのブックレットが付き、価格は3990円。CD屋ではなく本屋で売られていたのがミソでしたね。
それと前後して世界文化社から『決定版オペラ名作鑑賞』というシリーズも出ました。こちらは全10巻(+5作)でしたが、前者と比較して際だった特徴は、DVD2枚組で、1冊の中で例えばリゴレットだったら異なる演出のリゴレットを同時収録して、対比させるという驚きの作りをしていました。「同じ曲なのに2枚もDVDはいらない。どうせ同じ曲でしょ?」と買う前に思う方がほとんどだと思いますが、なかなかどうして、一度見比べてしまえば「やっぱりオペラって、違う歌手のをいろいろ聞き比べて初めてその魅力がわかるものだよね~」と、見事に思想転換させることに成功する工夫がなされていました。

出版社は違えども、ラインナップはほぼ重なっていて、小学館のが対訳付き、世界文化社のは対訳は付いてないけど、よりかゆいところに手が届く、という体裁で、この両者は決してライバルではなく姉妹関係であるような感じでした。

1冊4千円前後しますから、本屋で買う本とすればいささか「高い!」と思う方もあるかと思いますが、いえいえ違います。ちゃんとしたオペラDVDとしてはこれは破格に安い物なのです。とりわけ「聞き比べる」という視点に立つものであればこの2つはかけがえの無いシリーズ。収録されている映像・演奏はどれもが豪華で価値があります。「これは全部買い集めてやるゼ!」と私は意気込んでいました。だがしかし、その収集がまだ中途なうちに(だってわたし、最近やっぱりヘンデルにしか興味がないから)、今度はデアゴスティーニが第3のシリーズを投入してきやがりました。

正直デアゴスティーニなので、最初「ふふん♪」と思いかけましたが、その後ラインナップを見てびっくり。デアゴスティーニの野郎、後出しジャンケンでティラノサウルスとアロサウルスとダスプレトサウルスとゴルゴサウルスとタルボサウルスばかり投げ込んできやがった。

だってカルメンでクライバーで990円ですよっ!!
なんだこりゃー。

安いし、試しにカルロス・クライバーを眺めるDVDのつもりで買ったんでしたが、
(※参考)

プラシド・ドミンゴもなかなか良かった。

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美の巨人たち。

2009年09月15日 23時41分01秒 |   源頼朝

(9月8日~10日にかけてした安房半島旅行記の2回目です。前回分はコチラ

今年の恐竜博の副題は「砂漠の奇跡」ですってよ。
このキャッチフレーズに惚れて、是非行かなけりゃーって。
私が恐竜博に夢中になっていたのはどれほど昔のことだったろう。過去に不幸な出来事があって、めっきりここ数年足が向かなくなっていました。ずっと「最大! 史上最大!」とばかり叫び続けていましたからね過去の恐竜博は。大きいのは苦手。その大きいものの端的な差異を示し続けてくれていたのが過去の恐竜博でしたが、さすがにそろそろ打ち止めだろう。個人的には不思議と雷竜は関心の対象外だ。それとは打って変わって今年のが大きさではなく「砂漠」という生活環境に焦点が当てられている物だとしたら、これは観に行かなければならないです。生物学とはずばり環境。去年の愛知での翼竜博と今年春の東京での南極博では私の体制がまだ整って無くて、行けなかったのが悔しいです。

恐竜博の感想は省略
といいつつ、いろいろ語るつもりでいたんですが、
一転してとりあえず恐竜博の感想はひとまず放っとくことにします。だって言いたいことが多すぎるんだもん。見所が多すぎたので、何日経っても感想がまとまらないんだっ。語りたい語りたいあんなことやこんなことやあんなこともっ。結果としてまとまらない。いいよね、化石って1億5千万年も語って貰えるのを土の中で待ってたんだから私が今年の恐竜博を3年後ぐらいに語っても。でもだがしかし、過去に2002年の恐竜博の写真を事故で失ってしまうという不幸な出来事もあったりしましたが。今回こそそうならないことを祈りつついずれ近日中に写真ぐらいでも連ねられる気になることを願いながら。
とりあえず、私はテリジノサウルスが大好きなこと、骨格が大好きなことを認識できたです。
私が幕張メッセに入ったのは9時ぐらいで、ほとんど人がいなくて「嗚呼、夏休みは終わったんだなぁ」と、胸の中でカナカナ蝉がさかんに鳴いていましたが、時間が経つに釣れて人の数はそこそこに多くなっていき、ホッとしたのでした。さすが恐竜博だぜ。私がメッセを辞して旅を再開したのは12時10分頃。

ヘンテコな幕張の町を一周してから南下を始めました。

うまいラーメンショップうまい

昼食。千葉市を通り過ぎてもう市原市に入っていたかしら。
チャーシューメン、700円。
おばちゃんとバイトのねーちゃんとたった2人で切り回していました。
うまい。「ラーメンショップの味が家系の祖形となった」と言うのがよくわかる美味しさでした。

南下開始。

房総の頼朝

房総半島には、源頼朝にまつわる伝説が数多く存在します。
ざっとググってみただけでもその数は伊豆半島における頼朝伝説の数を軽く上回るほど。房総半島は広いですからねー。それでもあの頼朝さまですから、旺盛な知的好奇心を募らせて熱心に房総半島を巡ったらしいです。
・・・・ってあれ? 違う?
房総半島伝説探求において、一番重要なことは、(伊豆半島での数多くの頼朝伝説は20年間の流浪生活の間に積み重ねられたものに対し)、頼朝が房総半島にいたのはたかだか半月強に過ぎなかったということです。半月たった1回(?)縦断しただけで、頼朝様はあんなにたくさんの伝説を生み出してしまったことになる。

かるくおさらい
治承4年旧暦8月17日、伊豆北条で旗揚げ
治承4年旧暦8月23日、石橋山の戦い
治承4年旧暦8月28日、伊豆脱出。小舟で安房を目指す。
治承4年旧暦8月29日、海上で三浦氏と合流。安房上陸。
治承4年旧暦9月1日、安房国の武士・安西景益に安房の敵対勢力鎮撫を命ず。
治承4年旧暦9月3日、一戦場の戦い。安房を平定(翌日安西景益が来たる)。
治承4年旧暦9月9日、下総の千葉常胤から帰参の知らせ。頼朝北上始める。
治承4年旧暦9月13日、上総入国。
治承4年旧暦9月17日、下総国府で千葉氏と合流。ここは最早半島ではない。
治承4年旧暦9月19日、上総広常の参陣。頼朝の叱責。
治承4年旧暦10月2日、武蔵国入国。5万。
治承4年旧暦10月7日、鎌倉に入る。
治承4年旧暦10月23日、富士川の戦い。

さすがにたった2日間ですべての場所を訪ねるのは不可能な為、代表的だと思われるのを大体上の写真ぐらいの分量にリストアップして、それを片手に各地を巡ることにしました。
まず目指すは頼朝上陸地! そのために真鶴から旅を始めたんだしな!
・・・・と言いたいところですが、舟で安房に行った頼朝は北上するだけでよかったのですが、車で行くわたくしは、頼朝様とは逆方向に旅を進めねばならないのです。まっすぐに上陸地は目指せない。
こういう旅行者のやるせなさを配慮して、江戸時代ぐらいの賢人が行徳あたりに頼朝伝説地を作っといてくださったんでしょうかねえ。

千騎坂
まっさきに上陸地に馳せ付けたい気持ちでしたが、その前に寄っておこうと決めてみた場所。木更津市の君津市寄りの内陸の地区・鎌足地区にあるという「千騎坂」です。
安房に上陸した時には7人(+三浦家の軍勢)だった頼朝主従は、いくつかの苦難を乗り越えて安房最大の勢力・安西三郎景益を味方に付け、北上を開始すると、付近の物たちが次々と味方に駆けつけ(もしくは石橋山で散り散りになっていた物たちが追いつき)、人数が爆発的に増えて、木更津の辺りではとうとう千騎になっていたというのです。その千騎が一気に駆け下りたという坂。おもしろいじゃん。

付近には「数馬」、「五十騎橋」、「百騎坂」、「三百騎坂」、「万騎坂」という地名があると言いますが、事前に調べなかったので千騎坂だけをこの日は目標にしました。またいずれ、すべての場所を確定して、線で結んで実際に歩いてみれたら、探求的にはすごく楽しいと思うんですけど。「頼朝はどんなカラクリをしながら随従を増やし、何を考えながらこのルートで歩いたんだろう」って。

(※参考)
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub18.html
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2007_05.html#02

 ただ、「数馬」がこの逆転行のスタート地点かと思いきや、ここは「数馬」(すうば)ではなくて「数馬」(かずま)だったそうですね。すなわち、適当に突っ走ってきた頼朝様が、あまりに勢いよく数が増えすぎてしまったのでそろそろ数の把握が出来なくなり、いったん小休止して騎馬の数を数えなおしたところ。そりゃそうだ、頼朝様は上陸の時点で既に7騎(頼朝様、土肥次郎実平、土肥太郎遠平、安達藤九郎盛長、岡崎四郎義実、田代冠者信綱、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠 ・・・メンバーには異説多数。土佐坊昌俊が入っていたとする説も)+海上で合流した三浦勢(吾妻鏡では頼朝より2日前に安房に渡った北条四郎時政・義時・岡崎四郎義実が会ったことになっています。源平盛衰記で300騎とある三浦の勢が衣笠合戦で仮に半分になっていたとして、150騎ぐらいですかな仮に。和田小次郎義盛もこの中にいる)+北条四郎時政と小四郎義時らとその手勢(おそらくとても少ないが、近藤七国平は北条の与力としてこの時一緒にいた)を少なくとも率いていましたからね。「最初が数騎」というのはありえない。

とりあえず、千騎坂は木更津市の内陸部にある「鎌足」(かまたり)という地区にあるというので、千葉市から延々南下します。鎌足は手持ちのロードマップには載っていないのですが、そこはばっちり前日のネットカフェで場所を頭に叩き込んでありました。千葉県の鎌足は大織冠藤原鎌足公の伝説に深く関係のある土地だそうで、伝説マニアなわたくしには垂涎の場所なのですが、今回は頼朝公が主眼なので涙を呑んでスルーすることにします。あれもこれもと手を伸ばしていたら、時間が何日あっても足りひん。とにかく地図は私の頭の中にしか無いわりに道はわかりやすく、こういう時はみだりに道に良く迷うわたしもごく簡単に目的地に到達することができた。なんせ、ネットで調べても「現地には案内板などは無い」と明言されているので逆にわたくしとしては気楽な物で、「まあそれらしい所を適当にパシパシ写真で撮って、ここが千騎坂と言い張ろう」てなくらいなものです。実際、どこがそれなのか目印も何もなかったので、ここがそうだとします。

ここだよ! きっとここ! 800年前に1000を引き従えた頼朝様がここを・・・(妄想しながら感涙)

傍らには馬頭観音様があったり木々の奥にはたくさんの墓標があったりして、なかなか異様な雰囲気の場所であったのでした。この道の先にあった集落がなかなか味があって好きになったのですが、またそれは別の話。
この時は頼朝様! 頼朝様! とばかりで、でもふと我に返ってみますとこの場所は「證誠寺霊園」の隣りなんですね。そう、「しょ、しょ、しょーじょーじ♪」で有名な證誠寺です。お寺の看板が頻繁にあって、妖怪好きでもあるわたくしは嬉しくなりました。(※注;家に帰って調べてみたら、「證誠寺霊園」なんていう場所は存在しませんでした。・・・・・あれ???

猟島へ

<半島中西部の霊山・ノコギリ山>

すでに時刻は午後の3時。
慌てて私は有料道路の館山自動車道に飛び乗って鋸南町を目指します。普段、下道愛好家の私は決して有料道路なんて使わないのですが、この時ばかりは金よりも時間が惜しい。がしかし、最寄りのインターチェンジを探して迷う迷う。恐らく鎌足からは君津インターかもしくは木更津東インターが近かったんでしょうが、方角すらも分からなくなった私は「館山自動車道はコチラ」の看板に惑わされ大回りに迷うこと小30分。ようやく木更津北インターにたどり着き、しかし一旦高速道路に入ってしまえばマグネットコーティングされた私の愛車アレックス号“嘘だと言ってよバーニィ”は超音速を発揮するので、10分で鋸南富山インターを出て、頼朝上陸最有力地を目指すのでありました。

ただひとつ、この付近を走っていた頃、頼朝様の事件と並行して私の頭を占めていた事項がありました。「房総半島の山の景色はどんなものか」ということです。というのはわたくしは最近相も変わらず全国の天狗伝説を収集していまして、で、関東地方は全域が巨大な天狗様の宝庫なのですが、なぜか千葉県だけはぽっかりと空白地帯になっているのです。知切光歳の『圖聚|天狗列伝』で言えば、群馬県で50ページ、栃木県では50ページ、茨城県でも50ページ、埼玉県と東京都と合わせて50ページに渡って延々と天狗が書き連ねられているのに、千葉県だけはたった10ページ。それも天狗の列伝ではなく、他愛のない昔ばなし集になっているのです。この千葉県の天狗事情について、知切光歳はこう書いています。

(日蓮は自分の生まれた安房の国を「日蓮彼ノ国ニ生マレルハ第一ノ果報ナリ」と激賛するほど自分の生国を愛していたが)、しかし日蓮はそれほど愛した故郷の山河を顧みることなく、自分の提唱した法華の殿堂として陰気で住みにくい甲斐の山峡の身延を選んでいる。原因はいろいろ並べることができるけれども、千葉県という国が、あまりに明るく陽気すぎて、思念の三昧境には適さなかったのではあるまいか。
日蓮は日本の祖師の中では、最も陽性で行動的な宗教家である。その日蓮が見切りをつけたほど、千葉県は山嶽仏教には無縁の土地である。昔から名ある天狗が住みつかないのも故あるかなである。
なんといっても山が無さすぎる。いま、房総のめぼしい山を拾ってみると、下総はほとんど平地で半島南の上総・安房に、ひとつの山塊ではなくとびとびに隆起を見る。標高400m台に達するのはわずかにノコギリ山と愛宕山、あとは千葉県では有名な山でも300m級である。それでもそれらの山々が半島の背梁をなす連山なら深みというものがあるが、各自が別々の小山塊であって、誰もがどこからでも登れる小丘陵程度で、山に隈がないから見通しが利きすぎて、羽根を休めるには手頃かも知れないが、天狗の棲処にはなり兼ねたのであろう」

まじかよ、と私は思いました。
だって私の中では「房総半島っておっきな伊豆半島」ってイメージですから、地図で見ても伊豆半島と房総半島はよく似てるんですから、本質的な部分でそんな違いなどあろうはずもない。知切光歳は適当な事言ってるに決まってる。だから「千葉県の山を見る」というのも今回の旅の宿題でもありました。

それはさておいて。
伊豆でいえば田子の町あたりに相当する房総半島の鋸南町の勝山です。ここには頼朝公の上陸伝説があります。伝説どころか、「頼朝が上陸した場所があるとしたら10のうち8くらいはココだろう」と各書で認定までされている場所です。
海岸沿いの国道は町の中を突っ切って通っており、なかなかに良い風情なのですが、目的地らしきところで道路が海岸線から離れ始め、焦る焦る。目を凝らしても国道沿いには「頼朝史跡」の案内板は無かった(気がしたので)いささか小路の中を迷いました。港町の道は細く迷路の如くで、バックを繰り返しながらようやく海岸近くへ。上のほうを見ると小山の上にお城の天守閣風建築物が見えたりもしましたが、何の城か分からなかったのでスルー。(※「大黒山展望台」というものだったそうです

「関係者以外駐車禁止」と書いてある小さな神社に申し訳ないと思いながら車を止め、(だってどん詰まりでこれ以上進めそうに無く弱り果てたんだもん)、生垣が特徴的な民家の間を通り抜けてとりあえず海のほうを目指してみたら、いきなり目の前にありました。5分も歩かないうちに。
現場はなんか海釣り公園みたいな感じのとこ。

石碑も目立つのが3つぐらいありましたが、惜しかったことは、せっかくこんな景色のいい場所に建てられているのに、石の場所が悪くて写真に撮ると全然海が写らないこと。せっかくいい場所なのに、上陸石の傍らで遥か800年前の頼朝様の蛮行と奇跡について思いを巡らせることができないことでした。


海が見えない・・・

続きます

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鯨が食べてる途中でしょうが!

2009年09月11日 09時14分59秒 | 今週の気になる人


<湯河原駅前にある土肥ジロー實平とその妻フローラの像>

安房へ旅行にいってきました~

頑張って旅行記を書くぞ~。前回の伊豆記とその前の笠置山紀行と越前カニ尽くし旅情(蟹を食べてて歯が折れた)をまだ書き上げてないのに、大変心苦しいのですが。

まず、前日はお泊まりの仕事だったのです。超特急で11時半までに事務仕事を終わらせ(いつもは12時半ぐらいまで掛かる)、超特急で職場をアウト。家に帰って準備をして超速急に出立するつもりだったのですが、数日前に衝動的に注文したドゥ・ニースのジュリオ・チェザーレのDVDが届いていたので仕方なく1時間ほど観てから、午後1時ぐらいに東に向けてゴー。

どうせ昼間は混んでるだろうし伊豆まで4時間ぐらい掛かるだろうと踏んでいたら、なぜか2時間半で伊豆に到着。ならば、せっかく数日前に礼比古さんと修善寺のロープウェイについての楽しい会話を交わしたところでもあり(普段の私は舘山寺のロープウェイのお隣の会社で働いていることであるので)、伊豆長岡の葛城山のロープウェイの頂上にある頼朝の像を観て、それを今回の旅の始点にでもしようかと思い立ちました。
しかし沼津に入った時点で、「まてよ、伊豆なんかどうせ今後何度も来るんだから、葛城なんかよりも今回の旅の始まりに相応しいのは湯河原だ」と思い直して、急に進路転換。
そこからが大変でした。清水町と函南町を経由して湯河原まで行くのに1時間半掛かっちゃった。いつものことながら道が迷路すぎます。苦手な町・長泉町と清水町。
熱函道路の途中に湯河原へ抜ける近道らしい看板を発見して、そちらへ侵入。見知らぬ山道をうねうね進んでいたら、いつのまにか見たことのある道路になっていた。ここは以前私が「絶対少年紀行」をしたときに「空の上には猫がいた」と書いた道路でした。猫がウヨウヨいる。

「なつかしい~」と思いながら坂道を上っていたら、以前暗闇では気づかなかった黄色い看板発見っ。これはっ。

この看板のある函南町軽井沢は、頼朝伝説の濃厚に残る土地なのです。
隣接する平井郷(紀六久重の伝説)と田代郷(田代冠者信綱・比企尼・文覚上人の伝説)と並んで、軽井沢には「名馬生唼(イケヅキ)の伝説」が残る。この看板にある「駒形堂」とは、その名馬伝説と関係のある場所だといつか本で読んだことがあります。まさかこんな時に見つけられるとは思わなんだ。この像はわれらが畠山国清卿の遙か祖先(プッ)・畠山重忠が矢ジリでガリガリ掻いて刻んだ主君頼朝公の姿ですってよ。

頼朝がこよなく愛した名馬「いけづき」については数々の伝説があり、全国各地にたくさんの伝承地があるようなのですが、ここ伊豆ではこの軽井沢がその生誕地だとし、この駒形堂がその証拠だとされます。こちらのサイトさんがこのお堂について詳しいです。だが変な堂だ~。

 

そこを通り過ぎて、湯河原パークウェイ(460円もする)を使って湯河原に侵入。
ここでおさらいをしときましょう。

治承4年(1180年)旧暦8月17日に伊豆韮山で山木判官を討って挙兵した頼朝は、8月23日の石橋山の戦いでボロ負け。忠実な部下の土肥二郎実平の支配下の内の湯河原及び箱根の山の中を必死で逃げて廻るのですが、5日後の8月28日に真鶴(まなづる)海岸から、数人の配下と共に小船に乗って東に向けて華麗に脱出を果たすのです。このとき頼朝に付き従っていたのは、通説によると6人(謡曲『七騎落ち』など)

この「お岩(いわ)海岸」の「頼朝船出の場所」に立っておこうと思って。
実をいうとわたくし、湯河原や真鶴は大好きで何度も行くんですが、肝心の岩海岸は行き方が分からなくて、到達できたためしが無いのです。

地図で見たらどうして行けないのかが良くわからないのですが、行き方が分からない。決して行けない場所ではなく、岩海岸は真鶴でも一番の海水浴場なのですが。

時刻は既に5時前で周辺は次第に暗くなってきていて、焦った私は重要な真鶴の分岐路で真鶴ブルーラインの方に入ってしまう。入って2mで気づく。ノー!! そっちは有料道路だ。いやいや、実を言うと私はこの道路を通るたびにいつもなぜだかこのブルーラインの方を無意識に選択してしまうので(市街地へ至る道は何かの結界でも張ってあるんじゃないか)こればかりはいつもながらの失態なのですが(どうせ200円だし)、だがしかしっ、この道路は入ったら最後小田原に至るまでUターンできないのだっ。なんだこのへんなどうろ。景色は抜群なんですが、岩海岸の上の超極美麗なアーチ状の橋を渡りながら超高速でろくに景色を眺められないままに、立ってみたいと思っている地点の上を有無を言わさず通り過ぎてしまう。そんなところなのです。
まあそんな感じで、「そっち行っちゃいやーん」「あたし今目指すところの真上を走ってるっ」「引き返したい引き返したいっ」「景色は抜群に良いっ」と一人で大騒ぎしながら岩大橋の上を爆走し、数㎞先でとぼとぼ引き返した旧道の上から、その岩海岸を見下ろすことが出来たので、今回はこれでもって目的地を見たことにしときました。そろそろ暗くなることですし。

ここから頼朝は船出をしました。
あそこのどこかに「頼朝船出の碑」が。
遙かに房総半島が見えるような見えないような。(生憎天候があまり良くなくて)

で、そこから反転して伊豆の国市へ。
朝から何も食べてませんからね。少しはカロリーを補充しとかないといけませんからね。

≪一匹の鯨≫

この数ヶ月、R-30ラーメンを食べたくて仕方なくてガマンできなかったんだ。
をををうっ、久しぶりに訪れる鯨軒、店主さんも店長さんもいつものおねーちゃんもいなくてラーメンを作る人が変わってるっ。器も変わってるっ。
しかしスープの香りは変わりなく、味わいは確実にパワーアップされていたのでした。ほほほほほほ。うまいうまいうまいうまい。

ここでおさらい。
一匹の鯨の「R-30ラーメン」とは、鶏からの淡いが濃厚なスープに生姜・茗荷・春菊が惜しげなく投入されたラーメンで、バランスぎりぎりのところまで迫っている薬味感が絶妙な絶品ラーメン。普段「今の私好みのラーメンには豚骨感が絶対欠かせない」と吠えている私でもこのラーメンだけは別格で、一方商標の「R-30」とは「30歳未満お断り」という意味でして、かくいうわたくしが初めてこのラーメンを食べたのは、奇しくも30歳の誕生日の日だったのでした(ウソ)

駄菓子菓子、うっかり太麺で頼むのを忘れてしまっていて、細麺で来てしまいました。決してこの太麺だって拙いわけではなく、意外にワシワシではありますが、でもやっぱりわたしにはあの超極太麺じゃなけりゃあ。

お腹に具合を聞いたらなんとなく大丈夫そうだったので、もう一杯注文。

このお店の豚骨ラーメンはR-30のと並んで私がかつて週に3日このお店に通っていた頃、「最も美味しい」と定番にしていたメニューでしたが、ここ2年はいろいろあって全然食べることが出来なかったのでした。ほんと久々ぶりだっ。
だがしかし、スープの表面を見ると私の記憶の中にある物より格段に進化してしまっている。

表面がブクブクに泡立っている。泡豚骨。
いやかつてもこんなだった気もしますが、、、。
むしろ一時期極度に先鋭化した頃の男味豚骨醤油のスープがこのようだった気がする。舌触りが極度にマロマロしていて甘~い。これはこれで美味しいのですが、2杯目にはとても重い。とても重量に打ちのめされながら完食しました。こりゃすごい。完敗です。あんなに腹ぺこだったのに。いつか復讐してやるっ。
でもこのお店の超極太麺はやっぱり堅い噛み応えと舌触りと小麦粉の香りが最高でした。

さすがに満腹になってしまったので、修善寺町に移動して熊坂の狩野川公園で仮眠。なんたって昨日は宿直だったからな ・・・zzz。気が付いたら午後11時。寝過ぎだー。慌てて飛び起きて東行開始。ひたすら1号線を、皇居付近でやたら複雑な道筋にイライラしつつ、「さすが東京はラーメン屋ばかりだなー」と別方面の興味事で気を紛らせながら午前1時半くらいに千葉県に突入。今日は浦安駅前のネットカフェで情報収集をするために再び仮眠です。(なんせほとんど千葉県についての知識が無いもんで)

朝7時にネカフェを出発。
目指すはすぐ近くにあるはずの「行徳」地区。
ここからが本当の「房総頼朝紀行」の始まりです。
あらかじめ言っておきますが、わたしは頼朝様が大好きだと常日頃言っていながら、その実伊豆以外はどうでも良いと思っているので、伊豆を去っていった頼朝がどういう行程を辿ってまた伊豆に戻って来たのかこれまで知る気もありませんでした。今回房総を訪ねることになったのも偶然の成り行きで、この忙しい8月は禄に情報収集する余裕もありませんでしたから、私には前日のお泊まりの間に適当にネットサーヒンしたのとこの時のネットカフェで漁った情報だけが全てでした。だって市川市と市原市、勝山と勝浦、幕張メッセと東京ビックサイトは同じ場所だと思っていたくらいですもん。

とりあえず食い入るように読んだのがこのサイトさん。

http://harukisaito.web.fc2.com/yoritomodennsetu.html

そうかー。頼朝の上陸候補地は3つあるのかー。
本来なら伝説行脚的には州崎→鋸南→行徳と訪れるのが面白い道筋でしょうが、わたくしは逆行程で辿らなければなりません。

とりあず上のブログさんの文章をじっくり読んでくださいね。
千葉県にお住まいの方はあらかじめフィルターを厚めに被っといてください。わかりますわかります。私だって静岡県外の方が伊豆の頼朝史跡を訪れているブログなんかを読んだとき、「なんでそこしか行かんっ。その隣りにもっと面白いところがあるでしょうにっ」って思いますもん。全ては地理的不案内がもたらすわざ。大丈夫、本当にそのときの体験がおもしろかったら、追体験の為に10年後ぐらいに再びその土地を訪れますから。

行徳地区の散策は面白かった。
車がよく通る普通の町並みなのですが、味のある建物がそこかしに点在していましてね。行徳って「ぎょうとく」って読むんですかね。表通りではなく奥の奥の方に寺社が連なっていて、富士塚などもあったりしましてね。

で、肝心の頼朝ゆかりの史跡というのがココ!
笹屋うどん店。
房総に上陸した頼朝は、まずここで饂飩を食べたんですってさ。
詳しくはコチラ

こういう伝説が作られる過程がわたくしは面白いですね。
行徳が頼朝の上陸地だって別にいいじゃん。
ただここに上陸した頼朝が逆ルートで房総半島に戻っていく姿を想像すると可笑しいのですが。房総的には頼朝が房総各地をくまなく歩き回っていないと話にならないのですから。

うどんとそばは鎌倉時代には当たり前のように食べられていた食べ物ですが、残念ながらラーメンはまだ存在していませんでした。「鎌倉時代にはまだ“うどん”という名称がなく」、「蕎麦は上流階級の人には食べ物と見なされていなかった」とかウィキペディアには書かれていますが。
このうどん屋さんから歩いて7分のところに頼朝上陸地と伝承される常夜灯があるというですが、見に行ったら何かの工事中で、見られませんでした。

続いて向かいましたのが、今回の旅のメインイベント・幕張メッセ!

 

 

(・・・つづく

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