オセンタルカの太陽帝国

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信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

山の老人。

2010年08月25日 20時11分40秒 | 遠州の歴史

 


上平山から見下ろす天竜川

ようやく時間が取れたので秋葉山に登ってきました。前回来たのが8/1だったので、ほぼ3週間振りの再登山。(登山って言っても車での登山です)。今日の登山の目的は、8/1のリベンジ戦です。実は3週間前に、秋葉山山頂近くにある伝説の「機織井(はたおりい) というのを捜しに来たのですが、見つけることができなかったのでした。

機織井の伝説
秋葉山山頂に秋葉寺があったとき、本殿の西北に機織井と呼ばれる井戸があった。
秋葉寺開基の僧行基菩薩が大登山霊雲院と名付けて寺を建てた頃は、山に水が無くてずっと下の谷川から水をかつぎあげていかねばならなかったので、住僧は大変困り果てていた。
開基から90年後の大同年間のこと、一山の僧侶法印が集まり、本尊の観世音菩薩、および山の守護神である三尺坊権現に、37日の間大護摩を焚き近くに水の湧き出るようにと大祈祷会が開かれた。その満願の日、山上はにわかに雷鳴が鳴り渡り、山は振動して一夜のうちに山頂の西北の窪地に清水がこんこんとわき出してきた。
水がでたぞぉ、池ができたぞぉと、人々は喜び合い、池の中をのぞいてみると、蝦蟇が一匹泳いでいるではないか。しかも背中にきれいな白い玉を2つ付けている。珍しい蝦蟇だと思って良く見ると、その白い玉に秋葉という文字が書かれている。不思議なこともあるものだと人々は感心し、これからはこの山を秋葉山と名付け、寺を秋葉寺と改めようと衆議一決し、大登山霊雲院は秋葉山秋葉寺と呼ばれることとなった。白い玉2個は寺の宝物として、永く保存される事になった。
ずっと後年の寛永の頃、この池のほとりにどこからともなくひとりの老婆が現れ、毎年火まつりのために御衣を織り天狗様に差し上げた。それからはこの井戸を機織の井戸と呼ぶようになった。そして山姥を山婆権現と名付け祀るようにもなった。
後世にはすぐ近くに別の井戸を掘って、火まつりのときの水行場とした。またこの機織井戸はいくら旱天のときでも水が枯れるということがなく、日照りの時にこの水をかえて雨乞いすれば必ず霊験があるとのことだ。
(『秋葉山三尺坊大権現~火防天狗のふる里~』 秋葉寺監修 野崎正幸著、より転載)

…わたくし秋葉山が大好きなんです。何が好きかっていったらあの吹き渡る清浄な空気が。冬に行っても夏に行っても澄み切った心になれる。で、この機織井って場所こそが、この山の霊的な空気の源(のひとつ)ないわゆるパワースポットなんじゃないですか。これは是非行って見てみなければ。
しかし、ネットで情報を探してみたら、井戸への行き方を記したものは無い。数ヶ月前に購入した秋葉古道の解説書に、漠然としたポイントが載っていたのが唯一の手かがかり。結局、行ってみて歩き回るしか方法がない。秋葉神社の本宮にかわいらしい巫女さんがいたので、「機織りの井戸というのを見てみたいのですが、行ける道はあるのでしょうか?」と尋ねてみたら、「ここから第二第三駐車場に歩いていく途中の左手にあるのですが、そこに至れる道が今あるかどうかわかりません」と答えられた。「この子はある場所は明確に知っているが、実地に見た事は無いな」と察し、結局歩いてみるしか仕方が無いと思って、謝意を示して歩き始めた。
「すごい霊的なスポット」と自分が勝手に解釈し、「絶対に素晴らしい雰囲気を振りまいているに違いない」と思い込みながら周囲を歩き回ってみたんですが、全然それっぽい場所がわかんない。もう、登れるところは全部登って、分け入れられそうなところは全部分け入ってみたんですよ。おかしいな、地図には小高そうなところに点が振られていたのにな、手持ちの本には小祠の写真があったのだから、少なくともそれっぽい痕跡があるはず。しかしその手持ちの本というのは昭和60年の刊なので、今から25年前の写真。あれから強かなる自然に覆い尽くされてしまったのだとしたら… と途方に暮れました。
と、ふと神社の方まで戻ってみたら、神職者らしい服装のおっさんな方が歩いていたので再び聞いてみた。すると、「駐車場までの道で重機が設置してあった場所があったでしょ。そこを入ってそこから道を下りなさい」とのこと。えっ!? てっきり小高いところにあるとしか思っていなかった私は耳を疑ったのですが「下の方にあるんですか?」と尋ねたら「その通り」だとのこと。だって高いところに湧くんなら奇跡ですが、谷底には普通に谷川が流れているじゃん。これは盲点でした。
「明確なヒントを与えて貰ったから大丈夫!」と勇んで歩き始めたものの、この山にはそれっぽい場所がありすぎてありすぎて、、、 だって谷の随所から水が湧きだしているし、そもそも重機ってどれ? あそこも怪しいしあそこだってありそう、、、と道すら無い谷間をよじ登ったりよじ下ったりしているうちに、私は疲れ果ててしまいました。
そうだよね、機織井が霊所だったっていったって、それはこのお寺が行基菩薩ゆかりのお寺だった時代のこと。明治になってお寺が廃れ、取って代わった秋葉神社は愛宕神を主神とし、三尺坊大権現のことすら無かったことにしちゃったんだから、山姥のことなんかきっとどーでもいーんだよな、と疲れ果てて思った。
これが三週間前の事です。

…でも、家に帰ってネットで調べたら、やっぱり神主さんのいうことは正しかったらしい。自分の気力が負けだだけ。歩いて見てみたら、ネットを眺めるだけでも得られる情報の質は段違いです。ほんの素通りしてしまう要素って何と多いことか。それに力を得て再訪問したのが今日。三週間も経ってしまいましたけどね。

目印の重機ってこれ? でもここには機械など無く、ただ樹に鉄の縄が巻き付けてあるだけです。まるで暴れだそうとしている巨大な杉の根(宙に浮いている)を頑丈な鉄の縄で押さえ込もうとしているかのような。

井戸への入口。知らなくても「ここが怪しい」と思う場所ですが、3週間前のわたくしは、写真中央のこんもりとした場所が「怪しい」と思って、念入りに捜していたのでした。
ここを左に入ってその先をくだるのが正解です。付近にはここ以外にも降りられそうな道が何ヶ所かありますので注意。この正解の一ヶ所以外は、延々歩かされた上、変な場所へ辿り着いてしまい、登って帰ってくるのも大変です。入ってちょっと行くと行き止まりになっており、そこから2つの踏み分け道があります。そこは右側が正解。右側の開口部から下を見下ろすと、

遙か下の方に青いビニールシートに覆われた建物と、緑のスペースが見えます。3週間前の私はこれを見下ろして、「ワサビ田があるんだな」と思ってしまったのでした。冷静に考えて秋葉山にワサビ田などあるはずがありませんが、私は伊豆での暮らしが長かったのです。伊豆ではこんな光景があったらワサビを育てていると思うのは常識だ。改めて、晴れた目で見たら全然違うけど。

問題なのは今立っている急斜面で、かなり切り立った高い崖。杭と黒いビニール布で斜面を固めてあります。3週間前の私はこれを見て、頑強に土砂流出防止の構造を作らないとならないほど、ここは地盤が緩いんだなと思ったのですが、改めて見てみれば、このビニール布って階段じゃん。

写真を見た皆さまは「これは階段だ」と先入観を作ったでしょうから何とも思わないでしょうけど、これは凄い階段でしたよ。怖い物知らずのわたくしですら、一歩一歩確かめて降りてしまうくらいの。
しかし、井戸に至れる道はちゃんとあったんだなー。感動。

あった! 機織の井戸と山婆を祀る小祠!(とても小さい)
すごく小さなものですが、こういうものが25年前から全く姿を変えずに(おそらく大事にされて)保たれていた、ということが大切なことなのでしょうね。
この石組みが一体いつごろに組まれたものなのか、とても興味が湧いてきます。
奈良時代からあるものなのかな。山姥の時代(江戸前期)以後かな。
と、おそるおそる中をのぞいてみますと、

…土に埋もれてるやん。
「いくら旱魃のときでも枯れる事が無い」んじゃなかったのかい。
でも大丈夫。20mほど離れている場所に、こんこんと水が湧き出している、いうなれば「第2機織井」ともいうべき場所もあったのです。

こここそ前述の本に「後世すぐ近くに別の井戸を掘って、火祭りのときの水行場とした」と書いてある場所なのでしょうが、意外に深くて水の気配も底知れなくて、こんな中で水行したら溺れるぞ。
覗き込んでみるとお玉さんがたくさん泳いでいます。こうでなくっちゃ! いそいそと私は周囲にでっかい蝦蟇でもいないかと、いや蝦蟇でなくてもいいから背中に秋葉と書いてある雨蛙でもいないかと、いや文字でなくてもいいから無理でも紅葉のはっぱのようにみえる模様を持ったちっさなカエルさんでもいないかと、かなり丹念に探し回ったのですが、けっかのところりょうせいるいはふきんにいっぴきもいなかった。おかしいな、こんなにこどものおたまちやんがいるのにおとながひとりもいないというのはどうしたことだらう?
しかしながら、この谷底は不思議な空間でした。遠くから鳥の鳴き声と蝉の声は聞こえるのですが、こういう山道を歩いていると必ず悩まされる、山蚊やブヨやアブは、ここでは一匹もまとわりついてこないのです。何らかの霊気を感じた。ここにいたのはただ無数のオタマばかり。
もしかしたら白い玉を2つくっつけた神秘的なオタマさんでもいないかと写真を撮りまくったのですが、水は暗いし水面はテラテラ陽を反射させているし、撮りづらくて撮りづらくて、ほとんど役に立つ写真はありませんでした。そもそも私はオタマを見て、これが蝦蟇のオタマなのか雨蛙のオタマなのか南米大角コモリ矢毒ガエルのオタマなのか判別つかん。

さてさてさて、こうして私の山婆探求は3週間という時間を挟んで無事、成功を果たしたのですが、次なる問題はこの山婆の正体です。秋葉山に伝わる伝説だけを見れば、このおばあさんはただ機織りが得意なだけの気の良い優しいお婆さんですが、実は龍山村・佐久間町・水窪町一帯のかなりの広範囲に“邪悪な山姥伝説”というのが伝わっていまして、この、各所で悪さをしてそして村人達の知恵と勇気で殺された山婆と、秋葉山で三尺坊にかいがいしく仕えた山姥は、同一人物らしい。
これは一体どうしたことでしょう。

北遠一帯でこの山姥の伝説は土地によってバリエーションを示しているのですが、でも一定の形式を踏んでいる。すなわち、山奥に不思議なおばあさんが住んでいて、そのおばあさんはときたま人里に降りてきて、基本的に善行を施すんですが、あるとき突然本性を顕してとんでもない事件を起こして高笑いと共に逃げ去る。煮えくり返った村人達は策略を巡らして山姥を殺す、というもの。

一例を挙げてみましょう。

遠州の山岳部、磐田郡の佐久間町や龍山町の山の中には昔は巨人が住んでいた。男を山男、女を山姥といって、身の丈6m、素足で山を駆けめぐるがその早い事は平地を歩く以上で疾風のようであったという。住居は岩陰や木の下などで、木の実・小動物などなんでも食べた。
彼らは人の子を取って食べたり作物を荒らしたりするの反面、若干の神通力を持っていて、人間のなしえない良い事もした。だから山の村の人たちは、その巨力で禍をされることを恐れ神に祈ったものである。ただ、頭脳は人間よりは劣っていて、ときによってはかなり間が抜けていた。
昔、佐久間町山香の里に日向という家があった。この家に山姥はときどき遊びに来た。山姥はその家の子守をしたり留守番をしていてくれたので、その家では「ありがたいことだ」と思っていた。
ある日、(※原文ママ)どうしたことかその子供を食べてしまった。「あっ、大変だっ」と、家人はびっくりした。
(可愛そうなことをした。何とかしてこの仇を取ってやりたいものだ。そして二度とこんなことのないようにしたい)
家人はそう考えて、いろいろと方策を考えた。
ある日、山姥はまたやってきた。家人は素知らぬ顔で、「いかがです?」と言って、焼きたての蕎麦団子を5、6個皿に盛って差し出した。実はその団子の中には熱々に焼いた石を入れてあった。山姥はそんな事は知らないので「ありがとう」と言い一つ残らず丸飲みにしてしまった。なぜか熱かったから、「み、水をちょうだい」と言いながら彼は苦しみだした。「は、はい水です」と言いながら家人は熱く熱したを差しだした。それを疑いもなく飲み干してしまったから山姥はたまらない。
彼は走り出すと、4kmほど走って、落井という天竜川のほとりにきて、水を飲もうとして、川に落ちて死んでしまった。
「これで仇討ちができた」
と家人は喜んだが、祟りがあっては困るので、小さな祠を建てて祀った。これが産婆様といって、今でも残っているということである。
(『遠州伝説集』、御手洗清著、遠州出版社、1968年)

天竜川流域におけるやまんばさんの悪行は目に余るものがあります。だがしかし、秋葉山でだけは伝説ではこのおばあさんはいいおばあさんなんですよね。おばあさんは秋葉山の霊的泉の源になっています。冷静に分析して、他の村々では乱暴狼藉を繰り返していたおばあさんが秋葉山でだけは三尺坊様の眼前で(萎縮して?)いいことだけしかしなかった。しかし従前の悪行によって、秋葉山でした善行にも関わらず、結局おばあさんは無惨に殺されてしまった、、、、。
…と解釈するのが普通の解釈だと思うのですけど、秋葉山に伝わっている伝説では、若干展開はやっかいなのです。すなわち、他の地域で迫害され虐げられた可愛そうなお婆さんが追いかけられ殺されそうになったすえに秋葉山に逃げ込み、以後は改悛して悪い事はせず秋葉様の為に未来永劫機を織り続けた、、 そして末社として祀られた、、 となっているのです。

(・・・つづく)

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浜北にて。

2010年08月24日 23時49分26秒 |   源三位頼政
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座面の猿。

2010年08月16日 10時09分24秒 | 今日の、エウクストロネラ


浜北庚申寺にいたお猿さん(見ざる)。ってかこれって本当に、お猿さんですか?



2010年5月14日 3:33
◆今日の警言「アメリカ人は自分たちがこの便利な物(=ちりがみ・はながみ)の発明者だと思っているだろう。だがアメリカ人がクリネックスを使い始めたおそらく3世紀も前に、日本人はこれを作っていた。それどころか輸出さえしていた。1637年、ピーター・マンディなる英国人がたまたまマカオに来て、その地で大坂商人の一行がはな紙を使っているのを目撃し、はなはだ感心したのだった。「彼らは何やら柔らかくて丈夫そうな紙を小さく折り畳んで所持しており、それで鼻をかむ。その紙をその後どうするのかというと、もうそれは汚い物とみなされて捨ててしまう。顔を拭う用途には日本人はリネンのハンカチーフ(てぬぐい?)も用意していた」。マンディが感心したのも無理はない。当時の英国では大抵の人は服の袖で鼻をかんでいたから (ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人』)

2010年5月12日 7:47
◆今日の、なぬー!?「何度も申しますが、現存する城跡の姿は一番有名な城主や一番有名な武将によって築かれたものが今も残されているのではなく、最後に改修された姿でしかないのです。となると実は、諏訪原城に残る遺構は家康によって改修された可能性が考えられるのではないでしょうか。事実家康は天正6年から天正9年までの3年間、牧野城と改称した城の修築を度々行った事が家忠日記に記されています。(中 略)そうなると、いままで武田流築城術の典型で、武田勝頼が築いた丸馬出だと言っていたのが、実は徳川家康によってつくられた可能性が高いのです。城郭研究家の間ではほとんどその説で確定しているのですが、一方で諏訪原城の丸馬出はまちがいなく武田氏によるもの、という専門家もいます。この話はお怒りの方もおられるかと思っています」 (中井均『浜松の城と合戦』)
…でもそれって有り得るの? 諏訪原城の丸馬出って全て西側に向けて作られてるじゃん。西の家康に激しく対していた武田勝頼がこれを作ったならともかく、天正9年の家康が何で諏訪原城にこんな変な方向に向けて大がかりな丸馬出しを作る必要があろうか。とにかく、諏訪原城の丸馬出しは全国に類例が無いというぐらいに凄いので、もっといろいろな人の研究が読みたいです。

2010年5月12日 4:54
◆今日のナーセロッディン・シャー「ガス燈の発明から50年経って、1873年にペルシャの王がロンドンを訪問した。砂漠の王はとりわけガス照明にひどく強い印象を受けたので、特に望んでガス工場を見学させてもらった。工場で中東王は多くの質問をしたが、その中でガス照明の発明はマードックという発明家の手になる物だという話になった。王はアッシリア・バビロニア・ペルシャの祖先たちが崇拝した光の神マルドゥクのことを思い浮かべた。王は戦神マルドゥクが生まれ変わってスコットランド人ウィリアム・マードックとして再び現れたに違いないと断言し、さっそくマードックの肖像を送ってもらってテヘランとカルス・カジャルにある王の宮殿に飾るよう、廷臣に命じた」 (A.サトクリフ『エピソード科学の歴史Ⅰ』)

2010年5月12日 3:06
◆今日の警言「一人の支配よりも多数の支配の方が僭主制に転落する事が稀であるどころか、むしろ頻繁である。というのも多数の者が政事にたずさわっている中で一度対立が生じると、人はしばしば他の人に抜きんでようとし、やがてひとりで民衆の支配を恣にしようとするからである。すなわち、ローマ共和国の歴史がふんだんに示しているように、ほとんどすべての多数支配は僭主制に終わっているのである。ローマは長い間多数の政務官によって治められていたが、無数の陰謀や対立、あげくは内乱まで引き起こされて、やがて最も残虐な僭主の手に落ちた」 (聖トマス・アクィナス『君主の統治について』)

2010年5月12日 2:39
◆今日の警言「オオクワガタかコクワガタか。心臓が張り裂けんばかりになって、でも捕まえてみたらコクワガタ。この時のがっかり具合といったらない。考えてみればなんとも不条理だ。元親と盛親は別人で、それぞれが精一杯の生涯を生きた。共に長所も短所も持っている。オオクワガタもコクワガタもそれぞれ魅力があって、命の重さは同じ。違うのはただ、世間のうわついた注目の度合いだけなのだ。でもまぁ、ヘタにブームなんかが起きて乱獲されるような事態にならない方が、コクワガタにとっては幸せなのかも。盛親も捕縛された際、「なんだ盛親かよ、ちっ」とか言われてリリースされてた方が幸せだっ・・・イヤそれはさすがにショックだったかな」 (『歴史群像』6月号「信長の独断」~コクワガタと長宗我部盛親)

2010年5月10日 1:02
◆今日の警言「「あなたは何も言わないで欲しい。われわれ警察は、あなたよりもずっとよくあなたの教育のききめを知っていますよ。もしあのとき我々が徹底した措置に出なかったならば、事態は誰の手にも負えないものになっていたでしょう。私は敢えてあなたに言いますが、民衆はすぐにあなたの統制すら及ばないものになりますよ。法律違反すら彼らの望むところです。平和を保つ義務など彼らにわかりっこない。私はあなたを信じていますが、民衆にはそれはわからんでしょう。彼らは結局彼らの本能によって動いているんですよ」。私は答えた。「私があなたと意見が食い違っているのはまさにそこですよ。民衆は元来凶暴ではありません。平和的なのです」」 (『ガンジー自伝』)

2010年5月10日 0:48
◆今日の警言「「隣国のコーリヤ国は再三我が国を侵犯している。我々は我慢を強いられていたが、やはりこれは撃退されなければならない。もはや戦いしかない。コーリヤに宣戦しよう。異議ある者は発言してもらいたい」。シッダールタ・ガウタマはおもむろに立ち上がり言った。「私は反対する。戦争は何物も解決しない。戦争は私たちの目的ではない。別の禍いの種を撒くだけだ。殺人は殺人を生み、征服は未来の己れの被征服となり、略奪者は結局は自分を略奪する。私はシャカ族は隣邦に対し正邪など挑むべきではないと思う。今回の事態に於いて、どちらに非があるか先ず調査するべきだ。我が方の人間もまた攻撃したと私は聞いている」。シッダールタの反対案はある程度支持されたが、シャカ族の司令官はそれを受け入れなかった」 (ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル『ブッダとそのダンマ』)

2010年5月9日 3:28
◆今日の警言「もしも戦後日本列島が分割され、東日本と西日本が別個の国の占領下に入っていたら、果たしてどのような事が起こっていたであろうか。おそらく、かなり性格を異にする国家が成立していた事は確実であろう。朝鮮半島で起こっている事態は決して対岸の火事ではなかったのである。もちろん朝鮮の場合と同様に、日本列島においても統一を回復する為の必死の努力と運動が起こったに違いない。しかしそのときにおそらくまず間違いなしに、多くの血を流して改めて自らの物とした日本人像・日本民族の意識は、現在のようなぼんやりとした薄っぺらなものとは、遙かに違った物になっているに相違ない」 (網野善彦『東と西が語る日本の歴史』)

2010年5月9日 3:20
◆今日の警言「他の諸大名と異なり、京の朝廷・幕府に近づこうとせず上洛の意図を持たなかった後北条氏の自立的な姿勢は、ここ(=かつて東国国家の実権者であった執権北条氏に自らを擬したこと)にその根拠があったのである。後北条氏は織田信長の支配下にあってもこの体制を固守し続けたが、ついに豊臣秀吉の征服戦争に敗れて滅亡。しかし徳川家康がその(東国国家の)継承者として姿を現した」 (網野善彦『東と西の語る日本の歴史』)

2010年5月9日 2:22
今日の警言「死んだ人の名の使用を禁止する慣習は、歴史的伝統を根本から切断する。A・S・ガッチャ氏の報告によれば、クラマト族は一世紀以上遡り得る歴史的伝統を持っていない。これは亡くなった者の人となりや行動を、その名と共に伝えることを禁止する厳格な掟があるからに他ならない。この掟はオレゴンだけではなくカリフォルニアでも厳格に守られ、これに対する違反は死を持って罰しても良かった。これはおよそ一民族内におけるあらゆる歴史的知識を否定するのに十分でだった。名を伴うこと無しに歴史をどうやって語ろうか」 (ジェームズ・ジョージ・フレイザー『金枝篇』)

2010年5月7日 16:25
今日の警言「経験 経験は夢の代用虫として高く評価されているが、迷信である。「経験は最良の教師である」なんてどこのバカがいったのか? 人間は一度失敗する理由を持っていれば、百のヴァリエーションを持って千の失敗を続ける。誰でもかれでも前科百犯だ。こんな虫を信用すること勿れ」 (辻まこと『虫類図譜(全)』)

2010年5月7日 15:58
今日の警言「人の子にとって酒は、ふつう言われるほど良い物ではない。飲めば飲むほど自分の心がわからなくなる。酒席を飛び回る青鷺は忘れ鳥といって、人から分別を盗み取る。私もグンレドの家ではこの鳥の翼に縛られたものであった。かしこいフィアラルの家では私は酔った。したたかに酔った。あとになっても各人が分別を失わない、そのような酒が最上のものだ」 (『エッダ』オーディンの訓言)

2010年5月7日 14:42
今日の警言「私の仕事とは手形に押印してもらって、これを市中で換金して、郵便局に手紙を運び、また手紙を受け取ってくることだった。この機械的な仕事は、それまでなおざりになっていた自分自身の教育について考える時間をたっぷり与えてくれるので、非常にありがたかった。私はまず字を読みやすく書けるようになろうと、ブリュッセルの有名な書家のマニュの教室で20時間勉強し、字が上手くなった。続いてよりよい地位につくための近代語の勉強を熱心にやった」 (ハインリヒ・シュリーマン『古代への情熱』)

2010年5月3日 15:57
今日の尊良親王(秋の哥の中に)(そよとのみ)庭の萩原吹く風に 来ぬ人頼む秋ぞさびしき」・・・ここで読まれている「来ぬ人」っていうのはやっぱり死んだ弟・護良親王なんでしょうね、根拠は無いけど。 この歌が詠まれたのが建武2年の歌会だとしたら、その年の真夏に護良は鎌倉で惨殺されているので、その弟にもう会えない秋が淋しい、って感じで。 前に紹介したこの直前の歌でも尊良は萩の花を歌っているので、この「ハギ」に何か意味があるのかと思いきや、この手の歌集では尊良以外でもみんなが萩萩取り上げまくっています。ただ、萩の花の花言葉は多岐にわたっていて、「子供のような」「無邪気」「柔軟な精神」「前向きに思案する」「清楚」「内気な思い」「思い出」などなどは、護良親王に通ずる物があると言ってもいいですね。(そういう言い方をすればなんとでも言えるけど)

2010年5月3日 14:23
今日の警言(百姓一揆の人々に向かって)これは何のためのいくさなんだ? 権利や自由を取り戻したいというだけなのか? だとしたら何で暴れ回って国を滅茶苦茶にするんだ? お前らがこれから一切の乱暴狼藉を止めて、目的を見据えてちゃんとした人間らしくするというのなら、俺はお前たちの言い分の為に一肌脱いで、そうだな、むこう一週間お前たちの隊長になってやろう」「これまでの乱暴はつい成り行きでやっちまったことで、なきゃあないにこしたことはないし、これからだってこれっきりやらずにすむものならすましてえんだよ。この先はわざわざあんたに止めてもらうまでもねえや。だがともかく俺たちは隊長が欲しいんで、せめて三月は約束してもらわんと困る」 (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』)

2010年5月3日 13:55
今日の警言「さすがのサミュエルも首をかしげた。どこからこんな打出の木槌の如くシェイクスピアを見つけ出してくるのだ。これに答えた息子の言い分がすこぶる不思議だった。僕は2人いる、とウィリアム・ヘンリーは言った。もう一人の僕はシェイクスピア時代にいて何かの折りにシェイクスピアを救った。だから彼がそのお礼にと、手書きの原稿をこちらの注文通りにくれるのだ。父サミュエルもそれ以上追求しなかった所を見ると、このバカ話を鵜呑みにしたらしい。それも不思議なところであるが、それは父が息子を信用していたからではなくて、逆にぜんぜん信用していなかったからだった。つまり、自分の能無し息子にあの大天才の偽作などできっこないと、こればかりは頭から信じている。だから出所がどこであろうと、これはシェイクスピアに違いない、のであった」 (種村季弘『偽書作家列伝』~シェイクスピアを作る少年)

2010年5月3日 12:38
今日の頼朝様(文治3年5月5日)丙午、鶴岡の神事の日。御台所を伴って参拝しました。(文治3年5月8日)己酉、(死んだ弟)土佐冠者希義主の追悼の為に墓に詣で梵宇をひとつ建てられました。これに先だって頼朝様は、希義公とゆかりのある介良庄恒光と津崎の人々に、何か欲しい物があるか聞いていました。そしてこの日、その希望に基づいて米68石を毎年与える事を発表しました。もし足りなかったら言ってくれ、そこら中の米をかき集めて琳猷上人(=希義の師僧)に渡すとももうされました。(文治3年5月13日)甲寅、2年前の7月に大地震で倒壊した閑院を鎌倉の力で修復する、という発表がありました。実はこの建物は2年前の冬に参河守範頼に修理が命ぜられていたのですが、範頼殿は忙しくて関東に帰っている事が多く、修理の滞りに朝廷から抗議を受けていました。頼朝様は弟殿に「朝恩に浴しながら務めを怠るとはまことにけしからん、今度しくじったら重罪に処すぞ」と仰られたので、参州殿はビビりにビビって小さな声で「今度こそ微力を尽くします」と言った。(文治3年5月16日)丁卯、御所から宇治蔵人三郎義定の代官が伊勢斎宮の領土を押領したとの訴えがありました。ただちに義定主に事情聴取したところ、義定様は「私はここ何年もずっと鎌倉に詰めてますので、伊勢の国の事なんかちっともわかりません、調べるためにまず調査官を送ってみますが、その前にとりあえず謝ります」と言いました。これを聞いた頼朝様、今は郡行(=斎宮が伊勢の大神官となる特別な儀式)の時期で、そんなときに武家がかかる事件を起こすのはまことに具合が悪いのだ、と言って即座に伊勢の義定様の領地を没収してしまいました」(『吾妻鏡』)

2010年5月3日 3:43
今日の警言大人物出でよというのはかつて政界の常套語であったが、これは今居る連中がみな凡庸だという意味の反語であったかも知れぬ。しかし少なくとも凡庸だけでは仕事が出来ぬ事を初めから諦めていた事は同じで、すなわち丸太棒であれ鸛鳥であれ、何か自分たちを統御してくれるものを恋しがっていた者は多いのである。しかも、その適任者が仲間の中に埋もれていたという事態は好まなかった。英雄は、もう少し毛色の変わった馬に乗って、雲の彼方より出現して来ねばならなかった。それが現実においてはむつかしい注文であったのである」(柳田国男『明治大正史 世相篇』)

2010年5月2日 10:46
今日の警言 「武侯が尋ねた。「兵を進めるために大切な事は?」 呉起が答えた。「それは四軽・二重・一信です。」 武侯はわけがわからなくてその意味を訊いた。呉起は詳しく説明した。「まず、馬を軽快に賭けさせる為に大地を整え、馬を軽快に駆けさせるために飼い葉を充分に与え、車を軽快に走らせるために油を十分に差し、人が勇んで戦えるように武器を鋭利にし鎧を堅固にします。加えて恩賞を重くし、失敗の際の刑罰も重くします。一番大事な事は全て決められた決まり事を忠実に行い、遠方の部隊まできちんと統制する事です」 (『呉子の兵法』)

2010年5月2日 3:18
今日の警言 「麻生と鳩山のバー比較 ◎麻生のバー通い ホテルオークラ東京の「バー・ハイランダー」入会金0円、年会費0円 ビール¥998~ 2万5千円のウイスキーをキープしていたことでマスコミに連日叩かれる ◆鳩山のバー通い 東京・北青山の会員制クラブ「ウラク アオヤマ」 入会金1,575,000円、年会費378,000円 ミネラルウォーター(500ml) ¥3,500 アイス ¥2,500
◎麻生首相 「カップラーメンは400円」と答弁して連日あらゆる人に叩かれる(※だがその頃のテレビでも「カップ麺は170円だ」としていて私は違和感を持ったものだった。そんな高い麺、庶民は買わネーヨ。麁鹿火註)◆鳩山首相 「今のサラリーマンの平均年収って1000万円ぐらいですか? 不況でだいぶ減ったと聞いていますけど」(2ちゃんねるより)

2010年5月1日 4:30
今日の警言 「大史公(=司馬遷)曰く、まことにすばらしい。この盛んなるもの(=礼)が樹立され、それにより人が極めつくされるとは。天下でこれを増やす事も減らす事も出来る人はいないのである。元と末が通い合い、初めと終りが呼応し、それによって弁別が表れ明察が極致し、人の心のよろこびが表れる。帝王がこれに従えば国が治まり、従わねば国が乱れる。士大夫が従えば世は安定し、従わねば身が危うくなる。小人はこれにのっとることができないのである。礼の規模はまことに深い物だ。堅白同異の説をなす識者(恵施・公孫竜らの詭弁をなす者ら)でもこの中に入れば骨抜きになる。好き勝手に典礼制度を定めるような輩でも、この中に入れば頬ばられたも同然である」 (司馬遷『史記』~礼書)

2010年5月1日 2:05
今日の警言 「ローマ、12月2日。サヴォナローラは法王教書にも服従しないばかりか、禁止されているはずの説教も相変わらず止めようとはしない。法王(=アレッサンドロ6世)の打った手はまたしても無駄に終わったわけだ。(中 略) だが、はたして無駄であったのか。良く考えてみると無駄であったと何度も思わせるのも法王の策の一つではないか。もしうまく行ったらそれに越したことはない。しかしもし無駄に終わっても、その無駄は反古にならない無駄だ。おそらく世の多くの人は法王は努力していると思っている。なんと忍耐強いお方であろうという声もよく聞く。だが、私は知っている。法王は「サヴォナローラを殉教者にしてはならない」ということだけを考えているのである」 (塩野七生『神の代理人』~「アレッサンドロ6世とサヴォナローラ」) 

2010年4月30日 14:15
今日の警言 「最も力があり最も敬虔であるアラゴン王国のフェルナンド・カトリック王は、何か新しい事をしようとするとき、もしくは重要な決定を下そうとするとき、しばしば次のようにした。すなわち、自分の意図を知らせる前に、宮廷全体と国民が「王はこれこれこういうことをせねばならぬ」と強く要求し主張するように持って行かせるのである。そして全ての者が希望し要求するようになったまさにその時に、自分の決定を発表する。王は、かくすることによって彼の臣下と領地に、常に信じ難い正当性と好意でもって統治をおこなっていた」 (フランチェスコ・グイッチャルディーニ『訓戒と意見(リコルディ)』)

2010年4月29日 19:22
今日の警言 「神について何を語る事ができようか。にも関わらず、神について黙する者は禍である。尤も、神については能弁なのも唖と異るところはない」 (聖アウグスティヌス『省察と箴言』)

2010年4月29日 19:09
今日の警言 「米国内の伝統的中国人社会で行われる重要な祭日に“収穫月の祭り”がある。この祭りの前の週には、このコミュニティ内の死亡率が通常より35%ほど低下する。そして祭りの翌週は平常より死亡率が35%跳ね上がるのだ。周辺の中国人ではない人々にはこの現象は見られない。自死のせいだろうと思われるかも知れないが、この数字は自然死だけに限った物である。祭りのストレスや過食が原因かとも考えられるが、祭りの前の死亡率の減少はそれでは説明が付かない。・・・実は、死亡者の変動は75歳以上の女性だけに見られる。収穫月の祭りをつかさどるのは一家の中で最年長の女性だけなのである。つまり、彼女らは儀式の責任を果たすために、死を1、2週間だけ先延ばしすることができたと考えられるのだ」 (カール・セーガン『悪霊にさいなまれる世界』)

2010年4月29日 18:30
今日の警言マレシャル・ド・サックスは種々の条件によって制約される困難な戦争を遂行する達人であった。彼の思想と後輩に対する教訓は、「攻撃しようと思った時、自分たちが最初から最後まで優越を持続し続け得られる場合以外は、状況の如何に関わらずその攻撃は中止せよ」という金言に集約される。19世紀の将軍たちは18世紀のサックスの言葉を見過ごした。彼ら自身が決戦を交えられるようになった諸条件の変化を悟り得なかった」 (リデル=ハート『ナポレオンの亡霊~戦略の誤用が歴史に与えた影響~』)
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