上平山から見下ろす天竜川
ようやく時間が取れたので秋葉山に登ってきました。前回来たのが8/1だったので、ほぼ3週間振りの再登山。(登山って言っても車での登山です)。今日の登山の目的は、8/1のリベンジ戦です。実は3週間前に、秋葉山山頂近くにある伝説の「機織井(はたおりい)」 というのを捜しに来たのですが、見つけることができなかったのでした。
☆機織井の伝説
秋葉山山頂に秋葉寺があったとき、本殿の西北に機織井と呼ばれる井戸があった。
秋葉寺開基の僧行基菩薩が大登山霊雲院と名付けて寺を建てた頃は、山に水が無くてずっと下の谷川から水をかつぎあげていかねばならなかったので、住僧は大変困り果てていた。
開基から90年後の大同年間のこと、一山の僧侶法印が集まり、本尊の観世音菩薩、および山の守護神である三尺坊権現に、37日の間大護摩を焚き近くに水の湧き出るようにと大祈祷会が開かれた。その満願の日、山上はにわかに雷鳴が鳴り渡り、山は振動して一夜のうちに山頂の西北の窪地に清水がこんこんとわき出してきた。
水がでたぞぉ、池ができたぞぉと、人々は喜び合い、池の中をのぞいてみると、蝦蟇が一匹泳いでいるではないか。しかも背中にきれいな白い玉を2つ付けている。珍しい蝦蟇だと思って良く見ると、その白い玉に秋葉という文字が書かれている。不思議なこともあるものだと人々は感心し、これからはこの山を秋葉山と名付け、寺を秋葉寺と改めようと衆議一決し、大登山霊雲院は秋葉山秋葉寺と呼ばれることとなった。白い玉2個は寺の宝物として、永く保存される事になった。
ずっと後年の寛永の頃、この池のほとりにどこからともなくひとりの老婆が現れ、毎年火まつりのために御衣を織り天狗様に差し上げた。それからはこの井戸を機織の井戸と呼ぶようになった。そして山姥を山婆権現と名付け祀るようにもなった。
後世にはすぐ近くに別の井戸を掘って、火まつりのときの水行場とした。またこの機織井戸はいくら旱天のときでも水が枯れるということがなく、日照りの時にこの水をかえて雨乞いすれば必ず霊験があるとのことだ。
(『秋葉山三尺坊大権現~火防天狗のふる里~』 秋葉寺監修 野崎正幸著、より転載)
…わたくし秋葉山が大好きなんです。何が好きかっていったらあの吹き渡る清浄な空気が。冬に行っても夏に行っても澄み切った心になれる。で、この機織井って場所こそが、この山の霊的な空気の源(のひとつ)ないわゆるパワースポットなんじゃないですか。これは是非行って見てみなければ。
しかし、ネットで情報を探してみたら、井戸への行き方を記したものは無い。数ヶ月前に購入した秋葉古道の解説書に、漠然としたポイントが載っていたのが唯一の手かがかり。結局、行ってみて歩き回るしか方法がない。秋葉神社の本宮にかわいらしい巫女さんがいたので、「機織りの井戸というのを見てみたいのですが、行ける道はあるのでしょうか?」と尋ねてみたら、「ここから第二第三駐車場に歩いていく途中の左手にあるのですが、そこに至れる道が今あるかどうかわかりません」と答えられた。「この子はある場所は明確に知っているが、実地に見た事は無いな」と察し、結局歩いてみるしか仕方が無いと思って、謝意を示して歩き始めた。
「すごい霊的なスポット」と自分が勝手に解釈し、「絶対に素晴らしい雰囲気を振りまいているに違いない」と思い込みながら周囲を歩き回ってみたんですが、全然それっぽい場所がわかんない。もう、登れるところは全部登って、分け入れられそうなところは全部分け入ってみたんですよ。おかしいな、地図には小高そうなところに点が振られていたのにな、手持ちの本には小祠の写真があったのだから、少なくともそれっぽい痕跡があるはず。しかしその手持ちの本というのは昭和60年の刊なので、今から25年前の写真。あれから強かなる自然に覆い尽くされてしまったのだとしたら… と途方に暮れました。
と、ふと神社の方まで戻ってみたら、神職者らしい服装のおっさんな方が歩いていたので再び聞いてみた。すると、「駐車場までの道で重機が設置してあった場所があったでしょ。そこを入ってそこから道を下りなさい」とのこと。えっ!? てっきり小高いところにあるとしか思っていなかった私は耳を疑ったのですが「下の方にあるんですか?」と尋ねたら「その通り」だとのこと。だって高いところに湧くんなら奇跡ですが、谷底には普通に谷川が流れているじゃん。これは盲点でした。
「明確なヒントを与えて貰ったから大丈夫!」と勇んで歩き始めたものの、この山にはそれっぽい場所がありすぎてありすぎて、、、 だって谷の随所から水が湧きだしているし、そもそも重機ってどれ? あそこも怪しいしあそこだってありそう、、、と道すら無い谷間をよじ登ったりよじ下ったりしているうちに、私は疲れ果ててしまいました。
そうだよね、機織井が霊所だったっていったって、それはこのお寺が行基菩薩ゆかりのお寺だった時代のこと。明治になってお寺が廃れ、取って代わった秋葉神社は愛宕神を主神とし、三尺坊大権現のことすら無かったことにしちゃったんだから、山姥のことなんかきっとどーでもいーんだよな、と疲れ果てて思った。
これが三週間前の事です。
…でも、家に帰ってネットで調べたら、やっぱり神主さんのいうことは正しかったらしい。自分の気力が負けだだけ。歩いて見てみたら、ネットを眺めるだけでも得られる情報の質は段違いです。ほんの素通りしてしまう要素って何と多いことか。それに力を得て再訪問したのが今日。三週間も経ってしまいましたけどね。
目印の重機ってこれ? でもここには機械など無く、ただ樹に鉄の縄が巻き付けてあるだけです。まるで暴れだそうとしている巨大な杉の根(宙に浮いている)を頑丈な鉄の縄で押さえ込もうとしているかのような。
井戸への入口。知らなくても「ここが怪しい」と思う場所ですが、3週間前のわたくしは、写真中央のこんもりとした場所が「怪しい」と思って、念入りに捜していたのでした。
ここを左に入ってその先をくだるのが正解です。付近にはここ以外にも降りられそうな道が何ヶ所かありますので注意。この正解の一ヶ所以外は、延々歩かされた上、変な場所へ辿り着いてしまい、登って帰ってくるのも大変です。入ってちょっと行くと行き止まりになっており、そこから2つの踏み分け道があります。そこは右側が正解。右側の開口部から下を見下ろすと、
遙か下の方に青いビニールシートに覆われた建物と、緑のスペースが見えます。3週間前の私はこれを見下ろして、「ワサビ田があるんだな」と思ってしまったのでした。冷静に考えて秋葉山にワサビ田などあるはずがありませんが、私は伊豆での暮らしが長かったのです。伊豆ではこんな光景があったらワサビを育てていると思うのは常識だ。改めて、晴れた目で見たら全然違うけど。
問題なのは今立っている急斜面で、かなり切り立った高い崖。杭と黒いビニール布で斜面を固めてあります。3週間前の私はこれを見て、頑強に土砂流出防止の構造を作らないとならないほど、ここは地盤が緩いんだなと思ったのですが、改めて見てみれば、このビニール布って階段じゃん。
写真を見た皆さまは「これは階段だ」と先入観を作ったでしょうから何とも思わないでしょうけど、これは凄い階段でしたよ。怖い物知らずのわたくしですら、一歩一歩確かめて降りてしまうくらいの。
しかし、井戸に至れる道はちゃんとあったんだなー。感動。
あった! 機織の井戸と山婆を祀る小祠!(とても小さい)
すごく小さなものですが、こういうものが25年前から全く姿を変えずに(おそらく大事にされて)保たれていた、ということが大切なことなのでしょうね。
この石組みが一体いつごろに組まれたものなのか、とても興味が湧いてきます。
奈良時代からあるものなのかな。山姥の時代(江戸前期)以後かな。
と、おそるおそる中をのぞいてみますと、
…土に埋もれてるやん。
「いくら旱魃のときでも枯れる事が無い」んじゃなかったのかい。
でも大丈夫。20mほど離れている場所に、こんこんと水が湧き出している、いうなれば「第2機織井」ともいうべき場所もあったのです。
こここそ前述の本に「後世すぐ近くに別の井戸を掘って、火祭りのときの水行場とした」と書いてある場所なのでしょうが、意外に深くて水の気配も底知れなくて、こんな中で水行したら溺れるぞ。
覗き込んでみるとお玉さんがたくさん泳いでいます。こうでなくっちゃ! いそいそと私は周囲にでっかい蝦蟇でもいないかと、いや蝦蟇でなくてもいいから背中に秋葉と書いてある雨蛙でもいないかと、いや文字でなくてもいいから無理でも紅葉のはっぱのようにみえる模様を持ったちっさなカエルさんでもいないかと、かなり丹念に探し回ったのですが、けっかのところりょうせいるいはふきんにいっぴきもいなかった。おかしいな、こんなにこどものおたまちやんがいるのにおとながひとりもいないというのはどうしたことだらう?
しかしながら、この谷底は不思議な空間でした。遠くから鳥の鳴き声と蝉の声は聞こえるのですが、こういう山道を歩いていると必ず悩まされる、山蚊やブヨやアブは、ここでは一匹もまとわりついてこないのです。何らかの霊気を感じた。ここにいたのはただ無数のオタマばかり。
もしかしたら白い玉を2つくっつけた神秘的なオタマさんでもいないかと写真を撮りまくったのですが、水は暗いし水面はテラテラ陽を反射させているし、撮りづらくて撮りづらくて、ほとんど役に立つ写真はありませんでした。そもそも私はオタマを見て、これが蝦蟇のオタマなのか雨蛙のオタマなのか南米大角コモリ矢毒ガエルのオタマなのか判別つかん。
さてさてさて、こうして私の山婆探求は3週間という時間を挟んで無事、成功を果たしたのですが、次なる問題はこの山婆の正体です。秋葉山に伝わる伝説だけを見れば、このおばあさんはただ機織りが得意なだけの気の良い優しいお婆さんですが、実は龍山村・佐久間町・水窪町一帯のかなりの広範囲に“邪悪な山姥伝説”というのが伝わっていまして、この、各所で悪さをしてそして村人達の知恵と勇気で殺された山婆と、秋葉山で三尺坊にかいがいしく仕えた山姥は、同一人物らしい。
これは一体どうしたことでしょう。
北遠一帯でこの山姥の伝説は土地によってバリエーションを示しているのですが、でも一定の形式を踏んでいる。すなわち、山奥に不思議なおばあさんが住んでいて、そのおばあさんはときたま人里に降りてきて、基本的に善行を施すんですが、あるとき突然本性を顕してとんでもない事件を起こして高笑いと共に逃げ去る。煮えくり返った村人達は策略を巡らして山姥を殺す、というもの。
一例を挙げてみましょう。
遠州の山岳部、磐田郡の佐久間町や龍山町の山の中には昔は巨人が住んでいた。男を山男、女を山姥といって、身の丈6m、素足で山を駆けめぐるがその早い事は平地を歩く以上で疾風のようであったという。住居は岩陰や木の下などで、木の実・小動物などなんでも食べた。
彼らは人の子を取って食べたり作物を荒らしたりするの反面、若干の神通力を持っていて、人間のなしえない良い事もした。だから山の村の人たちは、その巨力で禍をされることを恐れ神に祈ったものである。ただ、頭脳は人間よりは劣っていて、ときによってはかなり間が抜けていた。
昔、佐久間町山香の里に日向という家があった。この家に山姥はときどき遊びに来た。山姥はその家の子守をしたり留守番をしていてくれたので、その家では「ありがたいことだ」と思っていた。
ある日、彼(※原文ママ)はどうしたことかその子供を食べてしまった。「あっ、大変だっ」と、家人はびっくりした。
(可愛そうなことをした。何とかしてこの仇を取ってやりたいものだ。そして二度とこんなことのないようにしたい)
家人はそう考えて、いろいろと方策を考えた。
ある日、山姥はまたやってきた。家人は素知らぬ顔で、「いかがです?」と言って、焼きたての蕎麦団子を5、6個皿に盛って差し出した。実はその団子の中には熱々に焼いた石を入れてあった。山姥はそんな事は知らないので「ありがとう」と言い一つ残らず丸飲みにしてしまった。なぜか熱かったから、「み、水をちょうだい」と言いながら彼は苦しみだした。「は、はい水です」と言いながら家人は熱く熱した油を差しだした。それを疑いもなく飲み干してしまったから山姥はたまらない。
彼は走り出すと、4kmほど走って、落井という天竜川のほとりにきて、水を飲もうとして、川に落ちて死んでしまった。
「これで仇討ちができた」
と家人は喜んだが、祟りがあっては困るので、小さな祠を建てて祀った。これが産婆様といって、今でも残っているということである。
(『遠州伝説集』、御手洗清著、遠州出版社、1968年)
天竜川流域におけるやまんばさんの悪行は目に余るものがあります。だがしかし、秋葉山でだけは伝説ではこのおばあさんはいいおばあさんなんですよね。おばあさんは秋葉山の霊的泉の源になっています。冷静に分析して、他の村々では乱暴狼藉を繰り返していたおばあさんが秋葉山でだけは三尺坊様の眼前で(萎縮して?)いいことだけしかしなかった。しかし従前の悪行によって、秋葉山でした善行にも関わらず、結局おばあさんは無惨に殺されてしまった、、、、。
…と解釈するのが普通の解釈だと思うのですけど、秋葉山に伝わっている伝説では、若干展開はやっかいなのです。すなわち、他の地域で迫害され虐げられた可愛そうなお婆さんが追いかけられ殺されそうになったすえに秋葉山に逃げ込み、以後は改悛して悪い事はせず秋葉様の為に未来永劫機を織り続けた、、 そして末社として祀られた、、 となっているのです。
(・・・つづく)