オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

伊豆の3つの城。

2008年01月19日 02時59分34秒 | 伊豆の歴史

gooって長文で投稿すると、ログイン画面に戻って文章が消えてしまいますよね。これって仕様? (少なくとも私は頻繁)。前に何度か同じ事をやって、ちまちま小文の積み重ねで投稿するように決めたことを忘れていました。キーーーーーーッ、私の1時間を返せッ。

しくしく、書き直すとするか。そんなに難しいことは書かなかったですけど、手間はかかったんですよ。何がイヤって、同じ文章を繰り返し書かねばならんことほど嫌いな事は無い。文章を書くのは好きですが、一番楽しいのは「何をどの順序で書くか」を悩んで頭の中でコネコネしているときですもんね。それらの作業が頭の中で終了している事柄をふたたびキーボードを叩いて写すのは、完全に無駄な作業だと感じる。gooのバカヤロー。…そういえば昨日は同量でも消え去らなかったな。パターンがあるのなら教えて欲しいです。

 

…と、大層なことを言ってふたたび書くのは、『太平記』の続きだったりして。
本文はワープロソフトで編集しているので、ただコピペするだけでよかったりする。
が、それ以外の部分は打ち直しなのでシンドイ。ぷんぷん。

これまでのあらすじのよてい
14-2.節度使下向のこと(畠山国清初登場)
29-1.宮方が京を攻める
29-6.小清水合戦、付けたり瑞夢のこと
30-3.直義の追罰の宣旨のお使い、付けたり鴨社鳴動の事
30-4.薩多山合戦
33-10新田左兵衛佐義興自害の事そのそのその
34-2.畠山道誓、上洛のこと
35-1.新将軍の帰洛のこと、付けたり仁木義長を討つこと
36-7.頓宮こころがわりの事、付けたり畠山道誓の事
37-8.畠山入道道誓謀叛の事、付けたり楊国忠が事(前編) (←今ココ!)
37-8.畠山入道道誓謀叛の事、付けたり楊国忠が事(後編)
38-5畠山兄弟、修禅寺の城にたてこもる事、付けたり遊佐入道のこと

えーと、また中途半端に長かったので、分割しました。しかしすごく長いのに、畠山国清についての文章はごくわずかで、大半が外国の関係ない事件についてだという。正直、「読み直すのめんどくせーなあ」と思いかけました。…が、「この物語の中で楊貴妃に相当するのは誰なんだっけ?」と思ったら、なぜか読むのが楽しくなってきました。

原文はコチラ

(太平記巻第三十七−8)
畠山入道道誓謀反の事、付けたり楊国忠が事(その1)

畠山入道道誓(=畠山国清)とその弟・尾張守義深(よしふか)、畠山式部大輔の三人は、500余騎を引き連れて伊豆の国に逃げ、三津城・金山城・修禅寺城の3つの城を構えてたてこもった。それを聞いた鎌倉の左馬頭基氏はまず平一揆の勢300余騎を差しむけた。しかし平一揆が伊豆府(=三島)に到着して近辺の庄園に兵粮の提出を命じ人夫を駈り立てている間に、現地の葛山備中守との間に所領を巡る闘諍が生じ、この両者の間が一触即発になった。畠山軍の遊佐・神保・杉原はこれを聞いて「馬鹿者どもめ、これに乗ぜよ」と500余騎を3方に分けて、3月27日の夜半に伊豆府へ逆に押し寄せた。葛山は「平一揆が畠山に寝返って夜討ちに来た!」と騒ぎ、一方の平一揆は、葛山は畠山と内通していると勘繰り、矢のひとつも撃つことなく寄手の3万騎は空しく鎌倉を指して引き退いた。その様子の情けなさは女子供が嘲けっても仕方の無いありさまだった。左馬頭は困って、今度は新田・田中を大将として武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野・下野・上総・下総の8ヵ国の兵20万余騎を差し向けた。
畠山はこの十余年、左馬頭を妹聟として栄耀満ち溢れ執事として天下を掌に握っていたので、関東8ヶ国の者どもが「畠山殿のためなら命は惜しくありません!」と媚びへつらっていたのを「自分の仁徳ゆえだ」と勘違いし、「自分が旗を挙げればすぐに4、5千騎は兵が集まる」と算段していたのだが、案に相違して一族の者以外は一騎も味方せず、逆に一方の大将としようと頼りにしていた狩野介すらあっけなく敵方に降伏してしまった。譜代の家人や恩顧の郎従どもも日を追うごとに逃亡して少なくなり、大軍襲来の報に、3つの城のうち2つに火を懸けて修禅寺の城に引き篭もった。まるで悪夢のようだ。昨日は大海を覆う大鵬の翼が九霄の雲を孕むが如しだったのに、今日は道の轍の跡に溜まった水溜まりの中の小魚が、たった3升の水を求めて喘いでいるかのようである。畠山は「自分がこうなると知っていたら、新田左兵衛佐を陥れてまで討たなかったのに」と後悔したという。報いは早いということを知らぬのが愚かなのである。

この、畠山入道が去々年に東国の勢を催し南方征討へ向かった事件は、唐の楊国忠と安禄山が天威を嵩に着てやがて世を奪おうとした故事と似ている

昔、唐の玄宗が即位した頃は四海が平穏だったので、遊興を楽しみ驕りを慎まず、すけべえなことばかりが心を占めるようになった。五雲の車に乗り左右の付き人に手を引かせて殿上を行幸し、後宮の36宮を廻って3000人の后を御覧になると、玄献皇后と武淑妃の2人に勝る美人はなかった。皇帝はとことんこの2人の妃にのめりこんでしまって、「春の花と秋の月はどちらも美しいからどちらかを選ぶなんてできない」などと言う始末だった。しかし美しさは必ず衰え光はしまいには消えるものである。それが憂世のならいというもので、この2人の后もほどなくお亡くなりになってしまった。
玄宗があまりに歎き体調まで崩してしまったので、大臣たちは相談してどこかから前皇后や淑妃に勝る美しさを持ち、帝の心を慰められる女性を捜そうということになった。全国をくまなく捜すと、弘農の楊玄エン(王+炎)の娘の楊貴妃という美人があった。この子は、母が昼寝で楊(=柳)の木の下に寝ていると、枝からこぼれ落ちた露が彼女にかかって胎内に宿り生まれた子であるという。さらさら人間のたぐいではなく、ただ天人が化身となってこの地へ降り立ったのだというウワサだった。天女とはおのずから紅顔翠黛(顔は華やぐような赤らみを持ち、眉は翠色に深くくっきりとしている)であるもので、瓊粉金膏(=化粧)をする必要がない。漢の李夫人の美しさを写せた絵師でも、彼女の麗しさを描こうとすれば筆が及ばぬことに思い苦しみ、巫山の神秘的な神女を歌った宋玉も、彼女を讃えようとすれば、自分の言葉の未熟に恥じるであろう。彼女の声だけでふらふらとしてきてしまう。さらにその美しさを目の前にすればいうまでもない。
またとない美しさであったので、王侯や貴人や公卿や大夫が媒酌人を立てて結納品を積み、妻となってくれることを望んだ。しかし父母が許さなかった。両親は彼女を家の奥に隠し、深窓のもとにあったので、はかない桃の花が暁の露を含んで、垣根から覗いた一本の枝からその香りが霞の中に漂うが如くである。それをとうとう、ある人がなかだちして、玄宗皇帝の連枝の宮(=皇子)の寧王に輿入れさせることになった。しかし玄宗は天威に奢って高将軍を差し向け、道中で奪って自分の後宮に入れてしまった。玄宗の叡感と寧王の御思いは、ある枝に花が咲けば別の枝は折られて萎んでしまう様子に似ている。「月が前殿に来るは早く、春が後宮に入ること遅し」と詩人も歌っている。普通の寒梅でも切り取って軍営にでも飾れば、一段と清香を放って人の心を動かす。庶民の家に生える氷雪に晒されうらさびれた楊柳も、宮殿の苑に移せば千尺の翠条を見違えるように春の風に長びかせるだろう。
ただでさえ妙麗で勝れた容色である上に、金や翡翠の飾り物で飾りさらに薫香を散らしたので、まるで歓喜園の花や舎脂夫人(=阿修羅王の娘でインドラ神の妻。 舎脂夫人の夫人の美しさと結婚を巡ってインドラと阿修羅の間に戦争が起こった。夫を尻に敷くような強い女性)の粧いで、春が一挙に来たかのようであった。楊貴妃が玄宗皇帝に初めてまみえて以来、まるで袖の中の珊瑚の玉、掌の上の芙蓉の花よと、劇的に君の心を惑わせてしまったので、以後はひとときもその側から放さず、昼はひねもす輦(てぐるま)を共にして南大庭園の花園に遊んで酔い、夜はよもすがら一緒にいて西の宮で月を眺めながらの宴をおこなった。玄宗は、楊貴妃のあまり素晴らしさに「世間の人が顔に紅粉を施したり身に美しい衣をまとったりするのは全部ニセモノの嬋娟(せんけん←?)で、そんなのはまことの美しさではないのだ」とまで言うようになった。
彼は楊貴妃のハダカを見たくてたまらず、驪山宮の温泉に瑠璃のいさご(砂)を敷き、玉の甃(いしだたみ)をしつらえて貴妃が服を脱ぐ様子を眺めた。白く妙なる御肌に蘭の香りのする湯がかかる姿は、まさに「藍田の日 暖かにして玉低涙す、ユ嶺の雪 融りて梅香りを吐く」かのようだと嘆息するほどだった。皇帝の宣旨を掲げた妃専用の牛車が大量に宮中に出入し、光り輝く栄耀は妃の一族にまで及び、高い役職に取り立てられることも大長公主(=皇帝の縁戚)にひとしく、一族の富貴は天子や王侯をしのぐまでになった。

この楊貴妃の兄に、楊国忠という者があった。もともと家が賎しかったので、ケン畝(けんほ←?)の中で長となっていた。しかし才もなく芸もなく、文にも暗く武にも恵まれなかったこの男が、后の兄ということでやがて大臣にまでなってしまった。          (・・・・つづく)

・・・・・楊貴妃の事件と畠山の謀反は似てますか?
文章を読む限り、楊国忠が畠山国清に相当するのでしょうが、「叛乱を起こす」ということから考えて安録山でもあるのかなあ。
でもって楊貴妃は誰に相当するのでしょうか。
「玄宗皇帝は足利尊氏?」と一瞬思ったのですが、『太平記』の中の扱いの軽さから考えて、足利義詮(32歳)だとするのがふさわしいのでしょうね。単純に鎌倉公方足利基氏(22歳)かもしれません。しかし、読みながら「コイツはしょーもねーなー」と感じた感情は、前に新田義興の文章を訳しながらやっぱり「ほんとアホエロな奴だ」と思ったのと同種なのでした。ま、男はすべからくアホエロですけど。
太平記の中の楊貴妃の描かれ方は、通説とはほんのわずかだけ違うそうなのですが、これまでのところ私が「おや?」と思ったのは、楊貴妃が「楊玄エンの娘」と書かれながら「楊(やなぎ)からしたたり落ちた露の精の化身だから楊貴妃」と続けられているところです。楊は姓なの? アダ名なの?

冒頭に出てくる「平一揆」というのが人名なのかそうじゃないのか悩んだのですが、「団体名」だそうですね。一揆というから百姓一揆かと思いきや、そうでもないようで、言うなれば「国人一揆」ですって。一揆なのに鎌倉公方の命令には従って伊豆まで出兵しているのですから、わけがわからない。のちの「一揆」とはまだ少しだけ違うんですね。
(※参考;平一揆
更に太平記の巻三十一には、平一揆と並んで“花一揆”“白旗一揆”“御所一揆”とやらも登場しますので、ほんとわけわからん。

畠山国清は小規模な局地戦では抜群に指揮が上手な名将・謀将だったと思います。もったいないです。20万の軍勢は非道すぎるよ。…ただし、合戦の描写で最初かっこよく勝ったあとで、続けて散々ボロボロに打ち破られるサマを書くのが太平記の常套手段なので、検討には注意が必要なこともあります。「適当に持ち上げて、盛大に落とす」、それが太平記の物語。国清の前半部の合戦の手腕や堅砦に仕立て上げられた三城の詳細をもっと詳しく知りたいですね。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« そして怨霊へ。 | トップ | 触れようとされるだけで痛む人。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊豆の歴史」カテゴリの最新記事