オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

そして怨霊へ。

2008年01月18日 06時09分10秒 | 伊豆の歴史

もういいや、イラストは後で付け加えることにして投稿。のんびり描きます~。
新田義興エピソード、終了。(長かった)。この逸話は一番最後の「畠山国清の死の情景」に係ってくるんですよ。

これまでのあらすじのよてい
33-10新田左兵衛佐義興自害の事(その1) 
33-10新田左兵衛佐義興自害の事(その2)
33-10新田左兵衛佐義興自害の事(その3) (←今ココ!)
34-2.畠山道誓、上洛のこと
35-1.新将軍の帰洛のこと、付けたり仁木義長を討つこと
36-7.頓宮こころがわりの事、付けたり畠山道誓の事
37-8.畠山入道道誓謀叛の事、付けたり楊国忠が事
38-5畠山兄弟、修禅寺の城にたてこもる事、付けたり遊佐入道のこと

 登場人物

◎佐殿(すけどの)・左兵衛佐(さひょうえのすけ)=新田義興。南朝の忠臣新田義貞の次男。気のイイ奴。28歳。
◎畠山太夫入道・道誓(どうせい)=畠山国清。鎌倉公方足利基氏の下で関東執事(後の関東管領)を務める。年齢不詳。
◎竹沢右京亮=畠山道誓の手の者。むかし新田氏の将だったことを利用して、義興を騙して殺すために近づく。
◎江戸遠江守=関東地方の大豪族、江戸高良。北朝方。竹沢右京亮とともに新田義興を討つ。
◎左馬頭(さまのかみ)鎌倉公方足利基氏。18歳。

 

(太平記巻第三十三−10)
新田左兵衛佐義興自害の事(その3)
つらつらこの事態を譬えるに、無常の虎に追われて煩悩の大河を渡ろうとしたら、三毒を持つ大蛇が川面に浮かび出て呑みこもうと舌を伸ばしてきて、その餐害を逃れようと岸辺に生えた細い草の根にしがみつくと、黒白二つの月の鼠がその草の根を囓り始めたというような、どうしようもない状況であった。この矢口の渡りという場所は、幅は四町以上あり、浪は嶮しく底は深かった。
渡し守は、河の半ばまで来ると櫓を河に投げ込んで船底に差してあった二本のノミを同時に抜き、二人の水手はそれと同時に河に飛び込んで、船客を置いて逃げ去ってしまった。これを見て、向かい側の岸から4、500騎の兵が飛び出してどっと時を作り、「愚かな奴らよ、たばかられたことが分からんとは。あいつらのバカ面を見よ」と囃しながら、えびらを叩いて大笑いした。
そうしているうちに水は船に満ちて腰の中ほどになったので、井弾正は兵衛佐殿を抱えて高々と掲げた。宙に上げられた佐殿は、「なんということだ! 日本一の不道人(卑怯者)どもにあざむかれるとは。七回生まれ変わるまでに汝らにこの恨みは必ず報いるぞ!」と激しく忿りながら腰の刀を抜き、自分の左の脇から右のあばら骨まで突き刺して、掻回しながら二回も切った。井弾正もはらわたを引きちぎって河の中へ投げ入れ、おのれの喉笛を2ヵ所刺して頭を掴んで自分で自分の頚を後ろに折り切った。頸の折れるその音は2町先まで聞こえたという。世良田右馬助と大島周防守は、互いに刀を柄口まで突違えて、組み合いながら河へ飛び込んだ。由良兵庫助と同新左衛門は舟の艫舳(ともえ)に立ちあがり、刀を逆手に持ちながら、互いの頚を掻き落とした。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎の3人は、それぞれの袴を引きちぎって裸になり、太刀を口にくわへて河中に飛び込み、水の底を潜って対岸に駆け上がって敵300騎の中へ突っ込んで半時間ばかり切り合ったが、敵を5人打ち取って13人に手負いを負わせたところでほぼ同時に討たれた。

すべてが終わると、水の中から兵衛左殿と自害・討ち死にをした者の首13個を探し出し、酒に浸して500余騎の手勢と共に江戸遠江守・同下野守・竹沢右京亮は左馬頭殿(=足利基氏)のおられる武蔵の入間川の陣へと向かった。畠山入道は大悦びで小俣少輔次郎・松田・河村を呼び出し、「まちがいなく兵衛佐殿でおわすな」と言いながらこれを見せた。3、4年前に、数日ではあったが近くに仕えた彼らは、その時のことを話したのでみな涙を流した。見る人は勝利の喜びと共に哀れも感じ、共に袖を濡らすのだった。

この義興とは、故新田左中将義貞の愛した女性との息子だったが、兄の越後守義顕が討たれて死んだ後も父は彼を嫡子にはしなかった。
弟の武蔵守義宗は6歳のときから昇殿させて大事にされたが、義興はほったらかしにされ、みなしごのまま上野国に置かれていた。奥州の国司顕家卿が陸奥から鎌倉へ攻め上るとき、義貞方の武蔵・上野の三万余騎はこの義興を大将として奥州軍に加わり、鎌倉を攻め落とした。
顕家卿とともに吉野へ参ると、先帝(=後醍醐天皇)は彼を見て、「まことに武勇勝れた者だ。義貞の家名をさらに上げるだろうぞ」と言ってまだ徳寿丸と名乗っていた彼を御前で元服させ、新田左兵衛佐義興と名乗らせた。器量人に勝れ、はかりごとも巧みで、精神が機敏であったので、正平7年の武蔵野の合戦では大敵を破り、武威秀でることは古今未だ聞かざると言われた。その後身を隠すことになり、ただ2、3人で武蔵・上野に潜行していたとき、宇都宮の清党(せいのとう)が、300余騎で取り囲んだことがあったが討ち取ることはできなかった。そのときの身のこなしは、まるで天を翔け地をくぐる術を持っているかのような怪しいまでの勇者ぶりだったという。そのため、鎌倉の左馬頭殿も京都の宰相中将も、安らかでいることができなかったのだが、運命窮まって短才庸愚の者らにたばかられ、水に溺れて討たれることになってしまったのだった。

江戸と竹沢は忠功抜群ということで数箇所の恩賞を賜った。これに対し、「あれこそ弓矢を取るもののふの面目だ」と羨やむ人もあれば、「あんな汚い男の振舞いはするものではないよ」と爪弾きをする者もあった。
竹沢はさらに畠山入道から謀反の者たちを探し出すようにという命令を受けて御陣に留め置かれたが、江戸の2人はいとまが与えられ、恩賞で得た新たな領地へ帰って良いことになった。江戸遠江守は大喜びの面持ちで拝領した地へ向かった。おりしも10月23日の暮れほどで、矢口の渡りまで来ると、兵衛佐殿を渡したときに江戸と共謀してノミを抜き舟を沈めたあの渡し守が、江戸が恩賞を貰って通ると聞いて、たくさんの酒肴を用意して迎えの舟を出していた。その舟が河の真ん中を過ぎた頃、突然天が掻き曇って雷が鳴り、水嵐が川面に烈しく吹き漲って、白波が起こって舟をもみくちゃにした。渡し守はあわてて舟を戻そうと櫓で体勢を直そうとしたが、逆巻く浪に打ち返されて、乗っていた水手や梶取りは一人も残さず水底に沈んでしまった。天の怒りに違いない、これはきっと義興の怨霊の仕業だと、この出来事を聞いた江戸遠江守は懼れをののき、河原から引き返して別の場所から川を渡ろうと20余町も離れた上の瀬へ馬を飛ばしていると、電光が前方に閃き雷鳴が巨大な音量でとどろきめいた。周囲に人家は無く、そこで日が暮れてしまった。
これでは雷神に蹴り殺されてしまうと思った彼は「お助けくだされ兵衛佐!」と、手を合せ虚空を拝み拝み逃げた。ようやく近くの山の麓に辻堂を見付け、「あそこに逃げ込むぞ!」と馬を煽っているところに、黒雲がひとかたまり江戸の頭の上に垂れ下がってきて、雷電が耳の横で鳴り閃き渡った。江戸があまりの怖ろしさに後ろを振り返って見ると、新田左兵衛佐義興が火威しの鎧に竜頭の五枚甲の緒を締めた姿で額に角の生えた白栗毛なる馬に乗り、鞭を激しく打って馬を駆けさせながら、江戸を弓手の物(獲物?)としようとしている。あぶみの鼻に垂れ下がって(←?)7寸ぐらいの長さの雁俣の矢でかひがね(懐が根=胸元?)から乳の下を狙われた彼は、これでは射落とされてしまうと慌ててしまい、馬からさかさまに落ちてしまった。血を吐きながら悶絶している彼を従者が輿に乗せて江戸の屋敷に急いで運んだが、7日のあいだ水に溺れたように手足をバタバタさせながら、「堪えられぬ、助けてくれ!」と叫び狂いつつ死んでしまった。有為無常の世の習いとしていつ死ぬ命なのか分からぬのに、わずかな欲にふけって情無いことを企らみ振舞うから、月も経たぬうちに因果が歴然と身に降りかかる、これは未来永劫の業障である。その家に生まれて箕裘(=父祖の業)を継ぎ弓矢を取ることは世俗の法であるから抗っても仕方が無い。ゆめゆめ人はそう心に命じて分不相応な物を望んでふるまうことのないようにすべきだ。
その明け方の夢の中で畠山大夫入道殿は、黒雲の上で大鼓がときを作り何者かが寄せて来る怪しい気配を感じた。音のする方を遥かに見やると、新田左兵衛佐義興が長さ2丈ばかりの鬼となって、牛頭・馬頭・阿放・羅刹ら十余人を前後に随え、火の車を引いて左馬頭殿(=足利基氏)のおわす陣中へ入っていった。その光景に胸を打騒がせて夢から覚めた禅門は、起きあがって「こんな不思議な夢を見たよ」と、近くの者に話し聞かせていると、話し終わらないうちににわかに雷火が落ち、入間川の畔にある300軒近くの家と、堂舎仏閣数十箇所が、一瞬で灰燼となった。そればかりでなく義興が討たれた矢口の渡しでは夜なよな光るものが出て通る者を悩ませたので、近隣の隠者や長老が集まって義興の亡霊を祀る一社を建て、新田大明神として神として崇めた。常盤堅盤の祭礼は今でも途絶えず続いているという。不思議な出来事であった。

 

・・・ね!? 絵に描いてみたくなりますでしょ、新田義興の姿。
江戸遠江守はともかく、竹沢右京亮はどうなったのでしょ?ココを見ると平穏無事では無かったようですが、よく分からない)。
こういった訳文こそセンスが問われるような気がしてビクビクしてしまいます。私は原文の格調を残すことが出来ませんでした。読み返すとやっぱりイマイチかなあ。またこの回ほど「古語辞典が欲しい」と思った回はありませんでした。意味がよくわからん箇所が多すぎる。「鑿」ってなーに? 「いいや別に逐語訳じゃねーし」と開き直らないとやっていられません。

というわけで、東京の大田区にある「新田神社」の御祭神は新田義貞でも仁田忠常でもなく、新田義興なのです。この神社は「破魔矢の元祖」なんですってよ。もちろん義興が江戸遠江守の胸に投げようとした矢に由来しているんでしょうが。(義興自身が「魔」じゃん。どうやら平賀源内が太平記に無いエピソードを付け加えたそうです。“破魔矢”も江戸ではなく船頭を撃った矢だという)。ここの絵馬は「勝兜絵馬」というのですが、「効くの?」などと不埒なことを思ってしまってごめんなさい。お守りの効能の「試験に勝つ」「スポーツに勝つ」「恋に勝つ」「仕事に勝つ」のうち、「恋に勝つ」だけが霊験ありそう。

群馬県太田市と川崎にある新田神社の御祭神は新田義貞です。
鹿児島県にも高名な新田神社がありますが、伝説では新田義貞が生まれる600年も前の8世紀の創建らしい。(祭神はニニギノミコト) なんで「新田」神社なんでしょう。「新田=可愛い」だったりして。西都原遺跡でもニニギの墓を見たことがある気がします。

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3 コメント

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けっこう真剣に… (ひとみ)
2008-01-18 20:35:11
これにハマちゃって…
まいったなぁ…(;><)
彼氏にバレたらヤバいよね…(・ ・;))。 http://dykoon.net/s/376
返信する
Unknown (j.k)
2008-01-18 21:27:29
 お邪魔します。
 
 昔の人の怨念って怖いですねぇ・・・読み込んでしまいました・・・。
 関係ないけど、bbsなどで荒らす人を無理やり「萌えキャラ」に仕立て上げキャラデザインまでやってしまう「御霊萌え」という「鎮火方法」を思い出しました^^
返信する
新田義興。 (麁鹿火)
2008-01-19 02:02:35
j.kさん、ありがとうございます。

幽霊好きな私にとって、太平記はすごく面白い作品なんです。怨霊・モノノ怪だらけ。今でこそ「心霊写真すらデジタルカメラの普及で減った」とか言われる有様ですが、日本文化は幽霊に対する愛情でできている部分も大きいと思います(^-^)。

「御霊萌え」… (絶句)
私も機会があったらやってみましょう。


>ひとみさん
書き込みありがとうございます。
真剣にハマったってひとみさんもですか? 怨霊の世界は味深いですよね。それほど強い想いで生きてきた真摯な人ってことですし。そんなのにハマっちゃうひとみさんもかわいらしいですよ。貴女もきっと将来ステキな幽霊さんになれますよ。
あ、違うか、、、 「ハマちゃった」ってことですから本文中にある横浜の近くの川崎の新田神社の幽霊に係ってるんですか? きっとお洒落な方なんですね。彼氏も大満足だと思います。

・・・・・不調。
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