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太平記に出てくる畠山国清(その1)。

2006年09月04日 16時10分07秒 | 伊豆の歴史


≪伊豆の国奈古谷の国清寺≫

まとめて一気に訳して載せようと思ったけど、わたし、根気が無くてムリでした。
チマチマと。太平記から、畠山国清(道誓入道)に関する記事を抜き書きしておきます。
ただ、記事は前後するし(←私が興味のあるところから)、全何回になるのかもわかりません。

(太平記巻第三十六−7)
頓宮(とんぐう)こころがわりの事、付けたり畠山道誓が事
若狭の国は管領の相摸守(細川清氏)の領国で、守護代の頓宮四郎左衛門が在国していたが、彼は小浜の地に究竟の城を構え、兵粮数万石を積み置いていた。(失脚して京から落ち延びた)相摸守がここに落ちついた。城の構えや兵の勢いを見ると、野戦をするにも、あるいは城に篭って戦うにも、一年二年の間はたやすく落とされはせぬと思われた。
やがて、尾張左衛門佐氏頼が討手の大将を承って、北陸道の軍勢三千余騎を率いて、越前方面から椿峠へ向ってきた。さらに仁木三郎が搦手の大将として山陰道の勢二千余騎で丹波から逆谷(さかさまたに)に向かったと聞いて、相摸守はおおいに笑い、「なんと哀しい(微弱な)やつらよ。こんな程度なら、力自慢の者二、三人に杉材棒を突かせて差し向ければ、不足はないだろう。まず敦賀に、朝倉某が先き打ちして作った陣を打ち散らせ」と言って、中間を八人差し遣わした。彼らは敦賀の津へ紛れて入り、浜面(はまおもて)の在家十余箇所に火を懸け、時の声を揚げた。朝倉の兵三百余騎は時の声に驚き、「すわ、寄せたのはさだめし大勢だ。引いて後陣の勢に加われ」と、矢の一つも射たず敦賀から引いた。主が逃げたので、伴う兵三百余騎も、馬物具を捨てて越前の府へ逃げた。
相模守が、こんな程度だと思ったよと会う人ごとに言って嘲っていると聞いて、尾張左衛門佐はおおいに怒り、大軍勢を率いて十月二十九日に椿峠に向かった。相摸守はこれを聞き、「今度は一人も生かして還さん。これは自分でやるしかない」と言い、城には頓宮四郎左衛門尉を残し、弟の右馬助と共に五百余騎で追手の敵に馳せ向かった。敵の陣は険しい場所にあるので、敵が寄せてくるのを待つかそれともこちらから懸かろうかと思案し、まだ戦いを始めぬうちに、主に重ねがさね恩あり、ふたごころは絶対に無いと思われていた頓宮四郎左衛門がにわかに心替わりし、旗を挙げ城戸を開けて寄手の勢を後の方から城へ引き入れてしまったので、相摸守に従っていた兵は力尽き各方面に落ちのびていってしまった。
朽ちた縄で六馬を繋ごうとしても、留めるのが難しいのがこのころの武士の心である。清氏は名だたる勇士ではあったが、こうなってはどうしようもできぬと思い、弟の右馬助とただ二騎で篠峯(ささのみね)を越え、忍んで都へ紛れ入った。一夜でも洛中では隠れるのが難しいと思ったので、兄弟は別々に分かれ、相摸守は東坂本へ峠を越え、一日馬の足を休めて天王寺へ落ち、右馬頭は夜半に京中を通り抜け、大渡を経て、打ち合わせていた通り天王寺へ落ちのびた。相摸守はそこから(南朝に降っていた)石堂刑部卿のもとへ使者を立て、「清氏はすでに讒者の訴えにより、無罪か死罪かを決せられるまでの間、身の置きどころが無いため、天恩をいただいて軍門に降参したい。旧好ある貴方を頼んで申す。兔にも角にもしかるべきように計らって欲しい」と言い遣う。石堂刑部卿は急いで使者に対面し、使者の返事には触れずに「これは夢かうつつか」といいながら、やや長いあいだ、なみだを袖で押さえていた。
やがて参内して事の子細を奏聞すると、左右の大臣は相議し、「敵軍首を延べて帝の徳に降る。天恩なんぞこれを慧まれずにあろうか。早く軍門に慎しみ仕え、征伐の忠を専にするべし」という恩免の綸旨を下されたので、石堂はかぎりなくよろこび、すぐに細川と対面した。たがいにことばなく涙に咽びあった。そして、「世の転変は今に始まったことではないが、不慮の急転はこのところ多い」と言って、色代して帰途についた。その様子は秦の将軍・章邯が宰相の趙高の讒を恐れて楚の項羽に降った時、面を垂れ、涙を流して言には出さずとも、讒者に世を乱される恨みを明らかにした様子にそっくりだった。そうしているうち、仁木中務少輔が京から伊勢へ落ちて、相摸守の下についたという噂が流れ、また兵部少輔氏春も京から淡路へ落ちて国中の勢力を伴って、相摸守と力を合わせて兵船を用意し堺の浜へ付ける計画があることが明らかになった。摂津国の源氏松山は香下の城を建造して南朝と通謀し、播磨路を封鎖して人が通れないようにしたという噂もあり、ひとかたならぬ蜂起の数々に、京都周辺の人々は慌て、すわ世の乱がまた生じたかと今後の事態を危ぶまぬ者は無かった。

宰相中将殿(将軍足利義詮)は畿内の蜂起を聞き、「近国で騒動が起こったとしても坂東は静かなのだから、東八箇国の勢を召し上ぼらせて退治させれば、何ほどの事があるか」と、たいして騒ぐ様子もみせなかった。しかし康安元年十一月十三日、関東から飛脚が到来し、「畠山入道道誓と弟の尾張守が敵となって伊豆国にたて篭り、東国の路を塞さいで官軍を自由に動けなくしております」と伝えてきた。その濫觴何ごとぞ(なんでそんなことに?)と問うと、去々年の冬、畠山入道が南方退治の大将として上洛したとき、東国八箇国の大名や小名数を引き連れてきたのだが、軍勢は長い行軍に疲れ馬具を売らねばならぬほど困窮してしまい、耐えきれずに大将の畠山にいとまも告げず本国へ帰ってしまう者が多く出た。畠山が関東に戻ったあと、逃げ帰った者たちの所領を没収、抗議や嘆願を聞き入れなかった。たまたまこの件を取り上げ審議しようとする奉行があると、畠山入道はおおいに激怒して、逆に相手を攻撃し追い込みにかかる始末なので、訴えたい者が群集するばかりで、事態をおおやけにする手だてがなかった。
このように、しばらくは正式な訴詔にて解決しようとするこころみが細々とされていたが、あまりにその数が多くなり、しかし全く解決されないので、とうとう同じ境遇にある者どもが千余人、共に神水を飲んで誓い合い、これ以上畠山入道を執権にしておくのなら、われわれは一切(鎌倉政庁の)御成敗には従わぬ、という由を左馬頭(鎌倉公方足利基氏)に訴えた。
下の者が上に立つ者を退ける嗷訴(ごうそ)は下刻上の至りである。(基氏も)心の中では憤ったが、この者どもに背かれれば、東国は一日も安定が保てぬ。まもなく畠山のもとへ使いを立てて告げた。「去々年の上洛の時、南朝の退治が第一の目的だったはずなのに、そなたはもっぱら仁木右京大夫(義長)を討つことだけに夢中だった。これはそなたの幕府に対する隠謀のひとつではなかったのか。その後、関東に戻った後、さしたる罪の無い人々の所帯を没収したこと、これはただ世を乱し、基氏を天下の人に背かせようとした企てによるものであると見る。お前の叛逆の意は露顕した。この上は、一日も門下にそなたを置いておくことはできない。関東から出て行かねば、速やかに討手をさし遣わすぞ」。
畠山は鎌倉にいたが、この上は何を陳上しても無駄だと悟って、兄弟五人と郎従を引き連れて、三百余騎で伊豆の国をを指して落ちて行った。小田原の宿についた夜、土肥掃部助が「御敵となって落ちていく者に、矢のひとつも射懸ずして見送ったなどと言われてたまるか」と、主従ただ八騎で入道の小田原の宿へ押し寄せ、風上から火をかけて、けむりに紛れて彼らに切り込んだ。畠山配下の遊佐・神保・斎藤・杉原がこれを迎え撃ち、散々に戦って追い払った。こして、こんな小勢でわれらに勝負を挑むとはな、と面白がって笑い合った。その後、後陣の者たちに防矢(ふせぎや)を少々射させ、その夜のうちに小田原の宿を引き払い、伊豆の修禅寺にたて篭った。その後、畠山の弟の尾張守義深(よしふか)が、信濃に赴き、諏防の祝部(はふり)と会い、共に幕府に反逆するという噂がきこえきたので、東国・西国・東山道で一斉に何かが起こっては大変だと、洛中の貴賎が騒ぎあった。」


私の持っている角川文庫版太平記は、なぜか巻第十四(箱根竹之下合戦の頃)までしか収録されていないのです。不便だから、早く続きが出版されないかなー、と思ってたんですが、とうとう出ませんでした。
現在本屋で売ってるのは各巻6千円ぐらいで到底買えないしね、岩波文庫からでればありがたいのになー、いや絶対まもなく出るはずだ、と信じていたのに、ちっとも出る気配が無いんですよね。なんでなんでしょ。
そうこうしているうちに、ネットで全文を掲載しているところがあって、ヒマなときにちまちま現代語訳してみようと思い立ったのがコレです。

しかし、南北朝時代はわたしは結構好きだという意識があって(特に好きな人物は限られているんですけど。新田義貞、懐良親王、宗良親王、足利直冬、足利直義あたり)、でも三國志や里見八犬伝等と同様にやたら詳しいのは物語の前半だけだったりして、後半のこのあたり(巻37のあたり)になると、起こっている事件とか出てくる人名とかさっぱりわけがわからない。いろいろな本を引きながらの作業になってしまいました。ふへぇ、「伊豆の乱」だけでも、これで全部の1/3かぁ~~

なお、逐語訳でやってみようと最初はがんばろうとしたんですけど、なんとなくやっぱり不可能ですね。原文はココにあるので、ぜひ対照させて読んでみてください。読みづらいけど、やっぱり原文の方が眺めてて楽しい。わたしのは、最後はいいかげんになってしまった。

さてさて、
ここに書いてある文章は、畠山国清について調べていると必ず出てくる事件なんですが、いちいち読んでみると、道誓入道ならずとも、「なんでやー」と怒って反逆したくなる事件ですよね。
ここの部分だけ抜き出すからいけないんであって、「畠山入道が鎌倉公方の執事として足利基氏に忠誠を尽くした様子」とか、「昔と変わらぬ鎌倉武士たちの心意気」とか、「青年王足利基氏の苦悩(このときでさえ21歳だよ。←すでに晩年?)」とかと、合わせて読まないとわかりづらいことばかりなんですけど。
神酒を飲んで国清を訴えた鎌倉武士が千余人というのはすごい。それから、「伊豆と諏訪大社が手を組んで蜂起」というウワサがあったんですね。(諏訪氏は中先代の乱の時も新政府に刃向かいました)
それから、二代目将軍の足利義詮って、こういう人は私はなんか好きなんですが、(源頼家とか徳川秀忠とか綏靖天皇とか李成民とかオゴタイハーンとかティベリウス帝とかフマーユーン帝とかが好き)、太平記の中ではこの人は「愚鈍な人物」として描かれているんですってね。今日初めて知りました。


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