オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

矢口に心霊。

2008年01月05日 17時29分57秒 | 伊豆の歴史


私の中の新田義興のイメージ。頼まれたら何でも引き受ける。
ラーーンスロットだ! 新潟のラーンスロットだ!

忘れた頃に太平記を読む。
改めて読むと、平家物語や源平盛衰記とは異質の文章ですねえ。すんなり読めません。源平盛衰記はとても読みやすいんだなあと感銘を受けました。太平記の文章は味がとてもあって好きなんですけど、そのまま訳せません。だいぶ意訳。(※原文はJ-TEXTさんからお借りしております)。本当はこの章、前・後編の予定だったんですけど、中途半端に長すぎて、さらに後編を上・下に分けてしまいました。すんません。ただ単に私が義興のイラストをあと数枚描きたかっただけです。

これまでのあらすじのよてい
33-10新田左兵衛佐義興自害の事(その1) 
33-10新田左兵衛佐義興自害の事(その2) (←今ココ!)
33-10.新田左兵衛佐義興自害の事(その3)
34-2.畠山道誓、上洛のこと
35-1.新将軍の帰洛のこと、付けたり仁木義長を討つこと
36-7.頓宮こころがわりの事、付けたり畠山道誓の事
37-8.畠山入道道誓謀叛の事、付けたり楊国忠が事
38-5畠山兄弟、修禅寺の城にたてこもる事、付けたり遊佐入道のこと

 登場人物

◎佐殿(すけどの)・左兵衛佐(さひょうえのすけ)=新田義興。南朝の忠臣新田義貞の次男。気のイイ奴。28歳。
◎畠山太夫入道・道誓(どうせい)=畠山国清。鎌倉公方足利基氏の下で関東執事(後の関東管領)を務める。年齢不詳。
◎竹沢右京亮=畠山道誓の手の者。むかし新田氏の将だったことを利用して、義興を騙して殺すために近づく。
◎江戸遠江守=関東地方の大豪族、江戸高良。北朝方。実は女性(ウソ)。
◎左馬頭(さまのかみ)鎌倉公方足利基氏。18歳。

 

(太平記巻第三十三−10)
新田左兵衛佐義興自害の事(その2)
9月13日の夜は、暮天雲晴れて月も良く照り、気持ちの良い夜になりそうだったので、明月の会を開いて佐殿(=新田義興)を騙して呼び寄せ、酒宴の中で討ってしまおうと企んで、一族の若党を300人ほど刈り集めて館の近くに篭めおいた。日が暮れると竹沢(右京亮)は佐殿の元に参り、「今夜は明月の夜でございますから、恐れながら私の茅屋で草深き庭の月でも御覧くださいませ。御内の人々の慰めに、白拍子などを少々集めてあります」と言うと、「おもしろい遊びではないか」と新田党の人々はみな悦んだ。出発するために馬に鞍を置かせ、郎従を召し集めてちょうど出ようとしたところに、少将(=新田義宗)のおつぼねから佐殿宛ての御消息(手紙)が届けられた。開いて見てみると、「昔の夜の出来事が悪夢の中に出てきたので、夢説(=夢占い師)に聞いてみたところ、これは厳重に慎みをなさねばならぬ合図であると言われました。七日間は家から出ない方がよろしいです。どうぞお聞き下さいますように」と書いてあった。
佐殿はこれを読んで執事の井弾正を呼び、「どうしようか?」と訊ねた。井弾正は、「凶と聞いたら慎まないわけにはいきません。今夜のお遊びもやめるべきだと存じます」と申し上げた。佐殿も同意し、突然風気の心地となってしまったと言って、竹沢を帰らせた。
竹沢は今夜の企てが失敗しそうなので焦った。そして「佐殿は少将の御局の手紙によって思い留まった。どうしてか我らが企てを内々に察して告げ口しているとみえる。この女姓は生かしてはおけない」と、その夜ひそかに少将の局を門へ呼び出して、差し殺して堀の中に沈めてしまった。痛ましいことである。都に打ち続く世の乱れに、荒れのみ勝る宮城に大昔から住んでいた人々も、秋の木の葉が散々になるように様々になり、頼りとする影すらなくなりはてて、浮草に身を寄せるしないとは、この竹沢をたのみにしたがゆえに、なにゆゑと、思い分ける方もなく、あっという間に消える秋の霜の下に伏し、深き淵に沈めらる今わの際の有様を、思い浮かべるのも哀れで、外の袖さえ萎れてしまう。
その後、竹沢は自分の力だけでは討つことができぬと思ったので、畠山殿(=道誓入道)へ使いを立てた。「兵衛佐殿が隠れている場所は私が克明に調べてあります。小勢では打漏らすと思いますから、急いで一族全員で、あと江戸遠江守と下野守とをお下しください。念入りに打ち合わせて討ち果たしてしまいましょう!」
畠山大夫入道は大いに悦んで、江戸遠江守とその甥の下野守を差し向けた。討手と兵衛佐が察知したら在所を移して逃れてしまうかもしれないと、江戸の伯父甥の所領、稲毛の庄十二郷を闕所(=罪によれ取り上げられる領地)として別の者に与えてしまった。江戸の伯父と甥は激しく忿った振りをし、稲毛の庄へ攻め込み、新領主を追い出して城郭を作って立て籠もり、一族以下の兵五百余騎を集め、「ただ畠山殿に向かい一矢射て討死せん!」などと罵りまくった。
まもなく、江戸遠江守は竹沢右京亮を仲立ちにして兵衛佐に使いを送った。「畠山殿に無故懸命の地を没収されました。このまま伯父甥共に牢に捕らえられるのならば、力及ばずとも一族共を引き連れて鎌倉殿の御陣に馳けのぼり、畠山殿に一矢射ち込んでやろうと思っています。ただ、我らにも大将がいるかいないかでは皆の意気と勢も全然違うので、ぜひ佐殿に大将になってくれないかとお頼み申し上げる次第です。ひそかに鎌倉へお越しください。鎌倉中に当家の一族は少なくとも二三千騎はいます。この勢力で相摸国をしたがえ、東八箇国を拠点に天下を覆す謀りごとをめぐらそうではありませんか!」と、まことに簡単なことをするかのように持ちかけた。
佐殿は、かくも志深き竹沢が熱心に勧めるならばと疑うこともなく快諾し、武蔵・上野・常陸・下総の隠れて与力(=味方)する兵たちに事の次第を触れ回って、自らは10月10日の暁に忍んで鎌倉へと急行した。江戸と竹沢は事前に、矢口の渡しの船の底を二ヵ所えり貫いてノミを差し、渡しの向う岸には宵から江戸遠江守と下野守が、混物具(ひたもののぐ)の三百余騎を木の陰や岩の下に隠れさせ、これを討ち止めるために用意していた。加えて竹沢右京亮も屈強の射手百五十人を選りすぐり、もし敵が引き返すのなら遠矢で射殺そうと待ち構えた。さらに「大勢で行くと人に見つかってしまいますから」と適当に言いくるめて、かねてから兵衛佐の郎従らを、バラバラに鎌倉へ向かわせていた。
世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎佐衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門尉・南瀬口六郎ら、わずかに13人を打ち連れて、疑いもせずにノミを刺された船に乗って、矢口の渡しに押し出した。
これが三途の大河と思いも寄らないとは哀れなことである。

物語の「承・転」部分なので、大した展開は無いです。ゴメンナサイ。
でもここで道誓入道が使っている策はなかなか大胆ですよね。竹沢右京亮と江戸遠江守の領土を一旦奪って、偽りの投降をさせるという策を使っている。しかも短期間で2回連続で。本人たちは分かってやってるからいいんですけど、土地という物が何よりも大切な他の関東武士たちに与える影響は考慮されていないのでしょうか? 江戸氏といったら頼朝以来の御家人です。諸将の心を完全に掴んでいないとできない作戦です。ただでさえ混沌とした状勢のときなのに。「どうせなら江戸高良の身体をムチで散々に叩いてから放せば道誓らしかったのに」と思いました。…それじゃ張飛になっちゃうか。
のちに道誓は諸将の土地を放埒に奪ったせいで失脚し、伊豆へ流れてきます。

それにしても新田義興はステキメンすぎる。
この爽やかな男がすぐさま怨霊となるというところに、この逸話の真髄があるのだと思います。
次回乞う御期待! (私は絵を描くのが遅いのでたいぶ先になると思います)


…この絵は気に入らないのでまた描き直すでしょう。

新田義興もまた父の義貞に大事にされず、邪険に扱われました。
源朝長、足利直冬、結城秀康、、、、 源義綱も忘れちゃいけませんね。源氏は次男が不幸になる説。
もちろん、頼朝は頼家を可愛がりましたし、源為義と長男義朝、足利義満と長男義持、徳川秀忠と家光等逆転現象も多々ありますが、不可解ぶりにおいて顕著であるので、次男不幸説は揺るがないと思います。…それほど血族同士の抗争が激しかった歴史ということか。それは別に源氏に限らず。

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2 コメント

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Unknown (D&D)
2008-01-08 00:46:34
あけましておめでとうございます。
今年は穏やかな年になると良いですね。

太平記というと、「犬侍」と揶揄された島津四郎左衛門が妙に記憶に残っています。
新田義貞の軍勢により、鎌倉はもはや陥落寸前。鎌倉幕府も、もはやこれまで。
鎌倉方の武士も最後に死に花咲かせようと必死の戦いに赴く中、
島津四郎は高時より名馬を授かり、「これぞ最後の戦い」とばかりに、颯爽と一騎駆け。
周囲も敵味方問わず「天晴れな武者ぶり!」と讃える中、
何をするかと思えば、突然敵陣の前で下馬し、土下座して降伏(笑)

何というか「武士の時代にも凄い人がいたんだなぁ」と、妙に感心(?)してしまったのです。
ある意味、そのまま切り込んで討ち死にするより余程勇気が必要な行動ですので(笑)

一応、彼は殺されずに戦後は生き残ったらしいです。
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犬侍。 (麁鹿火)
2008-01-08 20:28:33
D&Dさん、あけましておめでとうございます。

島津四郎左衛門、それは印象に残りますねえ。
判断の速さも戦士には必要な能力だと思うのですが、新田義貞は賞賛されて島津が罵詈雑言というのは、いささか、、、、 しょうがないですね。でもその勇気はなかなか。

鎌倉攻めの場面はどこも胸に迫ります。人が死ぬ場面ばかりなので読み続けるのがつらいです。
私が印象に残っているのは塩田陸奥入道の家人の狩野五郎重光でした。
北条氏の一族の塩田の一家は全員自害して死ぬのですが、入道だけは最後に一族の菩提のために経を読み始めます。入道が信頼して後のことを任せた狩野は、「敵が近づいてきました!」とウソを言って入道の読経を中断させ、自害させます。そのあと狩野は主人の鎧や兜や刀を剥ぎ取って、急いで屋敷の中の財宝を全部奪って姿を消してしまう。しかし、この話を聞きつけた敵方の船田入道が怒り狂って狩野を探し出し、首を刎ねてしまうのです。
狩野・工藤・伊東の名のつく者で卑怯な死に方をした物はいないのに~~
不思議なのは太平記でこの出来事を「不思議な出来事」として記していることです。何が不思議なんでしょう?
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