モーセは民衆と主との間に立つ中間管理職である。
主がいる前提で読むならば、それが『出エジプト記』の率直な感想だ。
と同時に、カリスマ性はありながらも、民衆を押さえつけるほどの権力までは持たない、やや弱い支持基盤の指導者モーセの苦労が感じ取れる内容でもあった。
モーセは緩やかな民族主義者だったのだろう、と読んでいて思う(民族主義という概念が近代的という指摘は置いておいて)。
かつてモーセは同胞を助けるため、支配者であるエジプト人を殺害した。
それは彼がエジプトに支配されていることに心のどこかで反発していたからだろう。そして同胞を助けたいと思う程度にユダヤ人としてのアイデンティティを持っていたのではないか。
そういう民族主義的な側面があるからこそ、モーセはユダヤ人を導く指導者となり、エジプト脱出という業をなせたのだと思う。
しかし指導者になったがゆえに、モーセは常に下からの批判にさらされる。
そして下からの批判をかわすために、上との交渉を常に余儀なくされているのだ。
エジプトの王を説得するところからして大変で、同情する他ない。
ファラオ目線で見れば、ユダヤ人解放はもってのほかだろう。下手をすれば反乱の危険が増すだけでしかない。
そんなモーセの説得に耳を傾けないファラオのもとに、数々の災厄が舞い降りる。
たぶんすべては偶然だったに違いない。
だがモーセはそういった不幸な自然現象を利用して、ユダヤ人解放をはかったのではないか。
けれどファラオはあくまで頑なでモーセの意見を撥ねつけていく。
初見だとファラオの頑固っぷりに苦笑するのだが、あるいはファラオは、災厄とユダヤ人の解放を不必要に結び付けたがるモーセにうさん臭さを感じていたのかもしれない。
ファラオは迷信におびえる家臣たちよりもよっぽど現実的に考えており、預言的な言葉をくり返すモーセを正確に観察していたのかもしれない。
そうしてなんやかんやあって、モーセはユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出する。
しかし苦難は続くわけで、エジプトを出たところで、ユダヤ人が安住できる場所はなく民衆は不満を募らせていく。民衆の意見としては妥当なところだ。
モーセとしてはそんな民衆の不満は脅威だったに違いない。
いつか民衆たちの反逆を受け、指導者の立ち位置から引きずり下ろされるかもしれない。そんな怯えさえあっただろう。彼の支持基盤はおそらく弱かったであろうから。
そんなモーセが取った戦略こそ、主から選ばれたことの強調だったのではないだろうか。
エジプトを出て不満を募らせる民衆に、モーセは主の命をことさらに強調して十戒を定め、主を祀るための細かな規定を定めていく。
正直後半の細かすぎる規則には読んでいてうんざりしたし、何でここまでちまちま定めるのだろう、とあきれながら読んだ。
だけどそこにこそモーセの意図はあったのではないか、と今となっては思う。
そんな細則を積み重ね義務化し、長年にわたって維持するうちに、それは絶対的なものになっていったであろうからだ。
そうなれば主の権威は否応なく増したにちがいない。
つまり常に反抗しがちな民を結集するために、モーセたちは神という権威を利用し、その強制性を生み出すために規定を定めた。そう思うのだ。
そう考えると、モーセってのはやはりひとかどの人物と思うのだ。
自然現象を利用して、それをユダヤ人解放に利用したり、主の権威付けを行なうことで、民衆の結束を企図する。
それは並大抵の能力ではできっこない。相当程度のカリスマ性があったことだろう。
その解釈が正しいか、正しくないかは別としても、ユダヤ人の行動原理をここまで細かく定めた点は、当時の支配者層の苦労を見るようでもあった。
そしてこれだけの細かい規定を定めて、民衆を支配しようとする手法に、宗教が持つ危うさも見る思いがするのである。
『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
『聖書(新約聖書) 新共同訳』
『創世記』
『出エジプト記』
主がいる前提で読むならば、それが『出エジプト記』の率直な感想だ。
と同時に、カリスマ性はありながらも、民衆を押さえつけるほどの権力までは持たない、やや弱い支持基盤の指導者モーセの苦労が感じ取れる内容でもあった。
モーセは緩やかな民族主義者だったのだろう、と読んでいて思う(民族主義という概念が近代的という指摘は置いておいて)。
かつてモーセは同胞を助けるため、支配者であるエジプト人を殺害した。
それは彼がエジプトに支配されていることに心のどこかで反発していたからだろう。そして同胞を助けたいと思う程度にユダヤ人としてのアイデンティティを持っていたのではないか。
そういう民族主義的な側面があるからこそ、モーセはユダヤ人を導く指導者となり、エジプト脱出という業をなせたのだと思う。
しかし指導者になったがゆえに、モーセは常に下からの批判にさらされる。
そして下からの批判をかわすために、上との交渉を常に余儀なくされているのだ。
エジプトの王を説得するところからして大変で、同情する他ない。
ファラオ目線で見れば、ユダヤ人解放はもってのほかだろう。下手をすれば反乱の危険が増すだけでしかない。
そんなモーセの説得に耳を傾けないファラオのもとに、数々の災厄が舞い降りる。
たぶんすべては偶然だったに違いない。
だがモーセはそういった不幸な自然現象を利用して、ユダヤ人解放をはかったのではないか。
けれどファラオはあくまで頑なでモーセの意見を撥ねつけていく。
初見だとファラオの頑固っぷりに苦笑するのだが、あるいはファラオは、災厄とユダヤ人の解放を不必要に結び付けたがるモーセにうさん臭さを感じていたのかもしれない。
ファラオは迷信におびえる家臣たちよりもよっぽど現実的に考えており、預言的な言葉をくり返すモーセを正確に観察していたのかもしれない。
そうしてなんやかんやあって、モーセはユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出する。
しかし苦難は続くわけで、エジプトを出たところで、ユダヤ人が安住できる場所はなく民衆は不満を募らせていく。民衆の意見としては妥当なところだ。
モーセとしてはそんな民衆の不満は脅威だったに違いない。
いつか民衆たちの反逆を受け、指導者の立ち位置から引きずり下ろされるかもしれない。そんな怯えさえあっただろう。彼の支持基盤はおそらく弱かったであろうから。
そんなモーセが取った戦略こそ、主から選ばれたことの強調だったのではないだろうか。
エジプトを出て不満を募らせる民衆に、モーセは主の命をことさらに強調して十戒を定め、主を祀るための細かな規定を定めていく。
正直後半の細かすぎる規則には読んでいてうんざりしたし、何でここまでちまちま定めるのだろう、とあきれながら読んだ。
だけどそこにこそモーセの意図はあったのではないか、と今となっては思う。
そんな細則を積み重ね義務化し、長年にわたって維持するうちに、それは絶対的なものになっていったであろうからだ。
そうなれば主の権威は否応なく増したにちがいない。
つまり常に反抗しがちな民を結集するために、モーセたちは神という権威を利用し、その強制性を生み出すために規定を定めた。そう思うのだ。
そう考えると、モーセってのはやはりひとかどの人物と思うのだ。
自然現象を利用して、それをユダヤ人解放に利用したり、主の権威付けを行なうことで、民衆の結束を企図する。
それは並大抵の能力ではできっこない。相当程度のカリスマ性があったことだろう。
その解釈が正しいか、正しくないかは別としても、ユダヤ人の行動原理をここまで細かく定めた点は、当時の支配者層の苦労を見るようでもあった。
そしてこれだけの細かい規定を定めて、民衆を支配しようとする手法に、宗教が持つ危うさも見る思いがするのである。
『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
『聖書(新約聖書) 新共同訳』
『創世記』
『出エジプト記』