牡丹に蝶のブログ

政治・経営・宗教的な話に興味があります。過去から現在までの出来事とかを綴ってみたいなと思います。

原発さえなければ…

2016-02-27 21:00:09 | 社会




原発事故5年 散らばったランドセル、積み上がる黒い袋…一時帰宅に同行して見たものは


産経新聞2月27日14時22分配信



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160227-00000526-san-soci


 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もなく5年となる。いまだに立ち入りすら制限されている「帰還困難区域」に指定されている福島県大熊町へ2月、地権者の男性の一時帰宅に同行させてもらった。主を失った住宅は荒廃が進み、子供たちの声の聞こえなくなった教室には"あの日"のまま、 ランドセルやノートが散らばっていた。除染廃棄物の黒い袋が積み上がるこの場所に、人の気配が戻るのはいつになるのだろうか。 (緒方優子)


■防護服姿でケートの内側へ


「はい、富岡」 「O ・5 (マイクロシーベルト) 」


 午前10時すぎ、大熊町へ向かう車内。ハンドルを握る男性が通過した地点を告げると、後部座席の友人が測定した放射線量を読み上げる。常磐道を走る車窓から、所々に除染廃棄物の黒い塊が目に入る。


 50代の男性の家は、福島第1原発から約2キロの距離にある。結婚後、初めて建てた「マイホーム」。その家で子育てもした。仕事で転勤を重ねたが、定年後は夫婦でゆっくりと大熊で暮らしたい。そんなささやかな夢は、原発事故で遠のいた。


 男性は事故の5カ月後から、知人らとともに定期的に一時帰宅を続け、 自宅と周辺の放射線量の測定を続けている。家にはもう住めないかもしれないが、 この地域がどう変化していくのか、 どこへ向かっているのかー。その手がかりをつかむための「定点観測」に、 1年前から同行させてもらっている。


 高速道路のインターチェンジ(I C) を降り、 スクリーニング場で許可証を提示していつもの"装備"を受け取る。白いキャップに、 防護服とマスク。足下は布とビニールカバーで2重に覆い、手にも綿手袋の上からゴム手袋をつける。汚染を区域外に持ち出さないようにするため、装備は厳重だ。スクリーニング場には数名のスタッフが待機し、手続きや着替えの手伝いをしてくれる。女性スタッフが多いのが印象的だ。


 国道6号から脇道に入り、警備員のいるゲートを超える。 この先が、 「帰還困難区域」だ。



■「娘と通った」道、乱れた教室、朽ちていく家…


 男性が一時帰宅で必ず立ち寄るのが、 自宅から車で10分ほどの大熊町立熊町小だ。 「昔、娘とこの道を歩いて通ったんだよ」。道中、 そう教えてくれた。


 小さなグラウンドには、草が背丈ほどに伸び放題になって枯れていた。校舎のアスファルトの隙間からも草が伸び、 5年という月日の長さを改めて感じた。


 窓越しに教室の中を見ると、床にはランドセルやノートが散乱し、机の上には開かれたままの辞書が置かれていた。事故前、熊町小には3OO人以上の生徒が在籍していたという。 ここにいた子供たちはあの日、 どんな混乱の中にあったのだろうか。今、避難先でどんなふうに生活しているのだろうか。


「たくましく」


 こう刻まれた石碑の近くには、ひっそりと梅の花が咲いていた。


 昼過ぎ、男性の家に到着した。 2階建ての家と庭を今、支配しているのは、植物だ。庭にはツタ性の植物がはい回り、家の外壁やひさしにまで伸びている。


 家の1階のガラス戸は割れ、和室の網戸も倒れている。不在の間に何者かに石を投げ込まれたといい、修復してもまた壊されたため、今はそのままになっている。家の中に入ると、湿った空気とカビの臭いが鼻をつく。瓦が落ちた屋根からの雨漏りは次第に激しくなり、 2階の床が腐食して1階まで崩れ落ちた。天井板はほとんどはがれ落ち、 階段には、動物のふんも転がっている。


「はじめに1人で来たときは、気が狂いそうになったよ」。男性は、放射線量の測定を続けながら、 当時の思いをそう打ち明ける。


 1階の居間と廊下を仕切る扉の枠に、 「H(平成) 9」 「H10」いくつも刻まれた印があった。 「これはね、娘の身長」と、男性がうれしそうに指さした。変わり果てたように見える家の中にはまだ、あちこちに家族の大切な思い出が残っている。



■廃棄物の黒い袋がぎっしりと



 男性の家は、福島県内の除染で出た汚染土などを長期保管する「中間貯蔵施設」の建設予定地内にある。実施主体である国と地権者との交渉が進まず、 これまでに取得できたのは用地全体(1 600ヘクタール) の1%未満にとどまっているが、予定地内には県内各地から次々と汚染土が運び込まれている。

 この日も、 除染廃棄物を運ぶ大型トラックがひっきりなしに行き来し、 昨年4月にはがらんとしていた保管場には、黒い袋がびっしりと積み上げられていた。 「いつまで来られるか、わからないな」。男性は、 そう思い始めている。


 帰還困難区域に入るたびに、着実に何かが変わってきていることを肌で感じる。


 ただ、 これが「復興」に向かっている町の光景なのだろうか。だとすれば、一体誰のための「復興」なのだろうか。


 間もなく事故から5年。住民不在の町はまだ、将来像を描けずにいる。
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確か 富岡町にも
廃棄物の黒い袋が
びっしりとありますよね

上空から
富岡町の映像を見た時は
衝撃を受けました…。


最初は 何の映像か分からず
道路を舗装しているのかと
思ったくらい
黒い袋がアスファルトに
見えたのですから…。


原発事故から5年…


行き場所のない
汚染廃棄物がびっしり…


復興すらままならない
被災地の現状を
政府は
どう思っているのでしょうか?


原発事故が起きたという現実
消す事の出来ない事実

時計の針を戻すことなど
出来ない現実

原発さえなければ
原発事故など
起きなかったという現実


原発事故が起きたのに
何が楽しくて
原発を続けるのでしょうか?

原発を推進し続ける人達は
原発をやめることが
被災地や被災者への
責任のとり方なのでは
ないでしょうか?





















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