しかし外国映画の字幕を見てていつも思うんですけど、
たとえば電話の相手とか、画面に写ってない人物のセリフを斜体で表記しますよね。
ああいうのって各社で申し合わせて決めたものでもなかろうに、
誰かが工夫したのを、こりゃ便利やと皆で使うようになっていつの間にか定着したんでしょうねえ、おそらく。
いったい誰が最初にこの斜体を用いたんでしょうか?
その人はひょっとして映画の字幕を見るたびに、
「あれは最初に俺が使ってんで、エライやろ~」
って心のなかで思ってるんでしょうかねえ。
まあそれはいいんですけど、ただよくわからないのは、
歌詞の字幕にも斜体を用いること。
あれは何でなんでしょうねえ?
どうして歌と普通のセリフを区別する必要があるのか、よくわからんのですわ。
ミュージカル映画の場合、地のセリフからだんだんと歌に移っていく場面なんかもあって、
そんなの厳密にここからが歌ですよって区別できないやろに、
それでも律儀に斜体を用いたりしてるの、よくわからんのですよねえ。
という話題をネタ振りとして、さて本題は「レ・ミゼラブル」。
この映画って、ほとんどのセリフが歌なんですよねえ。
別にストップウォッチで計測したわけやないけど、たぶん9割以上が歌やないでしょうか。
それやのに本作の字幕には斜体がまったく使われてないんですよねえ。
もし定石どおりにすると、ほとんどが斜体になってしまってわずらわしいからってんでしょうか、
まあそれでなんの差し支えもないと思いますけども、
しかし本作の冒頭、重労働を科せられてる囚人がいきなり歌いだしたのには、
ちょっと驚いてしまったんですよねえ。
僕はこのミュージカルの舞台版も見てて、歌ばっかりやでって知ってたはずやのに、
それでも驚いてしまった自分に驚くと言うか、
いや、舞台を見たと言っても学生のころやからもう20年以上前のことで、
ダブルキャストの誰が出てたのとか、まったく覚えてないんですわ。
覚えてることと言えば、そのときはある女性と一緒に行ったんですけど、
まだそんなに親しい仲ではなかったのに、中華料理屋さんに行って、
彼女が残した点心をもらったことぐらいで、
ちょっとみっともなかったかなあ……って、そんなことはどうでもよくって、
だから舞台版と映画版の比較とかも出来ないし、
原作も読んでないので大したことは言えないんですけど、
それでもね、これは声を大にして言いたいですわ。
ものすごく面白かった!
でも原作の小説も、それを基にしたミュージカルもともに高い評価を得てて、
それを映画化するっつったらよく出来て当たり前、
もしも何か拙いところでもあったらぼろっかすに叩かれるもんで、
興行的なことは抜きにして作り手にとってはリスクが大きいと言うか、
いや逆にチャレンジングな題材ってところでしょうか、
それに果敢に挑んだのはトム・フーパー。
先に触れた冒頭の場面、囚人の歌に驚いたと書いたけど、
もっと細かく言うと違和感を感じたってところでしょうか。
カメラが高いところからぐぅ~~~っと降りてきて、
囚人のアップになって、そして歌いだす、という手法。
舞台版で出来ないことをやろうという魂胆が見え見えすぎると言うか、
そのCGまるわかりのカメラワークがこの題材に適してると言えるのか……と、
そんな違和感が漂ってたかのような冒頭でして、
で、この囚人がご存知ジャン・バルジャンで、
やがて彼が改心を誓う場面、
ここも彼の歌とともにド派手なカメラワークが見られたりして、
でもまあこのころにはそれなりにドラマに惹き込まれてたんで、そんなに違和感は覚えることもなく、
面白く見ていくとやがて……
先に書いたようにセリフの大半が歌で、
だからほぼ全編なにかしらの音楽が鳴ってるんですよね。
ところがある場面、ふっとそれが途切れるんですよ。
しばらくの無音状態。
その静寂からやがて歌いだすアン・ハサウェイ。
彼女のソロ・パートを捉えるカメラは顔の超アップ。
スクリーンに大写しになる彼女の表情。
大きな目をいっぱいに見開き、
大きな口を裂けん限りに広げて歌い上げるアン・ハサウェイ……
もうここで完全に心を鷲づかみにされてしまいましたよ。
だいたい顔のアップの多用というのはテレビ的とか揶揄されることが多くて、
とくに評論家からは馬鹿にされがちなんですよね。
逆にロングショットの長回しなんかをありがたがる傾向があったりして、
その点、本作は適度なカット割りを用いて、
さほど凝った演出を施してるわけではないけど、
ただソロ・パートになるとこれが一転、
歌い上げる役者の姿を出来るだけ長回しで、出来るだけアップで写し出すんですよね。
そもそも舞台と映画のいちばんの違いは臨場感でしょう、
映画がどれだけがんばっても、目の前でナマの役者が演技してる臨場感には敵うわけがない、
しかしこうやって役者に迫ることで、
歌い上げる役者の力強さを目いっぱいに見せることで、
ナマの舞台に負けずとも劣らない迫力を伝えてくれているんですよね。
役者の力、歌の力。
それはもうひとつ、この物語の歴史的背景にも言えることで、
だいたいこのフランス革命以降の政治体制ってころころ変わりおるんですよね、
王政復古とか第三帝政とか。
現在は確か第五共和制って呼ぶんでしたっけ、
で、本作も長い年月にわたるお話やからその辺の変化もドラマの背景にあって、
原作ではたぶんその辺がみっちりと書き込まれてるんでしょう。
聞いた話では、下水道を通って逃げる場面では、
フランスの下水道の歴史が延々と書き連ねられてるとか。
それであんな大長編になったんかいなって感じですけど、
とにかく大きな要素であるはずの政治体制が、
ところが本作を見ててもまったくわかりませんよねえ。
なんか知らんけど叛乱してるわ、ぐらいのことしかわかりませんよねえ。
いや、これはお恥ずかしい話なんでしょうけど、
でもそんなことわからなくてもものすごく楽しめるんですよね。
それはやっぱり歌の力が大きいからでしょう、
彼らが集って歌い上げるあの力強さがたっぷりと伝わるから、
なんか知らんけど応援せずにはいられなくなってしまうし、
そしてこの終盤で用いられるド派手なカメラワークも効果的に感じられたりするんですよねえ。
おそらくは原作は多彩な登場人物たちを通してフランスの歴史を描いたものなんでしょうけど、
本作はそれとは逆に登場人物たち、そのドラマに的を絞って、
キャラクターの魅力、演じる役者の魅力、そして歌の魅力を描き尽くし、
スケールの大きさを充分に味あわせてくれる堂々たる大作、
豪華絢爛という言葉が本当に相応しい……それもそのはず、
ヒュー・ジャックマンもラッセル・クロウもオーストラリア出身やから
「豪」華なのは当たり前、
いやもうとにかくたっぷり満足させてくれる、
文句なしの「!」な作品でした。
たとえば電話の相手とか、画面に写ってない人物のセリフを斜体で表記しますよね。
ああいうのって各社で申し合わせて決めたものでもなかろうに、
誰かが工夫したのを、こりゃ便利やと皆で使うようになっていつの間にか定着したんでしょうねえ、おそらく。
いったい誰が最初にこの斜体を用いたんでしょうか?
その人はひょっとして映画の字幕を見るたびに、
「あれは最初に俺が使ってんで、エライやろ~」
って心のなかで思ってるんでしょうかねえ。
まあそれはいいんですけど、ただよくわからないのは、
歌詞の字幕にも斜体を用いること。
あれは何でなんでしょうねえ?
どうして歌と普通のセリフを区別する必要があるのか、よくわからんのですわ。
ミュージカル映画の場合、地のセリフからだんだんと歌に移っていく場面なんかもあって、
そんなの厳密にここからが歌ですよって区別できないやろに、
それでも律儀に斜体を用いたりしてるの、よくわからんのですよねえ。
という話題をネタ振りとして、さて本題は「レ・ミゼラブル」。
この映画って、ほとんどのセリフが歌なんですよねえ。
別にストップウォッチで計測したわけやないけど、たぶん9割以上が歌やないでしょうか。
それやのに本作の字幕には斜体がまったく使われてないんですよねえ。
もし定石どおりにすると、ほとんどが斜体になってしまってわずらわしいからってんでしょうか、
まあそれでなんの差し支えもないと思いますけども、
しかし本作の冒頭、重労働を科せられてる囚人がいきなり歌いだしたのには、
ちょっと驚いてしまったんですよねえ。
僕はこのミュージカルの舞台版も見てて、歌ばっかりやでって知ってたはずやのに、
それでも驚いてしまった自分に驚くと言うか、
いや、舞台を見たと言っても学生のころやからもう20年以上前のことで、
ダブルキャストの誰が出てたのとか、まったく覚えてないんですわ。
覚えてることと言えば、そのときはある女性と一緒に行ったんですけど、
まだそんなに親しい仲ではなかったのに、中華料理屋さんに行って、
彼女が残した点心をもらったことぐらいで、
ちょっとみっともなかったかなあ……って、そんなことはどうでもよくって、
だから舞台版と映画版の比較とかも出来ないし、
原作も読んでないので大したことは言えないんですけど、
それでもね、これは声を大にして言いたいですわ。
ものすごく面白かった!
でも原作の小説も、それを基にしたミュージカルもともに高い評価を得てて、
それを映画化するっつったらよく出来て当たり前、
もしも何か拙いところでもあったらぼろっかすに叩かれるもんで、
興行的なことは抜きにして作り手にとってはリスクが大きいと言うか、
いや逆にチャレンジングな題材ってところでしょうか、
それに果敢に挑んだのはトム・フーパー。
先に触れた冒頭の場面、囚人の歌に驚いたと書いたけど、
もっと細かく言うと違和感を感じたってところでしょうか。
カメラが高いところからぐぅ~~~っと降りてきて、
囚人のアップになって、そして歌いだす、という手法。
舞台版で出来ないことをやろうという魂胆が見え見えすぎると言うか、
そのCGまるわかりのカメラワークがこの題材に適してると言えるのか……と、
そんな違和感が漂ってたかのような冒頭でして、
で、この囚人がご存知ジャン・バルジャンで、
やがて彼が改心を誓う場面、
ここも彼の歌とともにド派手なカメラワークが見られたりして、
でもまあこのころにはそれなりにドラマに惹き込まれてたんで、そんなに違和感は覚えることもなく、
面白く見ていくとやがて……
先に書いたようにセリフの大半が歌で、
だからほぼ全編なにかしらの音楽が鳴ってるんですよね。
ところがある場面、ふっとそれが途切れるんですよ。
しばらくの無音状態。
その静寂からやがて歌いだすアン・ハサウェイ。
彼女のソロ・パートを捉えるカメラは顔の超アップ。
スクリーンに大写しになる彼女の表情。
大きな目をいっぱいに見開き、
大きな口を裂けん限りに広げて歌い上げるアン・ハサウェイ……
もうここで完全に心を鷲づかみにされてしまいましたよ。
だいたい顔のアップの多用というのはテレビ的とか揶揄されることが多くて、
とくに評論家からは馬鹿にされがちなんですよね。
逆にロングショットの長回しなんかをありがたがる傾向があったりして、
その点、本作は適度なカット割りを用いて、
さほど凝った演出を施してるわけではないけど、
ただソロ・パートになるとこれが一転、
歌い上げる役者の姿を出来るだけ長回しで、出来るだけアップで写し出すんですよね。
そもそも舞台と映画のいちばんの違いは臨場感でしょう、
映画がどれだけがんばっても、目の前でナマの役者が演技してる臨場感には敵うわけがない、
しかしこうやって役者に迫ることで、
歌い上げる役者の力強さを目いっぱいに見せることで、
ナマの舞台に負けずとも劣らない迫力を伝えてくれているんですよね。
役者の力、歌の力。
それはもうひとつ、この物語の歴史的背景にも言えることで、
だいたいこのフランス革命以降の政治体制ってころころ変わりおるんですよね、
王政復古とか第三帝政とか。
現在は確か第五共和制って呼ぶんでしたっけ、
で、本作も長い年月にわたるお話やからその辺の変化もドラマの背景にあって、
原作ではたぶんその辺がみっちりと書き込まれてるんでしょう。
聞いた話では、下水道を通って逃げる場面では、
フランスの下水道の歴史が延々と書き連ねられてるとか。
それであんな大長編になったんかいなって感じですけど、
とにかく大きな要素であるはずの政治体制が、
ところが本作を見ててもまったくわかりませんよねえ。
なんか知らんけど叛乱してるわ、ぐらいのことしかわかりませんよねえ。
いや、これはお恥ずかしい話なんでしょうけど、
でもそんなことわからなくてもものすごく楽しめるんですよね。
それはやっぱり歌の力が大きいからでしょう、
彼らが集って歌い上げるあの力強さがたっぷりと伝わるから、
なんか知らんけど応援せずにはいられなくなってしまうし、
そしてこの終盤で用いられるド派手なカメラワークも効果的に感じられたりするんですよねえ。
おそらくは原作は多彩な登場人物たちを通してフランスの歴史を描いたものなんでしょうけど、
本作はそれとは逆に登場人物たち、そのドラマに的を絞って、
キャラクターの魅力、演じる役者の魅力、そして歌の魅力を描き尽くし、
スケールの大きさを充分に味あわせてくれる堂々たる大作、
豪華絢爛という言葉が本当に相応しい……それもそのはず、
ヒュー・ジャックマンもラッセル・クロウもオーストラリア出身やから
「豪」華なのは当たり前、
いやもうとにかくたっぷり満足させてくれる、
文句なしの「!」な作品でした。