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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

劇団民藝の「ある八重子物語」

2021年06月22日 | 観劇など

井上ひさしの後期の芝居はかなり見たが、いくつか未見作品がある。「ある八重子物語」もその一つだ。これはこまつ座でなく、1991年の初代水谷八重子十三回忌追善新派公演のために書かれた作品だ。「八重子物語」というのだから樋口一葉、太宰修、石川啄木、林芙美子と同じような評伝劇かと思ったらそうではなく、また「化粧」や「黙阿彌オペラ」のように芝居をテーマにした作品でもなかった。

チラシの「あらすじ」を転載する。
神田川が隅田川へと流れこみ、花街として栄えた柳橋。舞台は、昭16(1941)年から敗戦直後の昭21(1946)年にかけての柳橋・古橋医院。ここに集う人びとは、水谷八重子に心酔する古橋院長を筆頭に、事務方、看護婦、女中まで全員が大の新派マニア。患者の身の上話もたちまち「婦系図」風の筋書きに。そこへ八重子そっくりの「音楽のような声」をもつ芸者花代が登場、恋愛事件もわきおこって大騒動。はたまた「女形の研究」に熱中するあまり、入営日に寝過ごし徴兵忌避者になってしまう大学生もからんで……。

3幕構成で、1幕は太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年9月下旬、2幕は学徒出陣開始直後の1943年12月上旬、3幕は戦後の1946年3月3日、水谷八重子は戦災で45年5月熱海に転居したが46年2月新派に復帰した。場所はいずれも柳橋の古橋医院、浅草橋駅から300-400m東側、隅田川方向に歩いた場所で鋼鉄橋の柳橋のすぐ近くだ。ほとんどは医院のお茶の間(上手)とお勝手(下手)だが、ときおり柳橋の橋上が舞台になる。
登場人物は、まず古橋医院の院長・健一郎(篠田三郎)、事務長の倉田大吉、看護師の佐久間たつ子、女中の田中お清、この4人はそろって新派の大ファンだ。近所の芸者置屋の女将・お浜(日色ともゑ)と三姉妹のような芸者、月乃・ゆきゑ・花代(有森也実)、月乃の夫で腕のいい大工・高瀬力太郎、ゆきゑの弟で京都大学文学部で女形の研究をする竹内一夫、姉弟は金沢出身。戦時中は浅草橋駅駅員で戦後は芸者を志す神谷光子、一夫を亡き姉の生き写しと思い込んだ神田の紙問屋経営者・池田徳三、地域の巡査・笹原、女形の練習に励む新人俳優・小森新三、その他若手芸者の節子・順子・正子、着付けの3人の男性と総勢20人にも及ぶ。
しかし肝心の八重子は出てこない。八重子の熱烈なファンの医師と新派好きの3人のスタッフ、そして新派の芝居を地で行く人生を送る芸者や男たちの芝居だった。

1929年に架橋された現在の柳橋
3幕ものだが、各幕締めの少し前に柳橋の場が出てくる。一度幕を閉じて場を変え、数人の黒子が幕の前面に橋の欄干を持ち走ってくる。1幕の主役は月乃で「月の柳橋」、2幕の主役はゆきゑで「雪の柳橋」、3幕の主役は花代で「花の柳橋」と、しっかり組み立てられている。もちろんどの幕も細かくしっかり構成されている。全部で2時間55分、幕間に各10分の休憩があるとはいえ長い作品だ。しかし、笑えるシーンが多くそれほど長く感じなかった。
一方で井上戯曲なので、骨っぽい部分ももちろんある。たとえば2幕で紹介される一夫の200字詰め原稿用紙1800枚の大論文「女形の研究」だ。一夫は、女形の歴史を4つに分類する。第一期は江戸時代で幕府の禁令のため男が女を演じることになり、芳沢あやめなど名女形は四六時中女に成りきる生活を過ごす。二期は明治の九代目団十郎の時代で、舞台の上で女になる「技術」が大事、舞台以外はどんな生活をしてもよいという考え方だ。三期は新派の女形で、現実の女よりはるかに美しく見せる演技術を編み出した。たとえば、女性は驚くと両手を少し左胸にもっていくが、女形はその小さな動きを誇張して演じる(p134 集英社版単行本 1992.3 ページ数は以下同様)。そして四期は新劇出身の水谷八重子の時代だ。女形は本当は女でなく男なので、演技に矛盾が表れることもある。八重子にはそれが気になった。新派の女形が発見した女らしさの演技を今度は女優がつくると、どうなるのか。西欧近代劇の素養をもつ「女優」と新派の女形芸との闘いから新たな演技が生まれると分析する。そして八重子の「世の中がいまより少しでもましになりますように」という言葉をアピールし、「女優」という新しい職業の確立を目指したとする。(p107-112、131)
また「嘘は嫌いだ、姉さんは」というセリフも強烈だった(p95)。学徒出陣で横須賀の海軍に入営するため3年ぶりに会った弟に姉・ゆきゑが放ったセリフだ。じつは金沢の陸軍入営を寝過ごし、しかし「論文を完成させてから死ぬがよい」という啓示を受け、続きの1000枚以上の原稿を書いたことを「白状」する。
20人もの登場人物がいるので、次から次へと新たなネタが繰り出される。たとえば一夫と笹原巡査は「きらめく星座」の陸軍脱走兵の長男・正一とマムシの憲兵伍長・権藤と同じ関係設定でそれだけで笑える。細部までしっかり書かれ、かつ構成の破綻もない。よくできている作品だと思う。しかし「こまつ座」で見慣れた井上芝居と比べると、鋭さがもうひとつ欠けるように感じた。
「きらめく星座」(1985)を含む昭和庶民伝三部作(85-87)よりはあとで、「夢の泪」(2003)を含む東京裁判三部作(2001-06)よりは早い時期に書かれた。そういう過渡期の時期の作品だからかもしれない。偶然かもしれないが後述の「シャンハイムーン」と同じ1991年の作だ。
残念ながらわたしは新派の芝居を観たことがない。「滝の白糸」「婦系図」あるいは「不如帰」を一度でも見ていれば、ずいぶん感想が違ったかもしれない。

紀伊國屋サザンのなかの掲示板。井上の芝居が3本もある

今回の芝居は劇団民藝こまつ座の共同制作である。どういう分担になっているのかはわたくしにはわからない。キャストは客演の有森也実以外は民藝所属、スタッフリストをみると演出・丹野郁弓をはじめほとんど民藝演出部と制作部の所属だ。
民藝の芝居を観るのははじめてのことだった。さすが62年の伝統をもつ劇団、みな発声も演技もしっかりしている。そのうえチームワークもよい。その他大勢的な役もしっかりしていた。
丹野郁美・演出作は、「シャンハイムーン」(2010年)の三演のときに一度観た。10年以上前なのでほとんど記憶に残っていないが、かつて「夫を『先生』と尊敬しつつ厳しいこともいう許広平(有森也実)と、しっかりものだがじつは夫を立てることお優先する内山みき(増子倭文江)の女性2人の性格づけはよくできていた」と感想を書いているので、役の個性をしっかり彫り出す演出だったのだと思う。
公演パンフで丹野は「シャンハイムーンの時は枝葉の部分をそぎ落としていく方向だったが、今回は総花的な芝居なので、一つ一つの塗りを少し強くしないと、賑やかにならない」と語っている。なるほどと思った。ただ2幕の柳橋の場で、シナリオにはない千人針を挿入していたが、これは演出のし過ぎではないかと思った。

長くこまつ座の芝居を見てきたので、民藝との違いもいくつか気がついた。
わたしには笑う場面が多かった。たとえば「ねえさんの手は(略)白魚というより白糸のようだった。それがいまは荒れに荒れて卸金(おろしがね)のよう」「黒くてきれいだったねえさんの髪も、いまではスズメのお宿のよう」「絹豆腐のようだったお顔の肌が、いまではがんもどきのよう」という花代のセリフ(p45)にも、わたしはいちいち声を上げて笑ってしまった。しかし周りのひとはあまり笑わない。その代わりというか、カーテンコールなどの拍手は多い。
シナリオのト書きに、幕開きに「なにか懐かしい女性の歌声(1幕p9、3幕p171)とある。おそらく「美しい」水谷八重子の声だろうと思う。しかしそういう音楽はなかった。1幕は朝ドラのテーマのような音楽、2幕は行進曲風の音楽、3幕はホームドラマ風の音楽だった。八重子が出てこないのだから、せめて声だけでもレコードなどの音源でよいので、聞きたかった。宇野誠一郎なら、なにか工夫しそれらしい音楽を付けてくれたと思うが・・・。

柳橋町内にある篠塚稲荷神社。玉垣には朝汐太郎の名も。右手路地が花街っぽい
役者では、篠田三郎(健一郎役)の思慮深いインテリぶり、有森也実(花代役)の元気いっぱいで考え方もポジティブシンキングな芸者役はもちろんよかった。日色ともゑ(お浜役)は、わたしにとって朝ドラ「旅路(1967)の有里さん以来だったが、可愛いおばあちゃんになっていた。その他、藤巻るも(看護師役)、中地美佐子(女中役)がいい味を出す演技をしていた。「父と暮らせば」でみた梅沢昌代を思い出した。久しぶりの観劇なので、昔のいろんなことを思い出す。女形のみやざこ夏穂の演技をみていて、昔つかこうへいの劇団にいた知念正文(その後、石丸有里子と劇団鳥獣戯画を結成)のことを思い出した。
なお、なんといってもありがたいのは、この時期はまだ緊急事態宣言発令中だったが、芝居を観られたことだ。ホールが小さいこともあるのだろうが、1席ずつ空けたりせず、ほぼ8-9割客が入っていた。ただコロナ感染予防のため会場整理のスタッフの人数は相当多かった。劇場運営も大変だ。

柳橋から上流を臨む。屋形船や船宿がたくさん見える
☆戯曲の最後のセリフは、柳橋の上での花代の「ええ、あたし、やっぱり、柳橋が好きだわ(p222)だ。
柳橋は30mほどの長さのアーチ形の鋼鉄橋だ。神田川にかかっているが、中央区と台東区の区境だ。また隅田川にかかる両国橋まで50mほどの場所だ。1887年に鋼鉄製になったが関東大震災で落ちた。その後1929年永代橋のデザインを採り入れ再び完成した。91年に土木遺産として整備され99年に中央区の区民有形文化財に登録された。橋から上流をみると、いまも船宿と屋形船が並んでいるのがみえる。
柳橋は、こまつ座を始めたころの妻・好子の実家があった場所で結婚当初井上もこの家に住んでいた。3人姉妹も柳橋で生まれ、その後千葉県市川に転居した。そしていまこまつ座事務所があるのも柳橋だ。9階建てマンションの5階に入っている。地下1階に「洋食 大吉」という店が入っているのですぐわかる。

こまつ座事務所があるマンション
近くには「天龍下れば」などで有名な歌手・市丸邸もあり、いまはルーサイドギャラリーというカフェバーになっている。もちろんかつては花街だったのだろう。公演パンフに「柳橋散歩」という地図があり「現在まで残っている置屋跡」があったが、いまは見当たらなかった。どうやら14階建てマンション新築工事をしている場所にあったようだ。
また町内には小さな篠塚稲荷神社があり、玉垣には、寄付をした東京柳橋組合、協和銀行柳橋支店のほか日本相撲協会の名まで刻印され、朝汐太郎の名もあった。


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