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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

古関裕而旧居跡を訪ね、代田周辺を歩く

2020年08月02日 | 都内散策
NHK朝ドラ「エール」の主人公のモデルは作曲家・古関裕而(本名・勇治 1909-1989)だ。わたしの世代にとっては、なんといっても1964年の「オリンピック・マーチ」の作曲家であり、高校野球の「栄冠は君に輝く(1948)、NHKの「スポーツショー行進曲(1949)、「日曜名作座」テーマ曲(1970)、「ひるのいこい(1970)でも有名だ。ドラマのとおり福島市の生まれ育ちなので、福島市に古関裕而記念館があることは知っていた。しかし時期が時期なので、今は来訪しにくい。
だが考えてみると、古関の作曲家人生の大半は東京なので、東京で行けるところを探した。古関は、豊橋の内山金子(きんこ 1912-1980)と1930年6月結婚した直後、コロムビアとの契約が成立し9月に上京した。古関が21歳、金子が18歳のときだ。金子の義兄(姉・富子の夫、陸軍士官学校の理系の教授)が阿佐ヶ谷に住んでいたので、しばらく居候したが、金子が帝国音楽学校に入学することになり、世田谷代田に転居した。帝国音楽学校が代田にあったからだ。
以降、戦争末期の1945年5月末から46年ごろに福島に疎開した時期を除きずっと代田なので、どんなところなのか行ってみた。世田谷代田は小田急線下北沢の次の駅だ。当時の写真が、「『エール』 VS 本当の話」という古関の長男・正裕さん(1946生まれ)のブログに出ていた。またネット検索して「下北沢文士町文化地図(以下「文化地図」と略)というものを見つけた。じつに丹念にリサーチされ、よくできている。
まず、世田谷代田駅(当時は世田谷中原駅)ホームでの写真があったので、記念に現在のホームを撮ろうと思ったのだが、小田急の地下化に伴い、残念ながら地上のホームはなくなっていた。駅北側に帝国音楽学校があったはずなので、行って見た。ここは64号鉄塔のすぐ北側ということですぐわかった。いまは3階建てマンションになっていた。第一回卒業式の写真のバックに写っているのが校舎で木造2階建てに見えるが、45年の空襲で廃校になったのこともあり詳しいことはわからない。朝ドラでは土浦第一高校本館(1904年竣工 重要文化財)を使っていた。コラムニスト・能町みね子の出身高校だ。

帝国音楽学校跡地
駅の南側、環7沿いの代田八幡神社に回る。1591(天正18)年創祀と古い歴史があり、敷地も広く、伊勢神宮のような屋根の立派な社殿があった。小高い丘の上にあることもありかつては富士山がよく見えたらしい。石段を下り60-70m行ったところが、夫妻の初めの家の跡地だ。

初めの家の跡地はこのあたりだったはず
世田谷の新居近くにて」と「代田の新居の前でお隣さんと」という写真では田園地帯のなかのいわゆる文化住宅だが、90年後の現在もちろんそんなことはない。戸建ての多い住宅街である。下北沢とはずいぶん違い、駅周辺に大きな商店街はない。各駅停車しか停まらない駅だからかもしれない。

2軒目の家はこのあたりだったはず
2軒目の家は1軒目から100mほど南にある。すぐ近くに引っ越したわけだ。ただ、いつごろ引っ越したのは私にはわからない(ネットでは1947-49年の間という情報もあるのだが、跡地の場所そのものが違っているので、よくわからない)。
戦時歌謡「露営の歌(1928)、「愛国の花(1928)、「暁に祈る(1940)、「若鷲の歌(1943)などは古関の曲として有名だが、「七生報国(1941)、「嗚呼神風特別攻撃隊(1944)、はては「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出て来りゃ地獄へ逆落とし」の「比島決戦の歌(1945)まで作曲していたことを「古関裕而――流行作曲家と激動の昭和(刑部芳則 中公新書 2019)で知った。刑部は「エール」の風俗考証を担当する歴史学者だ。

ここから環7を渡り、300-400m東に歩いたところに古関との名コンビ菊田一夫(1908―1973)の旧居跡があった。敗戦直後からNHKラジオで「鐘の鳴る丘(1947.7.5-50.12.29)、「さくらんぼ大将(51.1.4-52.3.31)、「君の名は(52.4.10-54.7.4)と次々に名作をつくりだし、大ヒットさせた。歌謡曲では古関と「雨のオランダ坂(1947)、「フランチェスカの鐘(1948)、「イヨマンテの夜(1950)のレコードをつくった。演劇では古関が「敦煌」「蒼き狼」など150篇もの劇音楽を作曲した。
「鐘の鳴る丘」で菊田の台本が遅れ、生放送の時代だったので、放送開始3か月後くらいから古関自身がハモンドオルガンで即興曲並みの音楽を演奏することになった。
「さくらんぼ大将」の舞台は、古関一家が戦争末期に疎開した飯坂温泉から12キロほど山に入ったさくらんぼの産地・茂庭で、古関のアドバイスによるものだった。
53年3月に第4回NHK放送文化賞を菊田とともに受賞した。古関は「菊田さんの素晴らしい数々の放送劇のおかげで受賞したので感謝している」とあいさつした(自伝「鐘よ鳴り響け」1980.5主婦の友社 193p)
菊田の詩ではなくサトウハチロー作詞だが、「長崎の鐘(1949 歌・藤山一郎)も古関の戦後の曲のなかで有名だ。この曲について古関は、1975年2月のNHK「ビッグショー」で酒井弘アナウンサーに「若鷲の歌で戦地に多くの若者を送り出したことを思うと胸が痛む。『長崎の鐘』は原爆死した人だけでなく戦時下で亡くなった多くの人の霊を慰めるために書いた」と語った。古関の戦中と戦後の曲には大きな落差があるが、作曲者の胸中が窺える言葉である。

博物館に展示されている古賀政男邸(模型) 井の頭通には車が走り、小高い丘へのスロープも付いている。
代田から小田急線で3駅目、代々木上原の南100mくらい、井の頭通を渡ったところに古賀政男の屋敷を作り変えた古賀政男音楽博物館とJASRAC(日本音楽著作権協会)がある。古賀政男(本名・正男 1904―1978)は福岡県大川市出身、明治大学マンドリン倶楽部出身で、古関とほぼ同じ1931年に日本コロムビア専属となった。「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などがヒットした。戦後は「湯の町エレジー」「りんどう峠」「無法松の一生」「柔」「悲しい酒」などの名曲を発表した。朝ドラでは、木枯正人として登場する。
地図でみると敷地は東西70m、南北60mだが、「敷地面積3000坪」ともいわれたので、周囲のマンションもかつては古賀邸だったのかもしれない。屋敷は1938年に竣工した。模型が展示されていたがたしかに大きい。通りから上がった丘の上に屋敷があるが、博物館の2階から3階へのスロープが石畳を模したつくりになっていて、小鳥のさえずりや川のせせらぎの音が聞こえる。小林幸子、佳山明生などの弟子たちが坂を上がったのだろう。
延べ床面積367平方メートルの博物館は2階が「大衆音楽の殿堂」、3階が「古賀政男の世界」という構成になっていた(新型コロナのため閉鎖中だったが、地下に音楽情報室とカラオケスタジオ、3階に古賀メロディ試聴検索機もある)。
2階の「大衆音楽の殿堂」には日本の作曲家、作詞家、歌手、編曲家、演奏家など300人近いレリーフが壁一面に展示されていた。23年間の顕彰者のリストになっている。第1回(平成9年)は西條八十、藤浦洸、藤山一郎、美空ひばりら23人だったが、古関の名もあった。柱に最近の顕彰者、西城秀樹、さくらももこなどのCD、レコード、楽譜、イラスト、写真集などが展示されていた。一番近いところに西城秀樹の柱があり、たまたま「傷だらけのローラ」「若き獅子たち」などの音楽が流れていたので、てっきり最近亡くなった人を顕彰しているのかと思ったが、そうではなく一番最近(2019年)の顕彰者9人の作品を展示しているようだった。その他の人は作詞家・いではく、作曲家・すぎやまこういち、湯山 昭、歌手・忌野清志郎、眞理ヨシコ、編曲家・東海林修、演奏家・早川真平で、湯山や眞理のように存命の人もいる。
3階の「古賀政男の世界」には、古賀が作曲活動をした書斎、親しい人たちとの交流やくつろぎの場だった十畳と六畳の和室、グランドピアノがあるレッスン室が復元されていた。和室のテレビでは小林幸子の「古賀政男を語る」という45分ビデオが流れていた。
また企画展「古賀メロディーのデュエットソング」を開催中だった。古賀は「二人は若い」(ディック・ミネ、星玲子 1935)、「トンコ節」(楠木繁夫、久保幸江 1949)、「日の丸音頭」(加賀城みゆき、大川栄策 1970)など180曲近いデュエット曲を作曲した。もちろん西条八十の作詞が圧倒的に多く、サトウハチロー、丘灯至夫も何曲かあった。そのリストをみていて、作詞・野村俊夫(1904―1966)という名に気づいた。「エール」では村野鉄男という役名で出てくる、古関の家の真向かいに住んでいた幼なじみで先輩の作詞家だ。古関の初めてのレコード「福島行進曲」や伊藤久男(「エール」では佐藤久志)が歌った「暁に祈る」の作詞もした。一方で、ライバル古賀の曲も戦後1948年から57年にかけて何曲か詞を提供していた。

古賀政男音楽博物館  左がJASRAC
前述の「文化地図」がよくできていて、これがあれば、だいたいの跡地が発見できるだろうと思ってでかけた。ところがそう甘くはなかった。
地方なら、きっと観光資源として利用し、碑など立っていることが多いが、東京は有名人の数が多いので、そうはならない。地元の方と思われる方に聞いても、わからないことが多く、地図をみせても「ここにそんな人が住んでいたとは」と驚いたり、「もう何もないよ」といわれたりする。地番も番地の下の号番号までわからないと正確にはたどり着けない。
地価が高いので、1軒の家の敷地を3つくらいに分割して売っていることが多い。また坂が多い。地図は平面だが、東京は坂が多く代田もやはり坂が多かった。代田八幡から古関旧居跡もかなりの下り坂だが、菊田旧居跡もかなりの坂で上がったり下がったり何往復かして疲れてしまった。また世田谷は農地が多く、道がくねくねしているといわれるが、その通りだったし、行き止まりになっているところも多かった。
文士中心の地図だが、代田駅近くに作曲家・武満徹旧居跡(推定)があったので行ったが、3階建ての小さなマンションに建て替わっていた。また下北沢と井の頭線池ノ上の間に吉田正(1921―98)旧居跡があった。

「異国の丘」(1948)、「有楽町で逢いましょう」(1957)、「いつでも夢を」(1962)、「傷だらけの人生」(1970)などの作曲家だ。森巌寺と富士見丘教会の間のはずなので、ここも何度か往復した。運よく地元の方で、跡地を知っている方に行きあい、案内していただいた。「お子さんがいらっしゃらなかったせいもあり、3軒に分割されている」とのお話だった。その点では、古関旧居跡周辺は、協定でもあるのかもしれないが、1軒の敷地が結構広い住宅が並んでいた。道路も碁盤状にきちんと区画されていたので、高級住宅街なのかもしれない。
その他、新代田駅近くの日野啓三旧居跡や小田実旧居跡にも行ってみたが、収穫はなかった。

☆昼食を下北沢のキッチン南海で食べた。たぶん本拠地は学生街の神保町だ。この記事によれば各地にのれん分けした店があるようだ。下北沢の店はカウンターのみで5-6人しか座れないミニ店舗。高齢のマスターと見たところ娘さん2人の店。わたしはカツカレーにしたが、ハンバーグライス、豚しょうが焼きライス、エビフライライスなど40年前のメニューと変わらないし、味も昔のままだった。
さて、下北沢の駅は地下化され風景がすっかり変わっていた。かつて北口にあったゴミゴミしたマーケットは跡かたもなく更地になっていた。築地市場跡地を見るようで、やるせない。
一方、昔の高架下は「下北線路街」という街区を建設中だった。Hブロック(24区画)は来年3月開業予定と書かれていた。


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1 コメント

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Unknown (青木成夫)
2023-07-15 06:54:27
私は、昭和35年から代田2丁目23番地に住んでいました。古関裕而先生のお家前を通って踏切経由で下北沢まで通っていました。
近年、代田を訪れましたが、駅前も2丁目も変わってしまって居ましたね!
思い出すと、周辺には古関裕而邸、萩本欽一邸、キャンディズのミキちゃんのご実家と踏切の近くにありました。
懐かしい思い出に浸れました。
齢71の戯言でした。

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