(2023.06月作品)
鑁阿寺(ばんなじ)の看板が目に入った。栃木県のヘラブナ釣り場を渡り歩いている時のことだ。建久七年(1196年)、源姓足利氏二代義兼の創建という。寺とはいえ、周囲には土塁や堀が巡っていて平城と思える構えだ。日本の城百選の十五番目として登録されていた。隣には、同じ義兼の創建とも言われる、日本最古の学校、足利学校がある。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(1549年)に「日本国中もっとも大にして、もっとも有名な坂東の大学」と世界に紹介している。だからなのだろう、日本遺産第一号の「近世日本の教育遺産群」のなかで、水戸弘道館や、備前・日田の学校とともに登録されている。論語に代表されるように、儒学を中心としながらも、易学・兵学・医学など多岐にわたり、日本最古の総合大学と呼ぶにふさわしいものだったという。
こういった教育環境が日本中に広がり、世界でも類を見ない高い教育水準を実現した。礼節を重んじるという日本人の国民性が形づくられてきたのだろう。たしかに、現在の日本人の礼儀正しさは世界中で高く評価されている。
この足利学校では、今でも近隣の子供たちに、二度のタイミング、すなわち小学一年時と中学一年時に論語を素読させ、人間としての徳行や礼節の大切さを学ばせている。私も、小学生だった我が子三人に、大文字で書かれた「論語」を与え、素読に親しませていた。
しかし、現代では論語に接する機会がほとんどないように思える。「してはいけないこと」などを教える機会もない。昔は、倫理・道徳の授業は必須だった。それに、学校の先生に叱られるなど大変なことだった。親に言うものなら、さらに親に叱られたものだ。「先生に叱られるなんて、なんてことしたんだ!」と。
今では、学校で叱られたと言おうものなら、親が学校にねじ込んで文句を言う。それどころか先生に謝らせる。なんという時代になったのだろう。
もう二、三十年経つかもしれないが、品質データ改ざん問題で世間を騒がせた会社があった。それも、大企業だ。食品の会社でも、三重県や北海道の大店といわれるところが、こともあろうに、人間として考えられない違法なことをやっていた。こういった事件は挙げればきりがないほどだ。
昔から培われてきた日本人としての矜持はどこに行ったのだろうか。
私は、一時期、大径鋼管製造に携わった。石油・ガスの大量輸送手段であるパイプラインに用いられるために、鉄鋼製品のなかでも特に高品質を要求される。そのため、当時の品質管理としては最も厳しいISO9000が要求された。社として初めてのことだったが、大変な労力をかけ無事取得した。さらに、海外ユーザーが派遣してくる複数の検査官による、定期的な監査と日常的な二十四時間のチェックも受けた。それは厳しいものだった。私も、忙しい中その対応に追われ大変だったことを覚えている。
しかし、このISO9000の根底にあるのは、提示されるデータに「嘘偽りがない」ことだ。データの改ざんなどがあったら、それを見つけることは至難の業だ。ここに作業者の人間性、徳行・礼節が求められる。
昨今の、データ改ざんなどの報道を聞くにつれ、今の世相はどうなっているのだろうと寂しくなってしまう。しかし、これだけの話ではない。世の中では、お互いに見ず知らずの若者が、インターネットを通じて結託し、強盗殺人に手を染める。これなど「分からなければ、何やってもいいんだ」と全く同じだ。
こんなことを考えていたら、ある歌を思い出した。
「おもふこと つくろふことも まだ知らぬ をさな心の うつくしきかな」
明治天皇御製の歌だ。
育つほどに徳行・礼節が身についていく。生まれたときの素直さで育ってほしいと願うは、天皇だけではないだろう。良い方向に育つための副え木として「論語」などの教えに触れることは大切だと思う。
鑁阿寺(ばんなじ)の看板が目に入った。栃木県のヘラブナ釣り場を渡り歩いている時のことだ。建久七年(1196年)、源姓足利氏二代義兼の創建という。寺とはいえ、周囲には土塁や堀が巡っていて平城と思える構えだ。日本の城百選の十五番目として登録されていた。隣には、同じ義兼の創建とも言われる、日本最古の学校、足利学校がある。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(1549年)に「日本国中もっとも大にして、もっとも有名な坂東の大学」と世界に紹介している。だからなのだろう、日本遺産第一号の「近世日本の教育遺産群」のなかで、水戸弘道館や、備前・日田の学校とともに登録されている。論語に代表されるように、儒学を中心としながらも、易学・兵学・医学など多岐にわたり、日本最古の総合大学と呼ぶにふさわしいものだったという。
こういった教育環境が日本中に広がり、世界でも類を見ない高い教育水準を実現した。礼節を重んじるという日本人の国民性が形づくられてきたのだろう。たしかに、現在の日本人の礼儀正しさは世界中で高く評価されている。
この足利学校では、今でも近隣の子供たちに、二度のタイミング、すなわち小学一年時と中学一年時に論語を素読させ、人間としての徳行や礼節の大切さを学ばせている。私も、小学生だった我が子三人に、大文字で書かれた「論語」を与え、素読に親しませていた。
しかし、現代では論語に接する機会がほとんどないように思える。「してはいけないこと」などを教える機会もない。昔は、倫理・道徳の授業は必須だった。それに、学校の先生に叱られるなど大変なことだった。親に言うものなら、さらに親に叱られたものだ。「先生に叱られるなんて、なんてことしたんだ!」と。
今では、学校で叱られたと言おうものなら、親が学校にねじ込んで文句を言う。それどころか先生に謝らせる。なんという時代になったのだろう。
もう二、三十年経つかもしれないが、品質データ改ざん問題で世間を騒がせた会社があった。それも、大企業だ。食品の会社でも、三重県や北海道の大店といわれるところが、こともあろうに、人間として考えられない違法なことをやっていた。こういった事件は挙げればきりがないほどだ。
昔から培われてきた日本人としての矜持はどこに行ったのだろうか。
私は、一時期、大径鋼管製造に携わった。石油・ガスの大量輸送手段であるパイプラインに用いられるために、鉄鋼製品のなかでも特に高品質を要求される。そのため、当時の品質管理としては最も厳しいISO9000が要求された。社として初めてのことだったが、大変な労力をかけ無事取得した。さらに、海外ユーザーが派遣してくる複数の検査官による、定期的な監査と日常的な二十四時間のチェックも受けた。それは厳しいものだった。私も、忙しい中その対応に追われ大変だったことを覚えている。
しかし、このISO9000の根底にあるのは、提示されるデータに「嘘偽りがない」ことだ。データの改ざんなどがあったら、それを見つけることは至難の業だ。ここに作業者の人間性、徳行・礼節が求められる。
昨今の、データ改ざんなどの報道を聞くにつれ、今の世相はどうなっているのだろうと寂しくなってしまう。しかし、これだけの話ではない。世の中では、お互いに見ず知らずの若者が、インターネットを通じて結託し、強盗殺人に手を染める。これなど「分からなければ、何やってもいいんだ」と全く同じだ。
こんなことを考えていたら、ある歌を思い出した。
「おもふこと つくろふことも まだ知らぬ をさな心の うつくしきかな」
明治天皇御製の歌だ。
育つほどに徳行・礼節が身についていく。生まれたときの素直さで育ってほしいと願うは、天皇だけではないだろう。良い方向に育つための副え木として「論語」などの教えに触れることは大切だと思う。