トライ2おじさんの こんにちは!

サンデー毎日の生活。趣味(登山、剣道・釣り等)に忙しいおじさんです。
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論語の教え

2023-07-24 11:40:02 | エッセイ
(2023.06月作品)
鑁阿寺(ばんなじ)の看板が目に入った。栃木県のヘラブナ釣り場を渡り歩いている時のことだ。建久七年(1196年)、源姓足利氏二代義兼の創建という。寺とはいえ、周囲には土塁や堀が巡っていて平城と思える構えだ。日本の城百選の十五番目として登録されていた。隣には、同じ義兼の創建とも言われる、日本最古の学校、足利学校がある。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(1549年)に「日本国中もっとも大にして、もっとも有名な坂東の大学」と世界に紹介している。だからなのだろう、日本遺産第一号の「近世日本の教育遺産群」のなかで、水戸弘道館や、備前・日田の学校とともに登録されている。論語に代表されるように、儒学を中心としながらも、易学・兵学・医学など多岐にわたり、日本最古の総合大学と呼ぶにふさわしいものだったという。
 こういった教育環境が日本中に広がり、世界でも類を見ない高い教育水準を実現した。礼節を重んじるという日本人の国民性が形づくられてきたのだろう。たしかに、現在の日本人の礼儀正しさは世界中で高く評価されている。
この足利学校では、今でも近隣の子供たちに、二度のタイミング、すなわち小学一年時と中学一年時に論語を素読させ、人間としての徳行や礼節の大切さを学ばせている。私も、小学生だった我が子三人に、大文字で書かれた「論語」を与え、素読に親しませていた。
しかし、現代では論語に接する機会がほとんどないように思える。「してはいけないこと」などを教える機会もない。昔は、倫理・道徳の授業は必須だった。それに、学校の先生に叱られるなど大変なことだった。親に言うものなら、さらに親に叱られたものだ。「先生に叱られるなんて、なんてことしたんだ!」と。
今では、学校で叱られたと言おうものなら、親が学校にねじ込んで文句を言う。それどころか先生に謝らせる。なんという時代になったのだろう。
もう二、三十年経つかもしれないが、品質データ改ざん問題で世間を騒がせた会社があった。それも、大企業だ。食品の会社でも、三重県や北海道の大店といわれるところが、こともあろうに、人間として考えられない違法なことをやっていた。こういった事件は挙げればきりがないほどだ。
昔から培われてきた日本人としての矜持はどこに行ったのだろうか。
私は、一時期、大径鋼管製造に携わった。石油・ガスの大量輸送手段であるパイプラインに用いられるために、鉄鋼製品のなかでも特に高品質を要求される。そのため、当時の品質管理としては最も厳しいISO9000が要求された。社として初めてのことだったが、大変な労力をかけ無事取得した。さらに、海外ユーザーが派遣してくる複数の検査官による、定期的な監査と日常的な二十四時間のチェックも受けた。それは厳しいものだった。私も、忙しい中その対応に追われ大変だったことを覚えている。
しかし、このISO9000の根底にあるのは、提示されるデータに「嘘偽りがない」ことだ。データの改ざんなどがあったら、それを見つけることは至難の業だ。ここに作業者の人間性、徳行・礼節が求められる。
昨今の、データ改ざんなどの報道を聞くにつれ、今の世相はどうなっているのだろうと寂しくなってしまう。しかし、これだけの話ではない。世の中では、お互いに見ず知らずの若者が、インターネットを通じて結託し、強盗殺人に手を染める。これなど「分からなければ、何やってもいいんだ」と全く同じだ。
こんなことを考えていたら、ある歌を思い出した。
「おもふこと つくろふことも まだ知らぬ をさな心の うつくしきかな」
明治天皇御製の歌だ。
育つほどに徳行・礼節が身についていく。生まれたときの素直さで育ってほしいと願うは、天皇だけではないだろう。良い方向に育つための副え木として「論語」などの教えに触れることは大切だと思う。

無私の信心

2023-07-14 15:11:53 | エッセイ
 ご神木と言われる巨樹が神社にあるように、樹木には神仏が宿るといわれている。それらに寄り添うと、心が神妙になり思わず襟を正してしまう。なんだか命を吹き込まれるようでありがたく感じる。拝んでいれば、それなりの霊験にあずかれるだろうと思っていた。それに、剣道で礼節に馴染んでいるからか、稽古始めと終わりでの神棚への座礼を通して、神を常に意識する姿勢が醸成されてきたように思う。旅行のたびに、神にまつわる巨樹を中心にパワースポットを探すのは、私の習性になっていた。
 茨城県のパワースポット巡りをしたときだ。日本でも有数と言われるパワースポットがあった。御岩神社だ。ここのパワーがどれほどのものかを示す逸話がある。「とある宇宙飛行士が、宇宙から地球を眺めたときに、一箇所から強い光が見える場所があり、調べてみたらそこが御岩神社だった」という。本当かどうか分からないが、それほどのパワーがあるということだ。関東圏からだけでは無く、全国の人々から注目を浴びている。
白い鳥居をくぐり境内に入ると、参道の先にすっくと立派な杉の木が立ち上がっている。根元は一本の樹だが、地上3メートルほどのところから3本にわかれ、均等に真っ直ぐ天空へと伸びている。樹高50m、幹周り9m、推定寿命六百年とある。根元には苔がむしていて、幹周りに張られた太い綱がご神木であることを示している。ひんやりとした中に、いかにも神が宿る雰囲気があり、思わず手を合わせた。
 静岡県の熱海に行ったときにも、熱海来宮神社のご神木である「大楠」なる巨樹に出会った。樹齢2,100年以上と言われ、不老長寿・無病息災・心願成就の象徴として崇められている。樹高26m、幹周23・9m。ゴツゴツとした瘤とひんやりとした冷気に象徴される神々しさ。幹周りに人工の歩道が設えてあり、その歩道約60mを一周すると寿命が一年延びるとされ、さらに願い事を心に秘めながら一周すると、その願いが叶うとも言われている。ここでも目を閉じ両の手を合わせた。
 他にも、多くの巨樹がある。出会うたびに、神仏への感謝を心の中にしている。具体的なことを願うのではない。これからも、平穏無事・家内安全・無病息災などを心に浮かべ「よろしくお願いします」と祈るのだ。
話は変わるが、昨年12月の「山の会」の山行で、房総の伊予ヶ岳に行ったときのことだ。下山途中の岩場で、「アッ!」と背中の声を聞いた。驚いてすぐ振りかえると、目の前に、後ろ向きの人の黒髪とリュックが目に入った。思わず抱きかかえるようにして後ろ向きに崖側にひっくり返った。とっさのことで、余り記憶にないが、少しだが斜面を滑るようにズルズルと落ちた。意識的にはしっかりしていて、両手両足を広げるようにして「停まれ、止まれ」と念じたのだけは一瞬だが覚えている。そして幸運にも止まってくれた。
 この岩場では、これまで滑落事故で死んだ人は皆無だった。しかし、私たちの事故のほぼ1ヶ月後に、同じ岩場で滑落した人の死亡事故が発生していた。運が悪ければ、私も同じように死んでいたかもしれない。場合によっては、上から落ちてきた人と共に二人して死んでいてもおかしくなかっただろう。今更ながら、霊験あらたかなる神仏のご加護に心から感謝した。
パワースポットは巨樹ばかりではない。茨城の酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)は、椿を主としスダジイなどもある樹叢が名高く、鳥居の先の大海原の広がりも有名で、多くの参拝客がある。樹叢以外でも、境内の一角にある亀も有名だ。石造りの亀の周りにかなりの人だかりがあった。何か御利益があるに違いないと近寄ると、「宝くじ高額当選亀 なで亀」と大書してあった。さらに、「これまでの当選金額が三十億円越え」と記されている。これはすごいと、私たち夫婦も、なで亀の背中・頭・足・尻尾と、いたる所を強欲にも撫でまわして祈願した。しかし、強欲なお願いなんぞに目もくれないのが神仏なのだろう。そんなうまい話は無いのが常なのだ。
 わたしは、これまでの人生で何度も命拾いをしている。ありがたいことだ。欲得勘定でない無私のお願いだからこそ、霊験あらたかなる恩恵に浴しているのだろう。改めて神仏の存在に心から感謝している。