ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

05/03/25 『ミュシャ展』すべりこみで観てきました!

2005-04-13 21:26:05 | 美術・本
上野の東京都美術館で27日までということで開かれていた『ミュシャ展』、最終の土日を避けて夜7時まで開館している金曜日の夜、娘と観に行った。大体、しめしあわせたわけでもないのに母も娘も中学では美術部、高校では合唱部に入るという共通性があり、こういう話はすぐに一致する。一方、生徒会本部役員バリバリだった母に対して委員会活動など人の役に立つ活動にはすすんで参加しない娘という違いもあるのだが。

以下、Mucha(ムハ、フランス読みでミュシャ)の生涯を一通りたどる。
1860年に現チェコスロバキア共和国のモラヴィア地方に裁判所官吏の家に生まれ、教会の聖歌隊に入って歌っていた。教会のフレスコ画に影響を受け、聖歌集の表紙なども描いたりしている。変声期で聖歌隊をやめ、学業不振で学校もやめ、裁判所で働きながらデッサンに励んでプラハの美術アカデミーを受けるが不合格。1879年にウィーンに出て舞台装置などを製作する工房で働きながら、夜間のデッサン講座で学ぶ。工房の経営危機からミュシャは解雇され、肖像画を描いて生計をたてる。その中から貴族のパトロンを得てその援助でミュンヘンに留学し、1885年にミュンヘン美術アカデミーを受けて合格。卒業後にパリに出てやはりアカデミーで学びながら絵画制作を続けたが、1888年に援助を打ち切られ、雑誌の挿絵を描いたりして生計をたてる。
そしてついに1894年末のクリスマス休暇でいなくなった画家のピンチヒッターとして描いたサラ・ベルナール出演の『ジスモンダ』のポスターが評判になり、サラと6年間の契約をかわし、次から次へと仕事が入り、芝居や商品広告のポスター、装飾パネルなどを続々と製作し、ミュシャ様式を確立。アールヌーヴォーの旗手となり、10年間パリでの絶頂期を築く。アメリカからの招待を受け渡米。
パリやボヘミアに戻ったりしながらも1910年までアメリカに滞在。そこでの仕事の目的は自分のライフワークを故国で行うための資金調達だった。1910年にプラハに戻った彼は後半生を故国のために捧げた。自国の歴史を絵で表現する「スラヴ叙事詩」シリーズの制作や、1918年に独立したチェコスロバキアのために国章のデザインや切手のデザインなども含めて様々な仕事をして、1939年に没した。

パリのアールヌーヴォーを担った頃のミュシャの作品は、いずれの場合も画面の中央に美しい女性像、その後ろには光背のような円形があり、幾何学的アラベスク模様と女性の長い髪の流れるような曲線、上下には文字というミュシャスタイルを確立して、大成功した。純粋に芸術的な手法ではなく、商業用の美術関係で働いたことのあるミュシャだから表現できたのだろうと思う。サラの舞台のポスターの連作は芝居好きの私にはたまらない。特に好きなのは「ハムレット」で黒い衣裳で男装のサラの決然とした美しさが迫ってくる。
この時代の作品が今の日本でも女性を中心に強く支持されていると思う。私もかなり好きだ。殺伐とした気分になっている時にこのあたりの絵=四季や花のシリーズの装飾パネルの作品などのようなロマンチックな絵を見ると暖かい飲み物を飲んでくつろいだ時のようになごんだような気持ちが湧いてくる。こういう絵をたくさん生み出した彼の功績は大きい。
さらにそういう成功をおさめながらもミュシャは、常に心の奥を描くような作品や宗教書の挿絵を描くことにエネルギーを注いでいたということ、後半生をライフワークにかける意欲を早くから持って計画的に資金も調達したりパトロンを得る努力をしていたことなども今回あらためて知り、志を高く強く持ちながら長く生きて活躍できた一人の芸術家の一生を感嘆せずにはいられない。
   
写真は展覧会の入り口のパネルより:「四季」の装飾パネルの『夏』。