ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】自分たちで生命を守った村

2006年08月16日 19時01分18秒 | 読書記録2006
自分たちで生命を守った村, 菊地武雄, 岩波新書 (青版)668(F10), 1968年
・舞台は山奥の僻村である岩手県沢内村。主人公は1957~1965年の八年間の村政で村を救った深沢晟雄(まさお)村長。その村長と共に活動した著者によるドキュメント。おそらくは著者にとって生涯唯一の著作。不器用ながらも、なんとしてもその活動を記録に残し、広く伝えたいという意気込みがヒシヒシと伝わってくる文章です。
・「要約すれば、深沢村政は、安い労働力(人間としてではなく)の給源地でしかなかった乳児多死の農村を、健康的な住みよいわれらの村、人間としての生活のできる村、そのような村に取り戻そうとしての村造り運動でした。いわば人間復帰の村ぐるみの闘いであったということができます。」p.ii
・「深沢さんの政治に対する考え方は、政治というものは"住民に公平に幸福を与えねばならない。その基本はなんといってもまず健康を守ることだ"ということであり、そのためにこそ教育行政も農林行政もあるのだ、という考え方でした。」p.4
・「対立候補はいろいろと盛り沢山の公約を掲げたのに、深沢さんのはたったひとつ"私は村びとの命を守る!"でした。」p.13
・「九戸郡山形村においては、昭和8年に生まれた赤ちゃん225名、うち103名はその年のうちに死んでいきました。現在(昭和41年)の乳児死亡率(出生千対)は全国平均で18.5ですが、当時の山形村の場合は457.8で、今日の全国水準の実に24.7倍ということになります。」p.32
・「多くの部下を死なした自分の余生を、ひとりでも多くの人命を助ける仕事に努力することで……、阿部君はそう考えていたに違いありません。なぜなら、そうとでも考えねば納得ゆかぬものがあったからです。」p.69
・「ですから深沢さんはめったなことで村を離れようとしなかったのでしょう。それは、住民との心の触れ合いを欠いたところに、地方自治などあろう筈がない――、深沢さんはこう考えていられたからだと思います。」p.80
・「また昭和31年度の寄生虫の検査では、小学校の陽性率57%という驚くべき状態で、また目の検査では、トラコーマを持っている者320名で、全体の22%を占めているというありさまでした。」p.107
・「肝腎なことは、自分で自分なりの疑問を抱かなければ、つぎの調査、そして研究というふうに進展していかないからだというのです。資料まとめ、計画、行動、疑問、この一連の繰り返しの中に問題の掘り下げが出来て、活動にも身がはいってくるというのでした。」p.124
・「病気になった時だけ病院が必要なんではなく、病気にならないようにするのが病院の本当の役割なんだ、」p.135
・「大雪降のまっただ中、それも山の中でのお産である。夫はなす術を知らなかった。」p.163
・「深沢さんの望んだように、人間の営みの究極的目標は、福祉と厚生です。」p.200
・「ひとつの村が、その国の政治や経済の流れと無関係に存在することが不可能だ、ということです。独自の道を歩もうにもそこには自ら限界があると思うのです。」p.208
・「国の施策には土木、農林、教育、司法等とさまざまあるが、それら一切合切が、要するに人間の終局目的――二大本能(食欲と性欲)を充足させるための手段に過ぎない、というのです。」p.210
・「深沢村政の本質は、要するに人間疎外の生活から人間回復の道を目ざしてのものだった、といえないでしょうか。」p.210
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?かいしょう【海嘯】 満潮の際、暴風や海底の火山活動のために、三角形状になっている河口や水道などに海水が逆流し、狭い河口の抵抗のために起こる壁状の高い波。中国の銭塘口、英国のブリストル水道、南米のアマゾン河口のものが有名。
?よぜん【余喘】 1 今にも絶えそうな息をすること。死にそうで、なお息のあること。虫の息。  2 残り少ない余命。余生。残喘。

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