ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】解剖学個人授業

2009年03月09日 08時01分51秒 | 読書記録2009
解剖学個人授業, 養老孟司 南伸坊, 新潮文庫 み-29-3(6646), 2001年
・南伸坊の『個人授業』シリーズ第三弾、養老孟司を先生に迎えての解剖学講義。
・『解剖学』と聞くと、生物の体をメスで切り開いて、中がどういう仕組みになっているかを調べる学問というイメージでしたが、本を読んでみると話はそう単純ではないらしい。文中に「どこを探しても、「解剖学」などという「実体」が、現実にころがっているわけではない」の言葉があるとおりハッキリした答えは得られませんが、これは飽くまでも養老氏独自の解釈であり、教師が違えばまた全く別な答えが得られるのではと思います。養老氏の懐く解剖学を通した思想を語る部分が主な内容なので、解剖学についての系統だった解説書と思って手に取ると拍子抜けしてしまうでしょう。
・「笑うと、頭がはたらいてる気がする。笑った時に、人は何かを考えているというのが私の持論です。」p.9
・「解剖学というのは、そもそも、わかりたくてはじまったのである。自分のからだの中がどうなってるか解かりたい。字の意味を調べると、解も剖も分ける、分かつという意味だ。そうして、そもそもわかるというのは、分かるのだし、解かるのだ。」p.21
・「先生が、ここで何をおっしゃっているのかというと、人間は「なぜ解剖をはじめたか」ということなのだった。それは人間がことばを使うからである。ことばには、ものを切る性質がある、そして、人間は頭の中で考えたことを、外に実現する癖がある。しかるが故に、解剖ははじまったのだった。」p.27
・「人間の死体を解剖して、中身を見てみる。というのは、日本ではなんとなく禁じられていて、江戸時代のなかばまで、一人としてやってみようと思う人もなかったらしい。」p.46
・「私たち解剖と歴史のシロートは、日本の解剖学の始まりは、杉田玄白だと勘違いします。(中略)日本で初めて解剖をしてみたのは、山脇東洋という漢方医でした。」p.48
・「ともあれ歴史が面白くなるためには、自分自身に歴史ができてくる必要がある。以前は俺もそう考えていたんだけど、あの頃から考えが変わったなあ。それがないと、歴史は面白くならない。自分の考えが変わるということは、いわばそれ以前の自分が死んで、別な自分が生まれることである。それを何度かくり返すと面白くなる。ゲーテはそれを「死んで、生まれ変われ」といったらしい。」p.55
・「耳の進化っていうのは、よく理解されていない面が多いんですよ」p.62
・「やるべきこと、知るべきことが、解剖学というできあがった形で自分の外側に存在している。そう思っていたのがいけない。どこを探しても、「解剖学」などという「実体」が、現実にころがっているわけではない」p.69
・「形というのは、いろんなことを教えてくれる。解剖学というのは、形を考え、形に教えられる学問だということもできそうです。」p.78
・「真面目でなければ学者にはなれないが、真面目一方では、おそらく真の学問はできない。だから学者に学問ができないのかもしれない。」p.80
・「「キンタマはどうしてブラ下がってんだろ?」  と思っても、すぐにそれは「温度調節」のためだと、答えが用意してあって、そこで落着いてしまいます。  「それは解剖学的難問なんですよ」と、養老先生はおっしゃいます。それって?  「睾丸ですね、男の精巣。何で外にブラ下がっていなければならないか。(中略)温度調節説つまり温度が低くないと精子形成がうまくいかないというのは、多分、話が逆ですね。外に出て来てブラブラしてる結果として、低い温度が適温になったんだと」  そういえば、女の人のオッパイも、あれ膨らんでる必要ないっていいますね。」p.82
・「ポルトマンは形を二つに分けるんですね。フォルムゲシュタルトという風に呼んだ。フォルムというのは、機能的な形態。モグラの手とオケラの手が似てくるというのは、フォルムに近い。ところが、外の姿かたちを変えるゲシュタルトというのは、これはいろいろ違う。例えばバクの模様、あるいはクジャクの羽に出てくる目玉の模様とか、あんなものはゲシュタルトです。あれは見る相手を想定しないと全く意味のないものなんですね。バクの模様なんか、何であんな黒白の二色なのか、パンダもそう、わからないでしょう。」p.88
・「生物の信号の問題は、よくわからない。私の先輩は大学で解剖学を教えていたが、「こういうことは、よくわかっておりません」というのが口癖だった。(中略)余生があれば、私は信号の問題をもっと突き詰めてみたい。信号を受け取るのは、最終的には脳で、だからこれは脳の問題なのだが、信号にはいったいどういう必然性があるのだろうか。」p.92
・「「なんでかって、そりゃ、そういうふうになってるからさ」とすましてしまえない。なんで我々は美人を美しいと思い、赤ン坊をカワイイと思うのか?」p.95
・「形は信号機能を持っている。いままでの科学はこれを上手に取り扱っていない。(中略)信号機能の研究は、広義の情報科学に属する。この科学が自然科学か、人文科学か、社会科学か、よくわからない。私はこれを脳科学だと思っている。ただし、厳密な意味での情報科学は、まだできていないらしい。いまのところ情報科学は工学がほとんどで、生物などあまり扱われないのである。」p.104
・「たとえば僕は無限という概念を考えるんですよ。数学には無限という概念が絶えず出てくる。それじゃ、脳の中に無限があるのかって話になるでしょ。そうすると、どうもないような、無限を脳の中に持ち込むと、なかなか難しいような気がする。  脳は少なくとも『有限個』ですからね。」p.112
・「自然科学は実証そのもので、それ以外のものではない。頭のなかの規則と、外の世界の規則の対応を確認するのが、自然科学の役目なのである。それだけのことだが、それを知るのに、何十年かかかった。」p.114
・「ともかく、養老先生のアングルから見る、つまり解剖学のほうから、身体のほうからモノを見るっていう視点が、もっとも私たちに欠けていて、だからそれが「思いあたるフシ」がありながら、とても奇抜な見方に見えてしまう、ということなのだった。」p.46
・「ウィーン出身の哲学者カール・ポパーは、世界を三つに分けた。世界1とは、事物の世界、われわれがふつうに外界とよんでいる世界のことである。さらにポパーは意識というはたらきの世界を世界2、表現の世界を世界3と呼んだ。ポパーはこの世界3を、われわれの精神が生み出すものとした。」p.154
・「脳にはあるが、コンピュータにはないと、しばしばわれわれが考える「感情」、これはじつは脳という入出力系にかかっている重みづけなのである」p.163
・「現実とは、ある特定の重みづけをされた世界像である。  <入力系に基づいて、われわれの脳は世界像を形成するが、そのある一つに対して、究極の重みづけをする。それを私は現実と呼んだ。」p.164
・「私の考えでは、哲学というのは、自分が「死ぬ」ということの、わからなさをなんとかわかりたいという気持がさせるのであると思います。」p.173
・「結局私は、私にとって最良の先生に、最高の授業を受けたのにも拘わらず、何ひとつ、具体的には「うけうり」するほどの知識も身につけずに、こんなことになってしまったわけですが、なにかをわかることは、ものすごくたのしい、なにかをわかることは、ものすごくおもしろい、学問というのは「面白主義」だ! という、かわりばえのしない一つの歌を、さらに大声でがなりたてる自信を、植えつけていただいたような気がします。」p.177
・「この講義録を読んだら、脳はどこまでわかりましたか、などという馬鹿な質問はもうしないでください。学問に終わりはないのです。」p.180
・「養老 解剖で苦手なのは、脳と免疫です。形がないですから。」p.187
・「南 そういえばセミが病気になったっていうのも聞きませんね(笑)。出てきたと思ったらすぐ死んでしまう。そう考えると、ヒトの免疫は病気を防ぐというより治すという役割が強いみたいですね。
養老 病気になると、わけのわからない症状が出て困るから取り立てて病気と言ってますが、自分で治る場合がかなりあります。ぼくはかなりの割合が本当は「平気」なんじゃないかと思います。
南 医者に行かずに病気が治ったっていうのを特別なことのように思っちゃいますが、実は病気は自然になおるっていうのが常態で、そこをもっと早く治そうとか、痛かったりするのが嫌だからいろいろしてるんですよね。
」p.188
・「南 医者に診てもらえばそれだけで治っちゃう人もいるんじゃないですか。そうなるとほとんどフィリピンの心霊治療と同じレベルですね。
養老 だからぼくは癌の告知にあんまり賛成じゃないんです。医者にあと三ヶ月で死ぬっていわれたら、三ヶ月で死にますよ。特に日本人は律儀ですから(笑)。
」p.190
・「解剖学の方法論とは、形の解析である。」p.194
・「なぜ定年前に東大を辞めたのかと聞かれることがある。その理由は一つ、死体が自分に見えてきたからである。(中略)解剖をしているとき、なんとなく人間と思ってしまう。自分の手を握って自分を解剖している感じは、ある意味では自慰的な行為で、そこには、客観的な行為はなくなる。解剖の看板を下げているのに、その学問に対して客観性がなくなれば、それは嘘ではないかという気持ちになった。それが本音である。」p.201
・「社会的概念としての死が先行し、それを修正するものとして、生物学があとから生じたのだから、死の議論は社会的な側面が中心となって当然である。すでに述べたように、生物学は生死を完全には規定できていない。その意味でも、生死という話題は、社会的となるほかはない。医学・生物学の問題と、社会の問題が錯綜するところに、死に関する議論の困難がある。」p.207
・「死体にはじつは三つの種類がある。その第一は、自分の死体である。(中略)第二はきわめて親しい人、親子兄弟のような関係にある人の死体である。(中略)第三は、通常考えられている意味での「ふつう」の死体である。」p.210
・「幼い自分にとって、父親の死を完結させるべき行為として、「父にサヨナラを言う」ことがあったはずなのに、それを中断した。もちらん意識的に行ったことではない。しかし、結果として自分のなかに封印してしまったことになる。」p.213

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