新書百冊, 坪内祐三, 新潮新書 010, 2003年
・新書の読書案内。一般的に評価の高い本ではなく、著者の個人的趣向に基づいて選んだ百冊なので、かなり偏りのあるシブイ内容です。聞いた事も無い本ばかり登場します。私が新書を読み始めたのはいつ頃なのか記憶が定かではありませんが、おそらく本格的に読み始めたのは大学に入ってから。それからこれまでに読んだ量は、岩波新書100冊、講談社現代新書100冊、ブルーバックス100冊、その他100冊で大雑把にいって300~400冊くらいだと思います。それでも、本書の百冊とかぶったのは、渡部昇一『知的生活の方法』講談社現代新書、小泉信三『読書論』岩波新書とN.マルコム『ウィトゲンシュタイン』講談社現代新書の3冊だけ。残る97冊はまさに宝の山♪ おそらく、ひと昔前よりも現在の新書の出版数は増えているのでしょうが、内容の密度としては80年代以前は凄まじい濃度だったようです。現在入手困難な本も多そうですが、地道に見つけ出して "濃い" 時代の新書を味わっていきたいと思います。
・「『雍正帝』、『新唐詩選』、『中国の隠者』と岩波新書の中国物がここまで続いているが、それはあくまで偶然である。ただし、、かつての岩波新書の一つの伝統として京都大学文学部的教養主義があるから、中国物に力作が多かったのは事実である。」p.20
・「中公新書は岩波新書と比べてジャーナリステックな感じがした。レベルが低いというわけではないのだが、月刊雑誌(この場合でいえば『中央公論』?)の延長線上にあるような一種の「現場性」が感じられた。もちろん中公新書も当時、岩波新書同様、例えば京大系の学者が多くその執筆陣に加わっていたけれど、岩波新書の碩学に対して、中公新書は俊英という感じがした」p.25
・「その意味で『東京裁判』は私の、史実への興味を開いてくれた大事な一点かもしれない。 もっとも私は、この本の内容のあらかたを忘れてしまった。」p.27 「内容は忘れてしまったけれど、大きく影響は受けた」 これが "本の効用" の真髄のように思います。
・「これは誰しも経験があることだと思うけれど、試験前になると、試験勉強以外のことを猛烈に行ないたくなる。一種の自己逃避的気分から。 私の場合、それが読書だった。」p.37
・「面白くなかったといえば、岩波新書の井上清『日本の歴史』全三巻が予備校近くのお茶の水丸善や「代ゼミ・ライブラリー」に平積みされていて、とりあえず購入したけれど、全然面白くなかった。こんな本を通読したらまた歴史が嫌いになっちまいそうだと思った。」p.59
・「ところで、先の桑原武夫の書き出しは、こう続いていた。 竹越与三郎の『二千五百年史』は、すぐれた「歴史の本」である。いまから六十数年前、三一歳の青年によって書かれたこの若々しい日本国民の歴史にまさる通史は、まだ書かれていないといっても過言ではない。文語体でむつかしい漢字が多いが、もし表記法を少し改めるとすれば、A5判763ページの大冊がいまの読者にもじゅうぶん面白く読めるにちがいない。」p.68
・「著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである。その意味で、読書は、蕎麦を食うのに少し似ている。蕎麦というものは、クチャクチャ噛んでいたのでは、味は判らない。一気に食べなければ駄目である。すべての書物がそうだとは言い切れないが、多くの書物は、蕎麦を食べる要領で、一気に読んだ方がよいようである。」p.78
・「読書に目覚めた若者の常として、私も、その頃、量読を目指していた。速読のような「下らない」ことにはまったく関心がなかったが、とにかく量読を目指した。」p.78
・「『私の読書法』には他にも、中村光夫の「『悪の華』以後」や鶴見俊輔の「戦中・戦後の読書から」や開高健の「心はさびしき狩人」をはじめとして興味深い読書論が満載だった(この手の読書物のアンソロジーでこの本がベストだと思う)。」p.81
・「1980年代前半の講談社現代新書のアメリカ文化物は、今振り返ってもかなり充実していた。」p.101
・「私はいっぱしの読者家のつもりだった。かなりの本に、実際に目は通していなくてもそのタイトルぐらいには、つうじていると自負していた。しかし、『本の神話学』を読みはじめて、わずか数頁で、私のその自負心は打ち砕かれた。次から次へと知らない名前の著者や本が登場するから。」p.126 この本により、私も似たような感じを受けました。因みに大学生の頃に、当時大学図書館の司書だった山下敏明氏と話す機会がありましたが、その時もケチョンケチョンでした。
・「人はそれぞれ集中力を発揮する場所と対象があるが、私の場合に、それはむしろ本屋、古本屋めぐり、あるいは博覧会や音楽会のスケジュールを調整する方に発揮されたといえる。教科書型の勉強と、カタログ型の勉強の二つのスタイルがあるとすると、私の場合は、文句なしに後者に属する。教科書型は与えられたものをそのまま消化する能力であり、後者は選択型であるといえよう。」p.131
・「もっとも、最近は、そういうお得感を与えてくれる作家(作家性を持った作家)がめっきり減ってしまったのだが……。だから私は、以前ほど新書本読みに夢中になれないのかもしれない。」p.167
・「ウィトゲンシュタインという哲学者はとてもかっこ良い。その主著『論理哲学論考』(翻訳は大修館書店ほか)もかっこ良い。しかし私には『論理哲学論考』が殆ど理解出来なかった。いちおう哲学的読書も続けていたというのに。例えば、「語りえるものについてはすべて明確に語ることが出来る」だとか、「謎は存在しない」だとかといったアフォリズムめいた言葉は、たしかに深遠な響きがあったが、一方で、そんなのは当たり前じゃないかという気もした。」p.193
・「新書についてのこの書き下しを、本格的な計画や見取り図をもたず、一種の出たとこ勝負で執筆し終えた今、私は、一つの文化(活字文化あるいは書籍文化)の大きなサイクルが閉じようとしていることを実感している。」p.232
・「「新書」というメディアをテーマに、まさに「新書」という器で、私は、読書という時代を超えた文化や文化行為の力強さを、特に若い人たちに伝えるべく、この本を書いた。「時代を超えた」ということは、すなわち、どのような時代にあっても通用するという意味である。つまり、読書は死なない。」p.233
《チェック本》
大岡信『詩への架橋』岩波新書(黄)
丸山真男『日本の思想』岩波新書(青)
竹越与三郎『二千五百年史』講談社学術文庫
清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書297
現代新書編集部『書斎―創造空間の設計』講談社現代新書
N.ウェスト (訳)丸谷才一『孤独な娘』
中村雄二郎『術語集―気になることば 』岩波新書(黄)
中村雄二郎・山口昌男『知の旅への誘い』岩波新書(黄153)
生松敬三・木田元『理性の運命』中公新書
・新書の読書案内。一般的に評価の高い本ではなく、著者の個人的趣向に基づいて選んだ百冊なので、かなり偏りのあるシブイ内容です。聞いた事も無い本ばかり登場します。私が新書を読み始めたのはいつ頃なのか記憶が定かではありませんが、おそらく本格的に読み始めたのは大学に入ってから。それからこれまでに読んだ量は、岩波新書100冊、講談社現代新書100冊、ブルーバックス100冊、その他100冊で大雑把にいって300~400冊くらいだと思います。それでも、本書の百冊とかぶったのは、渡部昇一『知的生活の方法』講談社現代新書、小泉信三『読書論』岩波新書とN.マルコム『ウィトゲンシュタイン』講談社現代新書の3冊だけ。残る97冊はまさに宝の山♪ おそらく、ひと昔前よりも現在の新書の出版数は増えているのでしょうが、内容の密度としては80年代以前は凄まじい濃度だったようです。現在入手困難な本も多そうですが、地道に見つけ出して "濃い" 時代の新書を味わっていきたいと思います。
・「『雍正帝』、『新唐詩選』、『中国の隠者』と岩波新書の中国物がここまで続いているが、それはあくまで偶然である。ただし、、かつての岩波新書の一つの伝統として京都大学文学部的教養主義があるから、中国物に力作が多かったのは事実である。」p.20
・「中公新書は岩波新書と比べてジャーナリステックな感じがした。レベルが低いというわけではないのだが、月刊雑誌(この場合でいえば『中央公論』?)の延長線上にあるような一種の「現場性」が感じられた。もちろん中公新書も当時、岩波新書同様、例えば京大系の学者が多くその執筆陣に加わっていたけれど、岩波新書の碩学に対して、中公新書は俊英という感じがした」p.25
・「その意味で『東京裁判』は私の、史実への興味を開いてくれた大事な一点かもしれない。 もっとも私は、この本の内容のあらかたを忘れてしまった。」p.27 「内容は忘れてしまったけれど、大きく影響は受けた」 これが "本の効用" の真髄のように思います。
・「これは誰しも経験があることだと思うけれど、試験前になると、試験勉強以外のことを猛烈に行ないたくなる。一種の自己逃避的気分から。 私の場合、それが読書だった。」p.37
・「面白くなかったといえば、岩波新書の井上清『日本の歴史』全三巻が予備校近くのお茶の水丸善や「代ゼミ・ライブラリー」に平積みされていて、とりあえず購入したけれど、全然面白くなかった。こんな本を通読したらまた歴史が嫌いになっちまいそうだと思った。」p.59
・「ところで、先の桑原武夫の書き出しは、こう続いていた。 竹越与三郎の『二千五百年史』は、すぐれた「歴史の本」である。いまから六十数年前、三一歳の青年によって書かれたこの若々しい日本国民の歴史にまさる通史は、まだ書かれていないといっても過言ではない。文語体でむつかしい漢字が多いが、もし表記法を少し改めるとすれば、A5判763ページの大冊がいまの読者にもじゅうぶん面白く読めるにちがいない。」p.68
・「著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである。その意味で、読書は、蕎麦を食うのに少し似ている。蕎麦というものは、クチャクチャ噛んでいたのでは、味は判らない。一気に食べなければ駄目である。すべての書物がそうだとは言い切れないが、多くの書物は、蕎麦を食べる要領で、一気に読んだ方がよいようである。」p.78
・「読書に目覚めた若者の常として、私も、その頃、量読を目指していた。速読のような「下らない」ことにはまったく関心がなかったが、とにかく量読を目指した。」p.78
・「『私の読書法』には他にも、中村光夫の「『悪の華』以後」や鶴見俊輔の「戦中・戦後の読書から」や開高健の「心はさびしき狩人」をはじめとして興味深い読書論が満載だった(この手の読書物のアンソロジーでこの本がベストだと思う)。」p.81
・「1980年代前半の講談社現代新書のアメリカ文化物は、今振り返ってもかなり充実していた。」p.101
・「私はいっぱしの読者家のつもりだった。かなりの本に、実際に目は通していなくてもそのタイトルぐらいには、つうじていると自負していた。しかし、『本の神話学』を読みはじめて、わずか数頁で、私のその自負心は打ち砕かれた。次から次へと知らない名前の著者や本が登場するから。」p.126 この本により、私も似たような感じを受けました。因みに大学生の頃に、当時大学図書館の司書だった山下敏明氏と話す機会がありましたが、その時もケチョンケチョンでした。
・「人はそれぞれ集中力を発揮する場所と対象があるが、私の場合に、それはむしろ本屋、古本屋めぐり、あるいは博覧会や音楽会のスケジュールを調整する方に発揮されたといえる。教科書型の勉強と、カタログ型の勉強の二つのスタイルがあるとすると、私の場合は、文句なしに後者に属する。教科書型は与えられたものをそのまま消化する能力であり、後者は選択型であるといえよう。」p.131
・「もっとも、最近は、そういうお得感を与えてくれる作家(作家性を持った作家)がめっきり減ってしまったのだが……。だから私は、以前ほど新書本読みに夢中になれないのかもしれない。」p.167
・「ウィトゲンシュタインという哲学者はとてもかっこ良い。その主著『論理哲学論考』(翻訳は大修館書店ほか)もかっこ良い。しかし私には『論理哲学論考』が殆ど理解出来なかった。いちおう哲学的読書も続けていたというのに。例えば、「語りえるものについてはすべて明確に語ることが出来る」だとか、「謎は存在しない」だとかといったアフォリズムめいた言葉は、たしかに深遠な響きがあったが、一方で、そんなのは当たり前じゃないかという気もした。」p.193
・「新書についてのこの書き下しを、本格的な計画や見取り図をもたず、一種の出たとこ勝負で執筆し終えた今、私は、一つの文化(活字文化あるいは書籍文化)の大きなサイクルが閉じようとしていることを実感している。」p.232
・「「新書」というメディアをテーマに、まさに「新書」という器で、私は、読書という時代を超えた文化や文化行為の力強さを、特に若い人たちに伝えるべく、この本を書いた。「時代を超えた」ということは、すなわち、どのような時代にあっても通用するという意味である。つまり、読書は死なない。」p.233
《チェック本》
大岡信『詩への架橋』岩波新書(黄)
丸山真男『日本の思想』岩波新書(青)
竹越与三郎『二千五百年史』講談社学術文庫
清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書297
現代新書編集部『書斎―創造空間の設計』講談社現代新書
N.ウェスト (訳)丸谷才一『孤独な娘』
中村雄二郎『術語集―気になることば 』岩波新書(黄)
中村雄二郎・山口昌男『知の旅への誘い』岩波新書(黄153)
生松敬三・木田元『理性の運命』中公新書
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