凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも西郷遣韓使節が実現していたら

2007年12月07日 | 歴史「if」
 ここしばらく、ずっと西郷隆盛という人物について考えている。
 この人は本当によくわからない。歴史上の人物で言えば、藤原仲麻呂や豊臣秀吉ら解釈に苦しむ人物は多いのだが、西郷どんは史料も多い近時代の人物であり、何故茫洋としてしまうのかもわからない。
 そのため、時間を見つけてはいろいろな本を読んだ。学者の書いた本から伝記、解釈本まで様々。それでもわからなくて、僕は歴史を考える際は小説を読まないようにしているのだが(作家のイメージが固定されるため)、例えば昔読んだ「翔ぶが如く」なども読み返してみた。しかしそれでも姿が浮かばない。司馬遼太郎さんもよくわからなかったのだろう。
 もう面倒になったので、まあわからないなりに書き出してみる。キリが無い。

 西郷隆盛でわからないと言われる最大の事柄は、歴史の表舞台に立って以来の、とくにその前半(討幕まで)と後半(西南戦争に敗れるまで)が、まるで人格が違ったように見えてしまう、ということだろう。
 西郷は、英明藩主として誉れ高い薩摩の島津斉彬に見出されて歴史の表舞台に出てくる。その後斉彬の死去(毒殺説あり)により一時失脚するが、嵐を呼ぶ幕末に再び要請されて復活、紆余曲折あるものの禁門の変、第一次長州征伐などで実力を発揮、薩長同盟を経て王政復古に尽力し、戊辰戦争の中心人物となる。
 ここまでは西郷の最も光り輝く経歴であり、確かに西郷なくして幕府の終焉はありえなかったかもしれない。時代のヒーローと呼んでいいだろう。
 ところが戊辰戦争が終結の後は、西郷は鹿児島に引っ込んでしまう。さも自らの仕事は終わったかのように。しかし明治四年、再び要請されて中央政府に登場、親兵を組織し廃藩置県を成し遂げる。その後岩倉、大久保、木戸らの外遊中は留守政府の首班として学制、徴兵令、地租改正など開明施策を次々と実現させるが、帰国した大久保らと征韓論を巡って対立、下野する(明治六年の政変)。しばらく沈黙の後、薩摩精鋭軍団を率いて西南戦争を起こし、敗れて自刃。
 駆け足で見た西郷の軌跡だが、こうしてみると実に精力的である。
 前半は、そのイメージに合わない陰謀家の一面もよく現れる。大政奉還後、公議政体派に巻き返しを食らうと「短刀一本で事足りる」と脅してひっくり返したり、江戸で幕府を挑発して鳥羽・伏見の戦いを誘発して徳川側を賊軍に仕立てるなど、かなりの策謀ぶりが伺える。
 後半生も字面を追えば頑張っているように見えるが、しかし実情は、「しょうがないからやるけど早く引っ込みたい」的な様相で、戊辰戦争終結後は中央政府に請われてもなかなか出馬せず、薩摩藩の副知事みたいな役職に就き、どうしてもと頼まれて廃藩置県から留守政府までは中央政界に居るが、それも開化政策は佐賀藩出身の秀才たち(大隈重信や江藤新平ら)がこなしたのであり、唯一主張した征韓論で大久保ら帰国組に敗れてまた政治の表舞台から消える、とされる。
 
 こんな話は歴史教科書的でもあり終わりが見えないので中断するが、中でもよくわからないのが「明治六年の政変」である。果たして「征韓論」とは何だったのか。それが実にわかりにくい。
 そもそも征韓論は、この時期に急に出てきたものではない。尊王攘夷運動のときから既にある。古来、日本は朝鮮半島を支配していたという主張(そんな事実を立証するのは難しいのだが)。神宮皇后が三韓征伐を成しえたという記紀の記述から、朝鮮を日本が支配することが従来の姿であるという我田引水の主張がなされていた。実際は白村江で敗れ秀吉の唐入りも失敗しているのだが、吉田松陰らは征韓論を自説とし、木戸孝允もかつては征韓論の先鋭的論者だった(これは後に変節する)。
 この明治初期の征韓論は尊皇攘夷的な無茶論ではなくなり、主として二点の理由から説明される。
 ひとつは「恐露」ロシアの南下政策への対抗である。ロシア国土膨張計画は凄まじく、既に日本は樺太を巡って対ロシア防衛対策を講じなければならないようになっていた。その生命線は満州であり、朝鮮半島は防波堤であるという考え。
 もうひとつは、朝鮮が維新政府と国交を結ぼうとしないという苛立ちである。対馬厳原藩を通じて徳川幕府とは付き合いがあったが、鎖国状態にある李氏朝鮮は開国路線をゆく明治政権を快く思わず、また明治政府が国交文書に「皇上」「奉勅」という言葉を遣い「天皇」を前面に押し出すことで、中国を唯一の宗主国と仰ぐ朝鮮は「他の皇帝」などというものは認められないという立場からさらに快く思わず国交を拒絶する。「日出処天子」だな。なので明治政府をシカトする朝鮮はけしからん、という観点である。

 だから朝鮮に攻め込んで平らげよ、が征韓論だが、こんな乱暴な主張が本当に西郷はじめ明治政府の主要メンバーに横溢していたのか。
 政府はともかくとして、在野に視点を向けると、西郷の懐刀とも言える薩摩近衛兵のリーダー、桐野利秋は「征台論」であったとの見方が坂野潤治氏からなされている。先走るが、後に薩摩兵の鬱憤晴らしとも言われた戦争が台湾出兵であったことはこのことを頷かせるに足る。また薩摩閥の有力者黒田清隆が開拓使長官であることから対露論を主張していたことは周知。薩摩閥において征韓論はさほど有力ではなかったとの見方も出来る。
 この当時の征韓論の出自はどこなのか。強硬主張は誰がしていたのか。そこがよくわかりにくい。板垣退助であろうとの見方も出来るが、板垣では全国的沸騰ということの想像がつきにくい。
 どうも征韓論は、例えば幕末の「尊皇攘夷」のようなスローガン的なものに過ぎなかったのではないかとも思えてくる。新政府へのさまざまな不満鬱屈がそのスローガンで代表されていたような。具体的なものではなかったのではないか。
 あるいは、「征韓論」などというものの存在は後付ではなかったのか。後に勝者が歴史を分かりやすく説明するための。実際は征韓論など存在しなかったのではないか(暴論)。

 少なくとも西郷隆盛が征韓論者ではなかった、ということは、もはや通説になりつつあるようにも思う。前述したように薩摩閥からの突き上げにも疑問符がつき、さらに西郷は政府内で一度も征韓を主張していない、という「事実」である(もう事実と言ってもいいだろう)。西郷は「遣韓論」だった。
 明治六年の四月くらいから、実際に釜山において日韓の摩擦もおこり、外務省が朝鮮対応策を要請、六月になって初めてこの朝鮮問題が閣議に諮られることとなる。
 板垣退助は派兵を主張した。しかしこれは居留民保護が主眼であり、最終的には討伐などではなく修好条約締結を目的にしていたとされる(だから板垣征韓論も疑問符が付くのだが)。対し西郷は派兵に反対、全権大使として自らが赴きトップ会談にて決着をつける、と主張する。しかも護衛なしに単身乗り込むと言う。
 この場面で、西郷を征韓論者であるとする見方の証拠になるものとして、西郷の板垣退助宛書簡というものがある。これは板垣に宛てて西郷が「自分が単身で乗り込めば必ずや朝鮮は自分を殺す(これにより征韓の理由付けが出来る)」と説く手紙であるが、これを持って確証とするのはどうだろうか。軍人板垣を自らの「遣韓大使」に賛成させるための方便であったようにも見える。情勢から言って、北条時宗が元の使者を切り捨てた頃とは時代が違うのだ。行けば必ず殺されるなどということはよっぽどのことを仕出かさない限りありえないように思うのだが。西郷は自らの死に場所を求めていた、というのはこの書簡からもよく言われることだが、それはちょっと乱暴すぎるのではないか。
 結局、西郷を征韓論者とする見方の証拠はこの板垣書簡しか見当たらないのである。
 それに、単身乗り込んで話し合い決着をする、というパターンは西郷の得意とするところである。江戸城無血開城を思い出す。「誠意を持って胸襟を開き話し合えば道は開ける」と西郷は本気で考えていたのでは、と考えられるし自信もあったのではないか。

 当時、西郷は留守政府の実質首班であった。太政大臣三条実美は居るのだが象徴的役割でしかない。この政府首班を派遣することに三条は難色を示し、あるいはそれ以前に日清修交条規を批准した副島種臣を推す意見もあり、政府は西郷大使派遣にすんなりとは決定しなかったが(この間の工作のために板垣書簡があるのではないか)、八月に正式派遣を決定し天皇に奏上する。
 
 西郷はこの派遣により日本を離れるについて、無責任であるとの意見もある。首班がカッコ書きにせよ死を賭して行こうとすることに。まだまだ問題積載の政府はどうなるのか。
 ここからは想像だが、僕はもしかしたら西郷の脳裏には既に大久保利通が居たのではないかと考えてしまう。大久保は遣欧使節団として外遊中であるはずだが(だから留守政府なのだが)、実は五月(征韓の件が朝議に乗る以前)、もう既に大久保は単身帰国しているのである。西郷遣韓で政府が揉めている間も沈黙を守りつつ待機している。
 薩摩藩時代から役割分担として西郷は外交官であり大久保は官僚だった。内政は一蔵どんにまかせれば良い、と考えたとしても不思議ではない(異論が出てきそうだけど)。西郷と大久保がこの頃連絡をとっていたという歴史的事実は無いが、もしかしたら通じていたのではないかという想像もしてみる。

 大久保は何を考えていたのか。 
 この当時、大久保は有り体に言えば遊んでいた。政府には参画していない。これは、入りたくても入れなかったのだとする説が多い。大久保は遣欧使節で特にこれと言った実績を残せず帰国している。それどころか、対米条約改正でヘタを打ち失敗している。結果外遊期間も延び、その間に留守政府が目覚しい国家建設を実現させていた。四民平等、法治国家建設、学制、地租改正、徴兵制。近代国家に日本を生まれ変わらせた政治の渦中に大久保は居らず、主として佐賀藩出身の秀才連がこれをやってのけている。ために、大久保は機会を狙っていたのだ、とする説。
 ある程度これは正鵠を突いているかもしれない。ただ、この近代化路線は廃藩置県をやった大久保が敷いていた路線であったとも言える。しかし思想的には少しく違いはあったかもしれない。
 これもよく言われる説だが、江藤新平との対立構造が強かったという説。肥前の大秀才であった江藤は、日本を欧米に対抗すべく法律の制定を徹底し、日本を冠たる法治国家にしようとしていた。もしもこのまま外遊が長引き留守政府がさらに政権を担当していたとしたら、江藤は憲法制定までやっていたかもしれない。
 ごく大雑把に言ってしまえば、江藤は共和制、議会制民主主義を目指しており、大久保は官僚主導の立憲君主制を想定していた。この対立構造について言及すると無限に話が伸びるので次回に回したいと思うが、対立構造は実際にあったと思う。日本国家をどういうかたちにしていくか、ということについての見解の相違が。
 江藤新平の薩長閥解体についての謀略というものもよく言われるところであるが、それはひとまず措く。少なくとも、江藤は大久保が設立しようとしていた「内務省」には反対だった。こういう内政の絶対権力を握る行政機関の出現には。

 大久保は、この江藤排除のためにおそらく征韓論を利用したのではないか。
 西郷はそのとき、江藤らに担がれている。彼らの薩摩閥分断作戦という見方も出来るが、大久保は逆に西郷を担がせるだけ担がせ、その西郷を人身御供にして切ることによって江藤の失脚を狙ったのだろう。江藤と正面対決をするよりはそちらの方が御しやすい。
 西郷は、それを分かっていたのかどうか。
 これはまた想像であるし歴史的検証もなにも出来ないのだが、西郷は最終的には承知であったのではないか。やはり大久保を信用していたのではないか。

 もちろん、そのときは西郷は本気で遣韓使節になるつもりだっただろう。表題にも書いたとおり、もしも西郷遣韓使節が実現していたとしたら、朝鮮とは修好条約を結べた可能性が高いとみている。これは対等な国家間条約。そうすれば、後の明治8年江華島事件によって結ばれる不平等条約などではなく、勝海舟や坂本龍馬が夢想した「日本・朝鮮・中国の東アジア三国同盟」に向かって進んでいた可能性もゼロではあるまい。後の日韓併合という不幸な出来事も起き得ず、日韓はもっと違った歴史を歩んでいたかもしれない。
 ただし、その場合は江藤ら佐賀藩閥の活躍もそのまま続くと考えられる。そうであれば、日本は(あくまで可能性だが)、こんな行政権の強い、天皇の権威を背景にした重い国家にはならなかったのではないか。この国家が、最終的には統帥権を生み出し第二次世界大戦まで行くのだ。あくまで極論だが、早い時期の憲法制定と国会開設、そして政党政治が花開いたかもしれないのだ。(もちろん必ずそうなるとは言っていない)

 大久保は、帰国した岩倉具視とともに遂に巻き返しに出る。主として工作は伊藤博文が担当する。後の史観で言えば、「征韓論派」「外征派」と「内治優先派」の争いということになる。こんなふうな色分けも勝者視点であるなとつくづく思う。外征派が派兵戦争を唱えてもいないし、内治優先派はこの政変後すぐに台湾出兵をやるのであるから。
 だが、この争いは外征派(つまり西郷)がいったん勝利を収める。大久保、伊藤の再三の工作にも関わらず、岩倉、そして三条が寝返り西郷遣韓を認めてしまうのだ。そして天皇に奏上、ということになる。
 ここから、史上まれに見る大久保の陰謀工作が始まる。大久保の日記にはただ「一の秘策あり」と記されている。
 
 大久保は、木戸、大隈重信らとともに辞表を提出する。三条や岩倉が撤回を要求しても全く応じない。また、西郷は「早く奏上しろ」と迫る。双方の脅し(強烈なプレッシャー)である。ここに至って、奏上すべき太政大臣三条実美はひっくり返ってしまうのである。昏倒、人事不省と言われる。一説には錯乱したとも。これで三条の奏上は不可能になる。
 三条はプレッシャーに負けた弱い公家だったのだろうか。いやしかし、三条には七卿落ちも経験し断固として考えを曲げなかった強い印象もある。もしかしたらこれは芝居ではなかったのか。
 だが、三条は策を弄さない清廉な印象もある。さすればこれは本当にぶっ倒れたのか。芝居でなかったとすれば、ここが歴史の分岐点であった。
 早速大久保、伊藤らは手を打つ。天皇に近いところに手を回し、右大臣岩倉を太政大臣代理として奏上させるように画策するのである。そして岩倉にはよく言い含める。つまり、朝議の決定とは異なるものを奏上させるのである。
 こういうことが許されるのかどうか。政治の暗黒面である。この謀議は、かつての王政復古時の数々の権謀術策を思い出す。

 西郷側も不穏な空気を読み取り、抗議に行く。岩倉邸には副島種臣、江藤新平、板垣退助、そして西郷。
 ここで岩倉は、朝議の結果如何ではなく自らの考えで奏上する、と、とんでもないことを言い出す。そして、「俺の目の黒いうちは勝手なことはさせんぞ」と歴史に残る一言を言い放つ。しかも非は完全に岩倉にあるのだ。
 西郷はどうしたか。
 なんとここで折れてしまうのである。
 この経緯は実に不思議だと思う。かつて西郷は王政復古の時期「短刀ひとつあれば解決する」と言ったこともある男。こんなことで折れるとは実に考えにくい。正論は西郷側なのに。西郷が変わってしまったと思える瞬間である。
 しかし、西郷は本当に変わってしまったのだろうか。人というものはそんなに簡単に変わるものだろうか。「短刀ひとつ」からまだ数年しか経っていないのに。
 西郷はもしかしたら、この時点で「もう一蔵どんに任せよう」と思ったのではないか。そして、自分の役割について理解したのではないか。
 ここで西郷が遣韓使節となって赴き、大久保を失脚させ政府を江藤新平らに牛耳らせるより、長年の信頼関係を築いている大久保に日本の今後を任せたほうが良いと判断したのではなかったか。そして氷解し、未来への道筋を見たのではなかったのか。
 考えて見れば、この抗議の訪問は副島らが企てたもので、西郷は言わば誘われたのである。西郷抜きであれば、舌鋒鋭い江藤、理論家の副島らと岩倉は絶対に相容れなかっただろう。夜が明けるまで議論である。ここに西郷が居たからこそ、「もうよか」となったのである。江藤らなら折れなかっただろう。結局西郷が最後は「征韓派」を葬ったのだ。

 西郷は岩倉邸を出たとき、「右大臣(岩倉)はよく踏ん張りもしたな」と笑ったという。この不思議な逸話から、諦念だけを抽出するのは難しい。何か晴れ晴れとしたものまで感ぜられる。もうこのとき、西郷の決心は固まっていたのかもしれない。今後は大久保に全てを任せる。そして自らはその援護射撃に回る、と。
 「征韓派」はそうして一斉に下野した。

 このあと大久保の完全独裁が始まる。そして西郷の大芝居も開始されたのではないかと思っている。
 次回、士族挙兵と民権運動。

 

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Unknown (jasmintea)
2007-12-12 13:00:38
仲麻呂は一生においてスタンスは変わっていないと思うので案外私にとってはわかりやすいですが秀吉と西郷どんはわからないですね。
でもおっしゃる通り彼が征韓論者でなかったことは異論ではなくなってきましたよね。
でも、逆に征韓論者でなかったとすると彼の変節がますます不思議に思えます。
大久保を信頼したから?
うーん、凛太郎さんが書いて下さった文章を一生懸命読んでも疑問が残ります。

>jasminteaさん (凛太郎)
2007-12-13 22:32:40
確かに分かりにくいですね。西郷の解釈、とくに通説を読む限りは。

僕はねぇ…。うまく書けないのですが(ホントに表現力に欠けるなとこれを書いていて自ら思いましたよ。それに優柔不断だと)、西郷は結局全然変わっていなかったのではないかと思っているのです。変わったように見えて。変節などしていない、というのが僕の答えです。

そもそも、征韓論は虚像である、と本当はここで書きたかったのですが、そうはっきりとはさすがに書けなかった。さすがにカッコ暴論と入れざるを得なかったのです。そこがまず中途半端ですね。僕は自分では全く暴論とは思っていないのに。
どこまで「確証もなく」書いていいのかは迷います。ヒロリンさん曰く「客観的事実に基づく検証ではなく、そうだったらおもしろい的発想」になってしまう危険性が極めて高い。自分で「歴史的検証」をやっているという傲慢な態度には出ていないつもりなんですけれどもね。楽しいブログ記事を書いているつもりなんですけど。

西郷が、日本という国を創り上げていくコンダクターに江藤新平ではなく大久保利通を選んだ、というのは、後の西郷の行動を見ていると僕には浮かび上がってくるのです。これは通説には全く反しますが。下野して鹿児島に帰るときにも西郷は最後に大久保に会いに行きますよね。彼らはやはり一心同体であったのではないか。
もう少しはっきり言えば、征韓論争で江藤と西郷が連携したのも、結局は江藤引き下ろしのための西郷と大久保の罠である、と。そう書けばわかりやすいのですが、事態はもう少し複雑でありますし。
江藤が西郷を担いだように見えて、その実西郷が江藤を担いだのです。そしてハシゴを外した。江藤は失脚せざるを得ません。謀略としては超一流です。(もうこういう書き方したら完全フィクションになっちゃいますが)

歴史を結果論で見ては「if」にそもそもなりませんが、その後も西郷は大久保を助けることばかりやっているのです。いくらでもひっくり返せるチャンスはあったのですけれどもね。そのことについては次の記事で少し触れました。
仲麻呂も義経もそうですけれども、西郷も紆余曲折あるように見えて全然やっていることはブレていない。どうしてもそういうふうに思えてしまうのです。なかなか賛同を得るのは難しいのですけどね。

疑問点があればおっしゃっていただけると有難いです。コメントレスという形のほうが突拍子もないと思われる視点で書けますので。
度々ごめんなさい (jasmintea)
2007-12-13 23:14:55
そっか。仲麻呂と比較してみると何となく西郷も見えてきますね。
(ちょっと義経を入れるとまたわからなくなる頭が悪い私なので脇に置いちゃいます^^)
仲麻呂は鉄砲玉、は凛太郎さんのお言葉でしたね。
天武天皇の血筋を次々道連れにした。
そして誰もいなくなった、いよいよ藤原待望(大望?)の天智系登場の露払いをした。
西郷も自分が信じるもの、日本を託すべき相手のために露払いをした、を出発点に考えて良いのですよね?
>jasminteaさん (凛太郎)
2007-12-16 07:58:08
「考えて良いのですよね?」と言われますと言葉に窮してしまいますが…。良いか悪いかは僕が判断することじゃないので(汗)。
僕は以前、「歴史FANに100の質問」で、三大自爆鉄砲玉事件として「恵美押勝の乱」「義経任官事件」「西南戦争」というのを挙げたことがあります。当時は、みんな自爆して歴史を作ったと考えていました。そう考えるようになったのはいつくらいだったかなあ。ブログを始める前だったと思いますけど、仲麻呂、義経を書いて、西郷を鉄砲玉事件の完結編として書こうと思っていたのは確かです。
んで…書こうと思って悩みに悩んで結局今まで書けずじまいだったのですが、今は西郷の西南の役は、自爆は自爆なんですけど、ちょっと様相が違うようにも思えてきています。鹿児島幕府の意味は自爆を目的としていたんじゃなかったのではないかと。

近々アップしますので、もう少しお待ちを(汗)。

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