凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも廃藩置県が漸進的におこなわれたなら

2007年12月01日 | 歴史「if」
 前回、明治維新という「革命」が非常に矛盾を多く孕んだものであったという話を書いた。
 戊辰戦争は、封建制度のトップであった幕府を無くした。いや、正確には戊辰戦争時には既に大政奉還が行われていて幕府は消滅していたのだ。したがって、旧勢力を打破するためだけの戦争であり、それはつまり薩長を中心とした雄藩勢力を勝利者と確定するために行われた戦争と言っていい。そして、その雄藩勢力は封建制に依拠している。

 戊辰戦争は、全然必要のない戦争だったか、とまでは言わない。利点は、確かに明治新政権の力を見せ付けられたこと。旧幕府の勢力を潰し、敵対する藩を叩けたこと。まあ実際敵対した藩は長岡と会津、庄内、二本松、棚倉、請西藩他くらいではあったのだが。そして「錦の御旗」によって旗幟を鮮明にさせ、ほとんどの藩を薩長を中心とした雄藩連合政府に靡かせたこと。
 そして、重要な点は、戦争をさせることにより各藩の財政状況をボロボロにしたこと。この戦争は明治太政官政府の軍隊が行ったものではなく(まだそんな軍隊は無い)、封建制に依拠した各藩武士団の持ち出しで行われたものである。なので、各藩が疲弊した。ただでさえ幕末、経済状況はどの藩も悪化していたのに。これにより、各藩の経営が行き詰まり、版籍奉還及び廃藩置県への抵抗が最小限になったとも言える。
 しかし、こんなのは結果論であるとも言えるのではないか。各藩の力を削ぐために戊辰戦争を始めたわけではあるまい。そしてこの各藩の疲弊(主に借財)は後に政府に圧し掛かってくるわけである。自分で自分の首を絞めているのも同じだ。その上で戊辰戦争の最も大きな弊害は、雄藩連合の力が増大してしまったことではないか。

 話が先走ってしまった。
 雄藩連合(また公家の一部も含む)は、天皇制を押し出して中央集権政府樹立に乗り出す。この太政官政府と言われる政権は、制度や人事をコロコロと変え、最終的に戊辰戦争の中核であった薩長土肥の人材を中心として成立していく。この間の動きについて書き出すと止まらないのだがそれは控えて、この明治政府は当初から廃藩置県を念頭に置いていたのだろうか。
 
 もしも戊辰戦争が無く、坂本龍馬が画策した大政奉還に基づき、公議政体論の元に新政権が発足していたとしたら、行き着くところは廃藩置県であっただろう。公議政体論(立憲政体論と言い換えてもいいかもしれない)は、そもそも幕臣大久保忠寛(一翁)が唱えた政体論である。坂本龍馬を始め、横井小楠や弟子の三岡八郎、そして大政奉還を推進した土佐藩の後藤象二郎や福岡孝弟らもこの考えを唱えている。
 当然徳川慶喜も公議政体を押し出しており、慶喜の政治顧問をしていた西周は、命により「憲法草案」を提出しているが(実に早期だ)、そこには既に三権分立が謳われ、象徴天皇制も打ち出している。行政権の長に慶喜を比定している(大君独裁制)ことから反動的にも見えるが、実に民主的政体を考えていることがわかる。
 小栗上野介忠順は大統領制を理想としていたようだが(アメリカの政体を規範としたのか)、いち早く幕藩体制を終結させて郡県制を敷くべきであると唱えている。小栗の論は先取りしすぎの感もあるのだが、明治の発展がほぼ小栗のガイドライン通りであったことを思えば、小栗を生かせなかったことは損失であったとも言える。
 
 薩長を中心とした雄藩連合には、そういった構想はなかった、と言っていいのではないか。脱藩浪人坂本龍馬は政体構想を所持していたが、慶喜側とかなり近似しており、結局潰されている(そのための暗殺であったかどうかはさておき)。
 政体構想を持たなかった(持たなかったとは言いすぎであろうが、慶喜や龍馬はんと比べれば見劣りしていた)雄藩連合は、大政奉還によって慶喜一派が政権を担うことを恐れ(慶喜側の方が筋が通っていたとも言えるので)、それを潰すために戊辰戦争を起す。理屈で負けるから手を出した、と言えば批判されるだろうが。
 結果、雄藩連合が勝つのだが、その政府は封建藩に依拠した政府とならざるを得ない。それは前回に書いたとおり。
 なので、その立脚点である「藩」を廃止することは当面考えられなかったのではないか。
 ひとつの証拠としてあげてみたい。政府は五箇条の御誓文の「公論」の具現化として、諸藩選出議員による議事機関として「公議所」を設けた。ここで明治二年、郡県制が議論されている。ここでの議論は決着がつかず、概ね小藩郡県、大藩封建支持であったらしいが、大久保利通は郡県論を空論であると退けている。「公議所での郡県論は無用の論であり国体にあわない」と言い切っている。薩長に依拠した政府の考え方が見える。

 政府は、その後版籍奉還を実行する。これも明治二年。
 明治政府は旧大名領を「藩」として大名統治を継承してきたが、藩閥政治の中心である薩長土肥各藩が版籍奉還を建白する。雄藩がそうしたことで、雪崩現象的に他藩も版籍奉還を行い、これにより一応土地と人民の支配権は朝廷に帰することとなった。しかし、これは形だけのことであり、藩主が知藩事と名称を換えたくらいの認識であったろう。封建藩主の支配はまだ続く。今まで幕府に承認してもらっていた土地人民支配権を朝廷にやってもらう、程度のことであったかもしれない。太政官の命令は届きやすくなったかもしれないが、知行地である実態は変わらない。
 果たしてこの版籍奉還は、二年後に実施される廃藩置県への布石であったのかどうか。過渡的措置であったのか。

 過渡的であったとも言えよう。郡県制を「空論」であると言った大久保も、このままではいけないと思い始めていたのかもしれない。政府は明治三年「藩制」を公布する。ここで、職制などに規制を加えた上で、歳入(年貢だな)の一割を知藩事の収入と定めている。
 しかしこれは、政府の威光を示した(命令に従わせる)とも言えるが、よく見ると封建制の是認でもあるのではないか。藩運営に統制を加えてはいるものの、構造は変わっていない。
 これは藩を府県と並ぶ行政区画として明確に位置付けたわけで、府藩県三治制の徹底が要請されている。政府の統制を強くするものの、この時点で廃藩は方針として考慮に入れられていないことがわかる。歴史を知っている後世の僕らから見れば、あの急転直下の廃藩置県の一年前に出された政令とはとても思えない(異論はあると思うが僕はそう思う。まだこの時点で封建制是認の政令を出すとは)。

 好意的に見て、政府はこの時点では「漸進的」な廃藩を考えていたのだろう。いずれは中央集権にしたい。しかし、戊辰戦争をやってしまって革命の勝利者を作ってしまった以上、勝利者に腹を切れとは言えない。ましてやその勝利者である雄藩の上に乗って大久保も木戸も今のポジションに居るわけだから。
 その構想通り、廃藩は漸進的に進んでいく。
 まず、藩制によって藩財政が画一化され自由にならなくなったことにより、藩運営が困難になった。藩経済は窮乏しており(戊辰戦争や凶作により)、かなりの負債を抱えていた。これを藩札発行や借金で賄っていたのだが、債務整理を期限付きでやるよう命じた。足らない分は藩主・士族の家禄や経費を削って返せと。これにより藩財政が立ち行かなくなった藩は、自主廃藩を願い出ている。その数13藩。
 帰農法や禄券法で凌ぐ藩もあった。帰農法は士族の農民化であり、土地や一時金等で便宜は図るものの、家禄返上などを伴った。また禄券法は、家禄に応じた禄券を与えてその売買を認めるものである。いずれにせよ士族解体が進行することになる。
 このように、漸進的に廃藩、士族解体は進むのである。これは痛みを伴うものの比較的穏やかに封建制の解体を促すことになる。いずれなし崩しに封建制が終焉を迎えることになったかもしれない。「藩制」の公布は、そういう利点も持っていた。

 しかし、その翌年、政府はこれに逆行するような施策を行う。またも雄藩の担ぎ出しである。
 府藩県三治体制では中央集権化が漸進的にしか進まないと苦慮した政府は、政府の力を強めようと画策する。そのために、薩長土三藩の藩力によって強化しようとしたのである。雄藩による政権支援策。
 これは、雄藩の政治参画によって、諸藩を統御し、府藩県三治体制を徹底しようとするものである。ここにおいても、政府は藩の存在を全く否定しない。藩を御するために藩を当てる。
 この結果、さらに雄藩(薩長土)の力が増大するのである。政府も、発足当時は親王、公家、諸侯(藩主)、そして各藩の徴士が朝廷の臣となって運営されていたのだが、この頃になると親王や諸侯は外れ公家(三条や岩倉)、そして薩長ら雄藩の士(大久保や木戸)らが中心となっている。どんどん雄藩に傾斜していることが分かるが、さらに彼らのバックボーンである雄藩を前面に押し出すのである。
 具体的には様々なことがあるが、親兵の創設は大きい。政府には直轄軍が無かったため、力が弱いと解釈されていた。諸藩は封建依拠であり各藩はそれぞれ軍隊を保有している。これに対応するため、政府軍を創設した。それは薩長土の三藩から8000人の藩士の提供を受けて成立する。恐怖政治である。この親兵創設のため、ついに西郷隆盛が鹿児島から出てくる。
 力(軍事力)が政府だとすれば、この政府は完全に薩長土の政府である。どんどん公議政体から離れていく。この時点で、藩(雄藩)の力が最高潮に達したと考えていいのではないか。これは逆行ではないのか。

 と、ここまで藩力で政府の威光を高めた上で、政府は急に「廃藩置県」をやるのである。これはいったいどういうことか。驚天動地の出来事としか思えない。
 理由は以下のように考えられる。
 雄藩(主として薩長)の力を最大限に押し出したために、薩長の主導権争いが起きたのだ。具体的には大久保利通(薩)は行政権の強い政府を主導しようとし(後に有司専制と呼ばれる)、木戸孝允(長)は立法権を拡充しようとした。このため政治に空白期間が生じた。こう単純に書いてしまっていいのかどうか迷うが(実際は複雑)、政府がこの時期混迷していたことは間違いない。人事、制度改革において双方が対立し、西郷隆盛が間に入るが政治が進行しない。中央集権政府に向けた政策が進行しない。三藩提携で政府の威信は強化されたというのに具体的に何も進まない。
 この間、反政府運動が起る。一揆や打ちこわしは頻繁に起る。また、民主化において、例えば熊本藩などは政府に先んじて、横井小楠以来の実学党が政権を握り、革新的な政治を行った(税制改革や公選議会等)。これは政府とすれば開明すぎており、市民革命に発展する可能性もあった。他にも尾張や鳥取、徳島藩など。中央政府へ改革的建白が出る。有司専制を目指す大久保には受け入れ難い(何でダメなんだろう。結局薩長でやりたいだけなのか)。
 ともかくも、政府は行き詰まった。これを一気に打開する方法として「廃藩置県」が浮上するのである。なんだよ、ついこの間まで藩を肯定し雄藩の威力を高めておいてからに。

 結局、行き当たりばったりであったのではないか。
 自分たちの政府が立ち行かなくなることへの恐れ。反政府の機運は高まり、民主化路線も興る。行き詰まりを打破するためにいきなり伝家の宝刀を抜いた。藩力に依拠した親兵をバックにして。民主化と改革路線の非薩長系藩を封じるために。
 この廃藩置県、提起したのは長州の鳥尾小弥太、野村靖である。二名はこれを山県有朋に打診し、井上馨、木戸孝允へと話は進み長州閥で同意を得る。そして山県は薩摩の承認を取るため西郷へ具申する。西郷は「それは宜しい」とだけ言って(相変わらず口数が少ない)、大久保へ話を持っていった。この間わずか2、3日。
 完全に薩長の密室政治である。公議公論はどこへ行ったのか。土佐藩関係者はもとより、三条実美、岩倉具視でさえ寝耳に水のこの決定、それから約一週間後に天皇の勅をもって断行されるのである。
 これで歪みが出ないはずがない。

 しっかりとしたビジョン無しに政権運営をしてきたツケが回ってきたようなものだろう。廃藩置県を最終目標とするなら、それ相応に政権運営をすべきであったが、藩体制の維持が前提にあった政権であったためにこうして無理をせざるを得なくなる。
 こんないきなりの廃藩置県断行では、内乱が起こってもおかしくはなかった。それが何故粛々と行われたのかには様々な要因があると思う。
 まず版籍奉還を行っていたことによって、理屈上は天皇の勅は受け入れなければならないという前提がある。しかしそんなの関係ないという場合もあるだろう。
 第一は、親兵の威力がある。各藩はもちろん軍事力を保持していたが、なんせ疲弊していた。精鋭8000の政府軍には太刀打ちできないと判断されたのだろう。
 そして、この廃藩置県は封建制の廃止であるわけで、藩主、そして士族という封建制依拠の人々が一斉に失業するのである。これに対する手当てとして、知藩事(藩主)は華族として爵位を与え家禄を保障する。士族も同様に家禄支給を政府が肩代わりする。これで不満解消である。
 さらに、負債まみれであった藩財政の後始末も政府がやる。藩債と藩札はやはり政府が肩代わり。これだけの優遇政策を採れば、反乱は確かに未然に防げただろう。
 しかしこんなことで良かったのか。

 廃藩置県は、もっと漸進的にやるべきではなかったのか。
 断行の時期は明治四年でもよかった。日本の政体、国策を考えれば、これは最良のタイミングであったとも言える。封建制を打破しないことには国が一元化せず、税制もまとまらない。しかし、もっと漸減的に行えばこんな負債を背負い込むことはなかった。そもそも大久保など、郡県論は無用の論と退けていたのである。この時に進めておけば、藩財政をもう少し整理出来たはず。この藩の債務整理を命じたのは「藩制」であり一年前のこと。年貢は一年に一度しか取れないのに出来るわけが無い。ビジョンに欠ける。藩政の掃除の時間は取るべきだった。家禄の改革(帰農法や禄券法など)も随時行われていたことであるし、もう少し早めに着手すればよかったものを。
 根拠があって言っていることではないが、藩制の施行が明治三年であり、このまま3年くらい、明治六年くらいに廃藩であればかなり様相が変わったのではないか。債務償却は進んだだろう。僕は明治四年の廃藩はタイミング的に良しと思っているので、せめて明治二年、版籍奉還の頃に藩改革に着手すべきであった。それを雄藩に依拠していた政府は不可とした。
 順序を踏まないからこうなるのではないか。

 藩士の数は、その家族を含めると国民の5%であったとも言われる。これらを政府は一手に引き受けることとなった。これは大変な負債である。藩が無くなれば彼らは無為徒食である。彼らの家禄で政府は困窮し、明治9年に結局秩禄処分となる。つまり打ち切り。これは大久保がやった。こうなるのは目に見えていた。
 単純に僕などは考えてしまう。何故士族を志願兵として国軍に編入しないのか。それで仕事がひとつ出来るではないか。徴兵制など無用ではなかったのか。これについてはまた機会を改めて書きたいとは思うが。

 もっとひどいのは、旧藩の負債である。
 「藩制」以後藩は負債を償却すべく努力したが、いかんせん一年ではなんともし難くその負債は政府が肩代わりした。負債額は当時の歳入の倍とされ、えらい荷物を背負い込んだことになった。もっと漸進的に旧藩に処理をさせて後の廃藩であればここまでにならなかったものを。
 外国債などは絶対に償還されなければならない。日本の信用問題である。だが、国内での債務はどうなったか。いわゆる商人の「大名貸」である。
 これを、新政府はかなりの部分踏み倒してしまったのである。
 こんな非道なことが行われていいのか。曲がりなりにも一国の政府である。鎌倉時代の徳政令じゃないんだ。このため、破産に追い込まれた商人も多い。一説には、当時の経済の中心であった大阪の商人がこのことでかなりの打撃を受け、これが後の大阪の地盤沈下の一因であるとも言われる。本当の犠牲者はここにいるのではないか。ある意味封建政治よりずっとタチが悪い。

 徳川慶喜に政権を任せておいた方がもしかしたらよかったのではないか。もう少し漸進的にうまくやれたのではなかったか。この廃藩置県をめぐる政府対応を見ていてそんなことも思うのである。

 次回、征韓論。




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6 コメント

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明治維新とは? (ヒロリン)
2007-12-02 00:09:30
 「倒幕」の勢いとは裏腹に「新政府樹立」ということのビジョンが薩長になかったのが原因ですね・・・。
 とにかく「幕府を倒せば」という薩長は、先の先まで見通していた龍馬に比べれば、まさしく「青菜に塩」なのでしょう(笑)。
 やっぱり、龍馬の死後の官軍になった薩長はすきになれないなぁ・・・(笑)。
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>ヒロリンさん (凛太郎)
2007-12-02 10:07:13
ヒロリンさんにお伺いしたいと思うのですが、前回の記事において僕は、

「坂本龍馬は、もしかしたら勝利者を武士階級から出させないことを念頭においていたのではないか」

と書きました。これはどうなんでしょうか。誰かそんなふうに解釈をしていた先人はいらっしゃるでしょうか。寡聞にして僕は知りませんので。
もちろん証拠も何も無く、否定する要件には事欠かないのですが、以前から僕はそんなふうに思えてしかたがないのです。この当時、日本で唯一「革命」とは何か、ということを意識していた(商業の片手間にせよ)人物であるように感じて。

薩長には全くそのへんのことが感ぜられず、士族(しかも自藩)に拘り続け最終的に有司専制を敷いた大久保に代表されるように、「支配者になる」ことが前提であるかのような。もっともそれも日本自立の「使命感」と好意的に解釈も可能なのですが、やはり愚民意識が先立ちどうも諸手を上げて賛成とはなかなか言えません。
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Unknown (jasmintea)
2007-12-02 21:32:59
つい、明治維新を考える時には藤原不比等の構築した「日本」と比べてしまいます。
その中でも特に興味があるのが貨幣制度の確立と、貨幣制度の立て直し。
さしもの不比等も苦労して彼が出した政策とは思えないような政策を掲げ数年で廃止の憂き目にあっていますがそれに比べ明治政府の経済政策は豪腕過ぎている気がします。
何だか、庶民が泣くのはどの時代も変わりないかな?なんて話じゃないですね。
でも、経済の停滞が征韓論にも影響があった?
人々はこれなら徳川の時代の方が良かったって考えた人も多かった?
ここでもやはり龍馬がいたら人々に夢を与えることができたのではないか?って思ってしまいます。
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勝利者 (ヒロリン)
2007-12-03 00:10:23
 「勝利者を武士階級から出させないことを念頭においていたのではないか?」

 龍馬の発想がそこまでいっていたのかどうか?ン~断定はできませんが、独協大学片岡啓治氏は「龍馬の夢と構想」の中で、

「当時、事態が求めていたのは、国家としての日本の代表性如何、ということであった。諸外国が向けてきたのは、べつに天皇家の統治者への復帰、といった要求ではなく、日本国家を代表するのは何者であるのか、という問いであり、その根底には、果たして日本人は国家としての自立を選ぶのか否か、問いかけだったからである。」

として、

「慶応元年、龍馬によってたてられた亀山社中とよばれる、幕府や藩にも属さぬ組織は、短命であったとはいえ、その課題に対する龍馬の一つの答えを示している。けだし、ただ、志あることだけを加盟の条件とするこの共同体は<自由な個人>の集まりであることにおいて一つの新たな、<公>の論理を示し、それによってありうべき新たな国家の原型的質を備えていたからである。」

としています。

 この考えから行くと、「勝利者を武士階級から出さない」とうこともその一つですが、最終的に「階級そのものを壊して新たな<公>を作り出す。」ことが目的だったかな・・・などと考えてしまいますが、あくまでもこれは想像ですので・・・・(笑)。
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>jasminteaさん (凛太郎)
2007-12-03 23:37:20
不比等の経済政策はともかくとして(難しいので^^;)、何故この廃藩置県に至る過程で庶民が泣くことになったのか、は、やはり順番を踏まなかったことが原因のひとつではないかと思っているのです。それが本文の趣旨。

廃藩に至るまで、各藩は借財を減らそうと努力しているのですね。無理な藩は投げ出していますが、米百表の長岡藩だって懸命に頑張っているのです。だからもう少し時間を与えたかった。また、熊本藩や尾張藩など、開明的な政策を行ったところも多く、このままいけば士族解体を自主的に行えた可能性もあったのです。それらを全て断ち切った明治四年に、ビジョンのなさと指導者層の既得権重視みたいなものが垣間見えるように思えて。そのツケが庶民に回ってくる。殖産興業は資金がないと出来ませんし。

確かにこう言い切ってしまっては問題もあるとは思いますが、ひとつの見方の提示ととらえていただければありがたいです。
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>ヒロリンさん (凛太郎)
2007-12-03 23:51:12
ありがとうございます。いつもお手間ばかりかけまして。

僕がヒロリンさんにお伺いしたのは、つまり僕が言っていることは「推測」の域を出ていないからでして、「客観的事実」に基づく検証ではないからなのです。ヒロリンさんがもっとも嫌う歴史的検証の部類ですね(笑)。なので、援軍はいないだろうかと(大汗)。

ブログの気安さで、僕は歴史の見方において時々突拍子もないことを書きます。それはもちろん書いていて面白いからであるのですが(汗)、一部危うさもありまして。お手間かけまして本当に申し訳ありませんでした。

その上で、「そう思えてしょうがない」の視点でまだ言いますと、やはり階級破壊というものが龍馬はんの行動にどうしても垣間見られるのですね。海援隊の組織にも「武士は脱藩しか採用しない」にも。そもそも職業選択の自由がないこの階級制度は、龍馬はんの構想とはまったく逆行するものでしかありませんので。これを「潰さにゃならんぜよ」であったのかどうかはともかく、無くなった方が有利であったことは確かで(商売の自由化)。
とすれば、「階級制の撤廃」→「封建制の幕引き」であるのは自明で、そこまでは考えていたと思います。その封建制のスムーズな幕引きに最も良いのは、社会構造の打破を封建支配者階級にやらせないのが手っ取り早い。上位階級に勝利者を作るとまた打破せねばならなくなる。…とそこまで龍馬はんが考えていたかどうかは全く検証出来ません(汗)。「民約論」を読んでいたとすれば証拠にはなりますがまだ中江兆民は若すぎる(笑)。
反証として、船中八策と公議政体論が近いこと、大久保一翁や横井小楠と龍馬はんが近しいことから、そっちの考えに乗っただけだろうという見方も出来ます。
ただ、何故その考えに乗ったのか。そのことをツラツラ考えると、坂本龍馬の生きざまみたいなものがバックボーンにあるとどうしても思えて。だから「もしかしたら」なのですが。

繰り返しますが、ご教授感謝致します。
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